グリーン・ゲイブルズのアン, ルーシー・モード・モンゴメリ

マリラ、遂に決断


そうこうしているうちに、馬車はその屋敷に到着した。スペンサー夫人はホワイト・サンズ入江の、黄色を基調にした広い家に住んでいた。夫人は玄関まで出て来て出迎えたが、マリラを迎える意外さと歓迎の混じった表情が、その優しい顔に現れていた。

「まあまあ」驚いたので声が大きい。「あなたが今日いらっしゃるとは思いもよりせんでしたわ、ともかく、いらして下さって嬉しいですわ。馬は中にどうぞ? あなたも元気、アン?」

「望める限りは元気です、お気遣いありがとう」アンは笑顔が作れずそう言った。枯れ葉の病に襲われ、萎れたように見える。

「馬を休ませる間、ちょっと寄らせて頂くだけですので」とマリラ。「それにマシューには早く帰ると言ってきてありますから。実は、ミセス・スペンサー、何処かで奇妙な間違いがありましてね、それを確かめるため参りました。私達がお願いした言伝では、マシューと私ですが、奥さんに孤児院から男の子を連れて来て頂くようお願いしたんです。奥さんの弟のロバートには、私達が10か11歳位の男の子が要るとお伝えするよう申したはずですが」

「マリラ・カスバート、そんなことが!」スペンサー夫人は困った立場に追い込まれた。「なんとまあ、ロバートは娘のナンシーを寄越して伝えてきたんですのよ、あの子はあなた方が女の子が要ると言っておりましたのに、そうよね、フローラ・ジェーン?」玄関の石段に現れた娘に話をふった。

「あの子は確かにそう言ってました、ミス・カスバート」突然矢面に立たされたフローラ・ジェーンは懸命に身を守った。

「本当にお気の毒ですこと」とスペンサー夫人。「ひど過ぎますわね。でも確かにあたくしの落ち度じゃございませんのよ、ミス・カスバート。あたくし、出来ることはちゃんと致しましたし、あなた方のご要望に沿ったつもりでおりましたのよ。ナンシーも本当にそそっかしくて。あたくし、いつもあの子の不注意を叱ってますの」

「私達の落ち度でした」マリラは諦め顔でそう言った。「私共で直接お願いに上がるべきでしたし、重要な用件をあんな風に口伝えで言伝に任せるべきでもありませんでした。ともかく、間違いは起こってしまったし、できることは誤りを正すことだけです。この子を孤児院に送り返せますか? 孤児院の方が連れて行って下さると思うのですが?」

「そうでしょうね」スペンサー夫人は何か考えているようだった。「でも、この子を送り返す必要はないと思いますわ。ミセス・ピーター・ブリュエットが昨日ここにおいでになって、手伝いができる小さな女の子を連れてきてくれるようあたくしのところに使いをよこすんだったって、そう言ってらしたのよ。ピーター夫人のところは大所帯じゃありませんか、お手伝いのなり手がなかなかみつからないんですって。アンならまさにお誂え向きですわね。全く、神のご意思ですわ」

マリラ自身は、「神の意思」がこの件にどれほど関るのか甚だ疑問の様子だった。ここに予想もしなかった良い機会が訪れ、この歓迎されざる孤児を手放すことができるというのに、マリラは素直に感謝する気持ちになれなかった。

マリラはミセス・ピーター・ブリュエットを見かけたことはあった。背の低い、意地の悪そうな顔つきで、骨の上に一オンスも余分な肉がついていないようなやせぎすな女という印象だった。だが噂だけは聞き及んでいた。「働くのもこき使うのも恐ろしいほど」ミセス・ピーターはよくそう言われていた。ブリュエット家から解放された元女中の子達からは、夫人の気の短さとけち臭さ、それから、ブリュエット家の生意気で口答えばかり巧い子供達の恐ろしげな逸話が、尾鰭をつけて聞こえて来ていた。マリラは、そんな夫人の優しい御心に任せてアンを手放すことを思うと、良心に痛みを感じるのだった。

「それじゃ、上がらせて頂いて、その件につき相談致しましょう」マリラはそう言った。

「あら、小径をこちらにいらっしゃるのは、ミセス・ピーターじゃありませんこと、有り難い巡り合わせですわ!」ミセス・スペンサーは大袈裟に言って、あわただしく客を玄関から客間へと通した。その部屋に入ったとたん、みんなひどく寒気を感じた。部屋の空気は、ダーク・グリーンの閉め切ったブラインドの目で長いこと濾されて、当初あった暖かさのかけらも残っていないようだった。「本当に運が良いですわ、これでちゃんともめごとを解決できるんですものね。肘掛け椅子をお使いになって、ミス・カスバート。アン、あなたはそこの長椅子におかけなさい、おとなしくしてるのよ。お帽子を渡して下さいな。フローラ・ジェーン、ケトルをかけてきてちょうだい。ご機嫌よう、ミセス・ブリュエット。あなたが、たまたまおいでになるなんて、あたくし達、なんて幸先が良いんだろうってお話ししてましたのよ。お二人とも紹介させて下さいな。ミセス・ブリュエット、こちらがミス・カスバートです。ちょっと失礼させて頂きますわ。フローラ・ジェーンに、オーブンから丸パンを出しておくよう言いつけるのを忘れておりましたので」

ブラインドを引き上げると、スペンサー夫人はそそくさと出ていった。アンは、長椅子に黙りこくって座ったまま、両手を膝の上でぎゅっと握り締めて、ブリュエット夫人をまじまじと見つめた。ヘビに睨まれたカエルである。この切れそうな程尖ったキツネ顔で、鋭い目つきの人の世話にならなきゃいけないの? アンは喉に大きな塊が込み上げ、涙腺が苦しくて涙目になりかかってているのを感じた。もうこれ以上涙を押し返せないんじゃないかと不安になったころ、スペンサー夫人が戻って来た。その顔色はばら色で、晴れ晴れと喜びに満ちていた。どんな難題だってお任せなさい、体の悩み、心の悩み、宗教上の悩みも全て、即座に察して即座に解決して見せるわ、そんな風に見えた。

「この女の子のことで、間違いがあったらしいんですの、ミセス・ブリュエット」とスペンサー夫人。「あたくしは、ミスタとミス・カスバートが小さな女の子を養子に欲しがっていたと聞いていたんですの。あたくし、確かにそう言われましたのよ。そうしたら、男の子を欲しがっていた、ということらしいんですの。ですから、もし奥様がまだ昨日と同じお気持ちなら、どうでしょう、この子なら奥様には丁度良いのじゃないかしら」

ブリュエット夫人が鋭い視線をアンの方に放ち、頭の天辺から足の先まで視線の矢を突き刺さしていった。

「あんたは幾つで、名前は何だね?」有無を言わさぬ口調で言った。

「アン・シャーリーです」その子はすっかり萎縮して、声が震えていた。その名の綴りにおけるいかなる規定条項も、敢えて申し出る勇気はなかった。「歳は11歳です」

「ハン! 見掛けは大したことなさそうだ。だが、あんたは針金みたいに丈夫そうだ。針金みたいなのが、結局一番良かったってことになるか分からないがね。さて、あたしが引き取るからには、あんたは良い子でなきゃいけないよ、良い子で、ぼさっとしてないこと、それと目上には丁寧に。あたしがあんたに求めるのは、自分の生活費分は働くことだ、これは守ってもらうよ。わかりました、この子は引き取っても良いですよ、ミス・カスバート。うちの赤ん坊はひどくむずかるから、面倒を見てるとすっかりくたびれるんでね。良かったら今すぐこの子を連れて行きます」

マリラがアンを振り返ると、堅いはずの決心が思わず和らいでしまった。真っ青な顔をして、口もきけないほど惨めなこの子の様子ときたら。この孤立無縁な子供は、折角逃げ出せたところを、またしても同じ罠につかまってしまったのだ。マリラはどうにも落ち着かなかった。もし、あんな目で訴えてくる救いの願いを拒絶したなら、死ぬその日に至るまで罪の意識がまとわりつくだろうことは確実だと感じた。しかもマリラは、ミセス・ブリュエットを気に入っているとは言いがたかった。傷つきやすく『神経過敏』な子を、こんな女の手に引き渡すなんて! いや、そんなことをしたら責任の取りようがない!

「そうですね、どうしましょう」マリラは考え考え言った。「マシューもわたしも、この子を全然引き取るつもりが無いとは言っておりませんよ。実を申しますと、マシューはこの子を置きたがっておりまして。今日お邪魔したのは、何処で間違いが起こったのか確かめるためなんです。またこの子を連れて帰って、マシューと話し合ったほうが良いかもしれません。何であれ、兄に相談なしでは決めかねますから。もしわたし共でこの子を置かないと決めましたら、明日の晩に、この子を連れていくなり送るなり致します。もし連れて行かなかった時は、この子はわたし共で預かることになったと承知おき下さい。これで宜しいですか、ミセス・ブリュエット?」

「宜しくするしかないでしょうよ」ブリュエット夫人はむっとして言った。

マリラが話している間、夜明けの陽の光が、徐々にアンの顔に射しこんできた。始めのうちは絶望の面持ちが次第に消え去っていった。そのあと、かすかな希望の光が頬にさし、今や二つの眼は濁りなく輝く明の明星だった。この子はすっかり生まれ変わっていた。しばらくして、ミセス・ブリュエットが借りに来たレシピを探しにミセス・スペンサーと部屋を出て行くと、アンはパッと立ち上がり、マリラの元へ駆け寄った。

「ああ、ミス・カスバート、グリーン・ゲイブルズにあたしを置いてくれるかもしれないって、本当に言ったの?」息もつがずに、それでも囁き声で言った。大きな声だと、この輝かしい未来が砕け散ってしまいそうだから。「本当にそう言ったの? それとも、そう言ったとあたしが想像しただけ?」

「あんたは自分の想像を抑えることを覚えるべきだと思うよ、アン本当のこととそうじゃないことの区別がつかないようじゃね」マリラは意地悪く言った。「確かに言ったよ、あんたの聞いたとおりで、あたしはそう言ったが、それだけだよ。まだ決まった訳じゃなし、もしかすると、ミセス・ブリュエットが結局あんたを引き取ることになるかもしれないよ。あたしよりあの人の方が、あんたが必要なのは確かだからね」

「あの人と一緒に住むくらいなら孤児院に戻ったほうがましよ」アンは激しく言った。「あの人、ほんとに、えっと、ねじ錐みたい」

マリラは笑いを押し殺した。こんなことを言うなんて、アンを叱っておかなくては。

「大人の女性に、しかも知らない人に、そんな風な言い方をするなんて、あんたみたいな小さな女の子のすることじゃないよ、恥ずかしいと思いなさい」そう厳しく言った。「さ、戻って、おとなしく座ってなさい、口は閉じて無駄口をきかないこと、良い女の子に相応しくしてるんだよ」

「努力します、おばさんに言われた通り、何でもするし何にでもなるわ、もしあたしを置いてくれるんなら」アンは、従順そうに元の長椅子へと戻った。

その晩、二人がグリーン・ゲイブルズに帰ったとき、マシューと丁度小径ですれ違った。マシューが小径をうろうろしているのを、マリラはずっと向こうから気がついていたので、何のためにそんなところにいるのか予想はついていた。マリラには、とりあえずは自分がアンを一緒に連れ返ったのを見て、マシューが安心した顔をするのは分かっていた。しかし、今回の件に関してはマシューには何も言わず、二人が外に出て納屋の裏手の庭で牛の乳搾りする時を待った。そこでようやく、アンの経歴とスペンサー夫人との会見の結果について、簡潔に伝えたのだった。

「犬ころだってくれてやるか、なんであんなブリュエット婆さんに」マシューは、いつになく力を込めて言った。

「あの人のやり方はあたしも好きになれないわ」それはマリラも認めた。「でもあの人にまかせるか、でなけりゃうちであの子を置くかでしょ、マシュー。兄さんはあの子を置きたがっているみたいだから、あたしもあの子をここに置くことにしますよ。というより、そうしなきゃならないんだね。何度も良く考えてみて、ようやく、あの子を家に置くことを受け入れられる気がしたんだけど。ある種の義務といったところだろうか。今まで子供なんか、それも女の子なんか育てたことはないし、とんでもない失敗をするとだろうね。しかし、できるだけのことはするつもりです。あたしに関する限り、マシュー、あの子を置いても良いですよ」

普段あまり表情豊かとは言えないマシューの顔が、嬉しくて輝いたようだった。

「うむ、そうだな、そんな風に分かってくれると思っていたよ、マリラ」とマシュー。「あの子はなかなか面白い子だよ」

「あの子は役に立つ子だって言えてれば、もっと良かったでしょうね」マリラが反撃した。「それはそうと、あの子がそうなるよう躾けるのは、あたしの役目にしますからね。覚えといてくださいよ、マシュー、あたしのやり方に干渉しないこと。たぶん、年取った未婚の女は子供の躾けについて良く知ってるとは言えないだろうけど、年取った独身の男よりまだしも分かっていると思うからね。だから、兄さんはただあたしにあの子の世話を任せておけば良いんです。あたしが失敗したら、その時は兄さんが口を出す番でしょう」

「そうだよ、そうだよ、マリラ、自分の好きなようにやって良いさ」マシューは安心させるつもりで言った。「甘やかさない程度に優しく親切にしてくれればそれで良いよ。あの子がおまえを好きになれば、あとは何とでもなる子じゃないかと思うよ」

マリラは鼻で笑って、女性に関するマシューの意見など、何であれ聞く耳持たぬことを知らしめてから、バケツを持って製乳室に歩き去った。

「今夜はあの子に、ここに居られることは話さないでおこう」クリーム分離器に牛乳を濾し入れながら、今までのことを振り返ってそう考えた。「舞い上がってしまって、きっと一睡もできないだろうからね。マリラ・カスバート、あんた、もう逃げようがないよ。孤児の女の子を養子にする日が来るなんて思ったことあるかね? それだけでも充分驚いたよ。しかし、マシューがきっかけになったってことの方が、よっぽど驚いたね。いつも小さな女の子を死ぬほど恐がってた、あの兄さんがねえ。とにかく、あたし達はやったことのないことに踏み込むことに決めたんだから、あとは何が起こるか、神様だけがご存じだよ」


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