閻魔の庁にて, ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

閻魔の庁にて


名高い仏僧存覚上人の『教行信証』に云ってある。「人の礼拝する神は多く邪神なり、故に三宝に帰依する者は多くこれに仕えず。かかる神を礼拝して恩恵を受けたる者も、後になりて、かかる恩恵は不幸を生ずる事を常に知る」日本霊異記の中に記してある話がこの道理のよい例である。

聖武天皇の御世に、讃岐国山田郡に、布敷臣ふしきのおみと云う人の一人子に衣女きぬめと云う娘があった。衣女は容貌のよい大層強い女であった。しかし彼女が十九になって間もなく、その地方に危険な病気が流行して、彼女もそれに襲われた。両親や親戚はその時、彼女のためにある疫病神に祈って、その神のためにさまざまの行をして、――彼女を助ける事を願うた。

数日の間、人事不省になっていたあとで、病人の娘はある晩、我にかえって、両親に自分の見た夢の話をした。彼女は疫病神が現れて、彼女にこう告げた夢を見た、――「お前のうちの人々がお前のために熱心に自分に祈って、信心深く自分を崇めるから、自分はお前を本当に助けてやりたい。しかしそうするには誰か他の人の生命を与えねばならない。お前と同じ名の誰か他の娘を知っていないか」「知って居ります」衣女は答えた。「鵜足郡に私と同じ名の娘が居ります」「その女を自分に指し示せ」疫病神が云って、眠れる人に触った、――それから触られると共に、彼女は神と一緒に空中に浮んだ。それからたちまちのうちに、二人は鵜足郡の衣女の家の前に行った。夜であったが、うちの人々は未だ床についていなかった。そして娘は台所で何か洗っていた。「あれです」と山田郡の衣女が云った。疫病神が帯にもっていた緋袋の中からのみのような長い鋭い道具を取出して、家に入って、鵜足郡の衣女の額にその鋭い道具をつき込んだ。そこで鵜足郡の衣女は非常に苦悶して床の上に倒れた。山田郡の衣女は眼を覚して、その夢の話をした。

しかし、それを物語ったあとで、彼女は再び人事不省になった。三日間彼女は何事も分らないでいた。そして両親は彼女の回復を望みなく思っていた。その時もう一度彼女は眼を開いて、物を云った。しかし殆んど同時に彼女は床から起き上って、物狂わしそうに部屋を見廻して、部屋から跳び出して、叫んだ、――「これは私のうちじゃない、――私の両親じゃない」……

何か余程、変な事が起ったのであった。

鵜足郡の衣女は疫病神ののみにさされて死んだ。両親は嘆き悲しんだ。檀那寺の僧侶達は彼女のために読経して、遺骸は野外で火葬になった。それから魂は冥途へ行って閻魔大王の前に出た。しかし大王はこの少女を見るや否や叫んだ、――「この少女は鵜足郡の衣女だ、こんなに早くここへ連れて来てはならぬ。すぐ娑婆世界へかえせ、今一人の衣女、――山田郡の少女を連れて来い」その時、鵜足郡の衣女の魂は閻魔大王の前に哀泣して訴えた、――「大王さま、私、死にましてから三日以上になります、今頃は私のからだは灰と煙になって居りますので、――私のからだはございません」「心配には及ばぬ」おそろしい大王は答えた、――「お前には山田郡の衣女のからだを与える、――その女の魂は今すぐここに来る事になって居るから。お前はからだが焼けた事は気にかけなくともよい。お前には別の衣女のからだの方がもっともっと好都合だろう」それからこう云い終るや否や鵜足郡の衣女の魂は山田郡の衣女のからだに入って再生した。

ところで山田郡の衣女の両親は、病人の娘が「これは私のうちじゃない」と叫びながら、跳び上って駆け出すのを見た時に、――彼等は娘が発狂したと想像した。そして、そのあとから「衣女、お前はどこへ行く、――ちょっと、お待ち、お前は病気だから、そんなに走ってはいけない」――と呼びながら、走った。しかし、娘は止まらないで、走り続けて、とうとう鵜足郡に行って、死んだ女の家まで来た。そこへ駆け込んで、老人達を見た。それから、お辞儀をして、叫んだ、――「ああ、うちへ帰って嬉しい。……父様も母様も、お変りありませんか」彼等はその女が何者か分らなかったから、狂人だと思った。しかし母はやさしく彼女に問うて云った、――「お前はどこから来ましたか」「冥途から来ました」衣女は答えた。「私はあなたの娘の衣女です、冥途から帰って来たのです。しかし今はからだが違っています、母様」それから彼女はこれまでの話をした。そこで老人達は非常に驚いたが、どう信じてよいか分らなかった。やがて山田郡の衣女の両親は娘をさがしながら、その家に来た。それから二人の父と二人の母は一緒に相談して、娘に話をくりかえさせて、何度も質問した。しかしどんな質問にしても彼女の答は、正しいので、彼女の話は疑われなくなって来た。とうとう、山田郡の女の母は、病気の娘が見た妙な夢を述べてから、鵜足郡の衣女の両親に云った、――「この娘の魂はあなた方のお子さんの魂だと私達は承知します。しかし、御覧の通りからだは私達の娘のからだです。それでこの娘は両方の家の者ですね。これからはこの娘を両方の家の娘とするに御同意ありたい」これには鵜足郡の両親も喜んで一致した。そして、その後、衣女は両家の財産を相続した事が記録に残って居る。

仏教百科全書の著者は云う。「この話は日本霊異記第一巻の十二枚目の左のとこに見えて居る」