飾りのない壁, ワシリー・カンディンスキー

飾りのない壁


飾りのない壁!

理想の壁――傍に何も置かれていない、何も立て掛けられていない、一枚の絵も掛けられていない、何も見られない

エゴイスティックな、《それ自体で》生きている、自己を主張する、純潔な壁。

ロマンティックな壁。

私もまた、飾りのない壁を愛する。なぜなら、それは、新しく到来しつつあるロマン主義の響きの一つだから。

純粋な壁を広める者や、[古い]ロマン主義に対する敵対者たちは、今日では、芸術、特に絵画にとっての素晴らしき友である。

彼らは、とりわけ絵画の友である。なぜなら、全ての芸術のうち絵画だけと戦っているからだ。

飾りのない壁を感得できる人は、絵画作品を感得するための準備を最高に整えた人である。二次元に広がり、非の打ち所のない滑らかさを持ち、垂直に切り立ち、均整の取れた、《物言わぬ》、荘厳で、自立した、沈思する、外側から狭められ外側へと[表出の力を]放つ(ausstrahlen)この壁は、ほとんど基本的《要素》と言ってよいものである。

そしてこの基本的要素は、芸術理解の《A》であり、その後には必ず《B》が来なくてはならない。来ることができるのだから、来なくてはならない。

下町の喧騒さながらに、轟々たる音楽が鳴り響いている。今日の人間は麻痺してしまい、大きな音しか聞き取ることができない。首根っこを掴まえられて思い切り頭を揺すられない限り、彼は気付かないのだ。

だが、音の大きなものは全体の一部分にすぎない。音の小さなもの(と沈黙するもの)が、全体の中で[音の大きなものより]一層重要な部分ではない、などと誰が言えるだろう? 私たち画家は、私たちの《敵》に感謝せねばならない。なぜなら、彼らは私たちの友でもあるから。

色々な《方向性》や信念に応じて、現代の画家に求められることは多様である。とりわけ《抽象》画家の場合は。

人々は、私たちに壁だけを塗っていろと要求する。

それも屋内だけで。

人々は、私たちが家の外壁だけを塗ることを望む。

それも外側だけ。

人々は、私たちに産業へ奉仕しろ、織物・ネクタイ・靴下・食器・日傘・灰皿・絨毯のためのデザインを供給せよと要求する。

それも工芸品だけ。

私たちはただ、絵を描くことを永久にやめるべきである。そうすれば、人々は再び私たちに今より好意的になり、私たちがイーゼル絵画を諦めるなら、壁に直接絵を描くことを許してくれるだろう。

色々な《方向性》や主義に応じて、今日の画家は以下のことを禁止されている。

  • イーゼル絵画
  • 壁画を描くこと
  • 織物やその他全ての物にデザインを行なうこと
  • 家の外壁を塗ること
  • 家の内壁を塗ること
  • 彩色全般

今日にも、絵画を愛する人はいる。彼らは時折、今や《まともな》絵画は行なわれていないことに気付く。

これら芸術を愛する人々の意見によれば、画家が古来守られてきた伝統を放棄すれば、創造性は枯渇してしまうという。

《後進者》がいない、とか、《いつも同じ顔ぶれの、ゆっくりと老いていく画家たち――若者はどこにいる? 芸術の“聖旗”を受け継ぐことのできる、またそうするべき若者は?》などというセリフが、何度口にされ、書かれてきたことだろう?

《絵画は衰退し、滅亡する。》そう言って嘆く人もいれば、喜ぶ人もいる。一方、バウハウスで絵が描かれていること、《教師》だけでなく若者たちも描き、バウハウスではここ2年来、正規の講義が行なわれている――実用的な《壁画工房》以外にも、今や非実用的な《自由絵画教室》でも絵画が育まれている――ことを嘆く人もいれば、喜ぶ人もいる。

また、同じバウハウスで、実用的部門にも非実用的絵画教室にも所属せずに、しかも《自由な絵画》を行なっている学生たちを見つけることができる。例えば、家具製作や金属細工の学生や織物の女学生、さらに建築学生までも。

建築学生までも。

これら全ての学生たちが飾りのない壁を愛するというのは素晴らしいことではないか? たとえ彼らが、往々にして、それがいかにロマンティックであるかを全く知らないとしても。彼らは内的欲求から絵を描き、絵画の未来を疑わない。彼らが理論を立てるときは、絵画的に、つまり芸術的に行なっている。

芸術という死語は、バウハウスで甦った。そしてこの言葉と連動して、行動も始まった。

幸運なことに、私たちの友人(飾りのない壁)のおかげで、ついに絵画の奇形児は諸壁面から消え失せていく。そして、《ゆっくりと老いていく教師》ではあるが、忍耐強く粘っている私たちだけでなく、成長する若者たちも、私たちと一緒に気にかけているのだ。飾りのない壁は、その必要があるところでは、ずっと飾りのないままであるように、そして他の諸壁面も奇形児を再び塗りたくられたりしないで、静かな喜びを持って《計画的・実用的に》《絵画的世界》を引き受けることができるように、と。このことを嘆かわしいと思う人は、そのまま静かに嘆き続けるがよろしい。私たちは喜んでいるのだ。

1929年4月
Der Kunstmarr

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