マリラが膝の上に編みかけを置いて、椅子の背にもたれかかった。目が疲れた。今度町に行ったついでに、眼鏡を作り替えてもらわないといけないだろうか、近頃なにかと疲れ目になりやすくなってるもの。
外はすっかり暗くなっていた。既に半ばを過ぎた十一月のある日、グリーン・ゲイブルズに黄昏が帳を降ろしていた。一つだけ台所にともった光が、ストーブの中で赤い炎をパチパチ踊らせていた。
ストーブの前の敷物にトルコ風にあぐらをかいたアンが、楽しそうに真っ赤に燃え盛る輝きをじっと覗き込んでいる。燃えているのは百年を経た夏の日光なんだわ、カエデの薪から蒸留されたエッセンスなのよ。さっきまで読んでいた本は床の上に滑り落ちるにまかせ、今や夢の中を彷徨っていた。少し開いた唇に笑みが浮かんでいる。まばゆく光り輝くスペインの幻想の城が、かすみと虹の彼方から鮮やかな姿で浮かび上がってきた。不思議な心奪う冒険の数々が、雲の向こうの世界で次々と巻き起こる――どんな危険が待ち受けようとも、いつだって終わりはめでたしめでたし。決して現実の世界のように、厄介事に巻き込まれたりはしないのだ。
そんなアンをマリラは目を細めて見つめた。普段は決して顔に出したりしない、暖炉の輝きと闇が柔らかに混ざり合う時だけに見せる優しさだった。言葉にするとか、表情に表すとか、気楽に表現すれば良いだけなのに、そういう事はマリラにはどうしても身に付かないのだった。しかし身に付いたこともある。目の前のほっそりした灰色の瞳の少女を愛する事を憶えた。口には出さないが、それだけに一層心の底から激しく愛するのだった。いや実際、甘やかしすぎるのではと不安になるほどだった。アンを愛しく思うにつけ、誰であれ人間相手にこんなに入れ込むなんて、ずいぶん罰当たりなのではと落ち着かない気分になった。だからたぶんその償いとして、無意識の内に余計口を酸っぱくしてきつく当たってしまうのだろう。もし大事な子でなければ、そこまでしなかったに違いない。それが功を奏して、アンはマリラが自分の事を気にかけていることに気づいていなかった。時々、どうしてマリラって何をしても喜んでくれないし、こちらの気持ちを汲んだり事情を分かってくれたりできないんだろう、と思わずにいられなかった。ただそういう時はいつも、マリラへの恩義を思い出してはそんな自分を叱るのだった。
「アン」マリラが出し抜けに言った。「午後にステイシー先生がいらしたわよ、あんたはちょうどダイアナと出かけていたけど」
ハッとしたアンは、自分だけの別世界から急に連れ戻され、溜め息をついた。
「先生が? せっかく来てもらったのに居なくて悪いことしたわ。なんで呼んでくれなかったの、マリラ? ダイアナと一緒に向こうの呪いヶ森にいたのよ。あそこは今が素敵な頃なの。森の中の小さな生き物達がね――例えばシダでしょ、サテン・リーブにゴゼンタチバナ――みんな眠りについて、誰かが落ち葉の毛布の下に、春が来るまでしまい込んだみたい。虹のスカーフを巻いた、ちっちゃな年寄りの妖精の仕業かも。月夜の晩につま先立ちでこっそり来て隠しちゃったのね。ダイアナはそういうことはあまり言わなくなったけど。ダイアナね、未だにお母さんに叱られたことを気に病んでるのよ、呪いヶ森にお化けがうろついてるって想像したもんだから。ダイアナにとっては良い災難だわ。想像力がしおれちゃったもの。リンドさんは、マートル・ベルがしおれかかってるって言ってるわ。ルビー・ギリスになんで元気がないのか聞いてみたら、ボーイフレンドに振られたんじゃないの、だって。ルビー・ギリスってボーイフレンドのことしか考えてないし、毎年ひどくなる一方だわ。ボーイフレンドも結構だけど、いつもそんな話ばかりじゃね、でしょ? 最近、ダイアナもあたしも真剣に考えてるんだけど、二人とも結婚なんかしないで、素敵なオールド・ミスになって一緒にいつまでも暮らすことにしようかって。ダイアナはまだ決心がつかないでいるわ。もしかすると、ワイルドで粋な遊び人と結婚して、その人を正しい道に戻してあげる方がずっと立派な事じゃないかって思ってるのよ。このごろダイアナと話すと、難しい話題になるのよね。昔と違って大人になってるんだから、子供っぽい話題は似合わないのよ。なんだか衿を正す思いだわ、このあたしがもうすぐ十四歳だなんてね、マリラ。先週の水曜日に、ステイシー先生があたし達ティーンエージャーの女の子全員を小川の所まで連れて行って、ティーンの心得について話してくれたの。これからの時期はとても重要だから、どんな考え方を形作るか、どんな理想を持つか、いくら注意しても注意し過ぎることはないんだって。二十歳になるまでにあたし達の性質が作り上げられて、将来の生き方の基礎が出来上がるからなの。もし基礎が不安定だと、その上に何を作ったとしても本当に意味のあるものにはならないんだそうよ。学校の帰り道で、ダイアナとそのことについて話し合ったわ。二人とも真剣な気持ちだったわ、マリラ。それで二人で決めたのよ、これからしっかり気をつけて立派な習慣を身に付けること、何でも学んでいくこと、できるだけちゃんとした人になることって。そしたら二十歳になるまでに、あたし達の人格も年齢に相応しく磨かれてるわよ。あたしもいつかは二十歳になるなんて、考えてみると驚いちゃうわよね、マリラ。すっごく年をとって大人みたいなんだもの。それで、午後にステイシー先生が来たのはなぜ?」
「あたしもそれを話そうとしていたのよ、アン。ただ、あんたの話にはどこにも口を挟む隙間が見つからなくてね。先生の用件はあんたの事だったのよ」
「あたしの事?」アンの顔が少し青ざめた。それから顔を赤くしてこう叫んだ。
「あ、何を言われたか分かった。あたし話すつもりだったのよ、マリラ、本当にそうするつもりだったけど、忘れてたの。昨日の午後、授業中にベン・ハー読んでるのをステイシー先生に見つかっちゃったの。本当はカナダ史を勉強してなくちゃいけなかったんだけど。ジェーン・アンドリューズに貸してもらったのよ。お昼休み中ずっと読んでたら、戦車競争の場面でちょうど授業が始まっちゃって。どうなったか知りたくて我慢できなかったの――ベン・ハーが必ず勝つだろうって予想はついてたけどね、だってもし負けたりしたら正義は勝つって理想が成り立たないじゃない――だから歴史の教科書を机の蓋の上に広げておいて、見えないようにベン・ハーを机と膝の隙間に置いたのよ。こうしておけばカナダの歴史を勉強してるように見えるじゃない、で、あとはずっと好きなだけベン・ハーを読めるってわけ。本の事しか頭になかったから、ステイシー先生が教壇からこっちに近づいて来るのに全然気がつかなかったの。ハッと顔を上げたら、先生があたしを見下ろしてるんだもの、授業中にいったい何してるのって顔だったわ。何て言って良いか分かんないくらい恥ずかしかったわ、マリラ、特にジョージー・パイにクスクス笑われた時はね。ベン・ハーは没収されたけど、ステイシー先生にはその場で特に何も言われなかったわ。休み時間に残されてお説教されたけど。あたしの悪い点は二つあるんだって。一つは勉強するべき時間を無駄にしたこと、もう一つは先生を騙したこと。歴史の勉強をしてる振りをして、実は小説を読んでたからなの。言われるまで気がつかなかったわ、マリラ、あたしのした事って人を騙すことだったのよ。ショックだった。うんと泣いて、ステイシー先生、許して下さい、もう二度としませんからって謝ったわ。それから罰として、ベン・ハーをまるまる一週間見えないところにしまっておいて、戦車競争の結果だけちらっと読んだりもしないからって。だけど、そんな事はしなくて良いわってステイシー先生に言われて、あとは無罪放免で許してもらったのよ。なのに先生ったらひどい、わざわざ家まで来て結局マリラに告げ口しちゃうんだもん」
「ステイシー先生はそんな事一言もおっしゃらなかったわよ、アン。あんたにやましい所があるからそう思うんでしょうに。物語本を学校に持ち込んだりするからよ。大体、あんた小説の読み過ぎなんだから。あたしが子供の頃は、小説なんか目にするのもいけない事だって言われたものだわ」
「そんなぁ、どうしてベン・ハーがただの小説なの、あんなに信仰について語ってる本なのに?」と不服そうなアン。「そりゃあ、ちょっと血湧き肉踊るところがあり過ぎて、日曜向きの読み物とは言い難いわよ、だからあたしは日曜以外の日に読むことにしてるわ。それから、今は不適切な本は一冊も読んでないもの。読んでるのは、ステイシー先生やアランさんがお勧めの、十三歳九ヶ月になった女の子が読むべき本だけよ。これはステイシー先生と約束したことなの。この間、あたしが『謎の化け物屋敷の恐怖』という本を読んでるのを、たまたま先生が見かけたのよ。ルビー・ギリスが貸してくれたんだけど、これがね、ああ、マリラ、読み始めると止まらないのよ、背筋がゾ~ッとしたわ。あたし、体中の血が凍っちゃった。だけどステイシー先生は、とても下らないし不道徳な本だって。こうした類いの本はもう読まないように約束してくれないって言われたの。こういう本はもう読みませんって約束するのは別に構わないんだけど、七転八倒の苦しみだったのは結末を読まないで本を返さなきゃならなかったこと。それでも、大好きなステイシー先生のために、この試練を耐え忍んだのよ。これ、本当に奇跡のようだわ、マリラ、心から誰かに喜んでもらいたいと思うと、何だってできちゃうんだから」
「さぁて、ランプをつけて仕事にした方が良さそうね」とマリラ。「ステイシー先生が何をおっしゃったか、聞きたくないって言うんじゃしょうがない。何より自分のおしゃべりに聞きほれていたいんだものね」
「ああっ、そんな事ない、マリラ、どうしても聞きたいわ」と泣きつくアン。「もう一言もしゃべらないわ――絶対。おしゃべりなのは分かってるけど、本気で直そうとしてるんだからね。それでもしゃべり過ぎるんだわ、だけど、たくさんしゃべりたい事があるのに、これでも抑えてるのよ、そう考えれば大した物よね。お願い、教えて、マリラ」
「まあ良いわ、ステイシー先生は特別クラスを作るんだそうよ、クイーン学院の入試に備えて勉強したい生徒達だけでね。授業が終わってから別枠で一時間だけ課外授業をするんだって。先生がマシューとあたしに会いに来られたのは、あんたを参加させる気があるか確認するためなのよ。あんたはどうしたいの、アン? クイーンに行って教師の免許を取るつもり?」
「ああ、マリラ!」アンは膝をついて両手を組みあわせた。「学校の先生になりたいってずっと夢見てきたのよ――ずっとって、ここ半年くらいだけど、ルビーとジェーンが入試勉強の話をし出してからよ。でもあたしは何も言わなかったわ、なぜって、そんなの全然意味ないと思ったんだもの。あたし先生になりたい。でもすご~くお金がかかるんじゃない? アンドリューズさんの話では、プリシーを卒業させるまで百五十ドルかかったんだって、それにプリシーは幾何の落第生じゃなかったわ」
「そんな事はあんたが心配することじゃないわ。マシューとあたしがあんたを育てるって決めた時に、できる限りのことはしてあげるつもりだったし、ちゃんと教育を受けさせようって考えてたんだから。女の子だって自立して生活費を稼げるようにならなくちゃ。必要あるかどうかじゃなくね。あんたはいつでもここに帰ってこれるの、グリーン・ゲイブルズはマシューとあたしがいる限りあんたの家なのよ。だけど何が起こるか分からない世の中だから、備えておくに越したことはないわ。だからもしあんたが入りたければ、クイーンのクラスに入っても良いのよ、アン」
「ああ、マリラ、ありがとう」アンはマリラの腰にギュッと手を回して、ジッと顔を見上げた。「マリラとマシューにはものすごく感謝してるわ。だからあたし一生懸命勉強する、二人の期待に応えたいの。今のうちに言っておくと、幾何は望み薄よ、でもそれ以外なら、頑張ればいけると思うわ」
「あんたならきっと巧くやれるわ。ステイシー先生が、賢くて勉強熱心だっておっしゃってたもの」何があってもマリラはアンにステイシー先生の褒め言葉をそのまま聞かせるつもりはなかった。そんなことをしたら、アンが天狗になってしまうから。「そんなに慌てることないのよ、何も体を壊すほど根を詰めて勉強しなくても大丈夫だわ。急がなくて良いの。入試まであと一年半も余裕があるんだから。でも、勉強を始める時期を逸しないことと入念な基礎固めは重要よ、ステイシー先生がそうおっしゃってたわ」
「これで今までよりずっと勉強を頑張ろうって気になるわ」と幸せを噛みしめるアン。「人生に目標ができたんだもの。アラン牧師さんがいつもおっしゃるもの、人は誰でも人生に目標を持つべきで、その目標に向かって真摯に突き進まなくてはいけないのよ。ただし、その目標が価値あるものであるか、まず確かめなくてはいけないんだって。ステイシー先生みたいな先生を目指すのは、価値ある目標と言えるわよね、マリラ? 教師ってとても高貴な職業だと思うわ」
そうこうするうちに、クイーン組が編成された。ギルバート・ブライス、アン・シャーリー、ルビー・ギリス、ジェーン・アンドリューズ、ジョージー・パイ、チャーリー・スローン、それにムーディー・スパージョン・マクファーソンという顔触れである。ダイアナ・バリーはその中には含まれなかった。両親にはダイアナをクイーンに進ませる気がなかったのである。これはアンにとって大ショックだった。そんなことはありえなかった。ミニー・メイが喉頭炎に罹ったあの晩から、何をするにもアンとダイアナは一緒で、引き離されたことなどなかったのだ。夕方になり、クイーン組の生徒だけが課外授業を受けるために学校に居残った時、アンの目に写ったのは、他の生徒と一緒に嫌々帰っていくダイアナの姿だった。これからは一人きりで樺小径とスミレの神殿を通って帰ることになるのだ。席にじっとしているのがやっとだった。席を蹴って仲良しの後を追い駆けられたらよかったのに。喉に塊が込み上げてきた。慌ててラテン語の文法書を立て掛けると、ページの後ろに逃げ込んで滲んだ涙を隠した。間違ってもあってはいけないのよ、ギルバート・ブライスやジョージー・パイなんかにあたしが涙する姿を見られるだなんて。
「だけど、ああ、マリラ、あたしあの時痛感したの、あの時味わったものこそ、死に別れのむごさなんだって。これ、アランさんが先週の日曜に礼拝でおっしゃってた事だけど、ダイアナが独りぼっちで教室を出ていく時に、そんな気がしたの」その晩、アンは悲嘆にくれながらそう語った。「もしダイアナも一緒に入試勉強ができたら素晴らしいのになあって思ったわ。でもこの不完全な世の中じゃ、完璧など有りえないんだもの、これはリンドさんの言う通りね。リンドさんと居ると時々気分が滅入ることもあるけど、言ってることはどれもこれも真実そのものよ。でね、クイーン組はとっても面白くなりそうだわ。ジェーンとルビーも先生の免許を取るためだけに勉強するんだって。それ以上は望まないのよ。もし試験に受かったら、ルビーは二年間だけ教えて、結婚するつもりなの。ジェーンは、人生を全て教職に投げ出す覚悟だから、何があっても結婚はしないんだって。なんでも、教師なら教えた分だけ給料をもらえるけど、夫からは何も収入が期待できないかららしいわ。夫っていうのは、卵やバターで稼いだお金から、自分の働いた分が欲しいなんて言おうものなら、犬みたいに唸ってぶつぶつ不平を言うんだそうよ。きっとジェーンがそう言うのは、悲しい経験があったからだわ。だってリンドさんから聞いたんだけど、ジェーンのお父さんってとにかく気むずかしいし、ミルクから二回もクリームをすくってもまだ足りないくらいのケチなんだって。ジョージー・パイは教養を身に付けるために大学に進学するつもりらしいわ、自分で稼がなくちゃいけないほどお金に困ってないんだって。他にもこう言ってたわ、もちろん他人の情けにすがって生きてる孤児ならこうはいかないでしょうけど――そういう人達はあくせく働かないといけないものね、だそうよ。ムーディー・スパージョンは牧師になる気なの。あの名前に似合う職業は牧師以外にありえないって、リンドさんがいつも言ってるけど。ムーディー・スパージョンには悪いけどね、マリラ、あの子が牧師になるなんて思うとホントに可笑しくって。あの子おかしな顔なの、丸顔で大きな顔でね、青い目が妙に小さいし、帽子の縁みたいに耳が突きだしてるんだもの。だけどもしかすると、大人になったらもっと知的な顔つきになるかもね。チャーリー・スローンは政治の世界に入って議員になるんだって。でも、リンドさんは絶対成功しないって言ってた。スローン家はみんなばか正直だし、近頃ではうまく立ち回れる政治家は悪人ばかりだからだそうよ」
「ギルバート・ブライスは何になるつもりなの?」アンがシーザーの本[訳注:ガリア戦記のこと]を手に取るのを見て、マリラが訊ねた。
「ギルバート・ブライスが何になりたいかなんて、知ってるわけないわ――大体そんなものあるのかしら」と小馬鹿にするアン。
今やギルバートとアンがライバル関係なのは公然の事実になっていた。かつてはライバル意識と言ってもかなり一方的なものだったが、ここにきてギルバートもアンのようにクラスで一番になろうと決心したのはもはや疑いなくなった。ギルバートはなかなかに手ごわい相手だった。言葉には出さなかったが、クラスの他のみんなはこの二人が周りを圧倒しているのを知っていたから、わざわざ張りあおうなどと夢にも思わなかった。
せっかく仲直りしようと謝ったのに、バリーの池の畔でアンに剣突を食わされたあの日以来、ギルバートは、さきほどのライバル関係に関する場合を除いて、アン・シャーリーなどという輩は眼中にないらしかった。他の女の子とは話をしたりからかったり、本やパズルを交換しあったりした。授業や勉強の計画について話し合ったり、時には祈祷会や討論倶楽部の帰りに送っていくこともある。だが、アン・シャーリーのことは完全に無視した。無視されてみるとアンにしても面白くなかった。頭をツンとして、別に気にならないわ、と心の中で言ってみても無駄なことだった。意地っ張りな性格の陰に隠れて、女心が大いに傷ついているのが分かっていた。もしまた先日の輝く水面の湖のようなチャンスがあれば、ずいぶん違った返事をするだろうことも。あっという間に、そう、アンにはあっという間に思えた、それに誰にも言えず一人悶々としていたのだが、これまでいだいてきたギルバートへの憎しみがすっかり消え去っていた――跡形もなく。今こそ憎しみをバネに戦う力を湧き起こさなくてはいけないというのに。何をしても憎しみが戻らない。今まで起こった事件や、忘れ得ぬ出来事があった時にどう感じたかを逐一思い出して、これまでいつも体中に溢れんばかりだった怒りを奮い起こそうとしたが駄目だった。池の畔のあの日が、怒りの発作が最後のきらめきを見せた最後の場面になったのだ。いつの間にかギルバートを許していたのね、あれはもう昔の話になってたんだわ。だけど今更遅いのよ。
ともかくギルバートや他の人はもちろん、ダイアナにだって心の中を知られちゃいけないの。だからあたしは後悔なんかしてない、あんなに居丈高で嫌な女でなければ良かったのに、なんてあたしは思ってない! アンは「自らの心を忘却の深淵に隠し」てしまおうと固く決意しており、まずは大変巧く実行したと述べておくことに留めよう。確かにアンはとても巧く気持ちを隠せた。ギルバートは見かけほど無関心ではいられなかったので、せっかく仕返しに軽蔑してみせても、アンが痛くも痒くもなさそうだからガッカリしていた。気休め程度に過ぎなかったが、チャーリー・スローンも不幸だったのがせめてもの救いだった。ちょっかいを出しては、容赦なく、相も変わらず、必要以上に肘鉄砲を食らっていたから。
そうした事を除けば、今年の冬は家事も勉強もまた楽しい、と思っているうちに過ぎ去って行った。アンにとっては一日一日が貴重で、今年一年というネックレスからこぼれ落ちる黄金のビーズのように、毎日が輝いていた。幸せで、やる気充分、いつだって面白い発見があった。学ぶべきことがあり、勝ち取るべき名誉があった。読みたい本もたくさんある。今度、日曜学校の聖歌隊で練習する新曲も待ち遠しい。アランさんと牧師館で過ごす楽しい土曜の午後。そして、いつしかグリーン・ゲイブルズにまた春が訪れた。今年もあたり一面に花が咲き誇る季節になったのだ。
そんなわけで、勉強にもちょっぴり気乗りがしなくなってきた。クイーン組だけが学校に居残って、他のみんなは新緑が眩しい小径や、森の木陰に続く道、牧草地の脇道へと三々五々に散っていくのだ。残った生徒達が窓から羨ましそうに外を眺めている。ラテン語の動詞もフランス語の練習問題も、どうしたものか味も素っ気もなくなっていた。身を切るような冬の間はあんなに素晴らしく見えたのに。アンやギルバートでさえ集中力が散漫になり、投げやりになってきた。だから学期が終わると、教える側も教わる側もどちらも心底喜んだ。さっきから楽しい休みが目の前にちらついている。
「それにしても、この一年というもの皆さんは大変良く勉強しました」休み前日の夕方、ステイシー先生が生徒達を前にしてそう言った。「これで、大変素晴らしい休みを楽しめる身分になったのです。明日からは家の中に閉じこもっていないで、戸外で思う存分遊んで構いませんよ。次の一年間をやり抜くために、健康に気を配って気力と体力を養っておいて下さい。来年度こそ雌雄を決する年ですものね――入試前の最後の年なのですから」
「来年も教えてもらえるんですか、ステイシー先生?」とジョージー・パイが訊いた。
ジョージー・パイは、普段から何でもズケズケと口にするタイプだった。今回に限っては、クラスのみんなはそんなジョージーに感謝した。恐くて誰もステイシー先生に訊けなかったのだが、みんなが訊きたかったことだった。学校中に、来年はステイシー先生がアヴォンリーに戻らないという噂が広まっていて、戦々恐々としていたのだ――噂では、実家の近くの小学校で教えないかという誘いがあって、それを受けたとか受けないとか。クイーン組一同が、固唾を飲んで先生の答えを待ち受けた。
「ええ、そのつもりです」とステイシー先生。「他の学校に行くことも考えましたが、結局アヴォンリーに戻ることにしました。本当言うとね、ここにいるみんなの事が気になって、このまま放っておく気にならなかったの。だから今年もアヴォンリーに残って、最後まで面倒見てあげるわ」
「やったぜ!」とムーディー・スパージョン。ムーディー・スパージョンはこれまで一度も自分の気持ちを見せたりしなかったので、このあと一週間ほどは、思い出すたびに顔がほてって落ちつかない日々が続いた。
「ああ、あたしすごく嬉しいです」とアン、瞳を輝かせている。「良かったわ、ステイシー先生、もし噂通り先生が戻ってこなかったら、ホントにガッカリだったと思うもの。もしアヴォンリーに代りの先生が来たら、きっと落ち込んで全然勉強する気が無くなるわ」
その晩、家に帰って来ると、アンは教科書を全部古いトランクに詰め込んで、屋根裏部屋に持って上がった。トランクに鍵を掛けて、鍵は毛布箱の中に放り込んでしまった。
「休みの間、学校の本は一切見ないことにしたの」とマリラに告げた。「今学期は一生懸命勉強したのよ、あの幾何だって、教科書の一巻目に出てくる命題を、どれも空で言えるまで読んで頭に叩き込んだんだから。もう記号が入れ替わっても大丈夫。現実的なことはもう飽き飽きしたから、夏の間は思う存分想像の花を咲かせるつもり。あ、心配しなくても大丈夫よ、マリラ。想像の花を咲かせると言っても、ちゃんと節度は守りますって。それはそうと、今年の夏は思いっきり楽しみたいな。だってもしかすると、あたしが子供でいられる夏はこれが最後なんだもの。リンドさんが言ってたわ、今年みたいなペースで背が伸びたら、来年はもっと長いスカートをはかなくっちゃいけないって。あんたときたら足と目玉ばかり目に付いちゃって、なんて言われたわ。長いスカートをはくようになったら、感じ方もそれなりにしなくちゃいけなくなるだろうし、品のある行動をしないとね。そしたら妖精を信じるのもやめないといけなくなるかも。だからこの夏は心の底から妖精を信じることにするわ。みんな今年はワクワクするような休みになりそうなのよ。もうすぐルビー・ギリスが誕生パーティーを開くことになってるし、日曜学校のピクニックと伝道コンサートが来月の予定なの。それからバリーさんが、そのうちダイアナとあたしをホワイト・サンズ・ホテルに連れて行くから、そこでディナーを食べよう、だって。あそこじゃディナーは夕方に食べるのよね。ジェーン・アンドリューズが去年の夏に一度お食事に行ったの。素晴らし過ぎて眩しいくらいなんだって。電燈とか花の飾り付けとか、泊まり客のレディーなんか素敵なドレスを着た人ばかりなのよ。ジェーンは、上流階級の生活を見たのは初めてだけど、死ぬまで忘れないって言ってたわ」
翌日の午後、マリラが木曜の援助会に来なかったわけを探りに、リンド夫人がやって来た。マリラが援助会に顔を見せないなんて、グリーン・ゲイブルズで何かがあったに違いない、と誰でも考えるのである。
「木曜にマシューがひどい心臓発作を起こしたのよ」マリラが理由を打ち明けた。「それでマシューを置いて出かけたくなかったの。ええ、そう、今はいつも通りよ。でもこのところ前に比べてちょくちょく発作が起きてるから心配なのよ。かかりつけの医者からは、興奮することは避けるようにっていつも言われてるし。それは気にするまでも無いわ。マシューがわざわざ興奮のきっかけを探し回ることなんか無いし、今までだって一度も無かったもの。ただ、無理に働かないでもらいたいんだけど、マシューは働かないでいられないのよ、息をするなって言うようなものだわ。さあ、こっちにどうぞ、それ預かるわ、レイチェル。お茶は飲んでいくでしょ?」
「そうね、せっかくだからお邪魔させて頂くわ」とレイチェル夫人。お茶に呼ばれる事以外は考えてもいなかったのだが。
レイチェル夫人とマリラが客間で気楽に世間話をしているところに、アンが入れ立てのお茶と焼き立てのビスケットを運んできた。ビスケットはサクサクと軽く、焦げ目がついていたりしない。さすがのレイチェル夫人もあらを探し出せない出来栄えだった。
「確かにアンは本当に良く出来た子になったわね」とレイチェル夫人がかつての意見を撤回した。沈む夕陽の中、小径の端まで送る途中でマリラにそう言った。「あんたもずいぶん楽になったろうに」
「あの子のおかげで助かってるわ」とマリラ。「今じゃホントにしっかりしてるし、頼りになるわよ。そそっかしいのは絶対直らないんじゃないかって気にしてたんだけどね。それはもう直ったわ。今は何をさせても、あの子に任せておいて何の不安もないのよ」
「あの子がここまで変わってしまうなんて、三年前に初めて顔を合わせたあの日には思いもしなかったわ」とレイチェル夫人。「やれやれ、あの子が起こした癇癪、忘れるもんですか! あの晩、家に帰ってトマスに言ったのよ、『見てなさいよ、トマス、マリラ・カスバートはいつか思いっきり後悔するから、早まった事をするんじゃなかったってね』だけどあれはあたしの読み違い。読み違いでホントに良かったわ。あたしはね、マリラ、自分の間違いをいつまでもウジウジと認められない人間とは違うの。ええそうですとも、あたしはそんなんじゃ無いわ、有り難いことよ。あたしには確かにアンを見る目がなかったけど、不思議でも何でもないでしょ、あの魔女っ子ときたら、何処の誰よりも変わってるし、予想もつかない事をやらかしてくれるんだものねえ、全く。他の子には当てはまる事も、アンにはからきし当てはまらないのよ。全くもって驚き桃の木じゃない、三年でよくぞここまでになったわ。それも殊に眉目かたちがね。ホントに可愛い子になったじゃない、まあ、あの手の色白で目が大きいタイプは、どっちかって言うとあたしの趣味じゃないけど。もっと元気があって色つやの良い方が好みなの、例えばダイアナとかルビー・ギリスみたいな。ルビー・ギリスはホントに目立つでしょ。でも、どういうわけか――自分でも何でか分からないんだけど、アンが奇麗な子の中に混じっている時なんかね、たいして美人じゃないんだけど、他の子が野暮ったくて飾り過ぎに見えるのよ――あの子は水仙って呼んでるけど、大輪の真っ赤なボタンの脇にひっそり咲いてる、真っ白な六月百合みたいなのよ、全くね」