グリーン・ゲイブルズのアン, ルーシー・モード・モンゴメリ

栄誉と夢


全ての試験の最終結果がクイーンの掲示板に貼り出されるその朝、アンとジェーンは街の通りを連れ立って学校の方に歩いていた。ジェーンはにこやかで幸せだった。試験は終わったし、少なくとも通ることは確かなのでこれでひと安心だった。それ以上ジェーンが悩むべきことは全くなかったのだ。天駆ける野心など持たなかったから、それに付きまとう不安に心乱されたりはしなかった。何事も、この世で何かを得ようとする者は、それ相応の対価を払わねばならない。高き望みを持つのは価値あることでも、望んだ結果を安く買い叩けるわけではなく、努力と自制というしかるべき税を払い、不安と落胆に耐えなくてはならない。青ざめて口もきけないアンだった。あと10分少しで、誰がメダルを勝ち取ったか、エイヴリーは誰なのか、知らされるはず。この10分が過ぎたあとも、意味のある「時」は流れているんだろうか。

「大丈夫、ともかく、どっちか一つはあんたが取るから」と、ジェーン。教授連だってそれほど不当ではないはずだし、きっと悪い結果にはならないだろうとジェーンには思えたのだ。

「エイヴリーの望みはないな」とアン。「みんなエミリー・クレイが取るって言ってる。あたし、みんな見てる前で掲示板まで堂々と歩いていって確認するなんてできない。情けないけど、そんな勇気ないの。まっすぐ女性用の控え室に行くことにする。発表を見るのは任せたわ、必ず結果を教えてよ、ジェーン。あたし達長い付きあいでしょ、お願いだからなるだけ急いで見てきて。もし落ちててもちゃんとそう言ってよ、回りくどい言い方はやめ。それから絶対に同情しないで。約束だよ、ジェーン」

ジェーンは厳かに約束した。が、その直後、こんな約束も必要がなくなった。二人がクイーンの入り口の階段を上がると、講堂は男子生徒でいっぱいで、みんなでギルバートを肩にかついで回りながら、大歓声を上げていた。「メダリスト、ブライスに万歳!」

一瞬、青ざめ気分が悪くなるアン。挫折感と失望が胸を鋭くえぐったつまり、あたしが負けて、ギルバートが勝ったんだ! あ~あ、マシューが残念がるだろうな――あたしが勝つってあんなに信じてたのに。

だがその時!

誰かが大声で叫んだ。

「エイヴリー受賞者、ミス・シャーリーに万歳三唱!」

「ああ、アン」息を飲むジェーン。心から万歳が唱えられているところを突っ切って、二人とも女性用の控え室に逃げ込んでしまう。「ああ、アン、あたしも嬉しいよ! 凄いじゃない?」

あっという間に二人は女子学生に取り囲まれ、アンは笑顔とおめでとうという黄色い歓声の真っただ中にいた。肩はばんばん叩かれるし、両手はぶんぶん振りまわされた。小突かれ引かれ抱きつかれ、そんな中でジェーンにはこう囁くのがやっとだった。

「ああ、マシューとマリラが喜ぶよね! すぐにこの結果を手紙に書かないと」

卒業式が次に控えた大イベントだった。式は学院の大講堂で開催された。祝いの辞を頂き、小論が読まれ、歌が歌われ、そして卒業証書と賞とメダルが授与された。

マシューとマリラも式に出席していた。二人の目と耳が向けられているのは、演壇の上のたった一人の学生――背が高く淡い緑の服の娘、ほのかに赤みがさした頬と星の輝きを持つ瞳で、最も評価の高かった小論を読み上げる、あれがエイヴリーの受賞者だと指差され囁かれている娘だった。

「あの子を置いて良かったと思うだろ、マリラ?」と囁くマシュー。アンが小論を読み終わると、講堂に入って初めて口をきいたのだ、

「別に今初めて良かったと思ったわけじゃないわ」と言い返すマリラ。「何回言えば気が済むのかしら、マシュー・カスバート」

二人の後ろに座っていたバリー嬢が顔を寄せて、手にしたパラソルでマリラの背を軽く叩いた。

「あのアン嬢ちゃんには鼻が高いんじゃない? あたしもよ」とバリー嬢。

その晩、アンはマシューとマリラと一緒にアヴォンリーの家に帰った。4月からずっと帰っていなかったので、もう一日も待てそうになかったのだ。リンゴの花が咲いて、世界中が生き生きと若がえっていた。ダイアナがグリーン・ゲイブルズで待ち構えていた。懐かしい白の部屋に入ると、マリラが育てたバラの鉢が窓辺に飾ってあった。アンは部屋全体を見まわして、大きく幸せを吸い込んだ。

「ああ、ダイアナ、良かったなあ、また帰ってこれて。向こうの尖ったモミが紅の空に映えているのもすごく良いし――あの花盛りで真っ白の果樹園と懐かしい雪女神も。ミントの息吹が香って素敵じゃない? それにそのティー・ローズ――そう、歌と希望と祈りが全部ひとつになってるみたい。そして、あんたにまた会えてすごく良かったよ、ダイアナ」

「あたしなんかより、ステラ・メイナードとかいう子の方が好きなんだと思ってた」と、不満顔のダイアナ。「ジョージー・パイからそう聞いてるよ。ジョージーの話じゃ、あんたその娘にべたべたしてるそうじゃない」

アンは笑って、頂き物のブーケからしおれた「六月百合」[訳注:水仙のこと]を抜いては、ダイアナに投げつけた。

「ステラ・メイナードのことは世界で一番気に入ってるけど、一人だけ例外がいるの。その例外はあんたよ、ダイアナ」とアン。「前よりもずっと好き――それにたくさん話したいことがあるしさ。でも今は、ここに座ってあんたを見ていたい、それで充分嬉しいの。疲れたんだと思う――高い目標を立てたり、それに向かって頑張ったりでくたびれちゃった。明日になったら、少なくとも2時間は果樹園の草の上で寝転がって、何にも考えないでいることにするんだ」

「あんた本当に良くやったもんね、アン。先生にはならないんでしょ、エイヴリーを取ったんだから?」

「うん。9月にはレドモンドに行くことにしてる。このあたしが大学に行くなんて、なんだか奇跡みたいだと思わない? 3ヶ月間の光り輝く黄金の夏休みが終わるまでに、新品の野心を仕込んでおくの。ジェーンとルビーは学校で教えることになってる。考えてみるとすごいことだよね、あたし達みんな試験に合格したんだもん、ムーディー・スパージョンやジョージー・パイも含めてね?」

「もうジェーンには、ニューブリッジの理事会から、うちの学校に来ないかって話がきてるんだって」とダイアナ。「ギルバート・ブライスも学校で教えるつもり。しょうがないのよ。結局、ギルバートを来年大学に入れようとすると、お父さんに負担がかかりすぎるんだって。それで、自力でやっていこうって決めたのよ。エイムズ先生がここを離れることに決まったら、ここの学校で教えることになるんじゃないかな」

不意を打たれて、アンはなぜか、わずかに動揺した。そんなの聞いてない。ギルバートもレドモンドに行くんだと思ってたのに。やる気の源のライバル関係が無くなって、これからどうしたらいいんだろう? 男女共学の大学で、本物の学位が取れるかもしれないとして、敵であり友達という今までの存在がなくなったら、大学の勉強が気の抜けたものになってしまうんじゃ?

翌朝の朝食の席で、アンははっと気がついた。マシューの様子が良くなさそうだ。確かに去年よりずっと、髪に白いものが増えていた。

「マリラ」マシューが出て行ったところで口を開いたが、なんとなく訊きにくい。「マシューのことだけど、具合は良いの?」

「ううん、良くないわ」と、マリラの不安そうな声。「春頃、何度か心臓がかなり悪い時期があったのに、ちっとも体をいたわろうとしないのよ。本当に心配してたのよ。でもここしばらくはいくらか具合が良くなってきたし、良く働く雇い人も見つかったことだから、体を休めて体調を取り戻したりとかしてもらえれば良いんだけど。あんたが帰ってきたから、たぶんそんな気になるだろうね。あんたがいると、いつも機嫌が良いのよ」

テーブルの向こうから身を乗り出して、アンは両手でマリラの顔をはさんだ。

「思ってたほど元気がないのはマリラも一緒だよ、ね。疲れてるみたい。働き過ぎなんじゃない。体を休めなきゃ、あたしが帰ってきたんだもん。今日一日だけ休みをもらうね。懐かしい思い出の場所を歩き回ったり、昔良く見た夢を探しに行ってくるの。そしたら、今度はマリラがのうのうとする番。代わりにあたしが働くからさ」

マリラが大事な娘に優しく笑いかけた。

「問題は働き過ぎじゃないの――頭の方よ。かなり頻繁に頭痛がするようになってきてね――目の奥がね。スペンサー先生には眼鏡を何度も替えさせられたけど、どれもたいして利かないの。何でも6月末にこの島に有名な眼科の先生が来るらしくて、その先生に見てもらうように言われたわ。そうしなきゃいけないんだろうけど。今じゃ、何か読んだり縫い物したりが億劫でね。それより、アン、クイーンでは本当に良くやったわねえ。1級免許を1年で取るし、エイヴリー奨学金に選ばれるし――まあ、リンドさんなら、傲りは滅びの始まりだとか、女が高等教育を受けるなんてどうかしら、とか言いそうだけど。高等教育では女の真の力を発揮できないんだそうよ。あたしは全然そんな風に思わないわ。レイチェルの話で思いだした――最近アビー銀行のことで何か聞いた、アン?」

「危ないらしいよ」とアンの返事。「どうして?」

「レイチェルがそんなことを言ってたのよ。先週いつだったかここに来て、あの銀行が噂になってるって話していったわ。マシューが本当に心配したのよ。うちの蓄えは全額あの銀行に預けてるの――1円残らず。何はともあれ、マシューにはまず貯蓄銀行に預け替えて欲しかったんだけど。アビーお爺さんと父は親しく友達付き合いしてたから、父がずっとそこに預けてたのよ。マシューに言わせると、あの人が上にいる銀行なら、誰でも安心して任せておけるってことだったし」

「その人、何年も前から名前だけの支配人なんじゃない」とアン。「かなりの年だもの。今あの銀行の実権を握ってるのは甥達なの」

「それでね、レイチェルからそんな話を聞かされたから、マシューにすぐにお金を引きだすよう言ったの。マシューも考えておくということだったのよ。ところが昨日、マシューがラッセルさんに、銀行は全く問題ないって吹き込まれてね」

久しぶりにアンが戸外の世界と旧交をあたためられた一日だった。その日はアンにとって忘れられない日になった。明るく、黄金色に照らされた晴れ渡った一日で、陽が陰ることもなく、花が咲き誇っていた。アンは充実した時間を、しばらく果樹園で過ごした。ドライアッドのお喋り泉と柳々池とスミレの神殿にも足を伸ばした。その後、牧師館を訪ね、アラン夫人との話に満ち足りて帰ってきた。そして最後に、陽が低くなった頃、マシューと一緒に恋人小径を通って、牛を追いに裏手の牧草地まで行った。森は隅々まで夕焼け空の後光に包まれ、汗ばむほどの光の奔流が西の丘の合間を縫って射し込んだ。腰を曲げてマシューがゆっくり歩いていく。アンは、高い背をしゃんと伸ばし、はずむ足取りをマシューに合わせた。

「今日はずっと働き詰めだったんでしょ、マシュー」と咎める。「もっと気楽にしたら?」

「うむ、そうだな、そんな気にならんのだよ」と、囲いの木戸を開いて牛を入れるマシュー。「齢を取り過ぎてしまったからな、アン、体に染みついて離れんのだよ。やれやれ、今までずっとせいを出して働いてきたことだし、元気なうちに楽に逝きたいもんだな」

「もし注文通りあたしが男の子だったら」と、物思いに沈むアン。「今頃、たくさん手伝いもできたし、いろんな面でマシューの役に立ってたはず。心の底から思うの、男の子だったらって。少しでも役に立ちたかった」

「うむ、そうだな、わしはおまえが居てくれた方が良いな、男の子1ダースよりずっと良いよ、アン」と、マシューがアンの手を優しく叩いた。「いいかい――男の子1ダースよりずっと良いんだよ。うむ、そうだな、男の子じゃなかっただろう、エイヴリー奨学金を取ったのは? ありゃ女の子だったな――わしの女の子だ――わしの自慢の女の子だ」

いつもの恥ずかしそうな笑みを見せて、マシューは中庭に入って行った。その記憶を胸に、その晩自室に向かったアンは、開いた窓辺にしばらくじっと座って、昔の思い出を遡ったり、将来のことを夢見たりしていた。戸外では雪女神が月明かりの中で白くおぼろに霞み、沼地のカエルの鳴き声が果樹園坂を越えて聞こえてきた。後にアンがきまって思いだしたのは、その夜が、しろがね色で安らぐように美しかったことと、花の香りが漂って穏やかだったことだった。これが、アンの人生と悲しみが無縁だった最後の夜になった。どんな人生も変わらずにいられないくなるのだ。ひとたびあの凍るような清めの手が置かれた後では。


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