今日では、いわゆる抽象絵画は25年以上も生き長らえている。
この事実を見るだけでも、抽象絵画に対して行なわれた多くの《非難》――特に、初期の段階ではあらゆる方面から激しい非難が殺到したものだ――が間違っていたことの証明となる。
この文章で私は、それらの非難のうち最も重要なものにだけ触れようと思う。かつては(今でも時々言われるが)、抽象絵画の表現手段は非常に貧弱ですぐ枯渇するから、この様式は死刑判決を受けたも同然だ、と言われていた。この非難のため、抽象絵画は何度も墓場へ葬られてきたものだ。
表現の可能性に乏しいだって? 馬鹿なことを! この会場でなら、私はこの馬鹿げた主張への理論的反論を省略できる。アムステルダムの市立美術館が催したこの展覧会を見て、一体どんな理論[的反論]が必要だというのか? 展覧会は喋らないが、行動によってそのことを示す。そして、《埋葬》される度に、抽象様式が、ますます強大な力と表現力と無限の可能性を獲得してきたことを証明している。実に様々な表現の可能性を!
芸術一般、特に絵画は、何を表現できて、何を表現すべきなのだろうか?
これは複雑な問いだが、答えは簡単である。
本物の作品が新しく生まれるたびに、まだ存在したことのない新世界が表現されてきた。従って、本物の作品はどれも新発見である――既によく知られている諸世界の横に、まだ知られていなかった新世界が並び立つ。それゆえ、本物の作品はどれも《私はここにいるぞ!》と声を発するのだ。
今こそ重要なときである。次の問いを発すべきときである。写実的作品、自然主義的作品、キュービズム的作品、超現実主義的作品(残りの全ての《主義》は、どうぞ各自で列挙してほしい)は、抽象的作品と比較してどのように(形態の問題)成り立っているのか、と。
程度に差はあれ《自然主義的》作品は、既存の世界の一部分(人間、動物、花、ギター、タバコのパイプ……)を借用している。そしてそれらは、芸術的表現の束縛の下で歪められている。つまり、《対象》に対して線描と彩色という《加工処理》が施されている。他方、抽象芸術は、対象およびそれへの加工を放棄する。抽象芸術がもたらすのは、表現形態そのものである。
それがどのように行なわれるのかは、難しい問題である。私に言えるのは次の一言だけだ。私の信じるところでは、この創造へ向かう道は、総合的なものでなくてはならない、と。つまり、感情(《直観》)と頭(《計算》)が互いに抑制しあって協働することが必要である。しかし、これもやり方は様々だ。私としては、[創作に]従事している間は《考え》ないほうがよいと思う。多少は知られているように、私は芸術の理論的側面を少なからず《吟味》した。だからといって、創作中に《頭の方に重点を置いて》自分の《内なる直観》を混乱させる芸術家は有害である。
そのようなわけで、抽象芸術は《現実の》世界の横に、《現実》と外面的には関係を持たずに並立する。しかし内面的には、両世界は共に《宇宙世界》の普遍的法則の下に置かれている。
だから、《自然世界》の横に新しい《芸術世界》が存立する――だがそれも一つの現実世界、具体的世界である。それゆえ、個人的には、いわゆる《抽象》芸術より具体芸術という呼び名のほうが好ましいと思うのだ。