「マリラ、ちょっとダイアナの所に行っても良い?」とアンが訊いた。東の切妻から息をはずませて駆け降りてきたところだ。頃は二月、ある日の夕方のことだった。
「何でまたうろつかなくちゃ行けないんだね、もう暗いじゃないか」愛想無くマリラが言った。「あんたもダイアナも、学校から一緒に帰る道で喋り、雪の中で突っ立っては半時間以上も喋り、どっちの舌もいい加減動きっぱなしだろう、まあペチャクチャ・ペチャクチャと。だから、またダイアナと会わなきゃ困ることなんか全く無いと思うがね」
「でも、ダイアナがあたしに来て欲しがってるの」アンが頼み込んだ。「何かとても重要な事を伝えたいのよ」
「どうして分かるんだい、そんなこと?」
「それは、ダイアナが窓から信号を通信してきたからよ。あたし達、ローソクと厚紙で信号の手順を決めたの。窓枠のところにローソクを置いて、厚紙を左右に動かしてチカチカさせるのよ。たくさんチカチカさせるとある意味になるの。この方法はあたしが考えついたのよ、マリラ」
「確かにあんたが考えそうなことだ」とマリラが力強く保証した。「次には、馬鹿な信号ごっこでカーテンに火がつくだろうさ」
「そんなことないわ、二人ともちゃんと注意してるわよ、マリラ。それにすごく面白いの。チカチカ二回の意味は『そこにいる?』三回で『はい』四回は『いいえ』よ。五回だと『急いで来て、重要な事が待っているわ』なの。ダイアナは五回チカチカさせたから、あたし何があったか知りたくて悶々としてるのよ」
「じゃあ、もう悶々とする必要はないさ」マリラは皮肉を言った。「行ってきても良いけど、十分で戻ってくるんだからね、忘れるんじゃないよ」
アンは確かに条件通り忘れずに戻ってきたのであるが、ダイアナからの非常通信の内容を、限られた十分間に圧縮して受け取るためいかなる犠牲を払ったか、誰一人として知る者はなかった。ただ少なくともその十分を有効利用したのは確かである。
「わあい、マリラ、何だと思う? 明日はダイアナの誕生日じゃない。それでね、ダイアナのお母さんが、学校から直接ダイアナの家に行って、そのまま一晩過ごしたらって、言ったんだって。ダイアナのいとこが、ニューブリッジから箱橇で来るの。明日の晩に公会堂で開かれる討論クラブのコンサートを見に来るのよ。でね、ダイアナとあたしもそのコンサートに連れて行ってくれるらしいの――マリラが行かせてくれたらだけど、そうするって言ってたわ。行かせてくれるでしょ、行かせてくれない、マリラ? ああ、もうドキドキしてるわ」
「そういうことなら、気を落ち着けて構わないよ、あんたは行かないんだから。家に居てベッドで休むべきだね、クラブのコンサートの事だけど、あんなのは全く下らないし、子供が出かけて良いような所じゃないよ」
「討論クラブはちゃんとした催しだわ」アンが弁護を買って出た。
「ちゃんとしてないとは言っていないよ。でもね、コンサートなんかに出歩いて、一晩中夜遊びするようになって欲しくないからね。とんでもないことさ、子供のすることじゃないよ。大体驚くじゃないか、あのバリーさんが良くダイアナを行かせるもんだね」
「でも、今回は特別重要な機会なの」涙を滲ませてアンが嘆いた。「ダイアナの誕生日は年に一回しかないのよ。誕生日は平凡な出来事なんかじゃないわよ、マリラ。プリシー・アンドリューズは『晩鐘よ、今宵響くなかれ』を暗誦するの。これなんか道徳的で立派な作品よ、マリラ。それを聞いたら、きっとあたしにも良い影響があると思うわ。それから聖歌隊はそれはそれは悲壮な歌を四曲合唱するの。賛美歌とほとんど同じくらいためになるわよ。それから、そうだ、マリラ、牧師さんも参加するんだった。嘘じゃないわ、本当にそうなのよ、式辞を述べることになってるの。ほら、説教と同じようなものよ。お願い、行っても良いでしょ、マリラ?」
「あたしが言ったことは聞こえたはずだろ、アン、そうだろ? さっさとブーツを脱いで寝なさい。八時を回ってるよ」
「あと一つだけ、マリラ」と、アンはせめて最後の一矢を報いるべく試みた。「バリーさんがダイアナに言ったんだけど、二人で客用寝室に寝ても良いんだって。これは光栄なことよね、我が家のアンがなんと客用寝室に寝かせてもらえるのよ」
「そういう光栄は無しで済ますんだね。寝なさい、アン、もう何も聞きたくないからね、一言も喋るんじゃないよ」
アンが頬に涙の川を何筋も作りながら悲しみに暮れて二階に上がって行くと、二人の対話が続く間、寝椅子ですっかり眠り込んでいたように見えたマシューが、やおら目を開け、断固としてこう言った。
「うむ、そうだな、マリラ、アンを行かせてやるべきだとわしは思うがな」
「あたしはそうは思わないわ」マリラが切り返した。「あの子を躾けてるのは誰なの、マシュー。兄さん、それともあたし?」
「うむ、そうだな、おまえさ」マシューはとりあえず認めた。
「じゃ口出ししないで」
「うむ、そうだな、口出しなんぞしとらんよ。おまえの意見に口出しなんぞしとらんよ。だがわしの意見を言うとだ、おまえはアンを行かせてやるべきだよ」
「兄さんなら、もしあの子が行きたいと言い出したら月にでも行かせてやれって言うんでしょ、間違いないわ」とマリラ。返す答えはなかなかに友好的なものだった。「ダイアナと一緒に一晩泊まるのは良しとしましょ。でもね、コンサートに行くなんて事は賛成しかねるわ。アンを行かせてみなさい、風邪をひくのが落ちだし、下らないことで頭を一杯にして、地面に足が着かなくなるだけよ。地面に落ち着くまで一週間ってとこだろうね。あたしはね、あの子の癖も、どうしたら良いかも兄さんよりずっと分かってるのよ、マシュー」
「おまえはアンを行かせてやるべきだと思うがな」マシューが断固として繰り返すだけだった。議論はマシューの得意とする所ではなかったが、自分の意見にしがみついて離れないのは、確かにマシューの得意技だった。マリラは八方塞がりの溜め息をつき、黙って退散することにした。翌朝、アンが台所で朝食の皿を洗っている時、マシューは納屋に出ていく所で足を止め、マリラにまた言うのだった。
「おまえはアンを行かせてやるべきだと思うがな、マリラ」
一瞬、マリラの顔が曰く言い難い、ただならぬものになった。それから、避けられぬ運命と屈しつつも、舌鋒鋭くこう言った。
「良く分かりました、行かせても良いわ、何を言っても気に入らないみたいだし」
アンが台所から飛び出てきた。手にした皿拭きから水がポタポタ滴っている。
「やったぁ、マリラ、マリラ、その有り難き言葉をもう一度言って」
「一回言えば充分だろうよ。これはマシューが言い出した事なんだし、あたしは手を出さないからね。寝慣れないベッドで寝たとか、真夜中に人いきれのする公会堂から帰ってきたとかで、もし肺炎にかかっても、あたしが悪いんじゃないからね、悪いのはマシューだよ。アン・シャーリー、あんた、油汚れのついた水を床中にポタポタ落として回ってるじゃないか。こんな不注意な子は見たことないよ」
「あ、しまった。あたしがマリラに課された大いなる試練だって、自分でも分かってるのよ、マリラ」とアンが悔い改めた。「何かと失敗するしね。でもほら、まだ失敗してないこともたくさんあるでしょ、そりゃあ、これから失敗するかもしれないけど。学校に行く前に、汚した所を砂でブラシがけしておくわ。ああ、マリラ、あたしコンサートに行きたくて気になってばかりだったの。生まれて一度もコンサートに行ったことないから、学校で他の女の子達が話題にすると、仲間外れにされたように感じるのよ。マリラにはどんな風だか分からなかったんだろうけど、マシューは分かってくれたのよね。マシューはあたしを理解してくれるわ、理解してもらえるってすごく嬉しいことなのよ、マリラ」
アンは興奮して浮かれまくっていたので、午前の授業はずっと上の空だった。ギルバート・ブライスは綴りの授業でアンを下したうえ、暗算では遥か彼方まで引き離した。その結果、アンは当然屈辱を感じることになったが、いつもよりもずっとダメージが少なかった。コンサートと客用寝室のことを思えば、小さなことだったから。アンとダイアナは一日中コンサートのことばかり喋っていたので、もしフィリップス先生より厳しい先生だったら、厳しく叱責され恥辱を被らないでは済まなかっただろう。
アンは思ったものだ。もしコンサートに行けなかったとしたら、辛すぎてきっと耐えられなかったわね。というのも、その日の学校では、コンサートのこと以外何一つ話題に上らなかったからである。アヴォンリー討論クラブは、冬の間、隔週で開催されていて、参加費なしでもちょっとした娯楽を提供してくれていた。だが今回はいつもより大仕掛けであり、図書館の援助金として入場料十セントを払う必要があった。アヴォンリーの若者達は何週間も練習を積んで臨み、学校の生徒全員も、自分たちの年長の兄弟姉妹が参加するため興味津々だった。九歳以上の生徒はみんな黙っていてもコンサートに行くことになっていた。唯一の例外はキャリー・スローンだった。キャリーの父親は、小さい女の子が夜中のコンサートに行くことに関して、マリラと同じ考えを共有していた。キャリー・スローンは、午後の授業の間、ずっと文法の教科書に隠れて声を殺して泣きぬれていた。コンサートに行けない人生なんか何の意味もないわ。
アンにとって、本当の興奮は、学校から開放されたところから始まり、コンサートという山場で最高潮に鳴り響くまで、クレッシェンドで次第に強くなっていくのだった。「完璧に上品なお茶」の時間を過ごし、その後、階上のダイアナの小部屋でさんざん着替えを楽しんだ。ダイアナはアンの前髪を流行の先端を行くポンパドゥール・スタイルにまとめ、アンはダイアナのリボンを技巧の限りを尽くして結んだ。後ろ髪の結い方は、少なくとも半ダースはああでもないこうでもないと試してみた。それでも最後には二人とも準備が整った。頬を真っ赤に染め、興奮で瞳が燃えていた。
実のところ、アンはほんの少し胸に痛みをおぼえずにはいられなかった。自分の地味で黒っぽい房のついたベレー帽と、格好悪いふくらんでいない袖の、生地反を使った自家製コートに対し、ダイアナは粋な柔毛の縁なし帽と、流行の可愛いジャケットで、全く対照的である。だがそこでアンは考え直した。あたしには想像力があるんだし、それを使わない手はないわ。
そのうち、ダイアナのいとこ達がニューブリッジのマレイ家からやって来た。全員がひしめきあって、一台の大型の箱橇の麦わらのマットと毛皮のひざ掛けの中にようやく収まった。公会堂へ行き着く間、アンは嬉しくてしょうがなかった。サテンのように滑らかな道を滑って行くと、凍った雪が橇の下でパリパリいうのが聞こえてきた。そして、ひたすら圧倒的な日没。雪白の丘とセント・ローレンス湾の紺青の海がこの素晴らしい場面を取り囲んで、巨大な杯いっぱいの真珠とサファイアに、溢れるほどワインと炎を注いだようだった。橇の鈴の音と遠い笑い声が、森のエルフ(小妖精)達の陽気なざわめきのように、四方から響いてきた。
「ねえ、ダイアナ」アンが囁いた。毛皮のひざ掛けの下で、ダイアナのミトンに包まれた手をギュッと握っていた。「何もかも美しい夢の光景みたいじゃない? あたし、いつもと同じに見える? いつもと全然違って感じるの、きっと顔に出てるんじゃないかな」
「すっごく素敵よ」とダイアナ。いとこの一人に褒めてもらったばかりだったから、自分もそうしなくちゃと思ったのだ。「顔色もとっても良いし」
その夜のプログラムは、少なくとも聴衆の一人にとっては「ゾクゾク」の連続だった。アンがダイアナに断言したところによると、一つのゾクゾクが終わっても次のはもっとゾクゾクなのだった。プリシー・アンドリューズが真新しいピンクのシルクのブラウスで装い、ツルッとした色白な首には真珠の首飾り、髪には本物のカーネーションを差して現われ――噂では、先生がプリシーのためにわざわざ町から買い求めたと囁かれていた――「ぬめる梯子を登り行く、闇につつまれ、一筋の陽も射しはしない」と、アンは体を震わせ思うままに同情に浸った。聖歌隊が「遥か天から優しいヒナギクを望み」を合唱すれば、アンは天井を見つめ、天使が舞い飛ぶフレスコ画を想い描いた。サム・スローンが「ソッカリーはいかにして雌鳥に卵を抱かせたか」を身振りを交えて説明し始めると、アンは大笑い。周りの人もつられて笑った。アンのために一緒に笑ってあげたのであって、出し物が面白いせいではなかった。アヴォンリーにあっても、この出し物は既に陳腐化していたのだ。フィリップス先生はマーク・アントニーの演説を朗誦した。シーザーの遺体を前にして、心を揺るがす声音を披露すると――プリシー・アンドリューズを一文終わる毎に見つめながら――アンは、もしたった一人でもローマ市民が先頭に立っていたならば、その場で自分も蜂起に応じたに違いないと感じた。
プログラムのうち、たった一つだけ興味を引かないものがあった。ギルバート・ブライスが「ラインのほとりのビンゲン」を暗誦すると、アンはローダ・マリーが図書館から借りた本を取り上げ、ギルバートの出番が済むまで読み続けた。アンはじっと堅苦しく強ばった姿勢で身じろぎもしなかったが、一方のダイアナは拍手しすぎで手が痛いほどだった。
家に戻った時には十一時になっていた。遊興に時を費やし既に堪能していたが、それでもコンサートについて再度語り返すという、格別に素敵なお楽しみはまだこれからだ。みんな寝入っているようで、家中の明りが消え、シーンとしていた。アンとダイアナはつま先立ちでそっと客間に入り込んだ。そこは細長い部屋で、客用寝室へ出入りできるようになっていた。まだ気持ち良いくらいの温みがあり、暖炉の残り火が格子の中から部屋をぼんやりと照らしていた。
「着替えはここでしましょうよ」とダイアナ。「暖かくて良いものね」
「ほんとに楽しかったわよね?」と溜め息をつくアン。感激の余韻に浸っている。「きっと素晴らしいわね、壇上で暗誦できたら。あたし達もいつか暗誦を頼まれたりすると思う、ダイアナ?」
「ええ、もちろんよ、そのうちにね。高学年の生徒はいつでも引っ張りだこよ。ギルバート・ブライスなんか何度も出演してるわ、あたし達より二歳年上なだけなのに。そういえば、アン、よくギルバートの暗誦を聞いてないふりできたわね? 暗誦の中でこういう行があったでしょう、
『今一人、妹ならざる者あり』
ギルバートったらしっかりアンを見てたわよ」
「ダイアナ」と威厳たっぷりのアン。「あなたはあたしの心の友だけど、あんな人の話はして欲しくないわ。ベッドに入る準備できた? ね、競争しましょう、誰が先にベッドに着けるか」
この提案にダイアナも乗った。二つの白装束で覆われた姿が、長く伸びた部屋を突っ切って飛んで行った。客間のドアを抜け、二人同時にベッドに飛び乗った。とその時――何か変なものが――二人の下でうごめいて、喘ぎ声と叫び声が続き――変な何かはくぐもった声でこう言った。
「神様!」
アンとダイアナは二人ともどうやってベッドを飛び降り、部屋を抜け出したか覚えていなかった。ようやく覚えていることといったら、狂気のようにバタバタと逃げ出したことと、つま先立って震えながら階段を登ったことだけだった。
「ねえ、誰なのあれ――何なのあれ?」と囁くアン。寒さと恐ろしさで歯の根が合わない。
「ジョセフィン伯母さんだったわ」とダイアナ、笑い過ぎて息を切らしている。「そうなのよ、アン、ジョセフィン伯母さんだったのよ、何であそこにいたんだろう。あ~あ、伯母さんきっと猛烈に怒るわ。まずいわね――ほんとにまずいわ――だけど、こんなに可笑しいこと聞いたこと無いわよね、アン?」
「そのジョセフィン伯母さんって誰なの?」
「お父さん方の伯母さんで、シャーロットタウンに住んでるのよ。すっごい年寄りなの――とにかく七十歳は過ぎてるわ――あの伯母さんが子供だったことがあるなんて、信じろっていう方が無理ね。遊びに来ることになってたんだけど、でもこんなに早いなんて。ほんと四角四面で堅苦しくって。今度の事ですっごく怒るわ、絶対よ。それはそうと、あたし達ミニー・メイと寝なくちゃね――驚くわよ、この子蹴とばすんだから」
ミス・ジョセフィン・バリーは翌朝早めの朝食には現われなかった。バリー夫人は二人の少女に優しく微笑みかけた。
「二人とも夕べは楽しかった? 戻って来るまで起きてるはずだったんだけど。ジョセフィン伯母さんがいらしたから、結局二階で寝てもらうことにしたと伝えたかったの。だけど疲れてたので寝入ってしまって。伯母さんをお騒がせしなかったでしょうね、ダイアナ」
ダイアナは沈黙したまま切り抜けたが、テーブルごしのアンと、昨晩のやましい出来事を思い出してこっそり笑いあった。朝食後、アンは急いで帰宅したので、バリー家の騒動のことは、とんと知らず仕舞だった。ようやく知ったのは、午後遅くになってマリラに用を頼まれてリンド夫人のところに行った時のことだった。
「それで夕べあんたとダイアナで、可哀想にミス・バリーお婆さんを死ぬほど脅かしたんだって?」リンド夫人が手厳しくこう言った。その割にその目は興味津々で輝いていたが。「ちょっと前にバリーさんがカーモディーに行く途中で寄っていらしたんだよ。酷く気をもんでいたようだったね。ミス・バリーお婆さんは、今朝起きた早々、癇癪を爆発させたんだそうだよ――ジョセフィン・バリーの癇癪は冗談じゃ済まないからねぇ、いや本当だよ。ダイアナは口もきいてもらえないんだとさ」
「ダイアナが悪いんじゃないの」とアンは深く悔いていた。「あたしが悪かったの。誰が先にベッドにもぐり込めるか、競争しようって言ったのはあたしなのよ」
「やっぱりね!」とリンド夫人、予想がズバリ的中してご満悦である。「こんな事を考えつくのはあんたしかいないと分かっていたよ。それにしても大ごとになったもんだ、全く。ミス・バリーお婆さんは一月お客になるつもりだったらしいが、もう一日だって我慢できやしない、明日は日曜でもさっさと町に戻るからね、と万事この調子だもの。できることなら、今日にも戻りたかったらしいけど。ダイアナのために、一学期分の音楽の授業の学費を払う約束をしてたっていうのに、それが今じゃ、こんなお転婆には何一つしてやるもんかね、だよ。さてさて、今朝はそれこそ大した見物だったろうね。バリーの一家は、さぞかしこき下ろされたことだろうさ。ミス・バリーお婆さんは裕福だからね、ここでご機嫌を取っておきたい所だろう。もちろん、バリーさんはそんなこと一言も言わなかったさ、だがね、あたしほど人を見る目があると、そんなことはお見通しなんだよ、全く」
「あたしって不幸をもたらす子なんだわ」アンが嘆いた。「いつでも厄介事に巻き込んでしまうの、自分も仲の良い友達も――その人達のためなら、我が心臓の血を流しても構わないほどなのに――みんなに迷惑をかけてしまうんだわ。どうしてそうなっちゃうか分かる、リンドさん?」
「それはだね、あんたがあんまり考え無しで、何でも気の向くままだからだよ、分かるかい、そういうことさ。いつでも何かが頭の中を走り回って止まりゃしない――言うこと為すこと、思いついたら即実行、いっときも考えようとしないんだからね」
「そうだけど、でもそれが一番良いのよ」と抗弁するアン。「何か頭に浮かぶとするでしょ、例えばすごく面白いこととか、そしたらそれを実行すべきよ。ちょっと待てよ、なんて考え直してちゃ、つまらなくなるだけ。そんな風に感じたことないの、リンドさん?」
そう、ないのだった、リンド夫人はそんな経験はなかったのだ。やれやれと夫人は頭を振った。
「少しは考えるってことを覚えないとね、アン、全くさ。あんたにはこの諺が杖代わりになるよ、『飛ぶ前に良く見よ』って言うだろ――特に客間のベッドに飛び込む前にはね」
リンド夫人は自分の軽い冗談にひとしきり笑い興じていたが、一方アンは考え込んでしまった。アンにしてみれば、現在の状況の何処にも笑うべきところは見あたらず、深刻そのものにしか映らなかった。リンド夫人宅を後にすると、アンは凍りついた畑を横切って果樹園坂へと向かって行った。ダイアナが台所のドアまで出迎えた。
「ダイアナのところのジョセフィン伯母さん、あの事でとっても怒ってるんじゃない?」アンがひそひそ訊いた。
「そうなの」と答えるダイアナ。クスクス笑いを押し殺しながら、肩越しに閉じた居間のドアの方を気遣わしく振り返った。「あんまりカッカするから今にも踊りだしそうよ、アン。もう、とんでもなく怒ってたわよ。伯母さんに言わせると、あたしの行儀は今まで見てきた女の子の中で最低だし、お父さんもお母さんもあたしをこんな風に育ててしまって恥ずかしいと思うべきなんだって。もう泊まりに来るつもりはないって言われたけど、あたしは全然平気、気にならないわ。でもお父さんもお母さんも気にするのよね」
「何であたしが悪いって言わなかったのよ?」アンが咎めた。
「そんなことするはずないでしょ?」と誇り高きダイアナは相手にしない。「あたしは告げ口なんかしないの、アン・シャーリー、それに第一、悪かったのはあたしも一緒なんだもの」
「じゃ、あたしが説明して来るわ」アンが決心した。
ダイアナは目を丸くした。
「アン・シャーリー、ダメよ、そんなことしちゃ! だって――生きたまま食べられちゃうわ!」
「脅かさないでよ、もう充分怖いんだから」アンが情けなく言った。「大砲の口に潜り込む方がましなくらいなのよ。でも、あたしはしなくちゃならないんだわ、ダイアナ。あたしが悪かったんだし、だから告白しなくちゃ。告白の経験は豊かだしね、運が良いわ」
「あっそ、伯母さん、今部屋にいるわよ」とダイアナ。「どうしてもって言うなら、入れば。あたしそんな勇気ないわ。それに、何も変わらないと思うし」
この暖かい気遣いを胸に、アンは巣穴のライオンの髭を引っ張った――即ち、決死の覚悟で居間のドアまで歩み出で、腰の引けたノックをした。とげとげしい「お入り」の返事が返ってきた。
ミス・ジョセフィン・バリーは、痩せぎすで、堅苦しく、頑固な人で、暖炉のそばで猛烈な勢いで編み物をしていた。怒りは未だにしつこく後を引いており、金縁眼鏡ごしに、両目がギラギラしていた。椅子に座ったままくるりとこちらを向くと、予期したダイアナではなく、そこに見えたのは真っ青な顔の女の子だった。大きな瞳に溢れんばかりに浮かんでいるのは、やけっぱちの勇気とすくみ上がるような恐怖だった。
「あんた誰だい?」と高飛車なミス・ジョセフィン・バリー。儀礼も何もあったものでは無い。
「あたし、グリーン・ゲイブルズのアンです」小柄な訪問者は震えながらそう言った。両手を組みあわせた、いつもの仕草である。「それで、あの、告白しに来たんですけれど」
「告白? 何を?」
「つまり、夕べお休みの所、ベッドに飛び乗ってしまったのは、あたしが悪かったってことをです。あたしが言い出した事なんです。ダイアナはあんなことは考えもしませんでした、本当です。ダイアナはとてもおしとやかな女の子なんです、ミス・バリー。これでもうお分かりのはずです、ダイアナを責めるのは間違っているんです」
「ほう、分かるはずねえ、へえ? 少なくともダイアナも飛び乗った事は確かだろうに。行儀の悪い事この上ないよ、ご立派な家だこと!」
「あたし達、ちょっとふざけてみただけなんです」アンは食い下がった。「許してくれても良いじゃありませんか、ミス・バリー、こうして謝っているんですから。それと、他のことはさておき、お願いですから、ダイアナを許して音楽の授業を受けさせてあげて下さい。ダイアナは音楽の授業を受けたくてしょうがないんです、ミス・バリー、あたしには痛いくらい分かるんです、何か気になってしかたがないけど、手に入らない気持ちがどういうものだか。もし怒らなくては気が済まないなら、あたしを怒って下さい。あたしは以前から人に怒られることに慣れてるんです。だからダイアナより巧く耐えられると思うし」
この頃には、この老婦人の視線からトゲトゲした様子がかなり無くなっており、面白がって輝く瞳がとって代わっていた。それでも婦人は、まだ声に厳しさを残しておいた。
「ふざけてみただけなんて言い訳になりゃしないよ。あたしが若い頃にゃ、女の子がそんなおふざけして良かったことなんか無いよ。あんたにこの気持ちが分かるかい、長くて体にこたえる旅が終わって、気持ち良くぐっすり寝ていたところを叩き起こされたんだからね、大きななりの女の子が二人も自分の布団に飛び乗って来たんだよ」
「確かに分かりませんけど、あたし、想像ならできます」アンがここぞとばかりに言った。「とてもお騒がせしたことは分かってます。でもですよ、あたし達の側にも事情があるんです。ちょっとでも想像力の持ちあわせはあります? ミス・バリー。もし、そうなら、少しはあたし達の立場になってみて下さい。あのベッドに誰か寝てるなんて知らなかったから、あたし達怖くて死ぬかと思ったんですよ。もう恐ろしいなんてもんじゃなかったもの。それに、寝ても良いって言われてたのに、客用寝室で寝られなくなったし。あなたは客用寝室なんて寝慣れてるんでしょう。でも想像してみて下さい、自分ならどう感じるか、もし自分が孤児の女の子で、こんな光栄なことは初めてだとしたらどう感じるかって」
この時には既に先ほどの刺々しさは微塵もなくなっていた。ミス・バリーがなんと笑いだしたのだ――笑い声を聞いてダイアナは、部屋に入らず台所で押し黙って心配しながら待っていたのだが、ひと安心して息を吐きだした。
「錆びかかった想像力で間に合えば良いが――その昔使ったっきりなんでね」と婦人。「いや全く、あんたの主張もあたしのに負けず劣らず共感できるよ。何事も見方を変えればってわけだ。こっちに座んなさい、あんたの事を聞かせておくれ」
「申し訳ないんですけど今は無理です」とアンが固辞した。「あたしはお話したいんですよ、なぜって面白い方みたいだし、ことによると同じ波長の人かもしれないから。見かけはそんな風に見えないんですけど。でも、帰らなくちゃいけないんです、ミス・マリラ・カスバートが待ってますので。ミス・マリラ・カスバートはとても親切な方で、あたしを引き取って、きちんと育てて下さるんです。ただ、全力を尽くしてるんですけど、それでもなかなかうまく行ってないんです。あたしがベッドに飛び乗ったからって、ミス・カスバートを責めないで下さいね。でも帰る前に、ダイアナを許して予定通りアヴォンリーに滞在してもらえるかどうかだけは、どうしても訊いておきたいんです」
「たぶんそうすることになるさ、もしあんたがここに来て時々話し相手になってくれるんならね」とミス・バリー。
その晩ミス・バリーは、ダイアナに銀のブレスレットを贈り、一家を担う年長者には旅行カバンから詰め込んだ荷を戻した旨を語った。
「ここに居ることにするよ。あのアン嬢ちゃんのことをもっと良く知りたくてね」と明け透けに言った。「あの子は面白い。この歳になると面白い人間ってのが貴重品でね」
この一件を聞きつけたマリラのコメントはたったこれだけであった。「言わんこっちゃない」マシューに当てつけて言ったのだった。
ミス・バリーは優に一月以上も滞在していた。いつもよりずっと人当たりが良い客人だった。アンといるといつも機嫌が良かったからである。二人とも今では固い友情を取り結んでいた。
ミス・バリーが帰る時、こんなことを言い残した。
「覚えておきなさいよ、ねえ、アン嬢ちゃん、町に来たら必ずあたしを訪ねること、うちで一番の客用中の客用寝室のベッドに休んでもらうからね」
「ミス・バリーは結局、同じ波長の人だったのよ」アンがマリラに明かした。「見た目はそうじゃないんだけど、でも実はそうなの。初めは分からないのよ、マシューの時と違うわね、でもしばらくするとそれが見えてくるのよ。同じ波長の人は、あたしが考えてたより珍しいってわけじゃないんだわ。これは素晴らしい経験ね、この世界にはたくさんそういう人達がいるのが分かったんだもの」