『論理哲学論考』の書評, フランク・ラムゼイ

『論理哲学論考』の書評


この書物は、独創的な考えと広い範囲にわたる話題を含み、一貫した体系を作り上げた、極めて重要な書物である。著者の言うとおり扱われた諸問題に対して本質的に最終的な解決が与えられたかどうかに関わらず、極めて興味深い本であり、全ての哲学者にとって無視することのできない価値を持っている。たとえこの本の体系が全く根拠に欠けるものであったとしても、なお多くの深遠な付随的見解と他の理論に対する批判が含まれている。しかしながら、見開きの英独対訳形式をとっているにもかかわらず、極めて難解な本である。ウィトゲンシュタイン氏は、連続した散文ではなく、それぞれの重要性を示すための番号が付された短い命題を連ねている。これは、この本に警句風の魅力的な味わいを与えると同時に、おそらく、各命題は一つ一つ熟考の末に書かれたに違いなく、それゆえ、本書は詳細に至るまで正確なものになっている。しかし反面、説明は正確さをいくらか損なうからであろうが、多くの専門用語と理論について、適切な説明がなされなかったように思う。

この欠陥は、ある程度はラッセル氏の序文によって補完されている。しかしラッセル氏も、ウィトゲンシュタイン氏の意図を理解するための完全なガイド役というわけではないようだ。「ウィトゲンシュタイン氏の本を理解するためには」とラッセル氏は言う。「氏が関心を抱く問題を認識することが必要である。記号体系を扱う理論の一部において、氏は論理的に完全な言語が満たすべき条件について関心を抱いている。」これは非常に疑わしい一般化である。確かに、ウィトゲンシュタイン氏が論理的に完全な言語(それ以外のいかなる言語でもない)に対する関心を明確に主張する一節、つまり3.325節における「論理的構文論」に関する議論はあるものの、全体として見れば、私が思うに、一見矛盾するように見えるが、氏は本書の諸命題が日常言語にも適用されると考えている(特に4.002節を見よ)。これは極めて重要な論点である。なぜなら、このように広い適用ができて、初めて興味が増すからであり、また、ウィトゲンシュタイン氏の最も基本的な理論は「ある特定の文がある特定の事実を主張しているはずだとするためには、その言語がどのように構築されていようとも、文の構造と事実の構造の間に共通のものがなくてはならない」というものだとするラッセル氏の主張のもっともらしさを減殺するからである。

この教説は、「像」と像の「写像形式」という難しい概念に基づいている。そこで、今からこの二つの概念について説明と批判を試みよう。

像は一つの事実、像の要素が互いに特定の仕方で結ばれているという事実である。これらの要素は、特定の対象(その像が像であるような事実の成分)と対応している。この対応が写像関係を構成し、その写像関係が像を像たらしめる。この写像関係は「像に属する」(2.1513)。私が思うに、これが意味するのは、私たちが像について語るときは、必ず何らかの写像関係を心に抱いており、そのおかげで像は像になっているのだ、ということである。このような事情の下で、私たちは、像は、像の要素が相互に結ばれているのと同じ仕方で、対象も相互に結ばれているということを描出する、と言うのだ。そしてこれがその像の意義(sense)であり、「描出する(represent)」と「意義」の定義として受け取らねばならないと思う。すなわち、ある像が、特定の対象が特定の仕方で結ばれていることを描出すると言う場合、私たちはただ、像の要素がそのように結ばれており、要素は像に含まれる写像関係によって対象と対応している、と言っているに過ぎない。(これは 5.542節から帰結する定義だと思う。)

「写像形式」という用語については、本の前半部で事実の構造と形式について述べられる次の言葉が光を当ててくれるだろう。「事態(atomic fact)の中で対象が連関しあう仕方が、事態の構造である。形式とは構造の可能性である。事実の構造は事態の構造から成る」(2.032、2.033、2.034)。構造と形式の違いについて、私が見分けられる点は以下のただ一点である。すなわち、考察の対象となる形式を持つ事実が主張されているが、それが事実でない場合、そこに「可能性」が挿入されることになる。すると、aRbという事実が論理的に可能であれば、その真偽に関わらず、この事実の形式について語ることができる、ということである。ただ残念なことに、この定義では、二つの異なる事実が同じ構造や同じ形式を持つのかどうか、明らかにならない。二つの異なる事態が同じ構造を持つことは、ありうると思われる。なぜなら、どちらの事態においても、諸対象は同じ仕方で連関しあうからである。しかし本書の後半の言葉からは、事実の構造は、単に諸対象の連関の仕方と同義ではなく、連関しあう対象の種類にも依存するということが分かり、そうすると、二つの異なる事実が同じ構造を持つことは決してありえないと思われる。

像は一つの事実であり、それ自身、一つの構造と一つの形式を持つ。ところが、「構造」と「写像形式」について、2.15 と 2.151 で新しい定義が与えられる。「像の諸要素が特定の仕方で互いに結ばれているということが描出するのは、事物も同じ仕方で互いに結ばれているということである。像の諸要素のこのような連関は像の構造と呼ばれ、この構造の可能性は像の写像形式と呼ばれる。写像形式は、像の諸要素が互いに結ばれているのと同じように、事物もまた結ばれているという可能性である。」 この一節は不可解である。その理由は二つある。第一に、ここには写像形式についての異なる二つの定義が含まれている。第二に、二つの定義の前者における「このような連関」をどう解釈すべきか明らかでない。諸要素が結ばれている特定の仕方を指しているようにも、先行する文全体を指して、諸要素の結合が事物の類似の結合を描出することを指しているようにもとれる。[しかし、]どちらの解釈をとっても、第一の定義が第二の定義と合致することはないと思われる。私たちが期待できるのはただ、ウィトゲンシュタイン氏が「写像形式」について語る事柄を考察することによって、どちらとも取れる意味を決定することだけである。写像形式の主な性質は、2.17 で述べられており、これが写像形式を氏の理論において基礎的な重要性を持つものにしている。その性質とは「像が現実を像の仕方で――正しくにせよ誤ってにせよ――描出できるために現実と共有しなければならないもの、それが像の写像形式である。」 さらにもう一つの性質はこうだ。「像がいかなる形式を持つにせよ、現実を――正しくにせよ誤ってにせよ――描出できるために、あらゆる像が現実と共有しなくてはならないもの、それが論理形式、すなわち現実の形式である。もし像の写像形式が論理形式だった場合、その像は論理像と呼ばれる。あらゆる像はまた論理像である。(これに対し、例えば、あらゆる像が空間的像というわけではない。)」(2.18、2.181、2.182)すると、一つの像は複数の写像形式を持つこともあるが、しかしそのうちの一つは論理形式でなくてはならず、像は一つだけ論理形式を持たねばならないようだ。また、像は、それが描出するものが持つのと同じ論理形式を持たねばならないとは断言されていないが、しかし、全ての像は一つだけ論理形式を持たねばならないと断言されていることになる。このことは、写像の論理形式を[再度]写像することはできないという[ウィトゲンシュタイン氏の]推論を、よりもっともらしく見せる。もっともらしくというのは、論理形式が像と現実に共通のものだとしても、それは、像の論理形式を別の像において写像できないという想定の根拠にはなりえないからである。

さて、ある像が空間的形式を持つことができ、また論理形式を持たねばならないということの意味は、形式を像の諸要素が結ばれている仕方(の可能性)とみなすことで、簡単に理解できる。(一番目の定義の一つの解釈である。)これは、地図上の点の色が、同じ色を持つ土地の海抜の標高を表現するのと同様に、論理的であると言えよう。つまりこの場合、像の諸要素は主語と述語として結ばれており、そのことが、[像の諸要素に]対応する事物もまた、主語と述語として結ばれていることを描出する。一方、形式は空間的形式でもありうる。例えば、二つの点の間に三つ目の点があることが、二つの町の間に三つ目の町があることを描出するときなどそうである。しかしこの場合また、「あいだ性(betweenness)」を諸点の結ばれる仕方としてではなく、像において自分自身としか対応しないもう一つの要素としてみなすことも可能である。すると、「あいだ性」と各点の結ばれ方は、空間的ではなく三者関係であり、その関係はすなわち論理的であるのだから、この形式は論理形式である。ここから、空間的でありえてしかも論理的でなくてはならない何かがあることになる。しかし、以上からそれが写像形式であるという結論が導けるわけではない。というのも、写像形式は、上記のことを含むさらに複雑な実体で、派生的に空間的であったり論理的であったりするからである。もし仮に、上記のものが論理形式であるならば、「像は論理形式をもたなくてはならない」という言葉でウィトゲンシュタイン氏が言おうとしたのは、ただ、像は事実でなくてはならない、ということにすぎないし、写像の論理形式を写像したりそれについて語ることはできないという言葉が述べるのは、一見すると事実について述べられている全ての言明は、実は事実の構成物についての言明だから、私たちは事実を事実たらしめているものについて語ることはできず、究極的には事実についても全く語ることができない、ということに過ぎない。これらのことを、氏は確かに信じているが、しかし、写像形式についての氏の複雑な諸命題がこれ以上のことを語っているとは、到底思えない。恐らく氏は混乱しており、用語を一貫して用いていない。そこで、もし前掲の定義のうち二番目の「写像形式は、像の諸要素と同じ仕方で、事物が相互に結ばれるという可能性である」という命題に戻ると、像は描出されたものと写像形式を共有するということの別の意味を発見できる。それは、写像関係によって像の要素と対応する事物は、像の要素と同様の仕方で結ばれることができる、ということである。こうして重要な原則「像は、それが描出する状況の可能性を含む」(2.203)に到達することになる。理由は後で述べるが、この原則を[他の命題から]独立に受け入れるならば、像と世界が共有する何か――それ自身は写像できない――が持つ必然性からウィトゲンシュタイン氏が導く非-神秘的な推論のほぼ全てが正しいと、私は考えている。そしてこれらの推論は、捉えどころがなく本質的に議論不可能な写像形式という実体の本性が提供するよりも、より強固な基盤を提供できると思われる。

ウィトゲンシュタイン氏が考えるところの、文とそれが主張する事実が共有するものについて、あるいは、実際、この本の大半の主張についてさらに進んだ理解を得るためには、氏の「命題」という語の使用法を理解することが必要になる。これは、C.S.パースの二つの用語を導入すれば、容易に理解できるだろう。このページには12個の「the」があるという意味での語を、パースはトークン(token)と呼んだ。そしてこれら12個のトークンは全て、一つの「the」というタイプ(type)の実例である。「語」以外にも、タイプ-トークンの両義性を持つものはある。例えば感覚や思考、感情、観念などはタイプとトークンのどちらでもありうる。ウィトゲンシュタイン氏の用法においては、例えば『数学の原理』のラッセル氏の用法とは反対に、「命題」という語もまたタイプ-トークンの両義性を持っている。

一つの命題記号(propositional sign)は、一つの文である。ただし、この断定は条件付きである。なぜなら、「文」という語はそれを構成する語と同じ本性を持つ何かを意味しうるからである。しかし、命題記号は本質的に単一の語とは異なる。その理由は、文は対象や対象のクラスではなく、一つの事実、「その諸要素、つまり語がある特定の仕方で結ばれているという事実」(3.14)だからである。従って「命題記号」はタイプ-トークンの両義性を持つ。ちょうど語の実例が(規約によって特定の発音や字面と結びついた)見かけの類似性によってまとめられるように、(任意の記号のトークンとして)トークンもまた、諸タイプにまとめられる。一方、一つの命題は一つのタイプであり、その諸実例は、ある特定の意義――外見ではない――を共有する全ての命題記号のトークンから構成されている。

命題と思考の関係について、ウィトゲンシュタイン氏はかなり曖昧である。しかし、氏の意味するところは、思考とはそのトークンが特定の意義を共有するタイプだが、他の非-言語的トークンをも含むタイプである、ということだと思われる。ただし、非-言語的トークンは、言語的トークンとそれほど異ならないので、考察するのは言語的トークンだけで十分である。ウィトゲンシュタイン氏は、「『 A は p と信じる』や『 A は p と考える』や『 A は p と語る』は、全て『 'p' は 'p' と語る』という形式のものである」と言い、ラッセル氏が答えを二転三転させた判断の分析についての問題を、実に明快に「命題トークンがある特定の意義を持つとはどのようなことか?」という問題に還元した。この還元は非常に重要な進歩であり、この問題が導く問題は根本的な重要性を持っていると思われる。そこで私は、ウィトゲンシュタイン氏がこの問題に何と言って答えているかを詳細に検討してみたい。

まず、この問題に答えることができるなら、図らずも真理の問題が解決されることになる。あるいはむしろ、そのような問題は存在しないことは既に明白である。なぜなら、ある思考、または命題トークン 'p' が p と語るのであれば、このトークンは、p ならば真、~p ならば偽と言われるからである。私たちは、その意義が現実と一致するものや、それが描出する可能な状態が現実の状態であるものを真であると言うことができる。しかしこの定式化は、先に述べた[意義の]定義を別の言葉に置き換えただけである。

ウィトゲンシュタイン氏によれば、命題トークンは論理像であり、その意義は像の意義の定義によって与えられなければならない。従って、命題の意義とは、命題の諸要素(語)によって意味される事物が、要素同士が結ばれているのと同じ仕方で――つまり論理的に――互いに結ばれているということである。しかしごく控えめに言っても、この定義が極めて不完全なものであることは明白である。なぜなら、この定義は文字通り一つのケースにしか適用できないからである。そのケースとは、完全に分析された要素命題のケースである。(要素命題とは、ある事態の存在を主張する命題であり、もし要素命題の中の要素が、命題の意義に現れている各対象と一致するならば、命題トークンは完全に分析されていると説明することができるだろう。) それゆえ、'a' が a を、'b' が b を意味し、'R' が、より正確に言えば、'aRb' と書くことで 'a' と 'b' の間に私たちが確立する関係を意味するのであれば、'a' が 'b' に対してこの関係にあることが aRb ということであり、この aRb が 'aRb' の意義ということになる。しかし、例えば一つの語が「 b に対して関係 R を持つ」として使われ、命題が完全には分析されていない場合や、名前と違い対象を表さない「でない」や「もし」のような論理定項を含む、より複雑な命題を扱わねばならない場合は、この単純な枠組が修正を要することは明白だ。ウィトゲンシュタイン氏は、この二つの困難をどう扱うべきか全く明らかにしていない。氏は最初の困難をほとんど無視しているが、これについては「それは日常言語が途方もなく複雑であるため、ア・プリオリに解くことはできないからだ」というもっともな弁明を行なうかもしれない。なぜなら、完全な言語においては全ての命題が完全に分析されるだろうからである。例外は、単純な諸記号の記号列内にその位置を占める記号を定義する場合であるが、この場合は、ウィトゲンシュタイン氏の言うように、定義された記号は、その定義に使われた諸記号によって意義を持つ(signify)であろう。それでも今度は、第二の困難が待ち受けている。というのも、要素命題だけを扱う理論には満足できないからである。一般に、命題の意義は要素命題を参照することで説明される。n 個の要素命題があれば、2n 個の真偽の可能性がある。この可能性は要素命題の真理可能性と呼ばれる。同じように、対応する事態の存立と非存立の可能性も 2n 個ある。ウィトゲンシュタイン氏が言うには、あらゆる命題は特定の要素命題の真理可能性に対する一致または不一致の表現であり、その意義は、対応する事態の存立と非存立の可能性に対する一致または不一致である(4.4, 4.2)。以上のことは、次の真理関数の表記法によって図示される。T が真を、F が偽を表す。この場合、二つの要素命題に対する四つの可能性を書くことができる。

pq
TT
FT
TF
FF

ここで、T を一致の可能性に置き、不一致の可能性のところは空欄にしておくと、例えば p ⊃ q は次のように表せる。

pq
TTT
FTT
TF
FFT

あるいは慣習的な並び順に従えば、(TT-T)(p, q) と書ける。この表記法において、p と q が要素命題である必要は全くないし、拡張すれば見かけ上の変項を含む命題まで含むことができる。従って p と q は列挙によってではなく、命題関数のあらゆる値として、つまりある特定の表現(「命題の意義を特徴づける任意の一部分」(3.31)として定義された表現)を含む全ての命題として与えられると言えるだろう。そして、単独の T が、全ての変項が偽である可能性に対する一致のみを表現し、かつ、ξ が ƒx の値の集合である場合、(------T)(ξ)は、通常の書き方では ~:(∃x).ƒx となる。それゆえ、全ての命題は要素命題の真理関数であり、様々に作られた命題記号は、じつは全て同じ命題である。なぜなら、全ての命題は、同じ真理可能性に対する一致や不一致を表現するのだから、同じ意義を持つのであり、要素命題の同じ真理関数だからである。従って以下の結論を導ける。

q ⊃ p : ~ q ⊃ p および ~ ( ~ p ∨ ~ p ) はともに p と同じである.

このことから、推論についての極めて簡明な理論が導かれる。その理論とは、ある命題と一致する真理可能性をその命題の真理根拠(truth-ground)と呼ぶなら、p の真理根拠が q の真理根拠に含まれていれば、q は p から帰結する、というものである。ウィトゲンシュタイン氏は q の意義は p の意義に含まれているということ、および、p を主張することは図らずも q を主張することでもあるということも述べている。私が考えるところ、この言明は意義についての包含の定義であり、日常言語の用法に部分的に準じるように「主張する(assert)」という語の意味を拡張したものであるが、p . q ならば p、あるいは (x).ƒx ならば ƒ(a) に関しては当てはまるが、その他の例については当てはまらない。

極端だが、非常に重要なケースが二つある。一つは、全ての真理可能性との不一致を表現する命題である矛盾、もう一つが、全ての真理可能性との一致を表現する命題であるトートロジーである。トートロジーは何も語らない。論理学の諸命題がトートロジーであること、および、その本質的特徴を明らかにしたことは、本書の素晴らしい成果である。

さて私たちは、上記の説明が、命題トークンが意義を持つことに対する適切な説明であるかどうかを考えねばならない。そして私は、断じてそうではないと思う。というのも、上の説明は単にいかなる意義があるかの説明でしかなく、いかなる命題記号がいかなる意義を持つかについての説明ではないからだ。この説明によって、私たちは「 'p' は p と語る」を「 'p' はこれらの真理可能性との一致、および他の真理可能性との不一致を表現する」と言い換えることができるようになる。しかし、後者が前者の究極的な分析であるとは認められない。しかも、これ以上どう分析を進めればよいか、全く明らかでない。従って、問題の答えを得るためには他の箇所を調べなければならない。ウィトゲンシュタイン氏はこの問題を解くために明確な貢献をしてくれている。5.542 において、彼は、「 'p' は p と語る」において、私たちは対象を配列することによって事実の配列を得ている、と述べている。しかし、意義はその中に現れる対象によっては完全には決定されないのだから、この説明は不完全である。また命題記号も、その中に現れる名前によって完全に構成されるわけではない。なぜなら、命題記号の中には対象に対応せず、曖昧なままの方法で意義の決定を完成させる論理定項も存在するからである。

もし論理的な記号体系しか扱わなくてよいのなら、何一つ困難なことはないと思われる。なぜなら、使われる名前の多様さを別にすれば、その記号体系内において特定の意義を持つ全ての命題記号を与える規則は存在するであろうし、そのような規則を記号体系に加えることで「意義」の定義を完成させられるであろうから。それゆえ、『プリンキピア・マテマティカ』の記号体系を例にとるなら、「 'p' は ~aRb と語る」の分析は以下のようになる。a を意味するものは何であれ 'a' と呼び、[他の 'b' などについても]同様とし、'a' 'R' 'b' を 'q' と呼ぶとすると、'p' は '~q' または '~~~q' または '~q ∨ ~q' 、あるいは明確な規則に従って構成される別の記号のいずれかである。(無論、このような規則を果たして定式化できるのかという点には、疑問の余地がある。なぜなら、そのためには記号論理の全体を前提することになるからである。だが完全な表記法においてであれば、可能と考えてよいであろう。例えばウィトゲンシュタイン氏の T と F を使った表記法なら、何の問題もない。) しかし明らかにこれだけでは不十分である。なぜなら、これが与えるのは「 A は p と主張する」の分析ではなく、「 A はこれこれの論理的表記法を使って p と主張する」の分析でしかないからだ。しかし、中国人が論理的表記法の観念を持っていなくても自分の考えを持っているということは、至極当然の事実である。あるいはまた、not に相当するドイツ語の nicht の使用が、ドイツ人にとっては、「信じる」や「考える」のような語の定義の一部になるということも、明らかに重要なことである。

この困難からの脱出法を見つけることは非常に難しい。一つの可能性は、選言や含意には特殊な信念の感情が生起しているのだろうという、ラッセル氏の示唆(『心の分析』p.250)に見出せよう。そうであれば、論理定項はそうした感情を代表するものとして重要であろうし、これらの感情は人間の思考の普遍的な論理的記号体系の基礎を形成するであろう。だがウィトゲンシュタイン氏は、これとは異なる解決を信じているようだ。本書の最初の方の言明に戻ると、像の意義は、像の要素が相互に結ばれているのと同じ仕方で、諸対象も相互に結ばれているということである、と述べられている。これを当面の文脈で自然に解釈するなら、a は b に対して特定の関係を持っていないと描出できるのは、ただ、「a」に「b」に対して特定の関係を持たせないことによってでしかない、ということであり、一般的には、否定的事実を主張できるのは否定的事実だけであり、含意的事実を表現できるのは含意的事実だけであり、以下同様、ということである。これは馬鹿げた見解だし、明らかに氏の意味するところでもない。だがとにかく氏は、命題トークンがその意義と何らかの仕方で類似するとしたら、この種の仕方においてである、という見解は持っているようだ。従って氏は次のように言う。「『~p』において否定の作用を持っているのは『~』ではなく、この表記法で p を否定する記号全てが共有する何かである。従ってそのものとは、『~p』や『~~~p』や『~p ∨ ~p』や『~p . ~p』などなど(以下無限に続く)を構成する際の共通規則である。そしてこの共通なものが、否定を反映するのである」(5.512)。私には、それがいかにして否定を反映するのか理解できない。ただ、二つの命題の連言が両命題の意義の連言を反映するような単純な仕方でないことは確かである。連言と他の真理関数の間のこのような違いは、p かつ q を信じることは、p を信じかつ q を信じることと同じだが、p または q を信じることは、p を信じるかまたは q を信じることと同じではなく、非p を信じることは、p を信じないことと同じではない、という事実に見て取ることができる。

さて今度は、ウィトゲンシュタイン氏の理論の中でも最も興味深いものの一つへ向かわねばならない。それは、語りえずただ示されるだけの何かが存在し、それが神秘的なものを構成するという理論である。なぜ語ることができないかというと、それらが、命題が現実と共有する論理形式に関わるものだからである。それらがどのようなものであるかは、4.122 においてこう説明されている。「私たちは特定の意味において、対象や事態の形式の性質、事実の構造の性質について語ることができるし、同様の意味において形式の関係や構造が持つ関係について語ることもできる。(私はまた、構造の性質と言う代わりに内的性質という言葉を、構造の関係と言う代わりに内的関係という言葉も使おう。私がこの二つの表現を導入したのは、哲学者の間に広く蔓延している、内的関係と本来の(外的)関係の混同の理由を示したいと考えたからである。) しかしながら、内的性質と内的関係の存立を命題によって主張することはできない。それらは、事態を描出し当の対象を扱う命題の中に自らを示す。」[しかし]既に述べたように、論理形式の本性は、このような結論に有利に働く議論を提供できるほど明確ではないと思われる。私が思うに、内的性質を扱うためのより良いアプローチを与えてくれるのは、「ある対象がその性質を持たないことを考えられないとき、その性質は内的であるという」(4.133)という規準の方である。

真な命題は可能的だが必然的ではない何かを主張するということは、ウィトゲンシュタイン氏の原理であり、もしこれが正しいのなら極めて重要な発見である。この原理を導く氏の説明は、命題は相互に独立な要素命題の真理可能性との一致・不一致を表現するものであり、それゆえ唯一の必然性はトートロジーのそれで、唯一の不可能性は矛盾のそれである、というものだ。だがこの説明を首尾一貫させることは非常に難しい。というのも、ウィトゲンシュタイン氏は、一方では、視野の一つの点が赤であり、かつ、青であることは不可能であると認めながら、他方では、推論に論理的根拠がないと考えているからだ。そのため、赤でありかつ青である視野上の点に私たちが出くわさないとする理由はないであろう。とにかく氏は、「この点は赤でもあり青でもある」という命題は矛盾であると言う。このことが示唆するのは、(「赤」と「青」という語が完全に明確な色合いを意味するなら)赤と青という見かけは単純な概念が、実は複合的で、形式的には両立しえない概念であるということである。彼は[色の]波長という観点からこれらの概念を分析することで、上記の結論を導こうと試みている[6.3751]。しかし、仮に物理学者なら、私たちが「赤」で意味するものについてこのような分析を与えるとしても、ウィトゲンシュタイン氏はただ、この難点を空間、時間、物質あるいはエーテルの必然的性質の難点に還元したに過ぎない。氏は明らかに当の難点を、一つの粒子が同時に二つの場所に存在することの不可能性によると考えている。空間と時間のこうした必然的性質を、同じ要領でさらに何かに還元することは、まず無理であろう。例えば、時間的な「あいだ」について私の経験に照らして考えてみると、もし B が A と D の間にあり、C が B と D の間にあるとすれば、C は A と D の間になくてはならない。だが、これがいかにすれば形式的なトートロジーでありうるのか、理解しがたい。

しかし、見かけは必然的真理に見える命題の全てをトートロジーと想定できるわけではないし、ウィトゲンシュタイン氏もそんなことは言っていない。またそうした真理の対象が持たないとは考えられない内的性質も存在する。対象のそうした性質を主張するように見える文は、ウィトゲンシュタイン氏によればナンセンスであるが、しかしナンセンスな文は表現できない何かと微妙な関係を持っているのである。このことは、これらの文はナンセンスである、つまり、文が主張するはずのことが、主張できないものであると氏が考える理由の一部を成すようである。しかし、私には、なぜそれらの文がナンセンスなのかということの理由を与え、そうした文の起源と、なぜ見かけ上は意義を持つように見えるかということについての一般的説明を与えることは可能だと思う。そしてその説明は[ウィトゲンシュタイン氏の説明とは違って]何も神秘的な含みを持たないものだ。

こうした意義を持たない文を「擬似命題」と呼ぶが、その発生の仕方は私たちの言語によって様々である。発生源の一つは、普通の名詞のようには命題関数に対応していない、「対象」とか「物」などの名詞を用いなくてはならないという文法的必然性である。例えば「この対象は赤い」という命題から「これは一つの対象である」という擬似命題が[常識的に考えれば]導かれるように思われるが、『プリンキピア・マテマティカ』の記号体系ではこの推論を行なうことはできなかった。だが、最も一般的で、最も重要な発生源は、記述を名詞や代名詞で代用することにある。(私は「代名詞」という語で、何らかの意義 p を表す「p」という表現も含んで、「私の言ったこと」のような記述と対比させて使っている。) 通常はこの使い方に問題はない。というのも、空白を持つ命題シェーマ(propositional schema)がある場合、記述によって空白が埋められるときにこの式が持つ意義が前提とするのは、一般に、その記述に合致する事物の名前によって空白が埋められるときにシェーマが持つ意義だからである。従って、「φ は赤い」を分析すると、「φ であるものが一つ、そしてただ一つだけ存在する、かつ、それは赤い」となる。この分析された命題に「それは赤い」が現れることが示すのは、「φ は赤い」という命題の意義は、a が φ のタイプに含まれる場合の「a は赤い」という命題の意義を前提としている、ということである。しかしこの分析が正しくない場合がある。それは、記述を含む命題の場合である。このときは、少し異なる分析が必要になる。例えば「φ は実在する(The φ exists)」を分析して得られる命題は、「φ であるものが一つ、そしてただ一つだけ存在し、かつ、それは実在する」ではなく、単に、「φ であるものが一つ、そしてただ一つだけ存在する」だからであり、この命題の意義は「 a は実在する」という命題の意義を前提としない。それを前提するのはナンセンスなことである。なぜなら「 a は実在する」の真偽は、現実と比較せずともこの命題を良く吟味するだけで判明するからである。これは真正の命題にはありえないことである。しかし、一つには「 a は実在する」と「 'a' が意味する対象は実在する」の区別を見落とすことから、また一つには、「~は実在する」は ~ の部分が記述によって埋められる場合は常に有意味なうえ、私たちが記述と名前の区別に十分に敏感でないがゆえに、「 a は実在する」という命題が、あたかも有意味な命題のように感じられるときがあるのだ。ウィトゲンシュタイン氏はこの錯覚に幻惑されて、名前「a」が実在することは[その指示する対象]a が実在することを示すが、しかしそれを主張することはできない、だがそれこそが神秘的なものを構成する核心である、と主張するまでに至っている。この意見は「世界がいかにあるかは神秘ではない。世界があるというまさにそのことが神秘である。」(6.44)に見ることができる。

次の例は、ウィトゲンシュタイン氏がラッセル氏の等号の定義に対して加えている重要かつ破壊的な批判において見ることができる。「ラッセルの『=』の定義は十分ではない。この定義によれば、二つの対象が全ての性質を共有する、と語ることができなくなるからである。(たとえこの命題が決して真でなくとも、意義は持っている。)」(5.5302) 確かに、「a = b」は擬似命題に違いない。なぜなら、この命題は、「a」と「b」が同一の物の名前か、別々の物の名前かによって、ア・プリオリに真か偽になるからである。仮に今、「ある命題における二つの異なる記号は、異なる意味[=指示対象]を持たねばならない」という新しい規約を採用するなら、記述について同一性を含まない新しい分析を得ることになる。例えば ƒ(ηx)(φx) については、

(∃c): φx. ⊃x x=c .ƒc に代わって
(∃x) .φx .ƒx : ~ (∃x, y) .φx .φy. となる。

そして (ηx)(φx) = c は c : ~(∃x, y) . φx . φy と分析されることになるので、「- = -」が有意味になるのは、空白の少なくとも一方を記述が埋める場合に限られる。同一性を拒否することは、図らずも、集合と基数の理論において重大な結果をもたらすかもしれない。例えば、「二つのクラスについて、一方の定義域と他方の定義域との間に一対一対応が存在するときに限り、二つの集合の基数は等しい」という[普通の集合論では当然認められる]言明は、一対一対応が同一性によって構成できなければ、殆ど説得力を失う。

次に、この説明が命題の意義の内的性質に、真な命題であればその命題に対応する事実に、どのように適用されるかを示そう。「 p は a についての命題である(p is about a)」が例である。この命題の意義は「彼は a について何かを述べた」という命題の意義から帰結すると思うかもしれない。しかし、後者の分析をよく考えればそれが間違いであることが分かる。なぜなら、後者を還元して得られる命題は「かれが述べた p という言明が存在し、かつ、それは a についての言明である」ではなく、「彼が φa と述べたことを満たす関数 φ が存在する」だからである。そしてこの命題はもはや、「 p は a についての命題である」という擬似命題を含んでいない。同様に、「 p は q と矛盾する(p is contradictory to q)」も「彼は私と矛盾した」に含まれると思うかもしれないが、後者を分析して「私は p と主張し、彼は ~p と主張したことを満たす p が存在する」という命題を得れば、「 p は q と矛盾する」が擬似命題であることが分かる。無論、これは完全な分析ではなく、第一歩に過ぎないが、当面の目的には十分であり、「-は-と矛盾する」が、少なくとも一つの空白が記述によって埋められる場合にのみ、いかにして有意味になるかを示してくれている。

ウィトゲンシュタイン氏によれば、他に擬似命題とみなされるのは、相互に置換可能な二つの式を「=」で結んだ数学の等式である。この説明がどうすれば数学全体をカバーできるのか、私には分からない。おまけに不等号の場合はさらに困難であり、この説明が不完全なことは明らかである。しかしながら、「私は2本より多い指を持っている」という命題が「10 > 2」という命題の意義を前提しないことは簡単に分かる。なぜなら、思い出して欲しいが、異なる記号は異なる意味を持たねばならないのだから、上の命題は単に「(∃x, y, z):x, y, z は私の指である」に過ぎないからだ。

ある種の見かけ上の必然的真理をトートロジーとして説明することが、色の分野において困難に突き当たったのと全く同様に、残余(remainder)を擬似命題として説明することもまた、困難に突き当たる。「この青色とあの青色は」とウィトゲンシュタイン氏は言う、「当然、一方は他方より明るいという内的関係にある。これら二つの対象がこの関係にない、ということは思考不可能である。」(4.123) 従って、ある名前を付けられた色が同名の他の色よりも明るいと主張するように見える文は擬似命題でなくてはならない。しかし、どうすればこのことを、「私の家のクッションはカーペットより明るい」のような、記述された色が[同名の]別の色より明るいことを主張する文が疑う余地なく持つ意義と整合させられるのか、理解に苦しむ。もっともこの例ならば、物理学者が「赤」の指示対象を本当に分析していると想定することで、困難を完全に取り除けるかもしれない。というのも、その分析が最終的に到達するのは、色の波長のような数であり、困難もまた、与えられた二数間の不等性が無意義であることと、記述された二数間の不等性が意義を持つことを整合させる困難へと還元される。この解決は、先の「私は3本以上の指を持っている」の場合に示唆された路線で何とか解決できることは明白だからである。

さて、今度はウィトゲンシュタイン氏の哲学についての説明を見よう。「哲学の目的は思考の論理的な明確化である。哲学は学説ではなく、活動である。哲学的著作は本質的に解明からなる。哲学の結果は一連の哲学的命題ではなく、命題が明確になることである。哲学は、そのままではいわば曖昧模糊としている思考を明確に境界づけなければならない。」(4.112) 私としては、「明晰性」についてさらに説明がないことには、この説明で満足するわけにはいかない。そこで、ウィトゲンシュタイン氏の体系と調和する形でその説明を与えてみよう。私の考えでは、書かれた文が「明晰」であるのは、文の意義の内的性質と関連を持つ、あるいは内的性質を「示す」ような可視的な性質を、当の文が持っている限りにおいてである。ウィトゲンシュタイン氏によれば、文の意義の内的性質は、常に命題の内的性質のうちに自らを示すという。しかし命題は、タイプ-トークンの両義性を持っているのだから、氏の意味するところは即座に明らかにはならない。ある命題の性質は、その全てのトークンの性質を意味しなければならないと、私は思うが、しかし、命題の内的性質というのは、いわば、トークンの性質でありながら、トークンではなくタイプの性質であるような性質である。すなわちそれは、トークンの一つが、特定のタイプのトークンであるために持っていなくてはならない諸性質であって、[ウィトゲンシュタイン氏が言うような]トークンがそれを持っていないことが思考不可能であるような性質のことではない。文は、それが現に持っている意義を持つ必要性はない、ということを思い出さねばならない。それゆえ、ある文が ƒa と語るとき、a に関連する何かが文の中に存在するということは、その文の内的性質ではない。それは命題の内的性質である。なぜなら、そうでなくてはこの文は当の命題タイプに属することができない、言い換えれば、当の命題の意義を持つことができないからである。こうして、命題の意義を示す内的性質は、一般に可視的性質ではなく、意味の観念を含む複雑なものであることが分かる。ただし、あらゆる事物が固有の名前を持つ完全な言語においては、文の意義における特定の対象の生起も、当の文の中にその対象の名前が生起することによって、目で見える形で示されるであろう。そしてこのことは、様々な意義の全ての内的性質にも同様に起こると考えてよいであろう。例えば、一つの意義が別の意義に含まれているということ(つまり、一つの命題が別の命題から帰結するということ)は、命題を表現する文において常に目で見える形で示されるだろう。(これはウィトゲンシュタイン氏の真理関数の表記法によってほぼ達成されている。) 従って、完全な言語では、あらゆる文や思考が完全に明晰になるだろう。「明晰」の一般的定義を与えるためには、「文の可視的性質」を「命題記号の内的性質」によって置き換えなくてはならない。私たちはこの性質を「命題の内的性質」と類比的に、トークンがその命題の記号であるために持たねばならない性質――もしそのトークンが書かれたものなら、可視的性質と一致する――として解釈する。それゆえ、命題記号が明晰であるのは、その命題の内的性質だけでなく、その命題記号の内的性質によっても意義の内的性質が示される場合に限られる。

(ウィトゲンシュタイン氏の教説は、一般的に、完璧な言語についてにしか当てはまらないという誤解が生じるのは、恐らく、命題の内的性質と命題記号の内的性質を混同するためであろう。)

このような哲学観を、前述した内的性質についての非神秘的な観点から解釈することは容易である。まず最初に、「ある物が内的性質を持つ」は擬似命題であり、それゆえ認識不可能であるにも関わらず、現実には、私たちはこの命題を認識したりしなかったりするという事実を認め、これについて説明しよう。実際のところ、私たちが認識するのは「私たちの目前の言葉によって指示される、あるいは主張される対象や意義」であり、それが有意味であるのは、既に名前が記述で代用されているからである。それゆえ私たちは、p が擬似命題(トートロジー)であることではなく、「p」が何も語らないことを、論理的証明の帰結として認識する。命題を明晰にするとは、命題の論理的性質が文の可視的性質と関連を持つような言語で命題を表現することによって、命題の持つ論理的性質を認識しやすくすることである。

だが私の考えでは、この活動は、認識や思考の事実を表現する興味深い文集合の意義の論理形式について何か新しい発見があるときは常に、哲学的命題に帰着する結果になるだろう。私たちは、「 p はこれこれの形式を持つ」はナンセンスであるという点では、ウィトゲンシュタイン氏に同意せねばならない。だがそれでも、「 'p' はこれこれの形式の意義を持つ」はナンセンスではあるまい。これがナンセンスであるか否かは、「 'p' は有意味である」の分析次第であり、結果は恐らく、選言肢の一部が「p」の意義の異なる可能な諸形式から生じる、選言命題になると思われる。もしそうであれば、それから選言肢の幾つかを取り除くことによって、「p」の意義の形式を持つ命題を作ることができる。そして、「p」が「彼は q と考える」や「彼は a を見る」のような命題の場合は、この命題を哲学的命題と呼ぶことは適切であろう。以上の私の意見は、次に引用するウィトゲンシュタイン氏の、私よりは控えめな主張とも相反すまい。曰く、「哲学的な事柄についてこれまで書かれた大抵の命題や問いは、偽なのではなくナンセンスである。それゆえ、私たちはこの種の問いに決して答えることはできず、問いのナンセンスさを確認することしかできない。哲学者たちの大抵の問いや命題は、私たちが自分たちの言語の論理を理解しないことに起因している。」(4.003)

最後に、ウィトゲンシュタイン氏の全体的な世界観について触れておこう。氏によれば「世界は物の総体ではなく、事実の総体」(1.1)であり、「明らかなことだが、現実世界からどれほど異なる世界として思考された世界にしても、何かを―― 一つの形式を――現実世界と共有しなければならない。この確固たる形式は諸対象から成っている」(2.022, 2.023)。想像の世界が現実世界の全ての対象を含まなくてはならないという考えは普通ではないが、これは、もし「 a は実在する」がナンセンスなら、私たちは a が実在しないことを想像できず、想像できるのは、ただ、a が何らかの性質を持っているかいないかだけであるという、氏の原則から導かれる帰結であろう。

ラッセル氏は、序文において、(x).φx は φx の値の全体を含むが、ウィトゲンシュタイン氏によれば x の値の全体は語りえないものである、という事実に重大な困難を見出している。これは氏の基本テーゼ「全体としての世界について語ることは不可能であり、語られうるものは全て世界の限られた部分にならざるをえない」から導かれる帰結であるが、しかしながら、この言葉がウィトゲンシュタイン氏の見解を公正に表現したものであるかは、疑わしい。というのも、一つには、ラッセル氏が提案するのは、「全ての S は P である」と語ることが不可能であるなら、非S については恐らく何も主張していないとみなすのでなければ、(x).φx と語ることが不可能である、とすることだが、ウィトゲンシュタイン氏がこの解釈を支持しないことは確実である。そこで、ラッセル氏のこの解釈をもっともらしくしているウィトゲンシュタイン氏の意見を考察してみると面白いだろう。氏は、全ての対象の数について語ることはできないと断言している(4.1272)。しかしその理由は、全対象が不合理な総体を形成するからではなく、「対象」が、関数ではなく変項 x によって表現される擬似概念だからである。(ところで、全対象の数を、何か特定の性質を持つ事物と持たない事物の数の合計として定義することがなぜ許されないのか、私には分からない。) 氏はまた、「限界づけられた全体としての世界、という感情は、神秘的である」(6.45)とも言う。しかし、この命題から「 x の値の全体が神秘的である」と推論するラッセル氏には賛同できない。なぜなら端的に「世界は物の総体ではなく、事実の総体である」(1.1)からだ。私の考えでは、「限界づけられた」という語が 6.45節を理解する鍵を与えてくれる。神秘的感情とは、世界は全てではないという感情、世界の外に何かが、世界の「意義」や「意味」が存在するという感情なのである。

私がこれまで論じてきた話題で、本書の魅力がほぼ全て尽くされたと考えてはならない。ウィトゲンシュタイン氏は、他にもタイプ理論や祖先関係、蓋然性、物理学の哲学や倫理学など多くのテーマに対して、常に興味深く、ときには極めて先鋭な章句を記しているのである。


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