ファシズムと民主主義, ジョージ・オーウェル

ファシズムと民主主義


世界で最も簡単な娯楽のひとつは民主主義の偽りを暴くことだ。この国では人々の慣習に対するたんなる反動的な議論に悩まされることはもはやほとんど無いが、過去二十年の間、「ブルジョア」民主主義はファシストと共産主義者の両方によってずっと巧妙なやり方で攻撃されてきた。そしてうわべでは敵対しているこの両者がどちらも同じ根拠で攻撃をおこなっていることには非常に大きな意味がある。ファシストたちが大げさなプロパガンダ手法を用いて民主主義は「最悪の人間を最上位に置く」と都合の良い貴族的な議論をしてきたことも確かに事実だが、あらゆる全体主義擁護者の基本的主張は民主主義は詐欺行為であるというものなのである。民主主義はほんの一握りの富裕者による支配を覆い隠すものに過ぎないと思われている。これは完全な間違いというわけではないし、まして明確な誤りとも言えない。それどころかこれには反対よりも賛同の声の方が多いだろう。十六歳の学生でも民主主義を擁護するよりは攻撃する方がずっと上手くできる。そして反民主主義的な「事例」を知らなければ、反論できずにそこに大きな真実が含まれていると進んで認めてしまうことだろう。

まず、「ブルジョア」民主主義は経済的不平等を理由に否定されるべきだという指摘が常になされている。週に三ポンドを得るために一日十二時間働く人間にとっていわゆる政治的自由が何の役に立つのか? 五年に一度、彼は自分のお気に入りの政党に投票する機会を得るだろうが、他の時間は実質的に生活のすみずみまで雇い主に指図されているのだ。また実のところその政治的生活も指図されている。金満階級は重要な行政・役所の職を全てその手に握り続け、有権者に直接的・間接的に賄賂を送ることで好きなように選挙制度をいじることができるのだ。いくつか不運が重なって貧困階級を代表する政府が権力の座についた時でさえ、普通は富裕者は資本を国外に移動させると脅して迫ることができる。とりわけ重要なのは共同社会のほとんど全ての文化的生活・知的生活――新聞、書籍、教育、映画、ラジオ――が、特定の考えが広まることを妨げようという実に強い動機を持った裕福な人間たちによってコントロールされていることである。民主主義国の市民は産まれた時から「条件付け」されているのだ。それは全体主義国でのものよりは厳格ではないがその効果は決して少なくない。

そして特権階級の支配が純粋に民主主義的な手段によって打ち崩せるかは定かでない。理論的には議会制定法によって明白な過半数をとった労働党政府が政権の座に就いてそれが続き、即座に社会主義が実現することもあり得るだろう。現実的には金満階級は反乱を起こし、そして恐らくそれは成功するだろう。終身官のほとんどと彼らの側に付く国軍の重要人物たちを手中に収めているはずだからだ。民主主義的な方法が可能となるのは全ての政党の間で十分に大きな合意の基盤が存在する場合だけである。真に根本的な変化が平和裏に達成されると考える強い理由は存在しない。

また、民主主義のうわべの全て――言論と集会の自由、自主労働組合といったもの――は金満階級が雇われ人に譲歩する立場を降りればすぐさま崩壊するに違いないと論じられることも多い。政治的「自由」は賄賂であり、ゲシュタポの冷血な代用品に過ぎないと言うのだ。私たちが民主的と呼ぶ国々が普通は豊かな国――ほとんどの場合、こうした国々は安い有色人種の労働者を直接的・間接的に搾取している――であることは事実だし、また、私たちが知る限りでは民主主義は海洋国と山岳国、つまり巨大な常備軍を必要とせずに自衛ができる国々以外には存在したことが無い。民主主義は好ましい生活条件に伴うもの、恐らくはそれを要求するものであり、貧しい軍事国家では決して花開くことはないのである。イングランドの保護的な立場を取り除けば、イングランドは即座にルーマニアのそれと同じくらい野蛮な政治手法へ逆戻りするとも言われている。さらに、あらゆる政府は民主主義か全体主義かによらず究極的には軍事力に基礎を置いている。自身の転覆を企んでいるのでもなければ、ひとたび深刻な脅威にさらされた時にはどんな政府でも民主主義的「権利」を微塵も尊重しなくなる。絶望的な戦争を戦う民主主義国は独裁国やファシズム国と同じように徴兵や強制労働、敗北主義者の投獄、扇動的な新聞の発禁をおこなうことを強いられる。言い方を変えれば民主主義的であることをやめることでしか自身を破滅から救うことができないのだ。戦う理由になると思われるものは戦いが始まるやいなや決まって打ち捨てられるのである。

さまざまな濃淡があるとは言え、おおまかに要約すれば、これこそがファシストや共産主義者、それに類した者たちによって推し進められている反「ブルジョア」民主主義の主張である。あらゆる要点で、そこに多くの真実が含まれていることは認めざるを得ない。それではなぜ究極的にはこれは間違いであると言えるのか――なぜ民主主義国に生まれ育った者であれば誰もがこうした方向の議論全てに何かしら間違っているところがあると半ば本能的にわかるのだろう?

このよく知られる民主主義の偽りの暴露で間違っているのはそれでは全ての事実を説明できないことである。国と国の間の社会的雰囲気と政治的振る舞いの実際の違いは法律や慣習、伝統と言ったものをたんなる上部構造として切り捨てた理論で説明できるものよりはるかに大きいのだ。紙の上であれば民主主義が全体主義と「全く同じであること」(あるいは「同じくらい悪いこと」)を証明することも全く簡単なことだろう。ドイツには強制収容所があるが、しかしインドにも強制収容所はある。ファシズムの地域ではどこでもユダヤ人は迫害されているが、それでは南アフリカの人種差別的な法律はどうなのか? 全体主義国では知的誠実さは犯罪だが、イングランドでさえ真実を口に出し、文字にすることは必ずしも利益にならない。こうした平行線はどこまでも伸ばせる。しかしこうした線に沿った議論ではその度合いに違いはないことが暗に了解されている。例えば民主主義の国々でも政治的迫害があることは確かに正しい。問題はその程度である。過去七年の間にイギリス、あるいはイギリス帝国全体から逃れた亡命者がいったい何人いるだろうか?

そしてドイツからは何人だろうか? ゴム警棒で殴られた人間を、あるいは大量のひまし油を無理やり飲まされた人間をあなたは個人的に何人知っているだろうか? 近くのパブへ行って、これは資本主義者の戦争なので私たちは戦いを止めるべきだという意見を表明することにどれほどの危険を感じるだろうか? 近年のイギリスやアメリカの歴史から六月粛清六月粛清:1934年6月に起きたナチス内部での粛清事件。いわゆる「長いナイフの夜」。やロシアのトロツキスト裁判ロシア・トロツキスト裁判:スターリン時代のソビエト政府がモスクワで行った裁判、フォム・ラート暗殺の後に続いた大虐殺フォム・ラート暗殺の後に続いた大虐殺:ドイツ外交官であるフォム・ラートがフランスでユダヤ人青年に暗殺された後でドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動。いわゆる「水晶の夜」。と比較できるものを何か挙げられるだろうか? 私が今書いているものと同じ記事を赤、茶、黒赤、茶、黒:赤がロシア、茶はドイツ、黒はイタリアを指すのどれかの全体主義国で発行できるだろうか? デイリー・ワーカー紙はわずか十年ほどの活動の後に規制されたが、一方でローマやモスクワ、ベルリンでは十日も生き延びることはできないだろう。その上、その活動の最後の六ヶ月の間、イギリスはたんに戦時であったと言うだけでなくトラファルガー以降のどの期間よりも絶望的な苦境に立たされていたのだ。さらに付け加えれば――これは最も重要な点だが――デイリー・ワーカー紙が規制された後でも、その編集者たちはおおやけの場で抗議し、自己弁護の声明を発表し、議会で質問を受け、さまざまな政治的色合いの善意の人々の支持を受けることが許されたである。他の十ほどの国であれば起きるであろう迅速で最終的な「粛清」が起きないのはもちろん、その可能性すらほとんど誰の頭にも浮かばないのである。

イギリスのファシストや共産主義者がヒトラーに賛同する意見を持っているに違いないことはさして重要ではない。重要なのは彼らが大胆にもそれを表明していることである。そうすることで彼らは民主主義的自由が全くの偽りではないことを言外に認めているのである。一九二九年から一九三四年までの期間、あらゆる正統的共産主義者は「社会ファシズム」(つまり社会主義)こそが労働者の本当の敵であり、資本主義民主主義はファシズムと較べて好ましいとは言えないという考えに肩入れしていた。しかしヒトラーが権力の座についた時には何千人ものドイツの共産主義者が――いくらか後になるまで捨てられることのなかった同じ教義を口にしながら――フランスやスイス、イングランド、アメリカ合衆国といった彼らを受け入れる民主主義国へと逃れたのだ。その行動によって彼らは自分たちの言葉が誤っていることを示した。レーニンの言う様に彼らは「その足で票を投じた」のである。そしてここに資本主義民主主義の持つ最良の価値が見られる。それは民主主義の国々の市民の享受する相対的な安心感、友人と政治談義をしても鍵穴に耳を押し付けるゲシュタポはいないという認識、法律を破らない限り「やつら」は罰を下すことはできないという信念、法は国家よりも上にあるという信念である。この信念の一部が幻想であること――もちろんその通りだ――は問題ではない。人々の振る舞いに影響を与えるほど広まった幻想はそれ自体が重要な事実なのである。現在、あるいは未来のイギリス政府がデイリー・ワーカー紙の今回の規制に続いてイタリアやドイツでおこなわれた様な共産党の完全な壊滅を決めたとしよう。かなり高い確率でその仕事が実現不可能なことに政府は気づくだろう。こうした種類の政治的迫害を実行できるのは十分な力を持ったゲシュタポだけだが、そんなものはイングランドには存在しないし、今の所、創設することもできないだろう。社会の雰囲気があまりにそれに反していて、必要な職員を確保できないはずだ。ファシズムに対抗して戦えば私たち自身が「ファシストになる」だろうと断言する平和主義者が忘れているのはあらゆる政治体制は人間によって運営されていて、人間は自身の過去に影響されるということだ。戦争の結果としてイングランドは多くの退行的変化に苦しんでいるかもしれないが、征服されてそうなる可能性を除けば、ナチス・ドイツの模造品へ変わることはあり得ない。何かオーストリア・ファシズムとでもいった物に向かって発達はするかもしれないが、陽的・革命的・悪性の種類のファシズムへ向かうことはないだろう。必要な人材がいないのだ。これは三世紀にわたる平穏と先の戦争で私たちが敗北しなかったという事実のおかげである。

しかし私はデイリー・ワーカー紙の社説で言及されている「自由」こそが戦うに値する唯一のものであると言っているわけではない。資本主義民主主義はそれ自体では不十分なものであり、何か別の物に変化しなければ救いようのないものである。この国の保守政治家はイギリス勝利という結果によってまさに過去が戻ってくことをその萎びた頭脳で信じ願っているかもしれない。ベルサイユ条約の再来、「通常」の経済活動の再開、何百万もの失業者、スコットランドの荒野での鹿狩り、七月十一日におこなわれるイートン校とハロウ校の対抗戦などなど。極左の反戦論者が恐れている、あるいは恐れていると公言しているのも同じものだ。しかしそれは時代遅れの考えで、現在にあってさえ私たちが戦っているものの持つ力を理解することに失敗している。ナチズムが独占的資本主義を偽装したものであろうがなかろうが、いずれにせよそれは十九世紀的な意味合いにおいての資本主義ではない。それは小切手帳ではなく剣によって統治されているのだ。それは中央集権化された経済であり、戦争のために合理化されていて、思いのままに最高の労働力と原材料を使うことができるのである。昔ながらの資本主義国ではさまざまな勢力による綱引きがあり、利潤を理由に軍備は停滞し、生得権によって無能な間抜けが高い地位に就き、階級と階級の間で絶えず衝突が起きていて、そうした種類のものとは競争にならないことは明らかである。もし人民戦線運動が成功してイングランドがドイツに対する予防戦争――あるいは戦争の脅威――のために二、三年前にフランスやソ連と同盟を結んでいれば、イギリスの資本主義も恐らくはその命をつなぐことができただろう。しかしそうはならず、ヒトラーは軍備を充実させる時間を得て、敵を分断することに成功した。少なくともあと一年の間、イングランドは独力でとてつもない苦闘を続けなければならない。私たちの優位は、まず何よりも海軍力、その次に長期的に見れば私たちの方が資源が大幅に多い――もし使うことができれば――ことである。しかし私たちがそうした資源を使えるのは私たちの社会と経済体制を徹頭徹尾、変化させた場合だけだ。労働の生産性、銃後の士気、有色人種の人々の私たちへ向けられる態度、そして征服されたヨーロッパの人口、究極的には、イングランドは現状維持のために戦う利己的な金権国家に過ぎないというゲッベルスの非難を私たちが反証できるかどうかに全てはかかっている。もし金権国家のままであれば――ゲッベルスの描く実態は完全な間違いというわけではない――私たちは征服されることだろう。チェンバレンによるイングランドとヒトラーが私たちに押し付けようとしている体制のどちらかを選ばなければならないとしたら、私は躊躇なくチェンバレンによるイングランドを選ぶだろう。しかしそうした選択肢は現実には存在しない。おおざっぱに言えば選択肢は社会主義か敗北かなのだ。前進するか、さもなくば滅びるかだ。

昨年の夏、イングランドの状況が今よりも明らかに絶望的だった頃にはこの事実は広く認識されていた。もしその夏の数ヶ月の雰囲気が消えてしまっているとすれば原因のひとつはほとんどの人々が当時予期していたよりも事態が破滅的でなくなったことだろうが、またもうひとつは全体を代表する不満の声を上げて目標を指し示す政党や新聞、目立った人物が存在しないことである。なぜあのような混乱状態になったのか、どうすればそこから抜け出せるのか――傾聴に値するやり方で――説明できるものは誰一人いなかった。国を団結させたのはチャーチルで、彼は天性の才能を持った勇敢な男ではあったが視野の狭い伝統的なタイプの愛国者だった。実質的にチャーチルが言ったのは「私たちはイングランドのために戦う」ということだけであり、それで人々は群がるようにして彼の後ろについていった。「私たちは社会主義のために戦う」と言って人々を同じ様に動かせる者がいただろうか? 自分たちの立場が悪くなることも、既存の社会体制は全くひどいものであり自分たちが何か別のものを求めていることも彼らは知っていた――しかし彼らが求めているものは社会主義なのだろうか? そもそも社会主義とは何なのだろうか? 今日に至ってもこの言葉はほとんどのイギリスの人々にとっては実にあいまいな意味しか持たない。それが感情的な訴求力を持たないことは確実である。どんな状況だろうと、それのために命を投げ出す人間は王と国のために命を投げ出す人間の数には届かないだろう。チャーチルにはおおいに感服し――個人的には私は人間、文筆家としての彼に常に感服している。その政策にはほとんど賛同できないのだが――昨年の夏に彼がおこなったことに感謝を感じていたとしても、現在のこの大惨事の瞬間に人々は今でも保守党が導いてくれることを期待していると言うことはイギリスの社会主義運動に対する恐るべき論評ではないだろうか?

イングランドがこれまで一度も手にしたことが無いのが実業を重視し、現代の実情を考慮する社会主義政党である。過去十年にわたって労働党が発表してきた計画はどれも、その指導者たちが、自分たちが生きている間に根本的な変化を目にすることを期待したり、あるいは願ったりしているとはとうてい信じ難いものだった。その結果、左派運動に存在していた革命的感情はさまざまな袋小路へと流れ去った。中でも最も重要なのが共産主義のそれである。共産主義は西ヨーロッパでは初めから見込みの無い運動であり、さまざまな国の共産党は早々にロシア体制のたんなる宣伝係に成り下がった。こうした状況で彼らはロシアの政策の転換のたびにその最も根本的な見解を変えることを強いられ、さらには自分たちが導こうとしている人々のあらゆる生来の気質、あらゆる伝統を侮辱せざるを得なくなった。内戦と二度の飢饉、粛清の後、彼らが選んだ祖国は寡頭制支配や厳格な思想検閲、指導者への奴隷的崇拝に没頭するようになった。ロシアは学ぶところはあっても真似しようとは思えない立ち遅れた国であると指摘する代わりに、共産主義者たちはあの粛清や「整理」といったものはまともな考えを持った人間であればイングランドへ取り入れたいと望む健全な兆候であると装わなければならなかった。ああした教義に惹きつけられ、その性質を理解した後になっても忠誠を保つ人々の多くが神経症的なタイプや悪意に満ちたタイプ、成功を収めた残虐行為の光景に魅せられた人々であるのは実に自然なことだ。イングランドでは彼らが安定した多数の支持者を得ることない。しかしそれでも彼らは危険な存在になり得るし、危険な存在であり続けている。理由は簡単で自身を革命派と称する集団が他にいないからだ。不満を抱えていて、力で既存の社会体制を打ち倒したいと欲し、そうした目標を誓っている政党に参加したいと願えば共産党に加わる他ない。実質的に他の選択肢は無いのだ。彼らは自身の目標は達成できないだろうがヒトラーの目標は達成するかもしれない。例えば、いわゆる人民会議がイングランドで権力を勝ち取ることはどう転んでもあり得ないが、ある決定的な瞬間におおいにヒトラーの助けとなる敗北主義を十分に広めることはできるかもしれない。そして一方の人民会議に対して他方の「良きにつけ悪しきにつけ我が祖国」タイプの愛国主義には今の所、はっきりとした方針が存在しないのである。

本当のイギリスの社会主義運動が現れる時――私たちが敗北しなければそれは必ず現れるし、その土台は多くのパブや防空壕の中での会話の中にすでに存在している――それは既存の政党の区分を横断するものになるだろう。それは革命的であると同時に民主的なものになるはずだ。それは最も根本的な変化を目指し、必要となれば暴力の使用も全くためらわないだろう。しかし同時にそれは全ての文化が同じではないこと、革命の妨げとならないのであれば国民感情や伝統は尊重されなければならないこと、イングランドはロシアや中国やインドとは異なることを認めるだろう。イギリスの民主主義は全くの偽りやたんなる「上部構造」ではなく、反対に、守り、発展させていかなければならない極めて価値あるものであり、とりわけ、それを侮辱すべきでないことを理解しているだろう。これこそ「ブルジョア」民主主義に反対するよく知られた主張への回答に私が上記の大きな紙面を割いた理由である。ブルジョア民主主義は不十分なものだがファシズムよりはずっとましだし、それに反対することは自分の座っている木の枝をのこぎりで切り落とそうとするようなものだ。知識人たちはそうでないとしても一般の人々はこれを理解している。

民主主義の「幻想」、そして誠実や公の良識に対する西洋的考えに彼らは固くしがみつくことだろう。「現実主義」や権力政治といった言葉で訴えかけたり、ローレンス・アンド・ウィシャート社ローレンス・アンド・ウィシャート社:イギリスの共産党系の出版社のジャーゴンでマキャベリの教えを説いても無駄である。それでできるのはヒトラーが願っているような混乱を生むことがせいぜいだ。それがどのようなものであれ、多くのイギリスの人々を結集させられる運動は、教条主義的マルクス主義者が「幻想」や「上部構造」として切り捨てている民主主義的な価値観を基調としたものでなければならない。多少なりとも自分たち過去を踏まえた社会主義を生み出すか、さもなくば予測可能か不可能かはともかく間違いなく恐ろしい結果によって征服されるかのどちらかである。民主主義の教義の根底を揺るがせ、プロテスタントの数世紀とフランス革命に由来する道徳律を切り崩そうと試みる者はそれがヒトラーに備えるためだと装おうとも、誰であろうと自身に権力を集めることはできない――この過程はヨーロッパで何度も繰り返されてきたことであり、その本質を見誤ることはもはや許されないのである。

1941年2月
The Left News

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