ダブリンの人たち, ジェイムズ・ジョイス

死者たち


管理人の娘、リリーは文字通りてんてこ舞いだった。紳士を一人、一階の事務所の裏の小さな食器室に案内して彼がコートを脱ぐのを手伝ったばかりだのに、また玄関のゼーゼー言ってるベルががらんと鳴って、彼女は別の客を通すために玄関ホールのむき出しの通路を急いで駆けなければならなかった。ラッキーなことに彼女はご婦人たちの世話まで見る必要はなかった。でもミス・ケイトとミス・ジュリアはそのことを考えて、二階のバスルームをご婦人たちの化粧室に変えたのだった。ミス・ケイトとミス・ジュリアはその辺にいて、噂話をしたり笑ったり空騒ぎをしたり、かわるがわる階段の上まで歩いてきては、手すり越しに下をじっと見て誰が来たのと訊くために下のリリーに呼びかけたりしていた。

いつも大事件だった。年に一度のモーカン三嬢の舞踏会は。一族の一員、家族の旧友、ジュリアの聖歌隊の一員、すっかり成長したケイトの生徒たち、メアリー・ジェーンの生徒さえもまた幾人か、と、彼らを知る者は皆やってきた。一度としてまったくの期待はずれに終わったことはなかった。毎年毎年、思い出せる限りの長い間、それは華麗なスタイルで行われてきた。ケイトとジュリアが兄のパットが死んだ後、家をストーニー・バターに残し、ただ一人の姪、メアリー・ジェーンを連れ、一階で穀物問屋を営むフルハム氏から上階の部分を借りてアシャーズ・アイランドの暗く寂しい家に暮らすようになって以来だ。それはどうしたって優に三十年は前のことだ。あの頃短い服を着た小さな少女だったメアリー・ジェーンが今では家族の大黒柱として、ハディントン・ロードのオルガンを受け持っていた。彼女はアカデミーを修了し、毎年生徒のコンサートをアンシェント・コンサート・ルームズの上階の部屋で催していた。彼女の生徒の多くはキングスタウンとダルキー沿線の上流階級の家庭に属していた。老いたりとはいえ、叔母たちもまた役割を果たした。ジュリアは、すっかり白髪になったがいまだにアダム・アンド・イヴズでは第一ソプラノであり、ケイトは、体が弱くなってあまりがんばれなかったが奥の部屋の古いスクエアピアノで初心者に音楽を教えていた。管理人の娘、リリーは彼らのために家政婦の務めを果たしていた。彼らの暮らしは質素だったけれども、彼らは美食を信条としていた。何でも最上の物。極上の骨付きサーロイン、三シリングの茶、そして最高の瓶詰めのスタウト。しかしリリーはめったに指図を間違えることはないので、三人の女主人たちとうまくいっていた。彼らは小うるさい、それだけだった。でも唯一つ、彼らが我慢できないのは口答えだった。

もちろん、彼らがこんな夜に小うるさくするのはちゃんとわけがあった。そのうえ十時をだいぶ過ぎたのに、まだゲイブリエルと彼の妻の来る兆しがなかった。それにまた彼らはフレディ・マリンズが酔っ払って現れるのではないかとものすごく心配していた。彼らは絶対にメアリー・ジェーンの生徒たちにご機嫌の彼を見せたくなかった。それにそんな時、彼はまったく手にあまることがあった。フレディ・マリンズはいつも遅れて来たが、ゲイブリエルを引き留めているのは何だろうと彼らは思った。それで彼らは二分ごとに階段の手すりのところに来てはゲイブリエルかフレディは来たかとリリーに尋ねるのだった。

「おお、コンロイさん、」リリーがゲイブリエルのためにドアを開けて言った。「ミス・ケイトとミス・ジュリアはあなたがもう見えないのではと思ってましたわ。今晩は、ミセス・コンロイ」

「さもありなんというところかな、」ゲイブリエルが言った。「しかし叔母さんたちはここにいるうちの奥さんが身支度するのに延々三時間もかかるのを忘れてるよ」

彼はマットの上に立ち、ガロッシュの雪をこすり落としていたが、その間にリリーは彼の妻を階段の下まで案内し、大声で呼びかけた。

「ミス・ケイト、ミセス・コンロイがおいでです」

ケイトとジュリアがすぐに暗い階段をよちよちと下りてきた。二人ともゲイブリエルの妻にキスをして、寒くて死にそうなんじゃないのと言い、ゲイブリエルは一緒かと尋ねた。

「郵便のようにちゃんと来てますよ、ケイト叔母さん! 上へどうぞ。後から行きます」とゲイブリエルは暗闇から大声で言った。

三人の女たちが笑いながら二階の婦人用化粧室へ行く間も、彼は元気よく足をこすり続けた。軽い房飾りとなった雪が彼のオーバーの肩にはケープのように、ガロッシュのつま先には靴のつま先の革のようにのっていた。そして、彼のオーバーのボタンが雪でこわばったフリーズの穴をキーキー音を立ててすり抜けた時、冷たく、かぐわしい戸外の空気が割れ目やひだからもれ出た。

「また雪が降ってるんですね、コンロイさん?」とリリーは尋ねた。

彼女は先に立って彼を食器室に案内して彼がオーバーを脱ぐのを手伝った。ゲイブリエルは、彼女が彼の姓に与えた三音節を聞いてにっこりとし、彼女をちらっと見た。彼女はほっそりとして、発育盛りの娘で、顔色は青白く、干草色の髪をしていた。食器室のガス灯は彼女の顔色をいっそう青白く見せた。ゲイブリエルは、彼女が子どもで、よく階段の一番下に座ってぬいぐるみの人形を大事に抱いていた頃から知っていた。

「ああ、リリー、」彼は答えた。「きっと一晩降るんだと思うよ」

彼は、上の階で足を踏み鳴らしたり引きずったりするので揺れている食器室の天井を見上げ、ちょっとピアノに耳を傾け、それから棚の端で入念にオーバーをたたんでいる娘に目をやった。

「ねえ、リリー、」彼は親しげな調子で言った。「まだ学校に行っているの?」

「ああ、いいえ」と彼女は答えた。「今年っていうかもう学校は終わってます」

「ああ、それじゃあ、」ゲイブリエルが陽気に言った。「僕らは近いうちに君のいい人との結婚式に行くことになるかな、ええ?」

少女は後ろの彼を肩越しにちらっと見て、きわめて辛らつに言った。

「今時の男たちったらみんな口先きだけの下心ばっかですね」

ゲイブリエルは、ああまずかったというように顔を赤らめ、彼女の方を見ずに、ガロッシュを蹴飛ばして脱ぎ、エナメル革の靴をマフラーでパッパッとさかんにはらった。

彼は太って背はやや高く若い男だった。頬の血色は押し上がって額にまでいくつかの形のない、薄い赤の斑点となって散らばっていた。そしてひげのない顔には、繊細で落ち着きのない目を隠すメガネの磨かれたレンズと輝く金の縁が落ち着きなくきらめいていた。彼のつやのある黒い髪は真ん中で分けられ、長く曲線を描いて耳の後ろでは帽子の跡より下の部分がかすかにカールしていた。

靴をパッパッとやって光沢の出たところで彼は立ち上がり、ふっくらしたからだにぴったりするようにベストを引っ張り下ろした。それから彼はポケットからすばやく硬貨を取り出した。

「ああリリー、」彼はそれを彼女の手に押し込みながら言った。「クリスマスの時期じゃないか。ちょうど……ここに少し……」

彼はさっとドアに向かって歩いた。

「ああいけません!」少女は彼を追って叫んだ。「本当に、いただけません」

「クリスマスの時期だ! クリスマスの時期だ!」とゲイブリエルは階段までほとんど小走りになり、抗議する彼女に手を振りながら言った。

少女は、彼が階段に到着したのを見て、彼の後ろから大声で呼んだ。

「それじゃ、ありがとうございます」

彼は客間のドアの外でワルツが終わるのを待ち、スカートのドアをこする音や足を引きずる音を聞いていた。彼はまだ少女の辛らつな、思いがけない反駁に落ち着きを失っていた。それは彼に暗い影を投げかけ、彼は払いのけようとしてカフスや蝶ネクタイを整えていた。彼はそれからベストのポケットから小さな紙を取り出し、スピーチのために作った項目をざっと見た。彼はロバート・ブラウニングの短詩については迷っていた。というのはそれは聞き手には難しすぎるのではと思ったからだ。シェークスピアからとか歌曲集からとか彼らにもわかる引用の方がよかろう。カタカタ鳴る男たちのかかとの下品な音や靴底を引きずる音が彼とは異なる彼らの文化程度を思い起こさせた。彼らに理解できない詩を引用しても自分をこっけいに見せるだけだ。彼らは彼が自分の受けた優れた教育を吹聴していると思うだろう。彼はしくじるだろう。食器室で少女をしくじったのとまったく同じように。彼はまずい調子を引きずってしまった。彼のスピーチ全体が最初から最後まで間違いだ。まったくの失敗だ。

ちょうどその時彼の叔母たちと妻が婦人用化粧室から出てきた。叔母たち二人は小さな、質素な服装の老婦人だった。ジュリア叔母の方が一インチかそこら背が高かった。耳をかすめるように低く引っ張られた彼女の髪は灰色だった。彼女のたるんだ大きな顔も黒い隈はあるが、やはり灰色だった。彼女はがっしりした体格で真っ直ぐ立っていたが、そののろのろした目と開いた唇のため、どこにいるのか、どこに行こうとしているのかわからない女のように見えた。ケイト叔母はもっと活気があった。彼女の顔は、妹より健康的だが、しなびた赤りんごのようにすっかりしわしわで、彼女の髪は、同様に古風なやり方で編まれ、熟したナッツの色を失っていなかった。

二人とも遠慮なくゲイブリエルにキスをした。彼は二人の死んだ姉で港湾局のT・J・コンロイと結婚したエレンの息子でお気に入りの甥だった。

「グレタの話では今夜マンクスタウンに馬車で帰るつもりはないってね、ゲイブリエル」とケイト叔母が言った。

「ええ」と言ってゲイブリエルは妻のほうを向いた。「それはもう去年でたくさんだねえ? 覚えてませんか、ケイト叔母さん、それでグレタがどんなことになったか? 馬車の窓が道中ずっとがたがたいうし、メリオンを過ぎた後で東風は吹き込むし。もう笑っちゃいましたよ。グレタはひどい風邪をひきました」

ケイト叔母はきつく顔をしかめ、一言一言うなずいていた。

「そのとおりよ、ゲイブリエル、そのとおりよ」と彼女は言った。「注意はしすぎるぐらいじゃないと」

「しかしこのグレタと言えば、」ゲイブリエルは言った。「ほうっておけば雪の中を歩いて帰るでしょうよ」

コンロイ夫人は笑った。

「彼にかまわないで、ケイト叔母さん」と彼女は言った。「彼はほんとにうるさい人なの。夜はトムの目のために緑のシェードだとか彼にダンベルをやらせろとか、それからエヴァにオートミールのおかゆを無理にも食べさせろとか。かわいそうな子! それであの子はまったくあれを見るのも嫌って!……ああ、でも彼が今度私に何を着けさせたか、決して言い当てられないでしょう!」

彼女はどっと笑い出し、夫をちらっと見たが、こちらはうっとりとした嬉しそうな目を彼女のドレスから彼女の顔、そして髪へとさまよわせていた。二人の叔母もまた心から笑った。というのもゲイブリエルの心配症はいつも彼らのジョークの種だったからだ。

「ガロッシュ!」とコンロイ夫人は言った。「あれが最新モードよ。足もとが濡れている時はいつでもガロッシュをつけなくてはいけないの。今夜だって彼はあれを私につけさせたかったけど私はいやだったの。次に彼が私に買ってくれるのはダイビングスーツでしょうよ」

ゲイブリエルは神経質に笑い、不安を和らげるようにネクタイを軽く叩いていたが、ケイト叔母の方はほとんどからだを折り曲げるようにして、思う存分ジョークを楽しんでいた。ジュリア叔母の顔からはすぐに笑みが薄れ、彼女の笑っていない目は甥の顔に向けられた。ちゅうちょした後彼女は尋ねた。

「それでガロッシュって何、ゲイブリエル?」

「ガロッシュよ、ジュリア!」彼女の姉が大声で言った。「えっ、ガロッシュが何か知らないの? つけるでしょあなたのほら……ブーツの上に、グレタ、そうじゃない?」

「そうよ」とコンロイ夫人は言った。「グッタペルカでできたものよ。今じゃ私たち二人とも一組持ってるの。ゲイブリエルが言うには大陸ではみんなが着けるんですって」

「おお、大陸でね」とジュリア叔母はゆっくりうなずきながら小声で言った。

ゲイブリエルはいくらか腹を立てたかのように、眉をひそめて言った。

「何も不思議なことはないですよ、でもグレタはその言葉がクリスティー・ミンストレルズを思い出させると言ってはすごくおもしろがっているんです」

「でもねえ、ゲイブリエル」とケイト叔母がさっと機転をきかせて言った。「もちろん部屋のことは何とかしたんでしょ。グレタは言ってたわ……」

「ああ、部屋は大丈夫です」とゲイブリエルは答えた。「グレシャムに一つ取りました」

「確かにね、」ケイト叔母が言った。「その方がずっといいわ。それで子どもたちは、グレタ、あの子たちのことは心配じゃない?」

「ああ、一晩だし」とコンロイ夫人は言った。「それにベシーがあの子たちの世話をしてくれるの」

「確かにね」と、またケイト叔母は言った。「そんな娘がいるのは、頼りにできる子がいるのはほんとに助かることね! ほらあのリリー、ほんとに最近彼女どうしちゃったのかしら、わからないわ。彼女、全然前のあの娘じゃないわ」

ゲイブリエルはこの点について叔母に少々質問をしようとしかけたが、彼女は突然話をやめ、階段をぶらぶら下りていって手すり越しに首を伸ばしている妹をじいっと目で追っていた。

「ねえ、どうしたの、」彼女は短気を起こしそうになって言った。「どこへ行くのジュリアは? ジュリア! ジュリア! どこへ行くの?」

ジュリアは階段を途中まで下りてしまっていたが、戻ってきて落ち着きすまして告知した。

「フレディが来たわ」

それと同時に手を叩く音とピアニストの最後の派手な一節がワルツの終わりを告げた。客間のドアが内から開き、数組のカップルが出てきた。ケイト叔母は急いでゲイブリエルを脇へ引っ張っていき、彼の耳にささやいた。

「そっと下に行って、ゲイブリエル、悪いけど彼が大丈夫か確かめて、で彼が酔ってたら上に上げないで。きっと酔ってるわ。きっとそうよ」

ゲイブリエルは階段のところへ行き、手すりの上から耳をすました。二人の人物が食器室で話しているのが聞こえた。それから彼はフレディ・マリンズの笑い声を認めた。彼は大きな音を立てて階段を下りた。

「とっても助かるわ、」ケイト叔母はコンロイ夫人に言った。「ゲイブリエルがここにいて。私はいつも気分がほっとするの、彼がここにいると……ジュリア、ほら、ミス・デイリーとミス・パワーが軽食を取られることよ。すてきなワルツをありがとう、ミス・デイリー。楽しかったわ」

硬い白髪交じりの口ひげ、浅黒い肌、背は高く、しわだらけの顔の男がパートナーと共に出てきて言った。

「私たちも少し軽食を取らせていただけますか、ミス・モーカン?」

「ジュリア、」ケイト叔母が即座に言った。「それからこちらのミスター・ブラウンとミス・ファーロング。一緒にお連れして、ジュリア、ミス・デイリーとミス・パワーと」

「私はご婦人方の味方です」とブラウン氏は、口ひげが逆立つほど唇をすぼめ、顔をくしゃくしゃにして微笑みながら言った。「何しろミス・モーカン、私がご婦人方に好かれるわけは――――」

彼は言い終えなかったが、ケイト叔母が言っても聞こえない所にいると見るや、直ちに三人の妙齢のご婦人方を率いて奥なる部屋へ入った。その部屋の中央は端と端をつないで置かれた二つの四角いテーブルでふさがり、その上にジュリア叔母と管理人が大きなテーブルクロスをまっすぐにしてしわを伸ばしていた。食器棚には大皿や平皿、グラスやナイフ、フォーク、スプーンの束が整列していた。閉じたスクエアピアノの上面もまた食料やデザートのための食器棚の役を務めていた。一隅のやや小さな食器棚の所には二人の若い男が立ち、ホップビターを飲んでいた。

ブラウン氏は預かりものをそちらへ案内し、彼女たちみんなに、冗談で、ご婦人方用パンチの熱く、強く、甘いやつを勧めた。彼女たちが強いものはとても飲めないと言うので、彼は彼女たちのためにレモネードの瓶を三つ開けた。それから彼は若者の一人に脇に寄るように求め、そして、デカンターをつかみ、自ら相当量のウィスキーをなみなみとついだ。若者たちはうやうやしげに、試みにひとなめする彼に目を据えていた。

「情けないことに、」彼はにっこりとして言った。「これが医者の命令でね」

彼のしわくちゃの顔にあからさまな笑みがパッと広がり、三人の妙齢のご婦人方は彼の冗談に調子よく呼応して笑い、肩をぴくぴく震わせ、からだを前後に揺すっていた。最も勇敢な一人が言った。

「あら、まあ、ブラウンさん、間違いなくお医者様は決してそのようなことを命令なさいませんわ」

ブラウン氏はもう一口ウィスキーをすすり、からだを横にして歩くまねをして言った。

「おや、だってねえ、私は有名なキャシディ夫人みたいなもんで、伝えられるところによれば彼女はこう言ったそうですな。『まあ、メアリー・グライムズ、私が飲まなかったら、飲ませてちょうだい、私は飲みたいんだから』」

ちょっとあまりになれなれしく彼の熱した顔が前のめりになり、また彼が非常に下品なダブリンなまりを装ったので、妙齢のご婦人方は、一様に本能が働き、無言で彼の話を受けた。メアリー・ジェーンの生徒の一人であるミス・ファーロングはミス・デイリーに彼女が弾いていた見事なワルツの名は何と言うのか尋ねた。で、ブラウン氏は、無視されたと見て取ると、早速もっと話のわかる二人の若い男たちの方を向いた。

パンジーの服を着た赤い顔の若い女が、興奮気味に手を叩き叫びながら部屋に入った。

「カドリール! カドリール!」

彼女のすぐ後にケイト叔母も続き、叫んだ。

「殿方が二人とご婦人が三人よ、メアリー・ジェーン!」

「ああ、こちらにミスター・バーギンとミスター・ケリガンが」とメアリー・ジェーンは言った。「ケリガンさん、ミス・パワーといかが? ミス・ファーロング、あなたのパートナーにバーギンさんでは。ああ、ほら、それでちょうどいいわ」

「ご婦人は三人よ、メアリー・ジェーン」とケイト叔母が言った。

二人の若い紳士が婦人たちにお相手をさせていただけませんかと尋ね、メアリー・ジェーンはミス・デイリーに目を向けた。

「ああ、ミス・デイリー、二曲ダンスの伴奏をなさったばかりで本当にすごく申し訳ないけれど、今夜は本当にご婦人がとても足りないの」

「ちっともかまいませんことよ、ミス・モーカン」

「でもあなたには素敵なパートナー、テノールのミスター・バーテル・ダーシーがいてよ。私、彼に後で歌っていただくの。ダブリン中が彼に夢中になってるわ」

「すばらしい声、すばらしい声よ!」とケイト叔母が言った。

ピアノが最初のフィギュアのプレリュードを二度も始めていたので、メアリー・ジェーンは急いで補充メンバーを部屋から導いた。彼らが出て行くとすぐにジュリア叔母が背後の何かを見ながらゆっくりと部屋にさまよいこんできた。

「どうしたの、ジュリア?」ケイト叔母が心配そうに尋ねた。「誰なの?」

円柱状のテーブルナプキンを持って入ってきたジュリアは、姉の方を向き、簡単に、その質問に驚いたかのように言った。

「いえただフレディよ、ケイト、それとゲイブリエルも一緒」

事実、彼女のすぐ後ろにゲイブリエルが見え、フレディ・マリンズを先導して階段の踊り場を横切っていた。後者は四十くらいの若い、ゲイブリエルと同じ背格好、体格で、かなり猫背の男だった。彼の顔は肉付きがよくて青白く、厚く垂れ下がった耳たぶと広がった小鼻だけが色に染まっていた。彼は下品な顔立ち、だんご鼻、出っ張って髪の後退した額、腫れて突き出た唇をしていた。重くまぶたの垂れた目や乏しい髪の乱れは彼を眠そうに見せていた。彼は階段上でゲイブリエルにしていた自分の話に高調子に思い切り笑いながら、同時に左のこぶしの指のつけ根の関節で左の目を前に後にこすっていた。

「今晩は、フレディ」とジュリア叔母が言った。

フレディ・マリンズはモーカン姉妹に、彼の声にいつもある引っかかりのためにぞんざいに思えるやり方で挨拶をし、それからブラウン氏が食器棚のところから彼に笑いかけているのを見てややふらつく足取りで部屋を横切り、今ゲイブリエルにしたばかりの話を小声で繰り返し始めた。

「彼、そう悪くないわよね?」とケイト叔母がゲイブリエルに言った。

眉を曇らせていたゲイブリエルだが、急いでそれを上げて答えた。

「おお、ええ、ほとんどわからない」

「まあ、ひどい人じゃない!」と彼女は言った。「それに気の毒に彼のお母さん、大晦日に彼に禁酒の誓いをさせたのよ。でも行きましょう、ゲイブリエル、客間へ」

ゲイブリエルと一緒に部屋を出ていく前に、彼女はブラウン氏への合図として眉をひそめ、人差し指を警告として前後に振った。ブラウン氏は応えてうなずき、そして彼女が行ってしまうとフレディ・マリンズに言った。

「さあ、それじゃあ、テディ、ちょっと君を元気づけるためにグラスになみなみとレモネードを満たすとしよう」

話がクライマックスに近づいていたフレディ・マリンズは気短に申し出を退けたが、ブラウン氏はまず服装の乱れにフレディ・マリンズの注意を向けさせ、レモネードをグラスになみなみとついで彼に手渡した。右手が機械的に服を直すことで忙しくしていたフレディ・マリンズの左手はグラスを機械的に受け取った。もう一度顔に陽気なしわを寄せたブラウン氏は自分のグラスにウィスキーを注いだが、フレディ・マリンズの方は首尾よく話のクライマックスに達する前に、せきこんで痙攣するような高い笑い声を爆発させ、好みでないあふれんばかりのグラスを下に置くと、左のこぶしの指関節で左の目を前に後にこすり始め、笑いの発作の許すだけ最後の一節の言葉を繰り返していた。


メアリー・ジェーンが静かな客間にルラードや難しい楽節を駆使した彼女のアカデミーでの曲を演奏する間、ゲイブリエルは耳を傾ける気になれなかった。彼は音楽が好きだったが、彼女の演奏している曲の調べは彼にとって少しも快い調べではなかったし、聞いている他の人たちだって何か弾いてくれとメアリー・ジェーンに懇願したとはいうものの、これが彼らにとっていくらかでも快いものかどうか彼は疑っていた。ピアノの音に軽食堂から来て戸口に立っていた四人の若い男たちは、数分後には二人ずつ静かに立ち去ってしまった。その音楽から耳が離せないらしい人物は、その両手が鍵盤の上を疾走し、あるいはそこから持ち上げられて瞬間的に呪いをかける巫女のように休止するメアリー・ジェーンその人と、ページをめくるために彼女のひじ先に立っているケイト叔母だけだった。

ゲイブリエルの目は、大きなシャンデリアの下、蜜蝋でピカピカ光る床を見て痛くなったため、ピアノの上の壁をさまよっていた。そこにはロミオとジュリエットのバルコニーの場面の絵がかかり、そのそばにはジュリア叔母が少女だった頃に赤、青、茶色の毛糸で刺繍した、ロンドン塔で殺された二人の王子の絵があった。おそらく少女たちが通っていた学校ではそのようなものの製作が一年間教えられたのだろう。彼の母親は彼に誕生日のプレゼントとして、子狐の頭をいっぱいつけ、茶色のサテンの裏地で赤紫の丸いボタンのついた、波紋のある紫色の絹布のベストを作ってくれた。不思議なことに彼の母親には音楽の才能がなかった。ケイト叔母は彼女をモーカン一家の頭脳の泉と呼んでいたけれど。ケイトもジュリアも常々まじめで落ち着いた姉をちょっと誇りに思っているようだった。彼女の写真は大鏡の前に立っていた。彼女はひざの上に開いた本をのせ、水兵の服を着て彼女の足もとに横になっているコンスタンタインに、その中の何かを指し示していた。息子たちの名前を選んだのは彼女だった。というのも彼女は家庭生活の品位をとても意識していたからだ。彼女のおかげでコンスタンタインは今、バルブリガンで主席助任司祭だし、彼女のおかげでゲイブリエル自身は王立大学で学位を取ったのだった。彼女が彼の結婚に意地悪く反対したことを思い出した彼の顔に影がよぎった。彼女の使った軽侮するような言い回しが彼の記憶のうちでまだしこりとなっていた。彼女は一度グレタのことをいなか育ちの抜けめない娘と言ったが、それは本当のグレタとは全く違っていた。彼女の晩年の長患いの間ずっと彼らのマンクスタウンの家で彼女を看病したのはグレタだった。

メアリー・ジェーンが小節ごとに装飾音のある冒頭のメロディーを再び演奏していたので、彼女の曲も終わりに近づいたに違いないと彼は知り、その終わりを待つ間に彼の心のうちの憤りも次第に消えていった。高音部のオクターブのトリル、そして最後に低音部の荘重なオクターブをもってその曲は終わった。顔を赤らめ、神経質に楽譜を丸めながら部屋を逃げ出すメアリー・ジェーンを大変な拍手喝采が迎えた。最も力強い拍手の音は、曲の始まりに軽食堂へ行ってしまったのにピアノが止まると戻ってきた戸口の四人の若い男たちから聞こえた。

ランサーズが準備された。ゲイブリエルのパートナーはミス・アイバースになった。彼女は率直な態度の話し好きな若い女性で、そばかすのある顔、出っ張った茶色の目をしていた。彼女は襟ぐりの深いボディスは身につけず、襟の前に留められた大きなブローチはアイルランドの象徴と教えを表していた。

彼らが決められた位置に着いた時、彼女が唐突に言った。

「あなたに文句があるの」

「僕に?」とゲイブリエルが言った。

彼女は大まじめにうなずいた。

「何です?」とゲイブリエルは彼女のまじめくさった様子に微笑んで尋ねた。

「G・Cというのは誰?」とミス・アイバースは目を彼に向けて答えた。

ゲイブリエルが顔を赤らめ、理解できないかのように眉をひそめようとした時、彼女が無遠慮に言った。

「おお、しらばっくれて! あなたがデイリーエクスプレスに寄稿しているのを見つけたんだから。さあ、恥ずかしくない?」

「なぜ僕が恥ずかしがらなければならないのです?」とゲイブリエルは瞬きをし、微笑もうと努めながら尋ねた。

「あら、私はあなたが恥ずかしいわ」とミス・アイバースは率直に言った。「あんな新聞に文章を書くなんて。あなたがウェストブリトンとは思わなかった」

当惑の表情がゲイブリエルの顔に現れた。彼がデイリーエクスプレスに毎週水曜日、文学のコラムを書き、それで十五シリングの報酬を受けているのは本当だった。しかしまさかそれで彼がウェストブリトンということにはならない。論評のために彼が受け取る本はわずかな金額の小切手よりもありがたいくらいだった。彼は印刷されたばかりの本の表紙に触れ、ページをめくるのが好きだった。ほとんど毎日カレッジでの授業を終わらせると、彼はバチェラーズウォークのヒッキイや、アストンズキーのウェブやマッシーや、裏通りのオクロヒッシーなどの古本屋のある河岸を歩き回っていた。彼は彼女の非難にどう対処すべきかわからなかった。彼は文学は政治を超越していると言いたかった。しかし彼らは長年にわたる友人であり、最初に大学、それから教師として、と経歴もよく似ているので、あえて彼女にえらそうな言葉を使うことはできなかった。彼は相変わらず瞬きをして微笑もうと努め、本の評論を書くことに政治的なものがあるとは思えないと小声で力なく言った。

彼らがクロスする番になっても彼はまだ当惑してぼんやりしていた。ミス・アイバースは機敏に彼の手を取って温かく握りしめ、穏やかな優しい調子で言った。

「もちろん、ただの冗談よ。さあ、私たちクロスするの、今よ」

彼らが再び一緒になった時、彼女は大学問題について話し、ゲイブリエルはほっとした。彼女の友人が彼女に彼のブラウニングの詩の評論を見せていた。それで彼女は秘密を見つけ出したのだが彼女はその評論が非常に気に入った。それから彼女は突然言った。

「ああ、コンロイさん、今度の夏、アラン諸島へ旅行に行きません? 私たちまる一月そこに泊まるつもりなの。大西洋に出るのはすてきでしょう。あなたも来るべきだわ。クランシーさんも来るし、キルケリーさんとキャスリーン・カーニーも。もし来ればグレタにとってもすばらしいでしょうよ。彼女はコナハトの出身よね?」

「彼女の実家はね」とゲイブリエルは短く答えた。

「でもあなた行くでしょう?」とミス・アイバースは、温かい手をしきりに彼の腕に置いては言った。

「実は、」ゲイブリエルは言った。「ちょうど出かける手はずをしたところで――」

「どこへ行くの?」ミス・アイバースは尋ねた。

「ええっとね、毎年僕は何人かの仲間と自転車旅行に行って、それで――」

「でもどこへ?」とミス・アイバースは尋ねた。

「ええと、僕らはいつもフランスかベルギー、あるいはドイツに行く」とゲイブリエルはきまり悪そうに言った。

「それでなぜフランスやベルギーに行くわけ、」ミス・アイバースは言った。「自分自身の国を訪れるかわりに?」

「ええと、」ゲイブリエルは言った。「一部はそこの言語に触れるため、一部は変化を求めて」

「それで自分自身の言語に触れなくてはだめでしょう――アイルランド語に?」とミス・アイバースは尋ねた。

「ええと、」ゲイブリエルは言った。「そういうことになるとしても、ね、アイルランド語は僕の言葉ではないから」

まわりの人たちが厳しい追及を聞こうと顔を向けていた。ゲイブリエルは神経質に左右をちらっと見て、彼の額に赤みを押し広げている苦しい試練の下、上機嫌を保とうとしていた。

「それに訪れなくていいの、」ミス・アイバースは続けた。「あなたが何も知らないあなた自身の地を、あなた自身の兄弟を、あなた自身の祖国を?」

「おう、実のところ、」ゲイブリエルは不意に言い返した。「僕は自分自身の国にうんざりしているんだ。うんざりなんだ!」

「なぜ?」ミス・アイバースが尋ねた。

ゲイブリエルは反駁して興奮していたので答えなかった。

「なぜ?」とミス・アイバースは繰り返した。

彼らは共にほかの組に近づかなければならず、彼が答えなかったので、ミス・アイバースは熱くなって言った。

「もちろん、答えられないわね」

ゲイブリエルは動揺を隠そうとして非常に精力的にダンスをこなした。彼は彼女の顔に不機嫌な表情を見たので彼女の目を避けた。しかし彼らが長いチェインで接触したとき、彼は手を固く握られたのを感じて驚いた。彼女は彼が微笑むまでのちょっとの間、眉の下からいぶかしげに彼を眺めた。それから、ちょうどチェインが再び始まろうとしかけた時、彼女はつま先立ちで彼の耳にささやいた。

「ウェストブリトン!」

ランサーズが終わるとゲイブリエルはフレディ・マリンズの母親が座っている部屋の遠くの隅へと立ち去った。彼女は太ってからだの弱った白髪の老婦人だった。彼女の声には息子と同じように引っかかりがあり、また彼女は少しどもっていた。彼女はフレディが来ていること、彼がほとんど大丈夫なことを聞かされていた。ゲイブリエルは彼女に渡航は快適だったかと尋ねた。彼女は結婚した娘とグラスゴーに住んでいて、年に一度、ダブリンに来て滞在した。彼女は船旅はすばらしく船長は彼女にとても親切だったと穏やかに答えた。彼女はまた、娘が守るグラスゴーのすばらしい家について、そしてそこにいる友達みんなについて話した。彼女が取りとめなくしゃべる間、ゲイブリエルはミス・アイバースとの不愉快な出来事の記憶をすべて心から追い払おうとした。もちろん、あの娘というか女というか、何であるにせよ彼女は、熱狂家ではあるが、何事にも時というものがある。おそらく彼はあんなふうに答えるべきではなかったのだろう。しかし彼女にはたとえジョークにせよ、人前で彼をウェストブリトンと呼ぶ権利はない。彼女はうるさく質問したりあのウサギの目でじろじろ見たりして、人前で彼を笑いものにしようとしたのだ。

彼は妻が、ワルツを踊るカップルたちの間を彼の方へ進んでくるのを見た。彼のところに着いた彼女は彼に耳打ちした。

「ゲイブリエル。あなたがいつものようにガチョウを切り分けてくれるかケイト叔母さんが聞いてくれって。ミス・デイリーが豚のもも肉を切るし、私はプディングをやるわ」

「オーケー」とゲイブリエルは言った。

「彼女がこのワルツが終わり次第まず若い人たちを部屋に入れて、それから私たち食事が取れるわ」

「君は踊っていた?」とゲイブリエルは尋ねた。

「もちろん踊ったわ。見なかった? あなたはモリー・アイバースと何をけんかしたの?」

「けんかなんかしないよ。何で? 彼女がそう言った?」

「そのようなことをね。私はあのダーシーさんに歌ってもらおうと思うの。彼はすごいうぬぼれ屋のようね」

「けんかなんかなかったよ、」ゲイブリエルはむっつりとして言った。「ただ彼女が僕を西アイルランドへの旅行に誘ったんだが僕はその気はないと言ったんだ」

彼女は興奮して手を握りしめ、ちょっとジャンプした。

「おお、ぜひ行きましょう、ゲイブリエル」と彼女は叫んだ。「またゴールウェイを見に行きたいわ」

「よかったら君は行けばいい」とゲイブリエルは冷たく言った。

彼女はちょっとの間彼を見ていたが、それからマリンズ夫人の方を向いて言った。

「素敵なご主人でしょう、マリンズさん」

彼女が部屋を縫うように横切り戻っていく間、マリンズ夫人は中断を意に介さず、スコットランドにはどんなに美しいところ、美しい風景があるかをゲイブリエルに話し続けていた。彼女の婿が毎年彼女たちを湖に連れていき、みんなでいつも釣りをしに行く。娘婿は釣りの名人だ。いつか彼はすばらしい大きな大きな魚を捕まえ、ホテルの人がそれをディナーに料理してくれた。

ゲイブリエルは彼女が言ったことをほとんど聞いていなかった。今や夜食が近づいたので、彼は再びスピーチのことを、あの引用のことを考え始めた。フレディ・マリンズが母親に挨拶するために部屋を横切ってくるのを見てゲイブリエルは彼のために椅子をあけ、窓のくぼみのところに退いた。部屋は既にがらんとして、奥の部屋からは皿やナイフのガチャガチャ鳴る音が聞こえた。まだ客間に残っている人たちは踊り飽きたらしく、小人数に分かれて静かに談話を交わしていた。ゲイブリエルの熱く震える指は冷たい窓ガラスをコツコツ叩いた。さぞかし外はひんやりするだろう! 一人で外を歩いたらどんなに気持ちよかろう。まずは川沿いに、それから公園を通って! 雪は木々の枝に積もり続け、ウェリントンの記念碑のてっぺんに輝く帽子を形作っているだろう。夜食の席よりどんなにか気持ちよかろう!

彼はスピーチの項目をざっと見直した。アイルランド人の親切なもてなし、悲しい思い出、三美神、パリス、ブラウニングからの引用。彼は評論に書いた言葉を胸のうちで繰り返した。「人は思想の苦しむ調べに耳を傾ける自分を感じる」ミス・アイバースは評論を称賛した。心からなのか? あの政治的宣伝主義にほかならぬものの後ろに彼女自身の生活が本当にあるのか? その夜以前、彼らの間に悪感情は決してなかった。彼女が夕食の席にいて、彼が話す間彼を批判的な詰問するような目で見上げることを考えると彼は怖気づいた。たぶん彼女は彼がスピーチを失敗するのを見ても気の毒には思わないだろう。ある考えが心に浮かんで彼を勇気づけた。ケイト叔母とジュリア叔母をほのめかして彼は言うのだ。「皆さん、今、私たちの間で衰えつつある世代に欠点はあったかもしれませんが、私の考えでは彼らは親切なもてなし、ユーモア、人間愛といった性質を持っており、それは私たちの周りに育ちつつある新しい、非常にまじめな、過剰な教育を受けた世代には欠けているように思えます」とてもいい。ミス・アイバースへのあてつけだ。彼の叔母たちがただの二人の無知な老婦人だとて彼が何をかまうものか。

部屋のざわめきが彼の注意を引いた。ブラウン氏が、彼の腕に寄りかかり、微笑み、頭を垂れているジュリア叔母を丁重にエスコートしながらドアから進み出ていた。不規則な小銃射撃のような拍手喝采もまたピアノのところまで彼女に付き添い、その後それは、メアリー・ジェーンがスツールに着席し、そしてジュリア叔母がもはや微笑みを消して室内にはっきりとした声を響かせるために半ば向き直ると、次第にやんでいった。ゲイブリエルは前奏曲に覚えがあった。ジュリア叔母のあの懐かしい歌――『花嫁の衣装を着て』だった。彼女の声は力強く、さえた音色で、すばらしい気迫でメロディーを装飾するルラードに取り掛かり、そして非常に速いテンポにもかかわらず、彼女は最も小さな装飾音さえ飛ばさずに歌った。歌い手の顔を見ることなく声を追うと、迅速で確かな飛翔の興奮を感じ、共有できた。ゲイブリエルは歌が終わった時、他の皆と共に大きな拍手喝采を送り、また大きな喝采は見えない夜食のテーブルからも聞こえてきた。その響きは心からのものであり、表紙に彼女のイニシャルのある古い革張りの歌の本を譜面台に戻すためにかがんだジュリア叔母の顔にも赤らみがやっとかすかに浮かんだ。フレディ・マリンズは、よく聞こえるように首を斜めにして耳を傾けていたが、他の皆がやめてもまだ拍手を続け、生き生きとして母親に話しかけていたが、彼女は逆らわず、重々しくゆっくりとうなずいていた。とうとう、もう手を叩けないとなると彼は突然立ち上がって急いでジュリア叔母のところへと部屋を横切り、彼女の手をつかんで両手で握り、言葉が出ない、あるいは声が引っかかってどうにもならないとなると、それを揺すぶっていた。

「今も母に言っていたところです」彼は言った。「こんなに上手に歌うのを聞いたことはありません、決して。いや、今夜のように見事なあなたの声を聞いたことがありません。さあ! もう信じてください。本当です。名誉にかけて誓って本当です。僕は聞いたことがない、あなたの声がとても生き生きとして、そしてとても……とてもさえざえとして生き生きとして、決して」

ジュリア叔母は彼に握られた手を振りほどきながら、口を大きく開けて笑い、賛辞について何か小声で言った。ブラウン氏は広げた手を彼女の方に伸ばし、近くにいる人たちに、聴衆に驚嘆すべきものを紹介する興行師のように言った。

「ミス・ジュリア・モーカン、我が最新の発見です!」

彼がこう言って自分で思う存分たっぷりと笑っていると、フレディ・マリンズが彼の方を向いて言った。

「ねえ、ブラウン、君が真剣としてもこれ以上の発見はするまいよ。僕に言えるのは、僕がここに来ている間、この半分も上手に彼女が歌うのを聞いたことがない、ということだけだ。そしてそれは嘘偽りない真実だ」

「私だってそう思う」とブラウン氏は言った。「彼女の声は大いに良くなったと思うよ」

ジュリア叔母は肩をすくめ、おとなしい自尊心をのぞかせて言った。

「声ということでは三十年前は私、悪い声ではなかったわ」

「よくジュリアに言ったものよ、」ケイト叔母が力を込めて言った。「あの聖歌隊にただ使い捨てにされるだけと。でも彼女は決して私に耳を貸さなかった」

彼女は手に負えない子どもに対抗して他の人たちの良識に訴えるかのように振り向いたが、ジュリア叔母の方は前をじっと見つめ、追憶によるあいまいな微笑が顔にゆらめいていた。

「そうよ、」ケイト叔母は続けた。「彼女は誰に言われたって聞かないで、昼も夜も、昼も夜も、あの聖歌隊で奴隷のように働いた。クリスマスの朝の六時! そしてみんな何のため?」

「あら、それは神の栄光のためじゃない、ケイト叔母さん?」とメアリー・ジェーンが、ピアノのスツールの上でからだをねじって微笑みながら尋ねた。

ケイト叔母は猛烈な勢いで姪に向かって言った。

「神の栄光についてはよおく知ってますよ、メアリー・ジェーン、でも生涯奴隷のように働いた女たちを聖歌隊から追い出し、彼女たちをさしおいて小生意気な少年たちを据えるなんてちっとも教皇の名誉にならないと思うわ。教皇がそうするんだったらそれは教会のためなんでしょう。でも公正じゃないわ、メアリー・ジェーン、そして正当じゃないわ」

彼女はそのことで心を痛めていたので次第に激昂し、妹の擁護を続けるつもりでいたが、メアリー・ジェーンは踊り手が皆戻ってきたのを見て、平和的に介入した。

「ほら、ケイト叔母さん、宗派が違うブラウンさんの反感を買ってますよ」

ケイト叔母は、この、彼の宗教への言及ににやついているブラウン氏の方を向いて急いで言った。

「ああ、教皇の正しいことを疑うわけじゃないんですの。私はただのばかな年寄り女ですし、そのようなことをしようとは考えてもいません。でも普通の日常の礼儀とか感謝とかがあるじゃないですか。だから私がジュリアの立場だったらあのヒーリー神父にまっすぐ面と向かって言って……」

「その上にね、ケイト叔母さん、」メアリー・ジェーンが言った。「私たち本当にみんなお腹がすいているし、お腹がすいている時は私たちみんなすごくけんか腰になるわ」

「それとのどが渇いた時も私たちはやはりけんか腰ですな」とブラウン氏が付け加えた。

「だから私たち夜食にした方がいいわね、」メアリー・ジェーンは言った。「そして討論はその後済ましましょう」

ゲイブリエルが客間の外の踊り場に出ると、妻とメアリー・ジェーンが夜食に残るようにとミス・アイバースを説得しようとしていた。しかしミス・アイバースは帽子をかぶり、マントのボタンをかけ、とどまろうとしなかった。彼女はちっともお腹がすいていないし、もう予定より長居してしまったのだった。

「でもほんの十分、モリー」とコンロイ夫人は言った。「それで遅くなりはしないわ」

「つつくだけでも、」メアリー・ジェーンが言った。「あれだけ踊った後ですもの」

「ほんとにだめなの」とミス・アイバースは言った。

「少しも楽しく過ごせなかったのじゃないかしら」とメアリー・ジェーンが絶望して言った。

「とっても楽しかったわ、ほんとよ、」ミス・アイバースは言った。「でも本当にもう帰らせて」

「でもどうやって家まで帰り着くの?」とコンロイ夫人が尋ねた。

「おお、河岸沿いをほんの一足だもの」

ゲイブリエルはちょっとちゅうちょして言った。

「よかったら、ミス・アイバース、本当に行かなくちゃならないなら僕が家へ送りましょう」

しかしミス・アイバースは彼らから逃げ出した。

「とんでもないわ」と彼女は叫んだ。「お願いだから夜食にいらして、そして私のことはおかまいなく。私は自分の面倒はよおっく見られますから」

「まあ、あなたっておかしな娘ね、モリー」とコンロイ夫人が率直に言った。

「ごきげんよう!」とミス・アイバースは笑って階段を駆け下りながらゲール語で叫んだ。

メアリー・ジェーンはむっつりとした当惑の表情を顔に浮かべじっと彼女を目で追っていたが、コンロイ夫人は手すりから身を乗り出して玄関のドアに聞き耳を立てていた。ゲイブリエルは彼女が唐突に出て行ったのは彼が原因かと自問した。しかし彼女は不機嫌には見えなかった。彼女は笑いながら行ったのだから。彼はぼんやりと階段を見つめていた。

その時ケイト叔母が夜食の部屋から絶望に手を絞らんばかりにして、よちよちと現れた。

「ゲイブリエルはどこなの?」彼女は叫んだ。「いったいゲイブリエルはどこ? あちらで皆さん待っているのよ。幕は開いたわ。誰もガチョウを切り分ける人がいないの!」

「ここにいますよ、ケイト叔母さん!」ゲイブリエルは突然活気をおびて叫んだ。「必要ならガチョウの群れでも喜んで切り分けますよ」

太った茶色のガチョウがテーブルの一方の端に置かれ、他方の端にはひだをつけた紙にパセリの小枝をまき散らしたベッドの上に大きな豚のもも肉が外側の皮をむかれ、パンの皮の粉と共にコショウで味付けされて置かれ、そのすねの周りにはこぎれいな紙飾り、そしてこのそばにはスパイスされた牛のもも肉があった。これら対抗する両端の間には、添え料理が平行線上に並んでいた。赤と黄色のゼリーでできた小さな聖堂が二つ、ブランマンジェの塊と赤いジャムでいっぱいの平皿、茎の形の柄のついた大きな緑の葉の形の皿の上には紫のレーズンの房と皮をむいたアーモンドが置かれ、対の皿にはスミュルナイチジクがぎっしり長方形に並べられ、ナツメグをすりおろしてかけたカスタードが一皿、金や銀の紙にくるんだチョコレートやキャンディーをいっぱいにした小さなボール、そして細長いセロリの茎を入れたガラスの瓶。テーブルの中央には、オレンジとアメリカリンゴのピラミッドを支えるフルーツ台の歩哨として、二つのずんぐりした古風なカットグラスのデカンターが立ち、一方にはポートワインが、他方には色の濃いシェリー酒が入っていた。閉じたスクエアピアノの上には巨大な黄色い皿のプディングが侍し、その後にはスタウトとエールとミネラルウォーターの三分隊の瓶が、初めの二つは茶と赤のラベルのついた黒、三つ目のもっとも小さな分隊は緑の帯の横断する白、というふうにその制服の色に従って整列していた。

ゲイブリエルは大胆に上座に着き、肉切り包丁の刃に注意を向けながら、ガチョウにフォークをしっかりと突き刺した。彼は今やずっと気楽だった。というのも彼は肉を切るのは熟練していたし、たっぷりごちそうのある席の上座に着くのは何より好きだった。

「ミス・ファーロング、あなたには何を差し上げましょう?」と彼は尋ねた。「手羽先、それとも胸肉のスライス?」

「胸肉のスライスをほんの少し」

「ミス・ヒギンズ、あなたには何を?」

「ああ、何でも、コンロイさん」

ゲイブリエルとミス・デイリーがガチョウの皿と豚のもも肉とスパイスをしたビーフの皿をやり取りする間、リリーは白いナプキンに包んだ熱い粉ふきジャガイモの皿を客から客へと持っていった。これはメアリー・ジェーンのアイデアで、彼女はまたガチョウにアップルソースをと提案したが、ケイト叔母がアップルソースなんかつけないあっさりした焼いたガチョウでいつも十分おいしかったし、下手なことをするなら食べないほうがいいと言った。メアリー・ジェーンは彼女の教え子たちの給仕をし、彼らが一切れずつ好きなのを選び取れるよう気をつけていたが、ケイト叔母とジュリア叔母はピアノから、殿方にはスタウトとエールの瓶を、ご婦人方にはミネラルウォーターの瓶を開け、持って行き来した。混乱に笑い声に騒音、注文や注文取りの、ナイフやフォークの、コルク栓やガラス栓の騒音でいっぱいだった。ゲイブリエルは最初の一回りを終えると自分の分を取らずにすぐにお代わりを切り始めた。皆が大声で抗議したので、肉を切るのはきつい仕事とわかっていた彼はたっぷり注いだスタウトを飲むことで妥協した。メアリー・ジェーンは落ち着いて食事に取り掛かったが、ケイト叔母とジュリア叔母は相変わらずよちよちとテーブルを回って、後になり先になりして歩き、互いに邪魔をして、互いに留意されない命令を出していた。ブラウン氏が彼らに席について食事をとるように懇願し、ゲイブリエルもそう言ったが、彼らは時間は十分にあると言い、それで、ついには、フレディ・マリンズが立ち上がり、ケイト叔母をなんとかとらえ、皆の笑いの中、彼女の席にどさっと下ろした。

皆に十分食べ物がいきわたったところでゲイブリエルが微笑みながら言った。

「さて、どなたか俗に言う丸焼きをいま少しお望みでしたらそう言ってください」

一斉に声が上がって彼に自分の食事を始めるように請い、リリーが彼のために取っておいたジャガイモ三つを持って進み出た。

「大変結構、」ゲイブリエルは、予備のもう一杯を飲みながら愛想よく言った。「皆さん、どうか数分間、僕の存在を忘れてください」

彼は夜食に着手し、リリーによる皿の移動を覆い隠すテーブルを囲む人たちの会話にも加わらなかった。話題になっていたのはその時王立劇場に来ていたオペラの劇団だった。バーテル・ダーシー氏、テノールの、浅黒い肌、スマートな口ひげの若い男は、劇団の主役のコントラルトを非常に高く称えたが、ミス・ファーロングは彼女の演技のスタイルはむしろ俗悪だと思った。フレディ・マリンズがゲイアティの芝居の二部で歌っていた黒人の酋長はかつて聞いた中でも最も見事なテノールだったと言った。

「あなたは彼のを聞きましたか?」と彼はテーブル越しにバーテル・ダーシー氏に尋ねた。

「いや」とバーテル・ダーシー氏はぞんざいに答えた。

「というのは、」フレディ・マリンズが説明した。「今彼についてのあなたの意見が聞かせてもらえたらと思ったのでね。僕は彼は堂々たる声だと思います」

「テディじゃなくちゃ本当にいいものは見つからないな」とブラウン氏がテーブルを囲む人々になれなれしく言った。

「それでなぜ彼だっていい声であってはいけないんですか?」とフレディ・マリンズは鋭く尋ねた。「彼が黒人にすぎないから?」

誰もこの質問には答えず、メアリー・ジェーンは一座の話題を正統なオペラに戻した。彼女の教え子の一人が彼女に『ミニョン』の入場券を贈ったのだった。もちろんそれはとてもすばらしかったけれどかわいそうなジョージナ・バーンズのことを考えさせられた、と彼女は言った。ブラウン氏はさらにもっと、昔ダブリンによく来ていたイタリアの一座のことにさかのぼったのだった――ティーチェンス、イルマ・ド・ムルズカ、カンパニーニ、偉大なトレベリ、ジャグリーニ、ラベーリ、アランブロ。あの頃はダブリンでも歌らしいものが聞けたものだったと彼は言った。彼はまた、かつての王立劇場の天井桟敷が毎晩毎晩埋め尽くされたさまを、ある晩イタリアのテノールが必ずハイツェーを挿入して『レットミーライクアソルジャーフォール』まで五回もアンコールに応えて歌ったさまを、そして大向こうの少年たちがある時熱狂のあまりどうしても自分たちで彼女をと、ある偉大なプリマドンナの馬車の馬のくびきをはずし、ホテルまでの通りをずっと引いていったさまを語った。彼は尋ねた。なぜ今では華やかな昔のオペラ、ディノーラ、ルクレツィア・ボルジアを演じないのか? それはそれらを歌うだけの声を獲得できないからだ。それが理由だ。

「おお、でも、」とバーテル・ダーシー氏は言った。「今日でも当時と同じように良い歌手はいると私は思います」

「どこにいます?」とブラウン氏が挑戦的に言った。

「ロンドン、パリ、ミラノに」とバーテル・ダーシー氏は熱心に言った。「たとえば、カルーソーはあなたが触れられた人たちの誰かに優るとは言わないまでも、まったく同じくらいうまいと思います」

「そうかもしれませんな」とブラウン氏は言った。「でもねえ強い疑いを禁じえませんね」

「ああ、カルーソーが歌うのを聞けるなら何でもあげるわ」とメアリー・ジェーンが言った。

「私にとっては、」骨をつついて取っていたケイト叔母が言った。「テノールはただ一人だけよ。私のお気に入りは、という意味よ。でもあなたたち誰も彼を聞いたことないでしょうね」

「それは誰ですか、ミス・モーカン?」バーテル・ダーシー氏が礼儀正しく尋ねた。

「彼の名は、」ケイト叔母は言った。「パーキンソン。私は彼の全盛期に聞いて、そのときの彼はかつて男性ののどに与えられた中で最も澄んだテノールだと思ったわ」

「知らない」とバーテル・ダーシー氏は言った。「名前を聞いたことすらありません」

「そう、そうです。ミス・モーカンの言う通りです」とブラウン氏が言った。「懐かしいパーキンソンを聞いたことを思い出しますが、あまりに昔のことなので」

「美しく、澄んで、甘く、豊かなイギリス人のテノール」とケイト叔母は熱狂して言った。

ゲイブリエルが済ませたので、巨大なプディングがテーブルに移された。フォークとスプーンのガチャガチャいう音が再び始まった。ゲイブリエルの妻がプディングをスプーン一杯ずつ取り分け、皿がテーブルを回された。途中でそれらはメアリー・ジェーンに止められ、キイチゴかオレンジのゼリーあるいはブランマンジェとジャムで満たされた。プディングはジュリア叔母が作ったもので、彼女は四方八方からそれを称賛された。彼女自身は茶色が今ひとつだと言った。

「ちょっと、ミス・モーカン、」ブラウン氏が言った。「どうです。茶色なら私は十分お気に召すでしょう。だってねえ、私は紛れもないブラウンですから」

紳士一同こぞって、ゲイブリエルは別だが、ジュリア叔母に敬意を表してプディングを少々食べた。ゲイブリエルは決して甘いものを食べなかったので、彼にはセロリが残っていた。フレディ・マリンズもセロリの茎を取り、プディングと一緒にそれを食べた。彼はセロリは血液のためにとてもよいものだと言われていたし、彼はちょうどその時医者に診てもらっていた。食事の間ずっと黙っていたマリンズ夫人が、息子が一週間かそこらたったらメラレイ山に行くことになっていると言った。それからテーブルの人々はメラレイ山について、いかにそこでは空気がすがすがしいか、いかに修道士が厚くもてなしてくれるか、そして何と彼らがペニー銅貨一枚、客から求めないことを話した。

「それじゃ何ですか、」ブラウン氏が容易に信じないで尋ねた。「男がそこへ出かけていってまるでホテルのように泊まり、贅沢に過ごしてそれで何も払わないで出てこられると言うんですか?」

「ああ、たいていの人は出発の時に修道院にいくらか寄付をしますわ」とメアリー・ジェーンが言った。

「私たちの教会にもそのような施設があればいいですなあ」とブラウン氏は腹蔵なく言った。

彼は修道士たちが決して口をきかず、朝の二時に起きて、棺で眠ると聞いてびっくりした。彼は何のために彼らがそうするのか尋ねた。

「修道会の規則ですわ」とケイト叔母がきっぱりと言った。

「そうですか、でもなぜ?」とブラウン氏は尋ねた。

ケイト叔母はそれは規則であり、それだけだと繰り返した。ブラウン氏はまだ理解できないようだった。フレディ・マリンズが彼に、修道士たちは外の世界のすべての罪びとたちが犯した罪の埋め合わせをしようとしていると精一杯説明した。その説明はあまり明瞭ではなく、ブラウン氏はにやにやして言った。

「その考え方は非常に気に入ったけれど、棺もいいが快適なばねのあるベッドも彼らの役に立つんじゃないのかな?」

「棺は、」メアリー・ジェーンは言った。「彼らに来るべき最期を思い起こさせるためです」

話が陰気になってしまったのでその話題はテーブルを囲む人たちの沈黙の中に葬られたが、その間もマリンズ夫人の隣に話しかける不明瞭な小声が聞こえた。

「彼らは非常に善良な人たちです。修道士たちは、非常に敬虔な人たちです」

今度はレーズンとアーモンドとイチジクとリンゴとオレンジとチョコレートとキャンディーがテーブルのあちこちへ次々と回され、ジュリア叔母は客全員にポートワインかシェリー酒はいかがと勧めた。バーテル・ダーシー氏は初めどちらも断ったが、隣席の一人がそっと彼をつついて何かをささやくと、それで彼はグラスを満たされるがままにした。最後に残ったグラスも満たされていくと、次第に会話もやんでいった。ワインの音、落ち着かない椅子の動きだけが乱す間が続いた。ミス・モーカンは、三人ともうつむいてテーブルクロスを見ていた。誰かが一、二度せきをして、それから数人の紳士が静粛の合図としてテーブルを優しく叩いた。静寂が訪れてゲイブリエルは椅子を後に押しやった。

テーブルを叩く激励の音がすぐに大きくなり、それからすっかりやんだ。ゲイブリエルは十本の震える指をテーブルクロスにつき、神経質に一座に微笑みかけた。居並ぶ上向きの顔、顔に出会って、彼はシャンデリアへと目を上げた。ピアノはワルツの旋律を奏で、客間のドアにぶつかってすれるスカートの音が彼には聞こえた。人々はたぶん、雪の中、外の河岸に立ち、明かりのついた窓を見上げ、ワルツの調べに聞き入っているのだろう。そこは空気がきれいだ。遠くには公園があり、木々は雪でたわんでいる。ウェリントンの記念碑はきらきらする雪の帽子をかぶって、西の方のフィフティーン・エイカーズの白い広場の上に光を放っている。

彼は始めた。

「皆さん、

今宵も過ぎ去った年同様、私が、非常に楽しい役目を、しかし残念ながら私では話し手としてあまりに力不足と思われる役目を果たす巡り合わせになりました」

「とんでもない!」とブラウン氏が言った。

「しかし、そうであろうとも、私は今宵皆さんに、行為はその意志で見よの諺に倣い、この集まりにおいて私の感ずるところを言葉で言い表そうと努めるしばらくの間、私に耳をお貸しいただくようお願いするほかはありません。

皆さん、私たちがこの厚いもてなしの屋根の下に、この厚いもてなしの食卓の周りに、共に集うのは初めてではありません。私たちがある善良な婦人たちの親切なもてなしを受けたのは――いや、あるいは、犠牲者になったと言った方がよいかもしれません――初めてではありません」

彼は腕で空中に円を描きちょっと休止した。誰もが、喜びに赤く染まったケイト叔母、ジュリア叔母、メアリー・ジェーンに笑いかけ、あるいは微笑みかけた。ゲイブリエルはさらに大胆に続けた。

「年が巡りくるたびになおさら強く感じるのですが、我が国にはその親切なもてなしの伝統ほど、その名誉となり、油断なく死守すべき伝統はありません。それは私の知る限り、近代国家においては(そして私はかなり多数の外国の地を訪れたことがありますが)比類なき伝統であります。あるいは私たちにとってそれは自慢できる何かというよりむしろ欠点であると言う人もあるでしょう。しかしたとえそうであったとしても、それは、私の考えでは、王侯の欠点であり、長く私たちの間で養われていくものであると私は信じます。一つのことを、少なくとも、私は確信します。この一屋根がさきに申し上げた善良な婦人たちを保護する限り――そして私はこの先ずっとずっと長年にわたってそうなることを心から望みますが――私たちの祖先が私たちに伝え、今度は私たちが子孫に伝えなければならない、正真正銘の親切な思いやりのあるアイルランドの厚いもてなしの伝統は私たちの間にまだ生きているのです」

心からの同意のささやきがテーブルを走った。ミス・アイバースがそこにいないこと、そして彼女が不作法に立ち去ったことがゲイブリエルの心をさっとかすめた。そして彼は自信を持って言った。

「皆さん、

新しい世代が私たちの中に育っています。新しい考え方、新しい原則に動かされる世代です。まじめで熱狂的な世代です。というのもその新しい考え方やその熱狂は、それが間違った方向に向けられた時でさえ、思うに、概して嘘偽りのないものだからです。しかし私たちは懐疑的な、そして、こんな言い回しを使ってかまわなければ、思想の苦しむ時代に生きています。そして時々私は、この、教育のある、あるいは実のところ過剰に教育のある新しい世代は、あの、より古い時代に属する人間性、親切なもてなす心、思いやりのある気性といった資質を欠くことになるのではないかと思います。今夜、すべての昔の偉大な歌手たちの名前を聞いて、私たちは広々としたところの少ない時代に生きているように思える、と告白しなければなりません。あの頃は、誇張でなく、広々とした日々と呼んでよいでしょう。そしてあの日々は去って取り戻すことはできないとしても、少なくとも、このような集まりで私たちはこれからも誇りと愛情を持ってあの日々のことを語り、あの、名声がこの世から消えゆくことはないであろう、亡くなった偉大な人たちの記憶をこれからも心に抱いて大事にしていこうじゃありませんか」

「賛成、賛成!」とブラウン氏が大声で言った。

「しかしそれでも、」ゲイブリエルは声をより静かな音調に落として続けた。「このような集まりにおいていつも私たちの心に戻り来る悲しい思いがあります。過去についての、青年期についての、いろいろな変化についての、今夜残念ながらここに見られない顔についての思いです。私たちの人生行路にはそのような悲しい思い出が数多く散りばめられています。そしていつもそれをくよくよ考えていては、生者の中にあって勇敢に仕事を続けていく気力が湧きません。私たちには誰しも皆、生者の義務、生者の愛情があり、それには大変な努力が必要です。当然、必要です。

したがって私は過去にぐずぐずするつもりはありません。今夜ここで憂鬱な説教に私たちの邪魔をさせるつもりもありません。ここに私たちは毎日の決まりきった仕事のせわしさ、あわただしさの中から短い時間集まりました。私たちはここに友人として、友達のよしみの気持ちで、またある意味では同僚として、真の友愛の精神で、そして――彼らを何と呼んだらいいでしょう――ダブリンの音楽の世界の三美神、の客として、集まっています」

テーブルを囲む人たちはこの引喩にどっと拍手喝采し、笑い出した。ジュリア叔母は次々と隣の人たちにゲイブリエルが何と言ったのか教えてとむなしく頼んでいた。

「彼は私たちが三美神だと言ってるのよ、ジュリア叔母さん」とメアリー・ジェーンが言った。

ジュリア叔母はわからなかったが、顔を上げ、微笑んで、変わらぬ調子で続けるゲイブリエルを見た。

「皆さん、

私はあの時パリスが演じた役割を今宵演じてみようとは思いません。彼らのうちから選んでみようとは思いません。その仕事は公平を欠くものであり、私の乏しい能力を超えたものです。というのも私が彼女たちを順に、それが、その善良な心、その善良すぎる心が彼女を知る人すべての中で代名詞になってしまった主たる女主人その人なのか、それとも永遠の若さを与えられたかのような、そしてその歌声が今夜、私たちみんなにとって驚きであり新しい発見となったにちがいない彼女の妹なのかを見る時、あるいは、最後とはいえとっておき、有能、快活、勤勉にして最高の姪である私たちの最も若い女主人を考慮する時、実を言うと、皆さん、私は彼女たちのうち誰にその賞を与えるべきかわかりません」

ゲイブリエルは視線を下げて叔母たちをちらっと眺め、そしてジュリア叔母の顔に広がる笑みとケイト叔母の目にあふれた涙を見て、結論を急いだ。彼はポートワインのグラスを勇ましく持ち上げ、集まったメンバー全員が心待ちにして指でグラスをいじる中、大きな声で言った。

「三人まとめて全員のために乾杯しましょう。彼らの健康、富、長命、幸福、繁栄を祝して乾杯しましょう。そして願わくは彼らの専門における誇らしい、自ら勝ち取った地位を、そして私たちの心に占める名誉と愛情ある地位を彼らが長く持ち続けますように」

すべてのゲストが立ち上がり、グラスを手に、三人の座っている婦人たちの方を向き、ブラウン氏が音頭をとって斉唱した。

陽気で素敵な仲間だから、
陽気で素敵な仲間だから、
陽気で素敵な仲間だから、
誰もそれを否定できない。

ケイト叔母は遠慮なくハンカチを使い、ジュリア叔母すら感動したように見えた。フレディ・マリンズはプディングのフォークで拍子を取り、歌い手たちはあたかも音楽にのせた相談のように互いに向き合い、力をこめて歌った。

嘘をつかない限り、
嘘をつかない限り、

それから、もう一度女主人たちの方を向き、彼らは歌った。

陽気で素敵な仲間だから、
陽気で素敵な仲間だから、
陽気で素敵な仲間だから、
誰もそれを否定できない。

続いて大きな喝采が夜食の部屋のドアの向こうの多くのほかのゲストにも移り、何度も何度も繰り返され、フレディ・マリンズはフォークを高々と、指揮者の役を務めていた。


身にしみる朝の空気が彼らの立つホールに入ってきてケイト叔母が言った。

「誰かドアを閉めて。マリンズ夫人がひどい風邪をひくわ」

「ブラウンが外にいるわ、ケイト叔母さん」とメアリー・ジェーンが言った。

「ブラウンは神出鬼没よ」とケイト叔母が声を低めて言った。

メアリー・ジェーンは彼女の口調を笑った。

「本当に、」彼女はいたずらっぽく言った。「彼はとてもよく気がつくわ」

「彼はガス設備のようなものだったのよ、」ケイト叔母が同じ調子で言った。「クリスマスの間ずっと」

彼女は今度は上機嫌に笑いこけ、それから急いで付け加えた。

「でも彼に中に入るように言って、メアリー・ジェーン、そしてドアを閉めるように。私の言うことが聞こえてなければいいんだけど」

その時玄関のドアが開き、ブラウン氏が心臓が破裂するほど笑いながら戸口の段から入ってきた。彼は紛い物のアストラカンの袖口と襟のついた緑の長いコートを着て、頭には楕円形の毛皮の帽子をかぶっていた。彼が雪をかぶった河岸を指さすと、そこから長々とした鋭い口笛が聞こえてきた。

「テディはダブリン中の馬車を引っ張り出しちまうぞ」と彼は言った。

ゲイブリエルがコートに苦闘しながら事務所の後の小さな食器室から進み出で、玄関ホールを見回しながら言った。

「グレタはまだ下りてこない?」

「彼女はコートを着ているわ、ゲイブリエル」とケイト叔母が言った。

「誰があそこでいたずらしているんです?」とゲイブリエルは尋ねた。

「誰も。みんな行ってしまったわ」

「ああ違うわ、ケイト叔母さん」とメアリー・ジェーンが言った。「バーテル・ダーシーとミス・オキャラハンがまだ出ていないわ」

「とにかく誰かがピアノのところで遊んでますよ」とゲイブリエルは言った。

メアリー・ジェーンはゲイブリエルとブラウン氏をちらっと見て体を震わせて言った。

「あなた方二人がそんなふうに着込んでいるのを見ると寒さを感じるわ。この時間に帰っていただきたくないわ」

「私だったら今すぐ何よりやりたいのは、」とブラウン氏は勇敢にも言った。「いなかの快適な早歩きか、ながえの間に元気のいい馬をつけて飛ばす遠乗りですな」

「昔は家にとてもいい馬とトラップ馬車があったわよね」とジュリア叔母が悲しそうに言った。

「決して忘れられないジョニーね」とメアリー・ジェーンが笑いながら言った。

ケイト叔母とゲイブリエルも笑った。

「ほう、ジョニーに何かすてきなことがあったんですか?」とブラウン氏が尋ねた。

「亡くなったパトリック・モーカン、僕らのおじいさんですがね、」ゲイブリエルが説明した。「晩年は老紳士としてよく知られた人でしたが、にかわを煮出していました」

「あら、まあ、ゲイブリエル、」ケイト叔母が笑いながら言った。「彼はでんぷんの製粉所を持っていたのよ」

「まあ、にかわだかでんぷんだかです」ゲイブリエルが言った。「老紳士にはジョニーという名の馬がいました。そしてジョニーはいつも老紳士の製粉所で働いていて、製粉機を動かすためにぐるぐるぐるぐると回っていました。それはまったく結構なことだったんですが。ここからがジョニーの悲劇です。ある晴れた日、老紳士は公園の観兵式を見に上流の人たちと一緒に出かけたいと思いました」

「彼の魂にお慈悲を」とケイト叔母が哀れみ深い声で言った。

「アーメン」とゲイブリエルが言った。「そこで老紳士は、そういうわけで、ジョニーに馬具をつけ、いちばん上等のシルクハットといちばん上等の硬く幅広い襟を着け、堂々たるスタイルで、確かどこかバックレーンの近くの先祖代々の邸宅から乗り出しました」

みんなが、マリンズ夫人さえも、ゲイブリエルの話し振りを笑い、ケイト叔母が言った。

「あら、まあ、ゲイブリエル、バックレーンなんかに住んでいませんでしたよ、本当に。ただ製粉所がそこにあっただけで」

「先祖の邸宅から出て、」ゲイブリエルは続けた。「彼はジョニーと共に行きました。そしてジョニーがビリー王の彫像が目に入るところに来るまでは何もかも申し分なく進んだのでしたが。彼はビリー王が乗る馬に恋をしたのか、それとも元の製粉所に戻ったと思ったのか、とにかく彼は彫像のまわりを歩き始めました」

ゲイブリエルは他の人たちの笑いの中をガロッシュを着けた足で、円を描いてホールをぐるっと一定歩調で歩いた。

「彼はぐるぐるぐるぐるとまわり、」ゲイブリエルは言った。「そして老紳士は、非常に気取った老紳士でしたので、すっかり怒ってしまいました。『行くんだ、こら! 何のつもりだ、おい? ジョニー! ジョニー! なんてとっぴなことをするんだ! わからん馬だ!』」

ゲイブリエルのその出来事の模倣に続くとどろくような笑い声は玄関のドアに鳴り響くノックに中断させられた。メアリー・ジェーンが走っていってそれを開け、フレディ・マリンズを通した。フレディ・マリンズは、帽子をぐっと後頭部に載せ、寒さに肩を丸め、奮闘した後なので息を切らし、湯気を立てていた。

「馬車は一つしかつかまえられなかった」と彼は言った。

「おお、僕たちは河岸の方でもう一つ探すとしましょう」とゲイブリエルが言った。

「そうね」とケイト叔母は言った。「マリンズ夫人をすきま風の中に立たせておかないほうがいいわ」

マリンズ夫人は息子とブラウン氏の手を借りて正面玄関の階段を下り、巧みに巧みに操られて、馬車の中に押し上げられた。フレディ・マリンズは彼女の後からよじ登り、ブラウン氏の助言を受けながら彼女を席に落ち着かせるのにだいぶ時間を要した。やっと彼女が快適に座り、フレディ・マリンズはブラウン氏に馬車に乗るように誘った。話は散々混乱したあげく、ブラウン氏は馬車に乗り込んだ。御者はひざ掛けをひざに置き、身をかがめて行く先を尋ねた。混乱は大きくなり、御者は、それぞれ頭を馬車の窓から出しているフレディ・マリンズとブラウン氏から異なる指図を受けた。難しいのは道筋のどこでブラウン氏を降ろすかで、ケイト叔母とジュリア叔母とメアリー・ジェーンは戸口からいろいろ指図したり反対したり大いに笑ったりして議論を助けた。フレディ・マリンズはと言えば笑って口がきけなかった。彼は窓から頭をひょいひょい出し入れしてそのたびに帽子を危険にさらし、母親に議論の進み具合を話していたが、ついにブラウン氏が、皆がやかましく笑うのを上で聞いて当惑している御者に大声で叫んだ。

「トリニティーカレッジを知っているかね?」

「はい、だんな」と御者は言った。

「それでは、トリニティーカレッジの門にどーんと乗りつけてくれ、」ブラウン氏は言った。「そうしたらどこへ行くか教えてやろう。わかったかな?」

「はい、だんな」と御者は言った。

「トリニティーカレッジへスーッとやってくれ」

「オーケー、だんな」と御者は言った。

馬に鞭が当てられ馬車は笑い声とアデューのコーラスの中、河岸に沿ってがたがたと走り出した。

ゲイブリエルはほかの人たちのいるドアのところへ行かなかった。彼は玄関ホールの暗い部分にいて階段をじっと見上げていた。一人の女が最初の階段の頂上近く、やはり陰の中に立っていた。彼には彼女の顔が見えなかったが、陰が黒と白に見せる、赤褐色とサーモンピンクの布のはぎ合わせのスカートが見えた。それは彼の妻だった。彼女は手すりにもたれて何かに耳を傾けていた。ゲイブリエルはじっと動かない彼女に驚き、彼も聞こうとして耳をすました。しかし彼には、正面の戸口の段上の騒がしい笑い声と議論を除けばほとんど、ピアノを打ち鳴らす和音が少しと男の歌声が少ししか聞こえなかった。

彼はホールの暗がりにじっと立ち、その声が歌っているメロディーを聞き取ろうと努め、妻をじっと見上げていた。彼女の姿勢にはまるで彼女が何かの象徴であるかのような優雅と神秘があった。陰の中、階段に立ち、遠い音楽に耳を傾ける女は何の象徴であるのか、彼は自問した。彼が画家であったならあの姿勢の彼女を描くだろう。彼女の青いフェルトの帽子は暗闇を背景に彼女の髪のブロンズ色を引き立て、はぎ合わせのスカートの暗色は明色を引き立てるだろう。遠い音楽、と彼が画家ならその絵を名づけるだろう。

玄関のドアが閉まり、ケイト叔母とジュリア叔母とメアリー・ジェーンがまだ笑いながらホールをやってきた。

「まあ、フレディったらひどいじゃない?」とメアリー・ジェーンが言った。「彼は本当にひどいわ」

ゲイブリエルは何も言わず、階段の上の妻が立っている方を指差した。今は玄関のドアが閉まっているので声もピアノもよりはっきり聞こえていた。ゲイブリエルは彼らに静かにするようにと手を上げた。その歌は古いアイルランドの音階によるものらしかったが、歌い手はその歌詞にもその声にも自信が持てないようだった。離れているため、そして歌い手の声がかすれているため、悲しげに聞こえる歌声は、そのアリアのカデンツァを悲痛な思いを表す言葉でほのかに飾った。

おお、雨は私の重い頭髪に落ちる
そしてしずくは私の肌をぬらす、
私の赤ん坊は冷たく横たわり……

「おお」とメアリー・ジェーンが声を上げた。「バーテル・ダーシーが歌っている。一晩中歌おうとしなかったのに。おお、彼が行く前に一曲歌わせるわ」

「おお、ぜひにもね。メアリー・ジェーン」とケイト叔母が言った。

メアリー・ジェーンはほかの人たちのそばをかすめ過ぎ、階段へ走ったが、彼女がそこに着く前に歌声はやみ、ピアノは唐突に閉じられた。

「ああ、残念!」と彼女は叫んだ。「彼は下りてくるの、グレタ?」

ゲイブリエルは妻がええと答えるのを聞き、彼女が彼らの方に下りてくるのを見た。彼女の何歩か後ろにバーテル・ダーシー氏とミス・オキャラハンがいた。

「おお、ダーシーさん、」メアリー・ジェーンが叫んだ。「私たちがみんなうっとりと聞き入っているのにあんなふうにやめてしまうなんて、あなたまったくけちですわ」

「私一晩中彼にうるさくせがんだのですけれど、」ミス・オキャラハンが言った。「それとコンロイ夫人も。それで彼が言うには、彼はひどい風邪をひいて歌えないんですって」

「ああ、ダーシーさん、」ケイト叔母が言った。「もうそれは大変な嘘をおっしゃってたってことね」

「私の声がカラスのようにしゃがれているのがわからないんですか?」とダーシー氏は乱暴に言った。

彼は急いで食器室に入り、コートを着た。他の人たちは彼の無作法な言葉にあっけにとられ、何も言うことが見つからなかった。ケイト叔母は眉にしわを寄せ、その話題はやめるよう、他の人たちに合図した。ダーシー氏は首を入念に包みながら顔をしかめて立っていた。

「この天候よ」とジュリア叔母が間をおいて言った。

「そうね、誰も彼も風邪をひいてるわ、」ケイト叔母がすぐに言った。「誰も彼も」

「なんでも、」メアリー・ジェーンが言った。「三十年もこんな雪はなかったそうよ。それに今朝新聞で読んだけど雪はアイルランド中どこもですって」

「雪を見るのは好きだわ」とジュリア叔母が悲しそうに言った。

「私もそう」とミス・オキャラハンが言った。「クリスマスも一面の雪でなければ決して本当のクリスマスと思えないわ」

「だけどお気の毒に、ダーシーさんはその雪が好きじゃないわ」とケイト叔母が微笑みながら言った。

ダーシー氏はすっかりくるまりボタンをかけて食器室から出てきて、後悔の口調で彼の風邪の経緯を彼らに語った。皆が彼に助言を与え、とても気の毒だと言い、夜の外出ではのどをよほど大切にするようにしきりに忠告した。ゲイブリエルは会話に加わらない妻をじっと見ていた。彼女はくすんだ明り取りの真下に立ち、ガス灯の炎が鮮やかなブロンズ色の髪を、数日前彼女が暖炉で乾かしているのを彼が見たばかりの髪を照らしていた。彼女は同じ姿勢で、周りの話には気づいていないように見えた。やっと彼女が彼らの方を向き、ゲイブリエルは彼女の頬が赤らみ、目が輝いているのを見た。突然の喜びの潮が彼の心から躍り出た。

「ダーシーさん、」彼女は言った。「歌っていらした歌の名は何と言いますの?」

「『オグリムの娘』と呼ばれています、」ダーシー氏は言った。「しかし私は正確に思い出せませんでした。おや? あなたはご存知で?」

「オグリムの娘」と彼女は繰り返した。「その名前を思い出せませんでしたの」

「とても素敵な曲ね」とメアリー・ジェーンが言った。「今夜あなたの声の調子が悪いのは残念ですわ」

「ほら、メアリー・ジェーン、」ケイト叔母が言った。「ダーシーさんに厭な思いをさせないで。厭な思いをさせたくないわ」

皆、出発の用意が整ったと見て、彼女は彼らをドアに導き、そこでさようならが言われた。

「では、さようなら、ケイト叔母さん、それから楽しい宵をありがとう」

「さようなら、ゲイブリエル、さようなら、グレタ!」

「さようなら、ケイト叔母さん、それからほんとにありがとう。さようなら、ジュリア叔母さん」

「あら、さようなら、グレタ、あなたに気づかなかったわ」

「さようなら、ダーシーさん。さようなら、ミス・オキャラハン」

「さようなら、ミス・モーカン」

「もう一度、さようなら」

「さようなら、皆さん。無事なご帰宅を」

「さようなら、さようなら」

朝はまだ暗かった。鈍い、黄色い光が家々や川を抱いていた。そして空が降りてこようとしているように見えた。足元はぬかるんでいた。そして雪はただ縞模様、まだら模様となって屋根の上、河の岸壁の上、地下勝手口の柵の上にのっていた。ランプは依然、もやった空気の中で赤く輝き、そして川の向こうにフォアコーツの宮殿が重苦しい空を背景に威嚇するようにくっきり見えていた。

彼女は彼の前をバーテル・ダーシー氏とともに、茶色の包みに入れた靴を小脇にはさみ、ぬかるみを避けて両手でスカートを持ち上げて歩いていた。彼女の姿勢はもはや優雅なものではなかったが、ゲイブリエルの目はなおも幸福に輝いていた。血は静脈で踊りだし、思いは脳全体に、誇らしく、喜ばしく、優しく、勇ましく沸き立っていた。

彼女が彼の前をとても軽々と、真っ直ぐに立って歩いていたので、彼は音もなく彼女の後を追って彼女の肩をつかみ、何かばかげていて愛情のこもったことを彼女の耳元で言いたくてたまらなかった。彼女がとてもかよわく見えるので、彼は彼女を何ものかから守り、それから彼女と二人だけでいたいとの思いを募らせた。彼らが共にすごした数々の秘密の瞬間が星のように彼の心にパッと蘇った。薄紫色の封筒が彼の朝食用のカップのそばに置かれ、彼はそれを手で愛撫していた。鳥たちはつたの中でさえずり、陽を浴びたカーテンの網目が床の上を揺らめいていた。彼は幸せで食べることもできなかった。彼らは込み合ったプラットホームに立ち、彼は切符を彼女の手袋の暖かい手のひらの中に置いていた。彼は彼女と共に寒さの中に立ち、轟音を上げるかまどの中で瓶を作っている男を格子窓から覗き込んでいた。とても寒かった。冷たい空気の中でよい香りのする彼女の顔が彼の顔のすぐ近くにあった。そして不意に彼女がかまどの男に呼びかけた。

「ねえ、火は熱いの?」

しかしかまどの騒音で男には聞こえなかった。それでよかったんだ。彼は無作法な答えをしたかもしれない。

さらにいっそう優しい喜びの波が彼の心臓から流れ出て、暖かい洪水となって動脈を巡った。星々の優しいきらめきのように、誰一人知らない、また決して知るはずもない彼らが共にすごした瞬間が突然現れて彼の追憶に灯をともした。彼は、彼女にそうした瞬間を思い起こさせ、互いに単調な存在であった年月は忘れさせ、彼らの歓喜の瞬間だけを思い出させたいと心から望んだ。年月は彼の、また彼女の心を消してしまわなかった、と彼は思った。彼らの子供たち、彼の著述、彼女の家族の世話が彼らの心の優しい炎をすべて消してしまうことはなかった。あのころ彼は彼女に書いた一通の手紙の中で言ったことがあった。「このような言葉が僕にはとても退屈で冷たく思えるのはなぜだろう? 君の名にふさわしいだけの優しい言葉がないからではないだろうか?」

遠い音楽のように彼が何年も前に書いたこれらの言葉が過去から運ばれてきた。彼は彼女と二人だけになりたくてたまらなかった。ほかの人たちが行ってしまったら、彼と彼女がホテルの部屋に入ったら、そのときは彼らだけ、一緒だ。彼は彼女をそっと呼ぶだろう。

「グレタ!」

たぶんすぐには彼女に聞こえないだろう。彼女は服を脱いでいるだろうから。そのとき彼の声の何かが彼女の心を打つ。彼女は振り向いて彼を見る……

ワインタバーン・ストリートの角で彼らは馬車に出会った。彼はそのガタガタ鳴る騒音を、会話をしないで済むので喜んだ。彼女は窓から外を眺め、疲れているようだった。他の人たちは建物か通りか何かを指して二言三言話しただけだった。馬は後ろの古いガタガタ鳴るボックスを引いて、もやもやした朝の空の下をだるそうに駆けて行き、ゲイブリエルは、彼女と共に船に間に合うように駆ける、彼らのハネムーンへと駆ける馬車の中に戻っていた。

馬車がオコゥネル橋を渡る時、ミス・オキャラハンが言った。

「オコゥネル橋を渡ると必ず白馬を見るんですってね」

「今は白い男が見える」とゲイブリエルが言った。

「どこに?」バーテル・ダーシー氏が言った。

ゲイブリエルはまだら模様に雪ののった彫像を指さした。それから彼はそれに向かって親しげに会釈し、手を振った。

「おやすみ、ダン」と彼は陽気に言った。

馬車がホテルの前で止まると、ゲイブリエルは飛び降り、バーテル・ダーシー氏が抗議したけれども、御者に支払いをした。彼は男に運賃の上一シリング与えた。男は敬礼して言った。

「今年もよい年になりますよう、だんな」

「君もね」とゲイブリエルは心をこめて言った。

彼女は彼の腕にもたれて馬車から降り、少しの間そのままに、歩道の縁石に立ち、他の人たちに別れの挨拶をした。彼女は数時間前、彼と踊った時と同じように軽く彼の腕にもたれていた。あのとき彼は誇りと幸福を、彼女が彼のものであることに幸福を、彼女の優雅な、妻にふさわしい身のこなしに誇りを感じた。しかし今、数々の思い出を再び燃え立たせた後で、音楽的で不思議でかぐわしい彼女の体に触れた途端、彼の体を情欲の鋭い痛みが走った。彼女の沈黙をいいことに彼は彼女の腕を自分の脇へぴったりと押し付けた。そして、ホテルのドアの前に立った時、彼は彼らが、彼らの生活や義務から逃れ、家や友人たちから逃れ、荒々しい、光りを放つ心で一緒に新たな冒険へと出発するのだと感じた。

ホールでは一人の老人が大きなほろつきの椅子でうたた寝をしていた。彼は事務所でろうそくに火をつけ、階段まで彼らの前に立った。彼らは黙って、厚いじゅうたんの階段に柔らかくドスッドスッと足を下ろしながら彼について行った。彼女はのぼりで頭をかがめ、か弱い肩を重荷を負ったように曲げ、スカートをぴったり体に巻きつけ、ボーイの後から昇った。彼がいきなり彼女の腰に手を伸ばして彼女をじっと抱いていることもできたろうが、その腕は彼女をつかみたいという欲望に震えながらも、ただ手のひらに当たるつめの圧力だけが彼のからだの激しい衝動を抑制していた。ボーイは消えそうなろうそくを落ち着かせるために階段上で立ち止まった。彼らもまた彼の下の段で立ち止まった。静寂の中でゲイブリエルに、溶けたろうが受け皿に落ちる音、そして彼自身の肋骨にあたる心臓のどきどきする音が聞こえた。

ボーイは彼らを廊下を通って案内し、ドアを開けた。それから彼は不安定なろうそくを化粧台の上に置き、朝何時に起こしたらいいか尋ねた。

「八時」とゲイブリエルは言った。

ボーイは電灯のタップを指さし、わびごとをつぶやき始めたが、ゲイブリエルがさえぎった。

「明かりは何もいらない。通りの明かりで十分だ。それにね、」と彼はろうそくを指して加えた。「そのハンサムな物もどけてもらえないか、悪いけど」

ボーイはろうそくを再び、しかしのろのろと手に取った。そのような新奇な考えに驚いたのだ。それから彼はもぐもぐとお休みを言い、出て行った。ゲイブリエルはさっと錠をかけて閉めた。

青ざめた街灯の光が長々と一筋、一つの窓からドアへと流れていた。ゲイブリエルはコートと帽子をカウチにほうり投げ、窓の方へ部屋を横切った。彼は感情を少しでも静めるために下の通りを覗き込んだ。それから彼は振り返り、光を背に整理ダンスに寄りかかった。彼女は帽子とマントを脱ぎ、大きな回転鏡の前に立ち、服のホックをはずしていた。ゲイブリエルはちょっとためらい、彼女をじっと見て、それから言った。

「グレタ!」

彼女はゆっくりと鏡から顔をそむけ、光の筋に沿って彼の方へ歩いた。彼女の顔がとてもまじめで疲れたように見えたので、言葉はゲイブリエルの唇にとどまっていた。いや、まだその時ではない。

「疲れているようだね」と彼は言った。

「少しね」と彼女は答えた。

「具合が悪かったり弱ったりしてない?」

「いいえ、疲れたの。それだけよ」

彼女は窓のところへ行き、そこに立ち、外を見ていた。ゲイブリエルは再び待ち、気後れに打ち負かされそうだと思い、唐突に言った。

「ところでね、グレタ!」

「何?」

「あのマリンズってやつを知ってるよね?」と彼は急いで言った。

「ええ。彼がどうしたの?」

「うん、哀れなやつだが、とにかく彼はきちんとした男だ」とゲイブリエルは偽りの声で続けた。「彼は僕が貸したソブリンを返してよこしたよ、実のところ僕は期待してなかった。彼があのブラウンを遠ざけられないのは残念だな。実際彼は悪いやつじゃないからね」

彼はもう悩ましさに震えていた。なぜ彼女はこんなにぼんやりしているように見えるのか? 彼はどのように始めたらいいかわからなかった。彼女も何かに悩んでいるのか? ただ彼女が自分から彼の方を見るか彼の方へ来てくれたら! 今のまま彼女を抱くのは粗暴になる。いや、彼はまず彼女の目に少しでも熱情を見なければならない。彼は彼女の不思議な気分を支配したいと強く願った。

「いつその一ポンドを彼に貸したの?」としばらくして彼女が尋ねた。

ゲイブリエルは飲んだくれのマリンズと彼の一ポンドのことで突然粗暴なことを言い出すのを抑えようと努めた。彼は魂から彼女に叫び、彼女のからだを彼ので押しつぶし、彼女を征服したくてたまらなかった。しかし彼は言った。

「ああ、クリスマスに、彼がヘンリー街に小さなクリスマスカードの店を開いた時だ」

彼は熱情と欲望に興奮していて彼女が窓から来るのが聞こえなかった。彼女は一瞬彼の前に立って奇妙な具合に彼を眺めた。それから、不意につま先立ちで伸び上がり、両手を彼の肩に軽くのせ、彼にキスした。

「あなたはとても思いやりのある人ね、ゲイブリエル」と彼女は言った。

ゲイブリエルは不意の彼女のキスと彼女の言い回しの古風なおもむきに大喜びで打ち震え、彼女の髪に両手を置き、ほとんど指で触れることなくそれを後ろになでつけ始めた。それは洗髪により美しく輝いていた。彼の心に幸せが満ち溢れていた。まさに彼がそれを望んだ時に彼女が自分から彼のところへ来たのだ。ことによると彼女の思いは彼のと一緒に流れていたのかもしれない。ことによると彼女は彼の内にある衝動的な欲望を感じ、それで彼女は従順な気分に襲われたのかもしれない。今や彼女は簡単に彼の手に落ちたわけで、彼はなぜあれほど気後れしていたのだろうと思った。

彼は両手の間に彼女の頭を持って立っていた。それから彼はすばやく片腕を彼女のからだにすべらせ、彼女を彼のほうへ引き寄せながら、そっと言った。

「グレタ、ねえ、何を考えているの?」

彼女は答えず、また完全には彼の腕に身をゆだねなかった。彼は再びそっと言った。

「何だか言ってよ、グレタ。僕にもわかっていることだよね。そうだろ?」

彼女はすぐには答えなかった。それから彼女はわっと泣きながら言った。

「おお、私はあの歌のことを考えているの、オグリムの娘」

彼女は彼から逃れ、ベッドへ走り、腕をベッドの柵越しに投げ出して顔を隠した。ゲイブリエルは驚いてちょっとの間棒立ちになり、それから彼女の後を追った。途中で大きな姿見のところを通り過ぎる時、彼自身の全身、彼の幅が広くてはちきれそうなワイシャツの胸、その表情を鏡に見る時いつも彼を当惑させる顔、ちらちら光る金縁のメガネが彼の目に入った。彼は彼女から数歩のところで立ち止まって言った。

「あの歌がどうしたの? なぜ君を泣かせるの?」

彼女は腕から頭を上げ、子供のように手の甲で目をぬぐった。彼の声は意図したより優しい調子になった。

「なぜ、グレタ?」と彼は尋ねた。

「あの歌をいつも歌っていたずっと前の人のことを考えているの」

「それでそのずっと前の人って誰?」とゲイブリエルは微笑みながら尋ねた。

「昔、私が祖母と一緒に暮らしていた頃、ゴールウェイで知っていた人よ」と彼女は言った。

ゲイブリエルの顔から微笑が消えた。鈍い怒りが再び彼の心の奥に集まり始め、情欲の鈍い火が静脈の中で憤然と燃え始めた。

「君が恋に落ちた誰かかい?」と彼は皮肉に尋ねた。

「私が昔知っていた若い男の子よ、」彼女は答えた。「マイケル・フューレイという名の。彼はいつもあの歌、オグリムの娘を歌っていたわ。彼はとても華奢だった」

ゲイブリエルは黙っていた。彼はこの華奢な少年に興味があると彼女に思われたくなかった。

「私には彼がとてもはっきり見えるわ」と、しばらくして彼女は言った。「彼の目はそれは、大きくて黒い目! そしてその中の表情――表情と言ったら!」

「ああ、それじゃあ君は彼に恋をしてる?」とゲイブリエルは言った。

「いつも私は彼と外を歩いたわ、」彼女は言った。「ゴールウェイにいた時」

ある考えがゲイブリエルの頭をさっとよぎった。

「たぶんそれで君はあのアイバースという娘とゴールウェイに行きたいんだね?」と彼は冷やかに言った。

彼女は驚いて彼を見て尋ねた。

「何のために?」

彼女の目はゲイブリエルをきまり悪くさせた。彼は肩をすくめて言った。

「どうして僕にわかる? 彼に会うため、たぶん」

彼女は黙って彼から目をそらし一条の光に沿って窓の方を見た。

「彼は死んだわ」と彼女はようやく言った。「彼はたった十七歳の時に死んだの。そんなに若くて死ぬなんて恐ろしいじゃない?」

「彼は何者?」とゲイブリエルは依然、皮肉をこめて言った。

「彼はガス工場にいたわ」と彼女は言った。

ゲイブリエルは皮肉の失敗と、死者たちの中からこの人物を、ガス工場の少年を呼び起こしたことを恥ずかしく思った。彼が共に過ごした秘密の生活の思い出に夢中になっていた時、やさしさと喜びと欲望でいっぱいになっていた時、彼女は心の中で彼をもう一人と比較していたのだ。自分自身を恥じる意識が彼を襲った。彼には自分がこっけいな姿に映った。叔母たちの使い走り、神経質な善意の感傷的人物として行動し、無教養な連中に演説をぶち、自身のぶざまな情欲を理想化する、鏡の中にちらと見たばかりの哀れな間抜け野朗。本能的に彼は、額に燃えあがる羞恥を彼女に見られないように、いっそう光に背を向けた。

彼は冷たい尋問調を続けようとしたが、話してみるとその声は控えめでどっちつかずだった。

「君はそのマイケル・フューレイに恋をしていたんだろうね、グレタ」と彼は言った。

「私はその頃彼と仲よしだったわ」と彼女は言った。

彼女の声は不明瞭で悲しげだった。ゲイブリエルは、いまや彼の意図した所へ彼女を導こうとするのはなんとも無益だと感じて、彼女の片方の手を愛撫して、こちらも悲しそうに言った。

「それでそんなに若い彼が何で死んだの、グレタ? 肺病、そう?」

「彼は私のせいで死んだと思うの」と彼女は答えた。

この答えに漠然とした恐怖がゲイブリエルをとらえた。まるで、彼が勝利を望んだその時に、何か実体のない執念深い存在が彼に対抗して現れ、彼に対抗してその漠然とした世界の中で力を結集しているかのように感じた。しかし彼は理性の努力によりそれを振り払い、彼女の手を愛撫し続けた。彼はもう彼女に質問しなかった。彼女が自ら語るだろうと思ったからだ。彼女の手は温かく湿っていた。それは彼が触れても反応しなかったが、彼はそれを、あの春の朝、彼女の最初の彼への手紙を愛撫したのとまったく同じように愛撫し続けた。

「冬だったわ、」彼女は言った。「冬の初めの頃、私がおばあさんのところを離れてこっちの修道院へ出てこようとしていた時。その時彼は病気でゴールウェイの下宿にいて外に出してもらえず、オウテラードの彼の家族には手紙で知らされたわ。彼は衰弱しているとか、そのようなことだったわ。私にははっきりとはわからなかった」

彼女はちょっと休んで、ため息をついた。

「かわいそうに、」彼女は言った。「彼は私のことがとても好きだったしすごくやさしい少年だった。私たちはいつも一緒に出かけて、歩いたわ。ねえ、ゲイブリエル、いなかの人がするように。彼は健康さえ許せば歌を勉強しに行っていたの。彼はとてもいい声だった。かわいそうなマイケル・フューレイ」

「そう、それで?」とゲイブリエルは尋ねた。

「それから私がゴールウェイを離れて修道院に出てくるという時には彼はずっと悪くなって、私は彼に会わせてもらえないので彼へ手紙を書いて、私はダブリンに出るところで夏には戻ってくる、その頃には彼もよくなっているだろうと言ったの」

彼女はちょっと休んで声を抑制し、それから続けた。

「そして私が出発する前の夜、私はナンズ・アイランドのおばあさんの家で、荷物を詰めていて、投げた砂利が窓にぶつかるのを聞いたの。窓はすっかりぬれていて見えなかった。それで私はそのまま階段を駆け下りて、そっと裏から庭に出ると、庭のはずれにかわいそうに、彼がいたの。震えながら」

「それで彼に帰るように言わなかったの?」とゲイブリエルは尋ねた。

「私は彼にすぐに家へ帰るように懇願したし雨の中で彼は死んでしまうと言ったわ。でも彼は生きていたくないと言った。私には彼の目がよくよく見える! 彼は木が一本ある壁の端に立っていたわ」

「それで彼は家へ帰った?」とゲイブリエルは尋ねた。

「ええ、彼は家へ帰った。そして私が修道院に来てたった一週間で彼は死んで、一家の郷里のオウテラードに葬られた。ああ、あの、彼が死んだことを聞いた日!」

彼女は話を止め、すすり泣きにむせび、そして、激しい感情に圧倒され、うつぶせにベッドに身を投げ出し、キルトの中ですすり泣いていた。ゲイブリエルは一瞬長く、優柔不断に彼女の手を取っていたが、それから、彼女の悲しみに思い切って立ち入ることができず、優しくそれを置き、静かに窓へと歩いた。

彼女は熟睡した。

ゲイブリエルはひじをつき、しばらくの間、腹を立てることもなく彼女のもつれた髪と開き気味の口を眺め、彼女が深く息を吸い込む音を聞いていた。そうすると彼女の人生にはあんなロマンスがあったのだ。一人の男が彼女のために死んだとは。彼が、彼女の夫が彼女の人生でいかに哀れな役割を演じたかを考えても、今、ほとんど彼の心は痛まなかった。彼は彼女が眠っている間、まるで彼と彼女が夫婦として共に暮らしたことなどなかったかのように、彼女をじっと見ていた。彼の好奇心に満ちた目は長く彼女の顔、彼女の髪に留まっていた。そして彼女がその時、その乙女の美しさの初露の時にどんなだったろうかと考えると、彼女に対する不思議な、友愛的な哀れみが彼の心に入り込んだ。彼は、彼女の顔がもはや美しくないとは自分ひとりにさえ言いたくなかったが、それがもはやマイケル・フューレイがそのために死に勇敢に立ち向かった顔ではないこともわかっていた。

たぶん彼女はすべてを彼に語ったのではないだろう。彼の目は彼女が服の一部を脱ぎ捨てた椅子に移った。ペチコートの紐が床に垂れ下がっていた。ブーツの片方は直立し、その柔らかな甲革は折れていた。相棒はその傍らに横になっていた。彼は一時間前に沸き立った感情を不思議に思った。どこから生じたのだろう? 叔母たちの夜食から、彼自身のばかな演説から、ワインとダンス、玄関でさよならを言った時のお祭り騒ぎ、雪の中を川沿いに歩く喜びから。かわいそうなジュリア叔母さん! 彼女もすぐにパトリック・モーカンや彼の馬の陰とともに陰の存在になるだろう。彼は、彼女が『花嫁の衣装を着て』を歌っている時、一瞬、彼女の顔にやつれた様子を見つけた。もうすぐ、たぶん、彼はあの同じ客間に黒い服を着て、シルクハットをひざに座っていることになるだろう。ブラインドは引きおろされ、ケイト叔母は彼のそばに、泣いたり鼻をかんだりジュリアがどんなふうに死んだか彼に話しながら座っているだろう。彼は心の中で彼女を慰める言葉を探しまわり、そして役に立たないまずいやつを見つけるだけだろう。そうだ、そうだ、それはまもなく起こるだろう。

部屋の空気は彼の肩を冷え込ませた。彼はシーツの中でそおっとからだを伸ばし、妻のそばに横になった。一人、一人と彼らは皆、陰になっていく。情熱に満ちた絶頂のうちに思い切ってあの世に行く方がいい、年をとって惨めに衰え、枯れるよりも。彼は、そばに横たわる彼女がどのようにしてそれほど長い間、生きていたくないと彼女に言った時の恋人の目の面影を心の中にしまいこんでいたのかを考えた。

思いやりの涙がゲイブリエルの目に満ちた。彼はどんな女に対してもそんな気持ちになったことは一度もなかったが、そのような感情が愛に違いないと知った。彼の目はさらに涙を深くたたえ、その部分的な暗闇の中に彼は雫滴る木の下に立つ若い男の姿を見たように思った。そのほかの人々の影も近くにあった。彼の魂は非常に多数の死者たちの住む領域に近づいていた。彼はそれら、言うことを聞かない揺らめく存在を意識してはいたが把握できなかった。彼が彼自身であることが灰色の実体のない世界の中に次第に消えていった。かつてこれらの死者たちが建設し、そこに生きた実質のある世界自体が溶けていき、だんだん小さくなっていた。

そっとガラスを叩く音が彼を窓へと振り向かせた。再び雪が降り始めていた。彼は眠りに誘われるように、街灯の明かりを背景に斜めに落ちる銀色や影色の雪片をじっと見ていた。彼が西への旅に出発する時が来ていた。そうだ、新聞は正しかった。雪はアイルランド全土にわたっていた。それは暗い中央の平原のあらゆる地域の上に、木のない丘々の上に降り、静かにアレン湿原の上に降り、そして、さらに西の方、暗く反抗的なシャナンの波の中に静かに降っていた。それはまたマイケル・フューレイが埋葬されて横たわる丘の上の寂しい教会の墓地のあらゆるところにも降りかかっていた。それは吹き流され、歪んだ十字架や墓石の上に、小さな門の尖塔の上に、実を結ばないイバラの上に厚く積もっていた。彼の魂は、全宇宙に幽かに降り続く、そして来たるべき最期が降りくるのに似て、すべての生者と死者の上に幽かに降り続く雪を聞きながら、ゆっくり意識を失っていった。


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