計算, ワシリー・カンディンスキー

計算


料理の本とは何か? 実用的な料理法を順序だてて集めたものだ。

料理法とは何か? 《要素》の一覧とその比率の指示。それに処方の手順。

この手順に正確に従えば、美味しい料理が作れることが確約されるだろうか? 名コックがこの質問を聞いたら微笑むだろう。《舌》がなくてはどうにもならない。絵画も一種の《料理》である。ある比率で組み合わされた要素から成り、正確な《調理》も必要とされる。だから、絵画の[描き方についての]本も存在する。

そればかりではない。今日ではすでに、幾つかの場合において、真の名作を《解剖》することが可能になっている。これは面白いだけでなく勉強にもなる。おそらく、解剖学という特殊科学が啓発的なのと同じぐらい、絵画の解剖も啓発的であろう。[絵画の]いくつもの要素、比率、組成が数として表現される。私の考えでは、数による表現は、あらゆる現象に適用可能である。しかし、解剖学者に向かって「解剖学の指示――要素、比率、構造法則――に従えば、生きた人間を構成することは可能か」と訊くのは無駄である[同様に、解剖学によって生きた絵画を構成する試みも無駄である]。

宇宙や宇宙の法則について語るのはやめた方がいい。芸術作品を数字で表すことが可能になる(そして時代が降ればますます簡単にやれる)という考えが言わんとすることも、私たちの芸術的判断が《まったくのでたらめ》から行なわれるのではなく、ただ、自然に、自然な根拠に基づいているのだということにすぎない。特に、ドイツ語の《根ざしている(es sitzt)》という語がこの根拠をほのめかしている。

《新しい芸術の傾向》がいつも(しかも度々激烈に!)拒否されるのはなぜか、という問いに答えるのは簡単である。従来の《処方》に焦点を当てている眼は、新しく発見された《処方》をすぐに受け入れることができないからだ。新たに焦点を調節するには、時間がいる。これは《眼の保守主義》とでも呼べるものである。終わりに、私は発信者(芸術家)と享受者(芸術愛好者)に対し心をこめて次のように助言したい。考えることと感じることを区別しなさい。

世のいかなる処方も、それだけで作品を作ることはできないのと同様に、また《芸術理解》に絶対不可欠な感情の代役を果たすこともできない。頭が決して出来の悪い装置ではないとしてもだ。

しかし、《感情のない》頭は、《頭のない》感情よりも性質が悪い。少なくとも芸術においては。


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