余計なもの(ドイツ工作連盟), アドルフ・ロース

余計なもの(ドイツ工作連盟)


最近、ドイツ工作連盟が結成され、その第一回大会がミュンヘンで開かれた。彼らはそこで繰り返し、産業と職人たちにとって自分たちがいかに重要かを力説した。彼らは自分たちの存在を正当化するために、10年も前から、手仕事に芸術を持ち込まねばならないと説いてきた。それは到底、職人にはできないことであった。そんなことをするには、職人はあまりに近代的すぎたからだ。近代的な人間にとって芸術は崇高な女神であり、それを日用品に売り渡すなど、芸術に対する冒涜に他ならないと感じられるからだ。

ところでまた、消費者たちの感想も同様であった。非文化人たちによる近代文化に対する攻撃は撃退されたかに思われた。インク瓶(二人の妖精が岩礁にいるデザイン)やロウソク台(一人の少女が甕をかかげており、そこにロウソクを差し込む)、それに家具(小さな太鼓の形の寝室用の小物入れ、食器棚は大きな太鼓の形で、その周りに柏の枝が絡まっている)は、さっぱり売れなかった。たとえ買ったとしても、2年も経てば所有していることが恥ずかしくなったものだ。以上からも分かるように、日用品に芸術を付加する企みは失敗に帰したのだった。だが、一度手を染めてしまうと、なかなか抜け出せない。そこで彼らが考えついた逃げ道が、文化の振興であった。

しかし、これとてそう上手くはいかないように思われる。我々が共有する文化――それ以外に文化というものはないのだが――は共通の形式を創造する。しかるに、ヴァン・デ・ヴェルデの家具とヨーゼフ・ホフマンの家具とでは天と地ほどの隔たりがある。ではいったい、ドイツ人はどちらの文化に決めるべきなのだろう? ホフマンだろうか、それともヴァン・デ・ヴェルデだろうか? リーマーシュミットだろうか、それともオルブリッヒだろうか?

私は、こんなことは文化と何の関係もないと信じている。なぜなら、「応用芸術家」たちの仕事が十分な成果を挙げることは、国家と生産者にとって国民経済的な問題であるという声高な主張は、今に始まったことではないからである。工場主たちは三日連続でこの手の話を繰り返し聞かされたものだ。

だが私は問いたい。我々は「応用芸術家」を必要としているのか? 答えは、否だ。

こういう余計な連中を仕事場に介入させないよう意識してきた製造業はみな、質の高い仕事を行うことができている。こうした製造業の分野が作った製品だけが、我々の時代の様式を代表する。それらの製品は、あまりに見事に我々の時代の様式を反映しているものだから、我々はそれらについて、特別に様式を実感することがない――そしてそれこそが、時代の様式を持っていることの唯一の判断基準なのである。我々の思考と感覚に、密接に融合しているのだ。我々の車、我々のグラス、我々の望遠鏡、我々の傘とステッキ、我々の旅行カバンと革製品、我々の銀のタバコケースとアクセサリー、我々の宝石類と洋服――これらはみな近代的である。なぜなら、門外漢がその仕事場に土足で上がりこもうとしなかったからである。

確かに、我々の時代の文化的に洗練された製品は、芸術と何の関係も持っていない。芸術作品が日用品と密接に結びついていた野蛮な時代は、ついに過ぎ去ったのだ。これは芸術にとっても喜ばしいことである。人類の歴史を叙述する際、19世紀という時代には多くの紙幅が割かれるであろう。芸術と製造業を明確に区別するようになったのは、この時代の歓迎すべき成果である。

日用品を飾るのは芸術の始まりである。パプア人は家財道具すべてに装飾を施す。人類の歴史は、芸術が自らを日用品や工業製品から解放することによって、いかにして通俗化を免れようとしてきたかを、我々に示す。17世紀の人々はまだ、アマゾンの戦いの様子を描いた甕から平気で酒を飲むことができたし、プロセルピナの略奪を描いた皿の上で肉を切る神経を持ち合わせていた。こんな真似は、我々にはできない。我々近代人には。

では、芸術を手仕事から区別することは、芸術を敵視することにつながるのだろうか? 今日、非近代的な芸術家は、靴のデザインに助力を申し出てもすげなく断られることを嘆くだろう。一方、昔の時代を思い出すと感傷的になるが、アルブレヒト・デューラーの時代には、まだ彼にも靴のデザインが許された。しかし幸運なことに、近代人が生きるのは今日であって17世紀ではない。近代人はそのような芸術の乱用を野蛮と感じるのである。

この感性は我々の精神生活にとっても良いことである。というのは、『純粋理性批判』は、5本の鵞鳥の羽を刺した平帽子を被る人間によって書かれたのではないし、『第9番交響曲』も、大きな首飾りを身に付けた人間から生まれたのではないからである。ゲーテ―が死を迎えた部屋も、ハンス・ザックスの靴工房――デューラーの作品もそこでデザインされた――より素晴らしいものである。

18世紀は学問を芸術から解放した。それ以前は、銅版画に丹念に描かれた人体解剖図は、腹の皮膚を剥ぎ取られたギリシア神話の女神のごとき有様だった。要するに、メディチ家所有の女神像から内臓が垂れ下がっているのだ。バイエルン地方のヒアスル市では、今でも年の市で市民たちに「解剖学的女神」を使った講義が行われている。

我々が必要とするのは、家具職人の文化である。仮に、応用芸術家たちが再び絵を描くか、あるいは道路の清掃でもするようになれば、我々はそれを手に入れられるであろう。


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