リンカーン大統領就任演説, エイブラハム・リンカーン

リンカーン大統領第一期就任演説


1861年3月4日月曜日

アメリカ合衆国の国民のみなさん

政府ができたとのと同じくらい古い慣習に従って、私はあなたがたの前に姿をみせ、短い演説をして、合衆国憲法に規定されている大統領が「職務室で職務に臨むまえの」誓いをたてようと思います。

私は現在、行政の事柄でなんら格別心配でないことや興奮させないようなことを、議論する必要はないと考えています。

南部には、こう考えていらっしゃる人がいるようです。共和党が政権を握ったために、自分たちの財産や平穏や個人の安全がおびやかされるのではないかと。そんな懸念をいだくなんら正当な理由は、これまでも存在しません。実際、その反対であることを十分に示す証拠がつねに存在していたのです。そして調べようとすれば、いつでも調べられたわけです。その証拠は、今あなたがたに演説している私のスピーチの、印刷されたもののほとんど全ての中にも見出すことができます。それらの演説から一つだけ引用しましょう。こう述べています。

私には、直接的にも間接的にも、奴隷制度が存在する州においてそれに干渉するつもりはない。私は自分にそうする法的な権利がないことを知っているし、そうしようとも思っていない。

私を指名し選んだ人々は、私がこの演説やこれと同様の宣言をしたことを、そしてそれを撤回したことがないということを十分に知っていて、指名し選んだのです。いや、それ以上です。彼らは綱領にそれを記述してくれたのです。そして彼ら自身と私が守るべき法として、明確ではっきりした決議を私は今から読み上げましょう。

決議 州の権利は侵されざるものでありつづけます。特にそれぞれの州が、その州の判断に従って他からの干渉をうけずに、その州の制度を指導、監督する権利は侵されざるものなのです。そしてそれは、われわれの基本的な政治体制を完全で持続するものとするのに必要な権力のバランスをとるのに不可欠なのです。そしてわれわれは、法によらない州や準州への軍隊の侵攻を、理由のいかんを問わず、最大の犯罪の一つだと公然と非難します。

私はこの宣言に再び言及することで、最も決定的な証拠をみなさんにお目にかけるつもりです。つまり財産や平穏や安全が、場所にかかわらず、新しい政権によって決して脅かされることがないという十分な証拠をです。私はそれに加えて、憲法と法律に反しないなら、できるかぎりの全ての保護を、よろこんで法的に保護を要求する全ての州に提供しましょう。特に理由がなんであれ、よろこんでどの州に対しても同様に提供しましょう。

サービスや労働からの逃亡者を引渡すことについては、いろいろ議論があるところです。私がこれから読み上げる一節は、憲法に他の条項と同じように明記されています。

ある州においてサービスや労働に従事する人は、法律によって、他の州に逃げても、その州の法律や規則によってサービスや労働から解放されることはない。それだけではなく、そのようなサービスや労働をさせる権利をもつものの請求によって、引き渡されなければならない。

この条項が、われわれが逃亡奴隷とよんでいるものたちを引き渡す意図をもつことには疑問の余地はありません。そして立法者の意図が、法律そのものなのです。議会のすべてのメンバーは、憲法全体に対して支持を誓っています。それは他の条項だけではなく、この条項についてもそのとおりです。それから、この「引き渡さなければならない」という一節の言葉に当てはまる奴隷の問題に対しては、宣誓は満場一致です。現在では、もし議員が進んで努力すれば、その満場一致の宣誓をそのまま維持するような手段として、ほとんど同じくらいの満場一致ではないにせよ、法律をつくって通すことができるのではないでしょうか?

この一節が連邦によって強制されるべきか、州の権力によって強制されるべきか、いくらか意見の相違がありますが、そのような違いは大した問題ではありません。もし奴隷が引き渡されるなら、奴隷にとっても他の人にとっても、誰によってそれがなされるかは、ほとんど問題にはなりえません。そしてどんな場合でも、自分の誓約が守られないのに、どのようにして守るかという単なる非現実的な議論に満足する人はいないでしょう?

再び、この問題の法については、文明化され人道的な法には盛り込まれている自由のセーフガードがあるべきではないでしょうか、つまり自由人が、どんな場合にも奴隷として引き渡されることがないようにするべきではないでしょうか? そして同時に「それぞれの州の市民は、複数の州の市民が有する全ての特権と免除の権利を有する」という憲法で保障されている一節を、法律で保証してもいいのではないでしょうか?

今日、私は宣誓するにあたって、なんら隠しだてをするつもりも憲法や法律のあら捜しをするつもりもありません。そして施行されてしかるべき議会の法律を特定するつもりもありません。公的にも私的な立場でも、次のことは全ての人にとってより安全なことだと私は思っています。つまり、その法律が取り消されない限りはその法に従って遵法することが、法を破って、その法が違憲となることを信じるよりも安全なのです。

アメリカの憲法のもとで最初の大統領が就任してから、72年がたちました。そのあいだに、15人の別々のとてもすばらしい市民が、継承して大統領府を治めてきました。その統治で多くの危機を切り抜け、概して大きな成功をおさめてきました。しかしながら全ての前職と同様に、私は大きなそして特別な危機のもとで、4年という短いですが憲法できめられた期間、いま同じ職につきます。連邦の崩壊では、今まではただの脅威というだけでしたが、現在は恐ろしいことに試みられているのです。

法と憲法をよく検討すれば、私はこれらの州の連邦は恒久的なものであると思います。恒久ということは、例え明記されていなくても、全ての国家の基本法に含まれていることなのです。正式な政府でそれを構成する法律に、自らの終末の条項をもったものはないと断言してよいでしょう。憲法に記述された全ての条項を実施しつづけるなら、連邦は永遠に続くでしょう。憲法に書かれていない条項によらなければ、連邦を解体することは不可能だからです。

再び、もしアメリカ合衆国が正式な政府ではないとして、単なる契約による州の連合体だとしても、契約を結んだ全ての当事者によらないで、契約によって平和裏にそれを無効にすることができるでしょうか? 契約の片方の当事者がそれを侵す、つまり破ることができるのでしょうか、つまり、契約を撤回するには、全ての人の同意がいるのではないでしょうか?

これらの一般論からみれば、われわれは法的に考えて、連邦はその歴史によって永遠に保証されていると思っています。連邦は憲法よりもずっと古いものなのです。事実連邦は、1774年に連合条約によって成立しました。それは1776年の独立宣言によって、完成し引き継がれました。さらに発展して、全ての州が、当時は13の州ですが、明白に誓い約束した信条は1778年の連邦条約により、永遠のものとなりました。そして最終的には1787年に、憲法を規定し制定する宣誓された目的の一つは、「連邦をより完全なものとするため」であることになりました。

しかし、もし一つの州や一部の州により連邦が合法的に解体することが可能なら、連邦は憲法成立以前より不完全なものとなり、不可欠な永遠の要素を失ってしまうことでしょう。

このような観点から、いかなる州も単にその州だけの都合で、合法的に連邦から離脱することはできないということが導かれます。そして離脱する決議や条例は法的に無効です。そしてある州内や、アメリカ合衆国に対する複数の州の暴動は、状況次第では、反乱であり革命ということになります。

従って、私は憲法と法の観点から見て、連邦は壊れないものだと考えます。そして私の力の及ぶ限り、憲法自体がはっきり私に命じたとおり、連邦の法律が全ての州で正確に実施されるように注意をはらいます。これを実施するにあたって、私には単純な義務があるだけだと思っています。そして私は自分の正当な主人である、アメリカの国民が必要な手段をさしひかえたり、高圧的に反対のことを命令したりしなければ、できるかぎりのことを実行しようとしています。私はこれを威嚇とは思っていません、それは憲法上、自ら防護し維持をする明確にされた連邦の目的だと思っています。

これを実施するにあたって、流血や暴力はなんら必要ではありません。そしてそれは政府の権力に強いられないかぎりありえません。私に託された権力は、政府に属する財産や土地をもち、使用し、所有すること、そして税と関税を徴収することに使われることでしょう。しかしこれらの目的に必要と思われることを越えては、いかなる場所の人々に対しても、またそのあいだでも、武力が行使されたり、侵害したりすることはないでしょう。国内のある地域で連邦に対する敵意があまりに大きく一般的で、有能な住民が連邦の職につけないようになっているところでも、これに対して不愉快な部外者を強制するようなことは行いません。法的に厳密に言えば、政府にはこれらの職務の遂行にあたって、権利が存在するかもしれないが、そうする試みは非常にいらいらさせられることでもあり、その上ほとんど実行不可能で、あえてしばらくはそのようなことを控えた方がいいと私は考えています。

郵便は反発がない限り、連邦の全域でサービスを続けましょう。可能な限り、全国の人々に完全に守られている安心感をもたせ、落ち着いて考えたり思い返すことができるようにします。ここで示された方針に、現在の出来事や経験に適切な変更や変化がないかぎり、従います。いかなるケースや緊急事態においても、慎重の上にも慎重に、実際の状況に応じて行動し、国家間のトラブルを平和裏に解決し、兄弟愛と思いやりを回復したいという方針および希望をもちつづけたいと思います。

あちこちの地方に連邦をとにかく解体しようとする人々がいて、どんなごまかしをもするということを私は肯定も否定もしません。でもそんな人がいるとしても、私がなんの言葉をかける必要もないと思います。しかしながら、私が心から連邦を愛する人々にどうして話しかけずにいられるでしょう?

われわれの国家の仕組みが、その利点と伝統と希望にもかかわらず崩壊するなどという重大事項にふれる前に、なぜそんなことをしなければならないかを正確に確認したほうがいいでしょう。あなたが避けている災難が実際には存在しない可能性があるとすれば、思い切った手段をとる必要があるのでしょうか? あなたが避ける現実の災難より、向かって行く確かな災難の方が大きいとすれば、それほど恐ろしい過ちのリスクをおかす必要はあるのでしょうか?

もし憲法上の権利が守られていれば、全ての人が連邦に満足していると言うことでしょう。それなら、憲法に明記されているなんらかの権利が否定されているということなのでしょうか? 私はそうは思いません。幸運にも、政党があつかましくもそこまでのことができると考えるようには、人の心はできてないのです。憲法の中で明記されている条項のうち、その一つでも否定されたことがあるか考えてみてください。もし多数派が数の力でもって、少数派の明記された憲法上の権利を奪うとすれば、道徳上の観点からいえば、それは革命を正当化したということになるでしょう。もしその権利が重要なものなら、確実に正当化したことになります。しかしわれわれのケースは、そういう問題ではありません。少数派や個人の全ての重要な権利は、憲法の中ではっきりと肯定と否定、保証と禁止によって明言されているので、その問題にかかわる論争は起こりようがないのです。しかし実際の行政においておこるだろう、全ての問題に個別に適用できる条項をもった基本法をつくることはできません。どんなに先見の明があっても未来は予知できませんし、かなり長いドキュメントでも全てのありうる問題の明白な条項を含むことはできません。労働から逃れた逃亡者が国家によって引き渡されるべきか、州の権力によって引き渡されるべきか? 憲法は明確に語っていません。議会が、準州における奴隷制を禁止できるのでしょうか? 憲法は明確に語っていません。議会は、準州における奴隷制度を保護しなければならないのでしょうか? 憲法は明確に語っていません。

この種の問題から、全ての憲法上の論争が起こるのです。そしてわれわれは多数派と少数派にわかれています。もし少数派が妥協しなければ、多数派が妥協しなければなりません、そうしなければ国家が崩壊します。国家を存続させるためには、どちらかが妥協しなければなりません。その他に道はないのです。もしこんな場合で少数派が妥協するより脱退したら、そんな場合に分裂して破滅する前例をつくってしまいます。多数派がそのような少数派によって支配されるようなことを拒絶すれば、少数派は自ら崩壊してしまうでしょうから。たとえば、現在の連邦が脱退を主張するのと全く同じように、その新しい連邦の一部が1、2年後に勝手に分離しないとなぜいえるのでしょうか? 連邦の崩壊を思うものはみな、今や本気でそうするつもりになっています。

しかし新しい連邦をつくって調和だけを作り出し、再度分裂しないようにするほどの利害の完全な一致が州の間に存在するものでしょうか?

明らかに分裂の中心にある考え方は、無政府主義そのものです。憲法のチェックと制約をうける大多数は、つねに大衆の意見や感想のゆるやかな変化に応じて変化していますが、それこそ自由人の唯一のそして真の統治者です。それを否定するものはだれでも必然的に、無政府主義や専制主義に傾かざるをえません。少数派の統治を恒久的な規則にするのは、全く受け入れがたいものです。その結果、多数決の原理を否定すれば、ある種の無政府主義や専制主義しか残されたものはないのです。

私は、憲法の問題は最高裁判所によって決定されるべきであると主張する立場の人もいることを忘れていません。もしくは私は、そのような判決がいかなる事件においても、当事者をそのような訴訟の目的に応じて拘束しなければならないことを否定しません。一方、それらの判決がまた、すべての政府の部門から同様の事件ではいつも、とても尊重され考慮されなければならないでしょう。そしてそのような判決が、ある事件において、明らかに間違いであるとしても、それが与える悪影響はその事件に限定されており、判決がひっくり返されて他の事件の前例とならない場合にも、違った悪い行動よりはましであると言えるでしょう。それと同時に公正な市民は、次のことを認めなければなりません。つまりもし全国民に関わる重要な問題に対する政府の政策が、最高裁判所の判決によって確定し、取り消し不能となるならば、個人的なものごとの関係者間の普通の訴訟で判決が下されると、人々は自身の支配者であることをやめ、その程度までは、実際には政府を最高裁判所の手にゆだねたということになるのです。この見方は、法廷や裁判所を非難しているわけではありません。法廷や裁判所の義務は、正式に持ち込まれた事件を進んで裁くことであって、もし他のものたちがその判決を政治的な目的に転用しようとしても、それは法廷や裁判所の責任とはいえません。

われわれの国のある地方では、奴隷制度が正しいもので、その範囲は広がるべきだと考えられています。一方、他の地方では、それは間違っていてその範囲は広げられるべきではないと考えられています。ここが議論の本質なのです。憲法の逃亡奴隷に関する条項と奴隷貿易を禁止する法律は、それぞれ人々の道徳観がその法律自体を法的な効力がないと考えている社会で施行されてきた法律と同様に、施行されています。これら両方に関して、大多数の人々はただ単に法的な義務に従っているだけであり、そしてほんの少数がそれぞれを破っているのです。私は、これを完全に正すことはできないと思います。そして分離がおきればそれら両方において、事態は以前より悪いことになるでしょう。奴隷貿易は、現在は不完全ながら禁止されていますが、ある地方では結局は制限なしで復活するかもしれません。一方、現在では一部が引き渡されている逃亡奴隷は、全く引き渡されなくなることでしょう。

物理的に、われわれを分離することはできません。われわれは互いにそれぞれの地方を移動するわけにもいきませんし、互いの間に越せない壁をつくることもできません。夫婦なら離婚し、お互いがいないところや手の届かないところに行くこともできるかもしれませんが、しかしわれわれの国の異なる地方はそうするわけにはいきません。このまま、顔と顔を突き合わせているしかないのです。そして友好的であろうが、敵対していようが、交渉をつづけていく必要があります。分離した前より後の方が、より有利で満足のいく交渉ができるでしょうか? 味方同士で法律をつくるよりも、よそもの同士で条約を結ぶほうが容易とでもいうのでしょうか? 味方の間で施行される法律よりも、よそものの間で条約を施行するほうがきちんと守られるのでしょうか? もし戦争に行った場合を想定すれば、常に戦っているわけではありません。そして双方が甚大な被害をうけ、得るものがなくなった後に戦闘が終り、交渉の条件として全く同じ古い問題が再びふりかかってくるのです。

この国は、制度もふくめて、そこに住む人に属するものです。住む人が現在の政府にうんざりすれば、政府を改める憲法上の権利を行使できますし、政府を分割し転覆させる革命的な権利を行使することもできます。私は、多くの立派でわが国を愛する市民が憲法を改正したいと考えている事実を知らないとはいえません。私は改正をすすめるわけではありませんが、この全ての問題に対して当然影響を与える人々の権利が、憲法それ自体に記述されたなんらかの方法で行使されるのを認めたいと思います。私は、現状において、人々が憲法に基づいて行動するような公平な機会のじゃまをするより、むしろそれに賛同するでしょう。あえてつけ加えれば、代表者による方法がよいように私は思います。その方法では、その問題に対して特別に選ばれたわけでもない他の人々が作成した提案に対して賛成、反対を表明する代わりに、人々自身が修正案をだすのです。他の人々の提案は、人々が賛成したり反対するのと正確に同じ提案ではない可能性もあるのです。私は、憲法に対する修正が提案されていることを知っています。その修正は、しかしながら、私はまだ見ていないのですが、議会を通過したということです。その趣旨は、連邦政府は州内の制度に干渉してはならないというもので、それにはサービスをするものの制度もふくまれるということでした。前述したことへの誤解をさけるために、私は特定の修正案についてお話しするつもりはさらさらないのですが、このような条項は現在の憲法に含まれているため、私はそれが明記され、取り消せないものとなることに反対しません。

大統領の権限は国民に由来しています。そして国民は、大統領に州を分割する条件を決めることについては何も委任してきていません。もし国民自身がそうしたければ、自身でやることが可能ですが、大統領には何の関係もないことです。大統領の義務は、任された現在の政府を治めることであり、自分の手で悪くすることなく後継者に引継ぐことなのです。

なぜ国民によって最終的に正義が行われることを、我慢強く信頼しないのでしょうか? 世界にこれ以上あるいはこれに匹敵する希望があるとでもいうのでしょうか? 現在のわれわれの意見の食い違いにおいては、お互いに自分が正しいと信じることがないのでしょうか? 全世界を統治する全能の神が、永遠の真理と正義で、北側か南側の立場に立ったとするならば、その永遠の真理と正義は、アメリカの国民の重い審判による判断で、かならず勝利をおさめることでしょう。

われわれの政府の仕組みでは、公僕にたいして問題となるような権力をほとんど与えていません。そして、同じくらい賢明なことに、そのささやかな権力についてもごく短い時間で自らの手に取り戻すことができます。国民が道徳をもち警戒するなら、どれほど悪意がありばかげた行動を政府がとろうが、4年という限られた時間では政府自体に深刻な影響を与えることはできません。

アメリカ国民のみなさん、落ち着いてよくこの問題全体を考えてください。時間をかけて悪いことはありません。もし決してゆっくり歩むことのない一歩を、あなたがたの誰かが特別いそがせる目的があれば、その目的は時間をかけることによりだめになるかもしれません。ただいい目的は、決してそんなことでだめにはなりません。今現在不満をもつ人は、肝心な点では、古い憲法がその下での法の枠組みを損なうことはなく、一方新しい政府はそうしたくても、憲法も法も直接変更する権限がなかったのです。もし不満をもつ人が論争において正しい側にあることが認められたとしても、行動を急いでいい理由はなにもありません。知性、愛国心、キリスト教、そしてこの恵まれた土地を見放さなかった神への固い信頼が、現在のわれわれ全ての困難を一番良い方法で解決するのです。

不満をいだくわが同朋よ、私の手ではなく、あなた方の手に、内戦の重大な問題はかかっています。政府は、あなたがたを攻撃することはないでしょう。あなた方が攻撃しない限り、紛争はおこらないでしょう。あなたがたは、政府を解体することを天に誓った訳ではありません、その一方私は「政府を保護し、守りそして擁護する」ことを固く誓います。

私は演説を終えるのが残念です。われわれは敵同士ではなく、味方なのです。われわれは敵同士になるべきではありません。感情が高ぶっても、われわれの親愛のきずなを切るべきではないのです。思い出の神秘的な弦が、全ての戦場や愛国者の墓から、この広大な国の全ての生けるものの心と家庭へとのびていて、再び奏でられるとき、統一の音を高らかにならすことだろう。その音は確かに、われわれの本来の姿であるよい天使によって鳴り響くことだろう。


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