孫たちの経済的可能性, ジョン・メイナード・ケインズ

第二章


議論のため、仮に百年後、私たちみんなが平均で、経済的な意味で今日よりも八倍豊かになっているとしよう。まちがいなくこれ自体は何一つ驚くべきことではない。

さて人間のニーズは充たしがたいように見えるというのは事実だ。だがそれは二種類に分かれる—他の人間たちの状況がどうあれ自分たちが感じるという意味で絶対的なニーズ、そしてそのニーズを充たすことが同輩たちよりも自分を上の立場にしたり、かれらより優れていると思わせてくれるときにだけ感じるという意味で相対的なニーズだ。二番目の種類のニーズ、優越感の欲望を満たすようなニーズは、確かに充たし難いかも知れない。というのも一般水準が上がれば、かれらもその分上がるからだ。だがこれは絶対ニーズのほうには当てはまらない—こうしたニーズが充たされる、つまりそれ以上のエネルギーを非経済的な目的のために費やしたいと思うようになる時点がやがてやってくるし、それも私たちだれもが気がついているよりずっと早めにそれが実現するかもしれない。

さていよいよ私の結論だが、それは考えれば考えるほど、みなさんの想像力にとって驚愕すべきものとなってくると思う。

私が導く結論は、大きな戦争や人口の極度の増加がないとすれば、経済問題は百年以内に解決するか、少なくとも解決が視野に入ってくる、というものだ。これはつまり、経済問題は—将来を見通せば—人類の永遠の問題ではないということだ。

これがなぜそんなに驚愕すべきなのか、とお尋ねだろうか。それが驚愕すべきなのは—将来を見る代わりに過去を見れば—経済問題、生存のための闘争は、これまでは人類にとって常に第一の、最も火急の問題だったからだ—人類に限らず、最も原始的な生命形態の開始以来、生物界すべてにこれは当てはまる。

だから私たちは明示的に、自然によって—そのあらゆる衝動と最も深い本能を通じて—経済問題を解決するという目的のために進化させられてきた。経済問題が解決したら、人類はその伝統的な目的を奪われてしまう。

これはよいことか? もし人生の真の価値を少しでも信じているなら、この見通しは利益の可能性くらいは開いてくれる。でも私は、一般人の習慣と本能の再調整を考えるとゾッとしてしまう。そうした本能は無数の世代を通じて人々の中に養われてきたものなのに、それを数十年で捨てろと言われるのだから。

今日の用語を使うなら—私たちは全般的な「ノイローゼ」を予想すべきなのだろうか? 私の指摘が少し実地に起きているところもある—イギリスやアメリカの富裕階級の主婦の間では、すでにかなり一般的となっているノイローゼだ。その多くは可哀想な女性で、豊かさのおかげで、伝統的な作業や仕事を奪われてしまっている—経済的必要性という拍車がないと、料理も掃除も裁縫も十分おもしろいとは思えないのに、それ以上面白いものをまるで見つけられないのだ。

日々のパンのために苦労する者は、余暇を甘きものとして渇望する—実際にそれを手にするまでは。老掃除婦が自らのために書いた伝統的な墓碑銘がある。

友よ、悼まないで、決してあたしのために泣かないで
というのもあたしはこれから永遠にひたすら何もしないのだから

それが彼女の天国だった。余暇を心待ちにする他の人々同様、彼女も聴いているだけで時間を過ごせたらどんなにいいだろうと思っている—というのもその詩の中にはもう一つこんな対句があるからだ。

天国は詩篇や甘い音楽で充ち満ちている
でもあたしは歌う側には一切まわらない

だが、人生が耐えられるものとなるのは、その歌う側にまわる人々だけなのだ—そして歌える人はいかに少ないことか!

つまり創造以来初めて、人類は己の本物の、永続的な問題に直面する—目先の経済的懸念からの自由をどう使うか、科学と複利計算が勝ち取ってくれた余暇を、賢明にまっとうで立派に生きるためにどう埋めるか。

精力的でやる気に満ちたお金儲け屋たちは、私たちみんなを伴い、経済的過剰の膝へと導いてくれるかもしれない。だが、過剰の到来でそれを享受できるのは、人生のそのものの秘訣を生かし続けてそれをさらなる完成へと育める人々であり、自分自身の生活手段のために売り渡さない人々なのだ。

でも余暇と過多の時代をゾッとせずに待望できる国や人々は、たぶん一つもないと思う。というのも私たちはあまりに長きにわたり、頑張るべきで楽しむべきではないと訓練されてきてしまったからだ。特別な才能もない一般人にとって、没頭できるものを見つけるというのはおっかない問題となる。特にその人が、もはや伝統社会の土壌や習俗や愛されている慣習に何らルーツを持っていないのであればなおさらだ。世界のどの部分でも、富裕層の行動と達成ぶりから判断するに、先行きは実に暗澹たるものだ! というのもこうした人々は、いわば私たちの前衛なのだから—残りの私たちのために、約束の地を偵察してキャンプを張っている人々なのだ。かれら—独立所得を持ちながら、何のつながりも義務もしがらみもない人々—のほとんどは、直面した問題の解決にあたり惨憺たる失敗に終わっているように思えるのだ。

もう少し経験を積めば、私たちも自然の新たに見つけた獲物を、今日の金持ちたちとはまったくちがった形で使うようになるだろうし、金持ちとはちがった人生計画を描き出すようになるはずだとは確信している。

今後長きにわたり、私たちの内なる古きアダムはあまりに強いため、みんな満足するためには何かしら働かねばならない。今日の金持ちに見られるよりも自分自身のためにあれこれやるだろう。つまらない作業や決まり切った仕事があるだけでもありがたく思うだろう。だがこれ以外に、私たちはパンにバターをもっと薄く塗ろうと試みるはずだ—多少なりとも残っている、やるべき仕事をできるだけ広く共有しようとするだろう。一日三時間労働や週十五時間労働にすれば、この問題をかなり長いこと先送りできる。というのも、一日三時間も働けばほとんどの人の内なるアダムは満足するからだ!

他の面でも到来を覚悟すべき変化がある。富の蓄積が最早あまり社会的重要性を持たなくなると、道徳律にも大きな変化が生じる。二百年にもわたり私たちを悩ませてきた多くのインチキ道徳原理、最も忌まわしい人間の性質を最も高い美徳の地位に担ぎ上げるのに使ったインチキ道徳の多くを捨て去れるようになるのだ。金銭動機をその真の価値という点から敢えて評価できるようになる。所有物としての金銭に対する愛—人生の享受と現実の手段としての金銭を愛するのとは別だ—の化けの皮は剥がれ、いささか嫌悪すべき病的状態であり、犯罪もどき、精神病もどきの傾向として、身震いしつつ精神病の専門家に引き渡すようなものだと認識されることになる。現在では富の分配や経済報酬と罰則の分配に影響する各種の社会習慣や経済慣行が、資本蓄積の促進にきわめて便利だというだけで、それ自体としてはいかに忌まわしく不公正であろうとも、あらゆる犠牲を払って維持されている。しかし私たちはついに、そうしたものを捨て去れるだろう。

もちろん、強い充たされぬ目的意識をもって、富を盲目的に追求する人はまだたくさん残るだろう—何かそれに変わるもっともらしい代替物が見つからない限り。でもそれ以外の人々はもはや、それをほめそやして奨励するような義務を一切負わなくなる。というのも、私たちは今日安全であるよりもっと興味を持って、自然が大なり小なり私たちのほとんどに与えてくれた、この「目的意識」の真の性質を検討するようになるはずだからだ。というのも目的意識とはつまり、私たちが自分の行動について、それ自体の性質や、それが周辺環境に対して持つ直接的な影響よりも、はるか将来における結果のほうを重視しているということだからだ。「目的意識のある」人物は、常に自分の行動についての利害を時間の中で先送りにすることで、その行動の見せかけだけの妄想めいた不死性を確保しようとしている。自分の猫を愛しているのではなく、その猫の子猫たちを愛している。いや実はその子猫たちでもなく、その子猫の子猫を愛している、という具合に永遠にその猫家系の果てまで続く。この人物にとって、ジャムがジャムであるのは、それが決して今日のジャムではなく明日にジャムがもらえる場合だけなのだ。こうしてジャムを常に未来へと押しやることで、この人物は自分の行動について不死性を沸き立たせようと苦闘する。

『シルヴィーとブルーノ』に出てくる教授を思い出していただこう。

「ただの仕立て屋でございやすよ、請求書をお持ちいたしました」とドアの外で弱々しい声がした。

教授は子供たちに申しました。「おやそうか、あいつの話ならすぐに片がつく。ちょっと待って戴ければね。今年はおいくらかね?」仕立て屋は、教授が喋っている間に中に入ってきたのでした。

仕立て屋は、ちょっと粗野な調子で申しました。「ええ、もう長いこと倍増しつづけてきましたんで、いまお支払いいただきたいなと思いやす。二千ポンドになります!」

「なんだ、それっぽっちか!」と教授は平然と申しまして、ポケットの中を探り、まるでいつもその程度の金額は持ち歩いているとでも言わんばかりでした。「でもあと一年だけ待って、それを四千ポンドにしたいとは思わないかね? どんなに金持ちになれるか、考えてもごらん! お望みならば王様にだってなれるかもしれないよ!」

仕立て屋は思慮深げに申しました。「王様になんかなりたいかどうかはわかりませんが。でも確かにお金の強力な光景が目に浮かびますぜ! では待つとしましょうか—」

「もちろんそうだろうとも! なかなかの知恵をお持ちとお見受けした。ではごきげんよう!」

「いつかあの四千ポンドを払わなきゃいけないことになったりしないの?」と帰る債権者の背後でドアが閉じるとシルヴィーは尋ねました。

「お嬢さん、まさか!」と教授は熱烈に答えます。「あの御仁は死ぬまで倍々し続けるだけ。というのも、お金が倍になるならいつだってもう一年待つ価値があるのですよ!」

ひょっとして、私たちの宗教の核心と本質に不死性の約束を持ち込むのに最も貢献した人種が、複利原理に最も貢献し、最も目的意識の高いこの人間制度をことさら愛しているというのは偶然ではないのかもしれない。

だから私は、宗教や伝統的美徳の中で最も確実で確固たるものにみんな戻っていいのだと思う—つまり貪欲は悪徳であり、高利の収奪は不品行であり、金銭愛(守銭奴)は軽蔑すべきもので、最も着実に美徳と正気の叡智の道を歩く者は、未来のことを最も考慮しないものだ、という美徳だ。私たちは再び手段より目的を重視するようになり、便利なものより善良なものを好むようになる。今の時間、今日という日を美徳を持って立派に活用する方法を教えてくれる人々を尊ぶようになる。物事の直接の楽しみを見いだせる素晴らしい人々、働きもつむぎもしない、野の百合のような人々が尊敬されるのだ。

だがご注意を! こうしたものすべての時はまだ満ちていない。少なくともあと百年にわたり、私たちは自分たちや他の番人に対し、きれいはきたなくきたないはきれいだというふりをしなければならない。というのもきたないは便利で、きれいは役に立たないからだ。貪欲と高利貸しと用心が、もうしばらくは私たちの神であり続ける。それらだけが、経済的必要性のトンネルから太陽の下へと私たちを導けるのだから。

だからそう遠くない日々に、人類全体の暮らす物質環境に空前の大変化が起こることを、私は心待ちにしている。でももちろん、これは大災厄としてではなく、だんだん起こることだ。実際、すでに始まっている。物事の筋道としては、経済的必要性の問題が実際問題として取り除かれた人々の階級や集団がますます大きくなる、というだけのものだ。この条件があまりに一般的になりすぎて、身の回りの人々に対する私たちの責務の性質が変わってきたときに、決定的なちがいが実現する。というのも、自分にとっては高い目的意識が納得できるものではなくなった後でも、他人のためには経済的に目的意識を持つほうが適切であり続けるからだ。

経済的至福という目的地に到達する速度は、四つのもので決まってくる—人口を抑える力、戦争や内紛を避ける決意、明らかに科学の問題である物事については科学に任せようという意志、生産と消費との差として決まる蓄積率。このうち最後のものは、他の三つさえそろえば自然に実現する。

一方、自分たちの運命に対し、少しばかり準備をしておいても罰は当たるまい。つまり目的ある活動だけでなく、人生の秘訣を奨励し、いろいろ試してみるということだ。

だが何より、経済問題の重要性をあまり過大に考えたり、その必要性と称するもののために、もっと重要でもっと永続的な重要性を持つ事柄を犠牲にしてはならない。経済問題など、専門家のやるべき仕事となるはずだ—歯医者のように。もし経済学者たちが、歯医者並に謙虚で有能な人々だと思われるのに成功すれば、実にすばらしいことではないか!


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