奇妙な依頼人, チャールズ・ディケンズ

奇妙な依頼人


※『ピクウィックペーパーズ』第二十一章「老人が語る奇妙な依頼人の話」より訳出

どこで、どうやってこの短い物語を聞きこんできたのか、そんなことはたいした問題ではない(と、老人は言った)。それを私が聞いたその順番どおりに語るとなれば、真ん中のところからはじめて、終わりにきたところで頭にもどってこなきゃならんしな。ただあらかじめ断っておくが、いまから話すことの一部はまさに私の目の前でおこったことでもある。そうでない部分にしても実際にあったことだというのは分かっているし、今なお生きていて、そのあたりを過剰なほどよく覚えていそうなものもいる。

自治区大通りの聖ジョージ教会と同じ並びに、たいていの人が知っているとおり、いちばん小さな債務者監獄、マーシャルシー監獄がある。かつてのようなひどい場所ではなくなったけれども、改善されたからといって浪費を助長したり、先見性のなさを慰めたりできたものではない。ニューゲイトの死刑囚にだって、マーシャルシーの破産した負債者と同じように、適度な運動と深呼吸のできる運動場が与えられているのだから。(前と比べればまだましだ。もっともこれは昔のこと、まだまし程度だった時代のことで、問題の監獄はもう存在していない。)

単なる好みの問題かもしれないし、ただ単に私があの場所とそこにまつわる想い出とを切り離すことができずにいるだけのことかもしれないが、ロンドンのあの地域にはどうしても耐えられない。通りは広く、大きな店が並んでいる。馬車がたてる騒音、絶え間なく流れてゆく人々の足音――あらゆる日常の雑音が朝から晩までせわしなく響いている。だが、辺りの街路は狭くてみすぼらしくて、貧困と堕落が雑然とした路地に渦巻き、困窮と不幸が狭苦しい監獄の中に押しこめられ、陰気で荒涼とした雰囲気がその一帯にたちこめ、病的で劣悪な色彩で塗りたてられているように思える。少なくとも私の目にはね。

多くのものが、旧マーシャルシー監獄の門をくぐりながら、たいして気にとめるでもなくその風景を眺めたものだ。かれらが墓に眠るようになってずいぶん経つがね。気にとめるはずもないさ、手厳しい挫折を味わったって最初のショックで絶望してしまうことなどめったにない。口先だけの友人をまだ頼りにしているし、別に助けなど必要としていない時には陽気な友人たちから何度も何度も困ったときは力になろうなんて聞かされてきたのだから。希望――幸福な、世間知らずの希望。最初のショックに落ちこんだとしても、その希望が胸のうちに芽生え、かすかな隙間に花開き、やがて、落胆と孤独の荒野にしおれる。眼窩がくぼみ、衰弱と飢餓のせいでぎらぎらと輝き、監禁されているために皮膚は土気色に変わる。その変化はほんとうにあっという間だ! 言葉のあやでもなんでもなく、債務者は監獄でくさるのだよ。釈放の希望もなく、自由の期待もなく。もう、残虐行為そのものはなくなっているようだが、心の痛む事件を引き起こすだけの残酷さは今もある。


二十年前のことだ。毎朝毎朝飽きることなく、舗道に足音を響かせ、監獄の門前までやってくる一組の母子がいた。眠れないほど惨めで不安な想いを抱えて一晩を過ごした日は特に、開門時間の一時間も前にきたりしていた。そういうとき、若い母親は弱々しく道をひきかえし、あの昔の橋のところで子供を腕に抱えて、見せてやる。朝日を浴びてきらきらと輝く水面を、朝早くから商売や享楽の準備にせわしない街の喧騒にざわめく河を。その目に映るものへの興味が絶えてしまうことのないようにと。だが大抵はすぐに下に降ろしてやって、ショールで顔を隠し、前も見えないほどに涙を流すのだった。というのも、その子は痩せ細った顔に興味や喜びの色を見せないからだ。その子にとっての想い出はごくわずか。しかもどれも同じ類の思い出――すべて、両親の貧乏と不幸に関連したものだった。何時間も母親の膝の上で過ごし、母の頬を伝う涙を無邪気な同情をこめて見つめ、物静かに薄暗い部屋の隅に身を移し、しくしくと泣きながら眠りにつく。この世の過酷な現実、貧困の中の貧困――飢えに渇き、寒さに欠乏――そのすべてが、物心ついた頃にはもうその子の上にのしかかっていた。形だけの少年時代。子どもらしい夢もなく、陽気な笑い声もない、瞳をきらめかせることもない男の子。

父と母はこれを見ては痛ましい思いに駆られ、一言も口にする力もないまま顔を見交わしあうのだった。健康で屈強だったその男はたいがいの肉体的な疲れには耐えることができたものの、人いきれした監獄の狭苦しく不健康な環境に屈しようとしていた。華奢で繊細なその女は、肉体的な病に精神的な病が重なり、衰弱していった。幼い子どもの小さな心は張り裂けんばかりだった。

冬がきた。何週間も続く寒気と鬱陶しい雨をもたらした冬が。哀れな若い女は、夫の拘置所に近い、みすぼらしい部屋に越した。それは貧乏が酷くなったがゆえの変化だったのだけれども、前より夫の近くにいられるようになったのは妻として幸せなことだった。二ヶ月の間、母子はいつもどおり門が開かれるのを毎朝見つめてきた。ところがある日、母子はとうとうやってこなかった。初めてのことだった。その次の朝、母はひとりでやってきた。子は死んだのだ。

貧乏人の肉親の死について、死者にとっては苦痛から解放される幸福であり、生者にとってはさらなる費えを抑える慈悲だ、などと冷たいことを言う者は、分かっていないのだ――何も分かっていないのだ、そう、肉親に先立たれるのがどんなにつらいことかを。他のあらゆる人々から見放されても注がれつづける敬意と愛情に満ちた眼差し――他のあらゆる人々から省かれてしまっても同情と愛情を注いでくれる人がたしかにいるという自覚――それは、どんなに深い苦しみの底でも確かな支えであり慰めなのだ。それはどれほどの富をもってしてもあがなえず、どれほどの権力をもってしても授けることができない。子どもは両親の足元に何時間も座ったまま、我慢強くその小さな手を組んで、両親に、痩せ細った青白い顔を向けつづけた。両親は日に日に子どもがやつれていくのを目の当たりにしていた。その短い一生は喜びのないものだったが、ようやく、子どもでありながらそれまで知ることのなかった平穏と安寧の世界へ身を移したのだ。その子の死は、人の親である以上当然だが、両親の心に深い影を落とした。

母親の衰えた顔つきを見れば、死が彼女の不幸で苦難に満ちた人生に幕を下ろそうとしているのは明白だった。夫の同室者たちは相方の嘆きや苦悩に立ち入ろうとはせず、それまでは三人共同で使っていた小さな部屋を明渡してひとりきりにしてやった。妻はそこで過ごすようになり、傷つくことのない、けれども希望もない日々を送っているうちに、その生命力も潮が引くように失われていった。

ある晩、夫は、気を失った妻を腕に抱き、開けさらしの窓の側で支えてやり、新鮮な空気をすわせて意識を取りもどさせてやろうとしていた。月明かりが妻の顔を照らしだした。その変わり果てた容貌に、夫は、まるで無力な幼児のようによろめいた。

「降ろして頂戴、ジョージ」と妻は微かな声で言った。夫は妻を降ろすと傍らに腰を下ろし、顔を両手で覆ってぼろぼろと涙を流しはじめた。

「本当につらいことだわ、ジョージ、あなたを置いていかなきゃいけないなんて。でも、神さまがそうお望みなんだもの、お願いだからこらえて頂戴。ああ神さま! あの子を先に連れだしていてくださってありがとうございます。あの子、今はきっと天国で幸せにしてるはずですよね。本当によかった、もしあの子がこの世に残されたとしたら、母親もないのに、どうなっていたことでしょう!」

夫はのけぞるようにして立ちあがった。

「大丈夫だ、メアリー、君は死んだりなんかしない」

そう言うと、握り締めた両の拳で頭を殴りつけながらせわしなく部屋の中を往復した。やがてふたたび妻の側に腰を下ろすと、両腕で妻の体を支えながら、いくぶん落ちついた声で言い足した。

「がんばるんだ、メアリー。どうか、どうか。すぐまた元気になるんだから」

「無理よ、ジョージ、もう無理」と、死に瀕した妻は言った。「あの子と一緒のお墓に眠らせて頂戴ね。でも約束して、とにかくこんなところを抜け出して、きっとお金持ちになって、どこか静かな片田舎の教会に私たちのお墓を移してくれるって。遠く遠く――ここからずっと離れた場所――安らかに眠れそうなところに。お願い、ジョージ、そうしてくれると約束して」

「約束する、約束するとも」と夫は言い、感情を昂ぶらせて妻の傍らに膝をついた。「声を聞かせてくれ、メアリー、もう一言でもいいから。一目でもこのぼくを見つめてくれ―― 一目でもいいから!」

夫はそこで口を閉ざした。自分の首を抱きしめていた妻の腕が、強張って重くなったのだ。深いため息が目前のやつれた姿から吐き出された。唇が動き、顔には微笑が浮かんだ。だが、その唇は青ざめ、微笑からは生気が失われてゆき、やがて両眼が虚空をじっと見つめているだけになった。男はひとりこの世に取り残されたのだ。

その夜、静寂と荒廃に包まれた惨めな部屋で、哀れなその男は妻の傍らにひざまづいて、神の名を唱え、その時から始まったおぞましい誓いを立てた。その身を妻子の復讐に捧げようと。今このときより息絶えるその瞬間まで、その全精力をひとつの目的のために注ぎこむのだと。その復讐をじわじわと苛烈に果たしてみせると。その憎悪を決して忘れたりしないと。その獲物を世界の果てまででも追い仕留めるのだと。

この上ない絶望と人情味の失われかけた感情が男の容姿を一晩のうちに変えてしまい、彼に出くわした監獄の胞輩たちは恐ろしさのあまり後ずさりするほどだった。両目を真っ赤に腫らし、死人のような顔色で、老いさらばえたかのように背中が曲がっていた。激しい精神的苦悩に噛み切ってしまった下唇からはどくどくと血が流れ、あごから滴り落ちてシャツとネッカチーフを染めていた。涙も見られず、呪詛も聞かれなかった。ただ、どうにも不安定な様子や、庭をいったりきたりする際の不規則な動きを見れば、その胸を焦がす激しい想いのほどが知れた。

妻の遺体はすぐにでも監獄の外に出す必要があった。男はそう伝え聞かされたときも、まったく平然としてその処置を受け入れた。ほとんどすべての囚人が遺体が運び出されるのを見送るために集まった。夫が現れると、人々は脇によけて通してやった。男はずかずかと前に出て、宿舎の門の近くにあった垣根に囲われた小さなスペースに陣取った。群集は本能的ないたわりからその場所をあけてやっていたのだ。粗末な棺を肩に担いだ何人かの男たちがゆっくりと進み出た。群集はひっそりと静まり返り、ただ女たちの啜り泣きと、砂利道を歩く運搬人の足音だけが響いている。いまや独り者になった夫の前で、棺は止まった。夫は棺に顔をこすりつけ、機械的に棺を覆う布をととのえ、行ってくれ、という身振りをした。監獄の廊下にいた看守たちは、棺がそばを通ると、帽子を取って見送った。そして次の瞬間、棺の背後で重い門は閉ざされた。男は虚ろな目つきで群集を見渡すと、ばったりと地面に倒れてしまった。

それから数週間、男は高熱を出し激しくうなされて、昼も夜も看病してもらっていた。その間も、自分が失ったもの、自分が立てた誓いのことは片時も忘れなかった。錯乱した心の中に、次から次へといろいろな景色が浮かび上がり、次から次へといろいろな出来事が起こった。だがそれらはみな、あるひとつの大きな目的に多少なりとも繋がりをもつものだった。どこまでも続く海の上を男を乗せた船がゆく。頭上には血のように赤い空。下にはいきり立って荒れ狂う海。泡立ち渦巻いて両舷を洗う。目の前から違う船が近づいてきていた。なんとか頑張ってこの激しい嵐を乗り切ろうとしている。はためく帆は帯状に裂けており、甲板は休むまもなく大波で洗われ、人々を両の船端に押し流し、運に見放された一部の者たちを海原に投げ込んでいく。荒れ狂う大海の上、男の船はなにものも抵抗できぬほどの力と速度を得て突き進んだ。やがて前にあった船の船首に激突し、相手を竜骨の下に粉砕してしまった。沈みゆく船が生み出した巨大な渦巻きから、大きくて鋭い悲鳴――溺れゆく何十人もの人々の悲鳴が混ぜ合わさった死の叫び――が響き渡り、精霊たちの勝鬨を打ち消した。こだまがかえってくる。そのこだまがさらに、大気を、空を、海を貫くかと思えるほどにこだました。だが、あれは――あの、海面に浮かぶ白髪頭、苦しそうに顔をゆがめ、助けを求める悲鳴をあげ、波にうたれているあれは! それを目にしたとたん、男は舷から海中に飛びこんで、それにむかってがむしゃらに泳いだ。それに達した。それは目の前にあった。あの顔、あいつだ。老人は男が掴みかかってくるのを見て、それをかわそうというむなしい努力を試みた。男は老人の体をがっしりと掴み、水の中に引きずりこんだ。老人の体をとらえたまま深く深く潜る、水深五十のところまで。老人の抵抗はどんどん弱まっていき、やがて、完全にやんだ。やつは死んだ。殺してやった。誓いを守ったのだ。

男は広大で焼けつくような砂漠を靴もなく連れもなく旅していた。砂が喉と目を苦しめた。全身の毛穴に飛びこんでくる細かい砂粒への苛立ちに気が狂いそうだ。遠方では夥しい量の砂が、風に舞い、燃えさかる太陽に照らされ、火柱のようになってゆっくりと動いてゆく。この荒涼とした土地で息絶えた人々の骨が足元に散らばっていた。周囲の光景はどれも恐怖に満ちていた。目に映るものみな、恐怖と絶望を感じさせるものばかり。悲鳴をあげようとしたものの、舌がうまく動いてくれない。それでもなんとか声をあげようとしながら、狂ったように突き進んだ。人知を超えた力を振り絞って砂漠を進んでいったが、やがて疲れと渇きのために意識を失い、倒れた。何だろう、意識を呼び覚ましてくれたあのひんやりとした香りは、あのざばざばと音をたてているものは? 水! それは本当に泉だった。澄んだ新鮮な水が足元を流れている。男は心ゆくまでその水を飲み、痛む足を水に浸し、その心地よさに我を忘れていった。そこに何者かの足音が近づいてきて、男は我にかえった。激しい渇きを癒そうとしてよろよろと近づいてくる白髪頭の老人。またあいつか! 男は老人を羽交い締めにした。老人はもがき、水をくれ、と叫んだ――一滴でもいいから生命を救う水を! と。だが男は老人を捕らえたまま放さず、その苦しみもがくさまをじっと見ていた。やがて力尽きた老人の首ががっくりと前に落ちると、その屍を足で払いのけた。

熱がひき、意識がもどると、男は自分が金も自由もある身になっているのを知った。聞くと、親がベッドの上で死んでいたということだった。監獄に入れられていた息子を見殺しにしようとしていた――実際、見殺しにしたことだろう! 過去、自分の身よりもはるかにはるかに大切な人が窮しているというのに、医薬では癒せない傷を心に負っているというのに、そのまま見殺しにしたことがあるのだから――親が。かれにしてみれば息子が乞食になろうと知ったことではなかったのだが、自分の健康を過信するあまり手続きを先延ばした結果、手遅れになってしまったのだ。手続きを怠ったせいで息子に遺してしまった財産のことを思って、草葉の陰で悔しがっていたかもしれない。男はこうしたことを知り、そして、もっと大切なことを思いだした。生きているその目的を、そして、報いるべき仇は妻の父親だということを――義理の息子を監獄に引き渡し、娘と孫が足元にひざまづいて慈悲を乞うたときもにべなく負い帰したあの義父だということを。ああ、男は復讐計画を実行に移せない自分の衰弱した体をどれほど呪ったことだろう!

男は苦い想い出がこびりついた土地を離れ、静かな海岸地帯に居を移すことにした。が、それは心の平穏や幸福を取りもどせるかもという希望を抱いてのことではない。両方とももはや完璧に失われてしまっていたのだから。そうではなく、英気を養い、最愛の者を想いつづけんがため。そしてその地に、いかなる悪魔の悪戯か、第一の、おぞましい復讐を果たす機会が与えられたのだ。

夏のことだった。暗澹たる想いを抱えた男は、ふだんから、夕闇押し迫る時間に人里離れた住まいからでると、崖下の細道を通り、散策中に見つけて気に入っていた寂しい場所に行き、手頃な落石の残骸に腰を下ろして両手に顔をうずめ、何時間も――ときには真夜中頃、頭上に立ちはだかる崖の影が周囲のものすべてに漆黒の闇で覆う頃まで――じっとしていたものだった。

その晩もいつもの場所に腰を下ろしていた。時折顔をあげては空を飛ぶ海鳥を眺めたり、海のさなかから沈みゆく太陽に向かって続いているように見える、輝かしい深紅の道を目でたどったりしていると、助けを求める大きな声があたりの静寂をうちやぶった。男が空耳ではなかったかと疑っているうちに、さきほどのよりも大きな、さきほどのよりも悲痛な叫びがふたたび聞こえてきた。男は反射的に立ちあがると、悲鳴が聞こえてきた方に走り出した。

状況を見れば事情はすぐにのみこめた。浜辺に散乱している衣服。岸から少し離れたところで波間に浮き沈みしている人の頭。一人の老人が苦悩のあまり手を組み、あちこち走りまわりながら金切り声で助けを求めている。病みあがりの男は、もう体力も十分に回復していたので、コートを脱ぎ捨て、海に向かって走りだした。飛び込んで行って、溺れている男を岸まで引っ張ってくるつもりだった。

「急いでください、どうか力を貸してください。あれは私の息子なんです、たったひとりの息子なんです!」男が老人のそばまできたときもまだ、老人は取り乱していた。「たったひとりの息子なんです、それが父親の目の前で命を落とそうとしているんです」

男は、老人の声を聞いたとたん立ちどまり、腕を組んで仁王立ちになった。

老人はあっと叫んで後ずさりした。「ヘイリング!」

男は一言も発することなく、ただにやりと笑った。

「ヘイリング!」老人は狂ったようにわめいた。「あれを見てくれ、ヘイリング、ほら!」と、哀れな父親は息も絶え絶えになりながら指差した。そこにはおぼれかけている若い男がいた。

「聞こえないか?」と老人は言った。「また叫んでいる。まだ生きてるんだ。ヘイリング、あれを助けてやってくれ、どうか助けてやってくれ!」

男はふたたびにやりと笑い、なお動こうとしない。

「あんたには本当に悪いことをした」老人はひざまずき、祈るように両手を組み合わせた。声は金切り声になっていた。「恨まれて当然だ、わしのすべてを、わしの命を奪いさってくれ。わしを水の中に投げ込んでくれ、人間として理性の続くかぎり、指一本動かさずに溺れ死んでみせる。そうしてくれ、ヘイリング、そうするんだ。だが、息子は助けてやってくれ、ヘイリング、あれはまだ死ぬには若すぎる!」

「聞け」と言いながら男は老人の手首をつかんだ。「命には命をもって償わせてやる、いまここでひとつだ。おれの子どもは父親の目の前ですさまじい苦しみを味わいながら死んでいった。実の姉にあたるメアリーをさんざんけなしてきたあんたの息子が、いまあそこで味わっている苦しみなど、なんでもないほどの苦しみをな。あのとき、あんたは笑っていた――あんたの娘の、死期の近づいた顔を見ながら――おれたちの苦悩を笑い飛ばした。せいぜい思い知るがいい! さあ、あれを見ろ、あれを見ろ!」

男はそう言うと、海のほうを指さした。水面から聞こえてきたかすかな悲鳴が遠くかすれ、死に瀕した男は最後の力をふりしぼってあがき、ごくわずかな間、波紋がつづいた。そうして、若者の墓所となったその場所は、周りの海とまったく区別できなくなってしまった。

三年後、その容赦ない仕事ぶりで当時はよく知られていたとあるロンドンの弁護士の戸口で、ひとりの紳士が私用の馬車から降りたち、重要な仕事があるので内々でお目にかかりたい、と頼みこんだ。まだ人生の盛りを越していないのは明らかなのに、顔色が悪く、頬はこけ、希望のない顔つきをしていた。弁護士のするどい観察力をもってするまでもなく、一目見ただけで、病気か何かが実際の年齢の二倍以上に男の容貌を衰えさせているのが見てとれた。

「私に代わっていくつかの法律手続きをやっていただきたいのですが」と男は言った。

弁護士は深々と頭を下げ、相手の紳士が手に下げている大きな包みを見やった。客人はその様子を見てから先を続けた。

「これは並大抵の仕事ではありません。そもそもこの書類を手元にそろえるのにも、ずいぶんと手間と費用がかかりました」

弁護士はよけいに好奇心を書きたてられたように包みをちらりと眺めた。そして客人は包みの紐を解いた。中には約束手形や、証書や、その他いろいろな書類が大量に詰まっていた。

「この書類の束にある名前の男は、ごらんになればお分かりでしょうが、ここ数年、これらの書類のおかげで多額の資金を作りました。私はこれらの書類を額面の三倍、四倍の金をだして少しずつ買い集めてきたのですが、その男と書類の本来の所有者たちとの間には暗黙の了解がありまして、ある一定の期間が過ぎるまでは契約を更新しつづけることになっていました。その取り決めはどこにも明記されていません。男はここのところ多額の損失を出しています。ここにある債権をまとめてつきつけられたとしたら、破産してしまうことでしょう」

「総額何千ポンドにもなりますね」と書類に目を通しながら弁護士は言った。

「そうです」

「それで、われわれに何をお望みなのですか?」とこの実務家は聞いた。

「つまり!」と、依頼人はとつぜん激しい口調になって答えた。「法律の力を総動員し、思いつくかぎりの策略を悪辣に実行するんです。行為の正当性なんてどうだっていい。前面からは法律にのっとって圧力をかけ、側面からは最高の人材にあらゆる手管で攻めさせる。私はあの男が責めさいなまれ、負け犬として死んでいくのを見届けたい。あいつの土地、あいつの資産、片っ端から差し押さえて売り飛ばすんです。家、故郷から追いたてて、老いぼれたその体を乞食の身分におとしめ、債務者監獄で野垂れ死にさせるんです」

「ですがお客さま、そういったことをすべて実行するには経費の方が」と弁護士は、一瞬驚いたものの、すぐに気を取り直して言い聞かせた。「相手が一文無しになるのでしたら、その経費はどなたがお支払いになるのですか?」

「いくらでも言ってください」と言いながら、興奮のあまり震える手でようやくペンをにぎりしめた――「いくらでもお支払いしましょう。遠慮などすることはない。私にとってはどうでもいいことです、あなたが私の目的を果たしてくれるのであれば」

弁護士は、一か八かで、高額の手付金を要求した。それは損失の可能性から自分の身を守るために必要なことでもあったのだが、といっても依頼に応じたかったからではなく、この依頼人はどこまで本気でやるつもりなのか、それを確認してみたかったという気持ちのほうが大きかったのだ。男は全額の小切手を切り、それを置いて帰って行った。

その小切手はまったく正当なものだったので、弁護士は、その奇妙な依頼人が信用に値すると判断し、本気でこの仕事に着手した。その後二年以上、ヘイリング氏は一日中そのオフィスに閉じこもり、積み重なってゆく書類の束を熱心に調べていた。何度も何度も読み返したことだろう。抗議の手紙が殺到した。若干の猶予をという嘆願や、このままでは確実に破産してしまうという釈明の手紙もあったと思う。ヘイリング氏が目を輝かせながらそれらを読みふけるうちにも、立て続けに訴訟がおき、立て続けに手続きが執られた。繰り返し容赦を求める申し入れに対する答えは一通りしかなかった―― 一括清算せよ、とね。土地、家屋、家具、ひとつひとつ順番に、数限りない執行書が発行されるたび、取り上げられていった。それで老人はというと、監獄に放りこまれるべきであったものを役人の目を晦まして、逐電してしまった。

ヘイリングの底知れぬ憎悪は、迫害の成功によって満たされるどころではなく、むしろ百倍にも強まっていた。老人の逃亡を知らされた彼は激怒したよ。激情に歯をきしらせ、髪をかきむしり、令状を手に出動した連中を凄まじく罵ってね。逃亡者の確保を繰り返し保証することで少しだけ落ちつきを取りもどしたようだった。エージェントが彼の求めに応じてあらゆる方面に散っていった。また、老人の隠れ家を発見するための方策も残らず実行された。だが、すべて無駄だった。半年を過ぎても、老人の行方はようと知れなかった。

それからずいぶん後のある晩、何週間もの間姿を消していたヘイリングが、弁護士の自宅に現れ、お目通り願いたいと告げた。階下の声を聞きつけた弁護士が召使いに通せと命じるよりも早く、ヘイリングは階段を駆け登り、応接間に飛びこんだ。顔を青ざめさせ、息を切らして。ドアを閉めて盗み聞きされないようにすると、椅子に座りこみ、低い声で言った――

「しっ! とうとうやつを見つけましたよ」

「なんと!」と弁護士は言った。「やりましたね、ヘイリングさん、やりましたね」

「カムデンタウンのみすぼらしい下宿に潜伏しています。今となればやつに逃げられたのはいいことだったのかもしれませんね。だって、やつはひとりぼっちであそこに、このうえなく惨めなありさまで、ずっとずっと金もなく――まったく金もなく過ごしていたんですから」

「なるほど。聞くまでもないとは思いますが、明日逮捕させるおつもりですね?」

「もちろん。……いや待った! だめだ! 明日にします。驚いたでしょうね、この私が日延べしてやろうと思うなんて」そして、ぞっとする微笑を浮かべてこう続けた。「忘れてたんですよ。明日は、やつの人生における記念日でしてね。だから、あえて明日を選びましょう」

「なるほど。警官に持たせますから、そこまでの地図を書いて頂けますか?」

「いや、その警官と直接会うことにしましょう、ここで、明日夜八時に。私がそこまで連れて行きますよ」

男と警官は約束どおり落ち合って、馬車を雇い、昔のパンクラスロードの角のところ、教区貧民収容施設のあるあたりで停めるようにと命じた。そこについたときには、もうあたりはかなり暗くなっていた。獣医病院の前にあった行き止まりのそばまで進むと、横道に入った。その横道は、少なくともその当時リトルカレッジストリートと呼ばれていて、今はどうなっているのか知らないが、荒れ果てたというにふさわしい、草っ原や溝ばかりのところだったよ。

旅行用帽子を目深にかぶって顔の上半分を隠し、外套を口元まで引き上げて、ヘイリングは、通りでいちばんみすぼらしい家の前で立ち止まり、そっとドアをノックした。すぐに女がドアを開け、深々と腰を落としてお辞儀した。ヘイリングは警官に下で待つように囁くと、こっそり階段をのぼり、向かいの部屋のドアを開け、すぐに中に入った。

男の探索の対象、揺るぎない憎悪の対象となっているそのみすぼらしい老人は、貧相な蝋燭が一本だけ立てられた裸のテーブルの前に座っていた。男が部屋の中に入ってくるとはっとなり、弱々しく立ちあがった。

「今度はなんですか、今度はなんだというですか?」と老人は言った。「今度はどんな不幸だというんですか? あなたは何を求めてやってきたのですか?」

「あんたと少し話がしたくてね」そう言いながらヘイリングは、テーブルの反対側に腰を下ろし、外套と帽子を脱ぎ捨ててその顔を露にした。

老人は即座に言葉を失ったようだった。突き倒されたかのように椅子にもたれかかると、両手をしっかりと握り合わせ、憎悪と恐怖のないまざった眼差しで目の前の男を見つめた。

「六年前の今日、おれは、あんたのせいで我が子の命を失ったおれは、いつかあんたに借りを返してやると決めたんだ。変わり果てた姿となったあんたの娘のかたわらで、なあ、おれは復讐のために生きてやると誓ったんだ。おれは一瞬たりとも挫けることなくその目的に突き進んできた。かりに挫けたとしても、脳裏をかすめる気丈だが病弱だった妻の衰えた顔や無邪気だったあの子の飢えた顔が、おれがなすべきことに立ち向かう勇気をくれたことだろう。最初の返礼としておれがやったこと、よく覚えてるだろうな。だがそれも、これで終わりだ」

老人は身を震わせ、力なく肩を落とした。

「おれは明日、イギリスを出る」一瞬の間を置いてからヘイリングは言った。「今夜、おれはあんたを引き渡す。あれが味わった生きながらの死――絶望の監獄にな」

男は顔を起こして老人の表情を見ようとし、ぴくりと動きを止めた。灯りを取って老人の顔を照らし、その灯りをそっとテーブルの上にもどすと、部屋を出ていった。

ドアを開けた彼は、女に「あの年寄、気をつけたほうがいい」と言い、警官に、通りまでついてくるよう身振りした。「たぶん、病気だ」女はドアを閉めると、あわてて階段を駆け上がった。老人は生き絶えていた。


ケント州の人里離れた平穏な境界の敷地内、野性の草花が交じり合い、心休まる景観に取り巻かれたイギリス一の美しい土地にあるまっさらな墓石の下には、若い母親と心優しいその子どもが眠っている。けれどもそこに父親の遺骨は納められていない。それに、例の弁護士も、その奇妙な依頼人のその後の話を金輪際知ることがなかった。


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