源氏物語, 紫式部

椎本


第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る

[第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る]

如月の二十日のほどに、兵部卿宮、初瀬に詣でたまふ。古き御願なりけれど、思しも立たで年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御中宿りのゆかしさに、多くは催されたまへるなるべし。うらめしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さるるゆゑもはかなしや。上達部いとあまた仕うまつりたまふ。殿上人などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつれり。

六条院より伝はりて、右大殿知りたまふ所は、川より遠方に、いと広くおもしろくてあるに、御まうけせさせたまへり。大臣も、帰さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかなる御物忌みの、重く慎みたまふべく申したなれば、え参らぬ由のかしこまり申したまへり。

宮、なますさまじと思したるに、宰相中将、今日の御迎へに参りあひたまへるに、なかなか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと、御心ゆきぬ。大臣をば、うちとけて見えにくく、ことことしきものに思ひきこえたまへり。

御子の君たち、右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐など、さぶらひたまふ。帝、后も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御おぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人も、皆私の君に、心寄せ仕うまつりたまふ。

[第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す]

所につけて、御しつらひなどをかしうしなして、碁、双六、弾棊の盤どもなど取り出でて、心々にすさび暮らしたまふ。宮は、ならひたまはぬ御ありきに、悩ましく思されて、ここにやすらはむの御心も深ければ、うち休みたまひて、夕つ方ぞ、御琴など召して遊びたまふ。

例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして、物の音澄みまさる心地して、かの聖の宮にも、たださし渡るほどなれば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに、昔のこと思し出でられて、

「笛をいとをかしうも吹きとほしたなるかな。誰ならむ。昔の六条院の御笛の音聞きしは、いとをかしげに愛敬づきたる音にこそ吹きたまひしか。これは澄みのぼりて、ことことしき気の添ひたるは、致仕大臣の御族の笛の音にこそ似たなれ」など、独りごちおはす。

「あはれに、久しうなりにけりや。かやうの遊びなどもせで、あるにもあらで過ぐし来にける年月の、さすがに多く数へらるるこそ、かひなけれ」

などのたまふついでにも、姫君たちの御ありさまあたらしく、「かかる山懐にひき籠めてはやまずもがな」と思し続けらる。「宰相の君の、同じうは近きゆかりにて見まほしげなるを、さしも思ひ寄るまじかめり。まいて今やうの心浅からむ人をば、いかでかは」など思し乱れ、つれづれと眺めたまふ所は、春の夜もいと明かしがたきを、心やりたまへる旅寝の宿りは、酔の紛れにいと疾う明けぬる心地して、飽かず帰らむことを、宮は思す。

はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむるなど、いろいろ見わたさるるに、川沿ひ柳の起きふしなびく水影など、おろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、いとめづらしく見捨てがたしと思さる。

宰相は、「かかるたよりを過ぐさず、かの宮にまうでばや」と思せど、「あまたの人目をよきて、一人漕ぎ出でたまはむ舟わたりのほども軽らかにや」と思ひやすらひたまふほどに、かれより御文あり。

山風に霞吹きとく声はあれど隔てて見ゆる遠方の白波

草にいとをかしう書きたまへり。宮、「思すあたりの」と見たまへば、いとをかしう思いて、「この御返りはわれせむ」とて、

遠方こちの汀に波は隔つともなほ吹きかよへ宇治の川風

[第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る]

中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さしやりたまふほど、酣酔楽遊びて、水に臨きたる廊に造りおろしたる階の心ばへなど、さる方にいとをかしう、ゆゑある宮なれば、人びと心して舟よりおりたまふ。

ここはまた、さま異に、山里びたる網代屏風などの、ことさらにことそぎて、見所ある御しつらひを、さる心してかき払ひ、いといたうしなしたまへり。いにしへの、音などいと二なき弾きものどもを、わざとまうけたるやうにはあらで、次々弾き出でたまひて、壱越調の心に、桜人遊びたまふ。

主人の宮、御琴をかかるついでにと、人びと思ひたまへれど、箏の琴をぞ、心にも入れず、折々掻き合はせたまふ。耳馴れぬけにやあらむ、「いともの深くおもしろし」と、若き人びと思ひしみたり。

所につけたる饗応、いとをかしうしたまひて、よそに思ひやりしほどよりは、なま孫王めくいやしからぬ人あまた、大君、四位の古めきたるなど、かく人目見るべき折と、かねていとほしがりきこえけるにや、さるべき限り参りあひて、瓶子取る人もきたなげならず、さる方に古めきて、よしよししうもてなしたまへり。客人たちは、御女たちの住まひたまふらむ御ありさま、思ひやりつつ、心つく人もあるべし。

[第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す]

かの宮は、まいてかやすきほどならぬ御身をさへ、所狭く思さるるを、かかる折にだにと、忍びかねたまひて、おもしろき花の枝を折らせたまひて、御供にさぶらふ上童のをかしきしてたてまつりたまふ。

山桜匂ふあたりに尋ね来て同じかざしを折りてけるかな

野を睦ましみ」

とやありけむ。「御返りは、いかでかは」など、聞こえにくく思しわづらふ。

「かかる折のこと、わざとがましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎きことになむしはべりし」

など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたてまつりたまふ。

かざし折る花のたよりに山賤の垣根を過ぎぬ春の旅人

野をわきてしも」

と、いとをかしげに、らうらうじく書きたまへり。

げに、川風も心わかぬさまに吹き通ふ物の音ども、おもしろく遊びたまふ。御迎へに、藤大納言、仰せ言にて参りたまへり。人びとあまた参り集ひ、もの騒がしくてきほひ帰りたまふ。若き人びと、飽かず返り見のみせられける。宮は、「またさるべきついでして」と思す。

花盛りにて、四方の霞も眺めやるほどの見所あるに、唐のも大和のも、歌ども多かれど、うるさくて尋ねも聞かぬなり。

もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやらずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべなくても御文は常にありけり。宮も、

「なほ、聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか心ときめきにもなりぬべし。いと好きたまへる親王なれば、かかる人なむ、と聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」

と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、かやうのこと、戯れにももて離れたまへる御心深さなり。

いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど暮らしがたく眺めたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌ども、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦しく、「かたほにもおはせましかば、あたらしう、惜しき方の思ひは薄くやあらまし」など、明け暮れ思し乱る。

姉君二十五、中の君二十三にぞなりたまひける。

[第五段 八の宮、娘たちへの心配]

宮は、重く慎みたまふべき年なりけり。もの心細く思して、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたまはねば、出で立ちいそぎをのみ思せば、涼しき道にも赴きたまひぬべきを、ただこの御ことどもに、いといとほしく、限りなき御心強さなれど、「かならず、今はと見捨てたまはむ御心は、乱れなむ」と、見たてまつる人も推し量りきこゆるを、思すさまにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじう、見ゆるされぬべき際の人の、真心に後見きこえむ、など、思ひ寄りきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一所一所世に住みつきたまふよすがあらば、それを見譲る方に慰めおくべきを、さまで深き心に尋ねきこゆる人もなし。

まれまれはかなきたよりに、好きごと聞こえなどする人は、まだ若々しき人の心のすさびに、物詣での中宿り、行き来のほどのなほざりごとに、けしきばみかけて、さすがに、かく眺めたまふありさまなど推し量り、あなづらはしげにもてなすは、めざましうて、なげのいらへをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、なほ見ではやまじと思す御心深かりける。さるべきにやおはしけむ。

第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す

[第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問]

宰相中将、その秋、中納言になりたまひぬ。いとど匂ひまさりたまふ。世のいとなみに添へても、思すこと多かり。いかなることと、いぶせく思ひわたりし年ごろよりも、心苦しうて過ぎたまひにけむいにしへざまの思ひやらるるに、罪軽くなりたまふばかり、行ひもせまほしくなむ。かの老い人をばあはれなるものに思ひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛らはしつつ、心寄せ訪らひたまふ。

宇治に参うでで久しうなりにけるを、思ひ出でて参りたまへり。七月ばかりになりにけり。都にはまだ入りたたぬ秋のけしきを、音羽の山近く、風の音もいと冷やかに、槙の山辺もわづかに色づきて、なほ尋ね来たるに、をかしうめづらしうおぼゆるを、宮はまいて、例よりも待ち喜びきこえたまひて、このたびは、心細げなる物語、いと多く申したまふ。

「亡からむ後、この君たちを、さるべきもののたよりにもとぶらひ、思ひ捨てぬものに数まへたまへ」

など、おもむけつつ聞こえたまへば、

「一言にても承りおきてしかば、さらに思うたまへおこたるまじくなむ。世の中に心をとどめじと、はぶきはべる身にて、何ごとも頼もしげなき生ひ先の少なさになむはべれど、さる方にてもめぐらいはべらむ限りは、変らぬ心ざしを御覧じ知らせむとなむ思うたまふる」

など聞こえたまへば、うれしと思いたり。

[第二段 薫、八の宮と昔語りをする]

夜深き月の明らかにさし出でて、山の端近き心地するに、念誦いとあはれにしたまひて、昔物語したまふ。

「このころの世は、いかがなりにたらむ。宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びの折にさぶらひあひたる中に、ものの上手とおぼしき限り、とりどりにうち合はせたる拍子など、ことことしきよりも、よしありとおぼえある女御、更衣の御局々の、おのがじしは挑ましく思ひ、うはべの情けを交はすべかめるに、夜深きほどの人の気しめりぬるに、心やましく掻い調べ、ほのかにほころび出でたる物の音など、聞き所あるが多かりしかな。

何ごとにも、女は、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、人の心を動かすくさはひになむあるべき。されば、罪の深きにやあらむ。子の道の闇を思ひやるにも、男は、いとしも親の心を乱さずやあらむ。女は、限りありて、いふかひなき方に思ひ捨つべきにも、なほ、いと心苦しかるべき」

など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、心苦しく思ひやらるる御心のうちなり。

「すべて、まことに、しか思うたまへ捨てたるけにやはべらむ、みづからのことにては、いかにもいかにも深う思ひ知る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心こそ、背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、さればや、立ちて舞ひはべりけむ」

など聞こえて、飽かず一声聞きし御琴の音を、切にゆかしがりたまへば、うとうとしからぬ初めにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたまひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞ、いとほのかに掻きならしてやみたまひぬる。いとど人のけはひも絶えて、あはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾き合はせたまはむ。

「おのづからかばかりならしそめつる残りは、世籠もれるどちに譲りきこえてむ」

とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。

われなくて草の庵は荒れぬともこのひとことはかれじとぞ思ふ

かかる対面もこのたびや限りならむと、もの心細きに忍びかねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」

とて、うち泣きたまふ。客人、

いかならむ世にかかれせむ長き世の契りむすべる草の庵は

相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ」

など聞こえたまふ。

[第三段 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京]

こなたにて、かの問はず語りの古人召し出でて、残り多かる物語などせさせたまふ。入り方の月、隈なくさし入りて、透影なまめかしきに、君たちも奥まりておはす。世の常の懸想びてはあらず、心深う物語のどやかに聞こえつつものしたまへば、さるべき御いらへなど聞こえたまふ。

「三の宮、いとゆかしう思いたるものを」と、心のうちには思ひ出でつつ、「わが心ながら、なほ人には異なりかし。さばかり御心もて許いたまふことの、さしもいそがれぬよ。もて離れて、はたあるまじきこととは、さすがにおぼえず。かやうにてものをも聞こえ交はし、折ふしの花紅葉につけて、あはれをも情けをも通はすに、憎からずものしたまふあたりなれば、宿世異にて、他ざまにもなりたまはむは」、さすがに口惜しかるべう、領じたる心地しけり。

まだ夜深きほどに帰りたまひぬ。心細く残りなげに思いたりし御けしきを、思ひ出できこえたまひつつ、「騒がしきほど過ぐして参うでむ」と思す。兵部卿宮も、この秋のほどに紅葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす。

御文は、絶えずたてまつりたまふ。女は、まめやかに思すらむとも思ひたまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてなしつつ、折々に聞こえ交はしたまふ。

[第四段 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る]

秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうもの心細くおぼえたまひければ、「例の、静かなる所にて、念仏をも紛れなうせむ」と思して、君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。

「世のこととして、つひの別れを逃れぬわざなめれど、思ひ慰まむ方ありてこそ、悲しさをも覚ますものなめれ。また見譲る人もなく、心細げなる御ありさまどもを、うち捨ててむがいみじきこと。

されども、さばかりのことに妨げられて、長き夜の闇にさへ惑はむが益なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ捨つる世を、去りなむうしろのこと、知るべきことにはあらねど、わが身一つにあらず、過ぎたまひにし御面伏せに、軽々しき心どもつかひたまふな。

おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにもあらず過ぎぬる年月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠もりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきを負はざらむなむよかるべき」

などのたまふ。ともかくも身のならむやうまでは、思しも流されず、ただ、「いかにしてか、後れたてまつりては、世に片時もながらふべき」と思すに、かく心細きさまの御あらましごとに、言ふ方なき御心惑ひどもになむ。心のうちにこそ思ひ捨てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいたまうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに恨めしかるべき御ありさまになむありける。

明日、入りたまはむとての日は、例ならず、こなたかなた、たたずみ歩きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの宿りにて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、「亡からむのち、いかにしてかは、若き人の絶え籠もりては過ぐいたまはむ」と、涙ぐみつつ念誦したまふさま、いときよげなり。

おとなびたる人びと召し出でて、

「うしろやすく仕うまつれ。何ごとも、もとよりかやすく、世に聞こえあるまじき際の人は、末の衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りかたじけなく、いとほしきことなむ、多かるべき。もの寂しく心細き世を経るは、例のことなり。

生まれたる家のほど、おきてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地にも、過ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数めかむと思ふとも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々しく、よからぬ方にもてなしきこゆな」

などのたまふ。

まだ暁に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、

「無からむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。思し入られそ」

など、返り見がちにて出でたまひぬ。二所、いとど心細くもの思ひ続けられて、起き臥しうち語らひつつ、

「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさまし」

「今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」

など、泣きみ笑ひみ、戯れごともまめごとも、同じ心に慰め交して過ぐしたまふ。

[第五段 八月二十日、八の宮、山寺で死去]

かの行ひたまふ三昧、今日果てぬらむと、いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参りて、

「今朝より、悩ましくてなむ、え参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例よりも対面心もとなきを」

と聞こえたまへり。胸つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて、急ぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。二、三日怠りたまはず。「いかに、いかに」と、人たてまつりたまへど、

「ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしもよろしくならば、今、念じて」

など、言葉にて聞こえたまふ。阿闍梨つとさぶらひて仕うまつりける。

「はかなき御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらむ。君たちの御こと、何か思し嘆くべき。人は皆、御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」

と、いよいよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「今さらにな出でたまひそ」と、諌め申すなりけり。

八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけしきもいとどしきころ、君たちは、朝夕、霧の晴るる間もなく、思し嘆きつつ眺めたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、「明けぬなり」と聞こゆるほどに、人びと来て、

「この夜中ばかりになむ、亡せたまひぬる」

と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくものおぼえぬ心地して、いとどかかることには、涙もいづちか去にけむ、ただうつぶし臥したまへり。

いみじき目も、見る目の前にておぼつかなからぬこそ、常のことなれ、おぼつかなさ添ひて、思し嘆くこと、ことわりなり。しばしにても、後れたてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地どもにて、いかでかは後れじと泣き沈みたまへど、限りある道なりければ、何のかひなし。

[第六段 阿闍梨による法事と薫の弔問]

阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに、後の御こともよろづに仕うまつる。

「亡き人になりたまへらむ御さま容貌をだに、今一度見たてまつらむ」

と思しのたまへど、

「今さらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、また会ひたまふまじきことを聞こえ知らせつれば、今はまして、かたみに御心とどめたまふまじき御心遣ひを、ならひたまふべきなり」

とのみ聞こゆ。おはしましける御ありさまを聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を、憎くつらしとなむ思しける。

入道の御本意は、昔より深くおはせしかど、かう見譲る人なき御ことどもの見捨てがたきを、生ける限りは明け暮れえ避らず見たてまつるを、よに心細き世の慰めにも、思し離れがたくて過ぐいたまへるを、限りある道には、先だちたまふも慕ひたまふ御心も、かなはぬわざなりけり。

中納言殿には、聞きたまひて、いとあへなく口惜しく、今一度、心のどかにて聞こゆべかりけること多う残りたる心地して、おほかた世のありさま思ひ続けられて、いみじう泣いたまふ。「またあひ見ること難くや」などのたまひしを、なほ常の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを、人よりけに思ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、かへすがへす飽かず悲しく思さる。

阿闍梨のもとにも、君たちの御弔らひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御弔らひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれなめりしなどをも、思ひ知りたまふ。

「世の常のほどの別れだに、さしあたりては、またたぐひなきやうにのみ、皆人の思ひ惑ふものなめるを、慰むかたなげなる御身どもにて、いかやうなる心地どもしたまふらむ」と思しやりつつ、後の御わざなど、あるべきことども、推し量りて、阿闍梨にも訪らひたまふ。ここにも、老い人どもにことよせて、御誦経などのことも思ひやりたまふ。

第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち

[第一段 九月、忌中の姫君たち]

明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、一つもののやうに暮れ惑ひて、「かうては、いかでか、限りあらむ御命も、しばしめぐらいたまはむ」と、さぶらふ人びとは、心細く、いみじく慰めきこえつつ。

ここにも念仏の僧さぶらひて、おはしましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕うまつりし人びとの、御忌に籠もりたる限りは、あはれに行ひて過ぐす。

兵部卿宮よりも、たびたび弔らひきこえたまふ。さやうの御返りなど、聞こえむ心地もしたまはず。おぼつかなければ、「中納言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるなめり」と、恨めしく思す。紅葉の盛りに、文など作らせたまはむとて、出で立ちたまひしを、かく、このわたりの御逍遥、便なきころなれば、思しとまりて口惜しくなむ。

[第二段 匂宮からの弔問の手紙]

御忌も果てぬ。限りあれば、涙も隙もやと思しやりて、いと多く書き続けたまへり。時雨がちなる夕つ方、

牡鹿鳴く秋の山里いかならむ小萩が露のかかる夕暮

ただ今の空のけしき、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づきなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺も、分きて眺めらるるころになむ」

などあり。

「げに、いとあまり思ひ知らぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ、聞こえたまへ」

など、中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。

「今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべきものとやは思ひし。心憂くも過ぎにける日数かな」と思すに、またかきくもり、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、

「なほ、えこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなどしはべるが、げに、限りありけるにこそとおぼゆるも、疎ましう心憂くて」

と、らうたげなるさまに泣きしをれておはするも、いと心苦し。

夕暮のほどより来ける御使、宵すこし過ぎてぞ来たる。「いかでか、帰り参らむ。今宵は旅寝して」と言はせたまへど、「立ち帰りこそ、参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さかしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、

涙のみ霧りふたがれる山里は籬に鹿ぞ諸声に鳴く

黒き紙に、夜の墨つきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆にまかせて、おし包みて出だしたまひつ。

[第三段 匂宮の使者、帰邸]

御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、さやうのもの懼ぢすまじきをや選り出でたまひけむ、むつかしげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、片時に参り着きぬ。御前にても、いたく濡れて参りたれば、禄賜ふ。

さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、今すこしおとなびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、「いづれか、いづれならむ」と、うちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠もらねば、

「待つとて、起きおはしまし」

「また御覧ずるほどの久しきは、いかばかり御心にしむことならむ」

と、御前なる人びと、ささめき聞こえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。

まだ朝霧深き朝に、いそぎ起きてたてまつりたまふ。

朝霧に友まどはせる鹿の音をおほかたにやはあはれとも聞く

諸声は劣るまじくこそ」

とあれど、「あまり情けだたむもうるさし。一所の御蔭に隠ろへたるを頼み所にてこそ、何ごとも心やすくて過ごしつれ。心よりほかにながらへて、思はずなることの紛れ、つゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思しおくめりしなき御魂にさへ、疵やつけたてまつらむ」と、なべていとつつましう恐ろしうて、聞こえたまはず。

この宮などを、軽らかにおしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさまになまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、見たまひながら、「そのゆゑゆゑしく情けある方に、言をまぜきこえむも、つきなき身のありさまどもなれば、何か、ただ、かかる山伏だちて過ぐしてむ」と思す。

[第四段 薫、宇治を訪問]

中納言殿の御返りばかりは、かれよりもまめやかなるさまに聞こえたまへば、これよりも、いとけうとげにはあらず聞こえ通ひたまふ。御忌果てても、みづから参うでたまへり。東の廂の下りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古人召し出でたり。

闇に惑ひたまへる御あたりに、いとまばゆく匂ひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御いらへなどをだにえしたまはねば、

「かやうには、もてないたまはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはむさまならむこそ、聞こえ承るかひあるべけれ。なよびけしきばみたる振る舞ひをならひはべらねば、人伝てに聞こえはべるは、言の葉も続きはべらず」

とあれば、

「あさましう、今までながらへはべるやうなれど、思ひさまさむ方なき夢にたどられはべりてなむ、心よりほかに空の光見はべらむもつつましうて、端近うもえみじろきはべらぬ」

と聞こえたまへれば、

「ことといへば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もて晴れ晴れしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむは、しばしをも、あきらめきこえまほしくなむ」

と申したまへば、

「げに、こそ。いとたぐひなげなめる御ありさまを、慰めきこえたまふ御心ばへの浅からぬほど」など、聞こえ知らす。

[第五段 薫、大君と和歌を詠み交す]

御心地にも、さこそいへ、やうやう心しづまりて、よろづ思ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまではるけき野辺を分け入りたまへる心ざしなども、思ひ知りたまふべし、すこしゐざり寄りたまへり。

思すらむさま、またのたまひ契りしことなど、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて雄々しきけはひなどは見えたまはぬ人なれば、け疎くすずろはしくなどはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すずろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひ続くるも、さすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言などいらへきこえたまふさまの、げに、よろづ思ひほれたまへるけはひなれば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。

黒き几帳の透影の、いと心苦しげなるに、ましておはすらむさま、ほの見し明けぐれなど思ひ出でられて、

色変はる浅茅を見ても墨染にやつるる袖を思ひこそやれ

と、独り言のやうにのたまへば、

色変はる袖をば露の宿りにてわが身ぞさらに置き所なき

はつるる糸は」

と末は言ひ消ちて、いといみじく忍びがたきけはひにて入りたまひぬなり。

[第六段 薫、弁の君と語る]

ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、飽かずあはれにおぼゆ。老い人ぞ、こよなき御代はりに出で来て、昔今をかき集め、悲しき御物語ども聞こゆ。ありがたくあさましきことどもをも見たる人なりければ、かうあやしく衰へたる人とも思し捨てられず、いとなつかしう語らひたまふ。

「いはけなかりしほどに、故院に後れたてまつりて、いみじう悲しきものは世なりけりと、思ひ知りにしかば、人となりゆく齢に添へて、官位、世の中の匂ひも、何ともおぼえずなむ。

ただ、かう静やかなる御住まひなどの、心にかなひたまへりしを、かくはかなく見なしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめの世の思ひ知らるる心も、もよほされにたれど、心苦しうて、とまりたまへる御ことどもの、ほだしなど聞こえむは、かけかけしきやうなれど、ながらへても、かの御言あやまたず、聞こえ承らまほしさになむ。

さるは、おぼえなき御古物語聞きしより、いとど世の中に跡とめむともおぼえずなりにたりや」

うち泣きつつのたまへば、この人はましていみじく泣きて、えも聞こえやらず。御けはひなどの、ただそれかとおぼえたまふに、年ごろうち忘れたりつるいにしへの御ことをさへとり重ねて、聞こえやらむ方もなく、おぼほれゐたり。

この人は、かの大納言の御乳母子にて、父は、この姫君たちの母北の方の、母方の叔父、左中弁にて亡せにけるが子なりけり。年ごろ、遠き国にあくがれ、母君も亡せたまひてのち、かの殿には疎くなり、この宮には、尋ね取りてあらせたまふなりけり。人もいとやむごとなからず、宮仕へ馴れにたれど、心地なからぬものに宮も思して、姫君たちの御後見だつ人になしたまへるなりけり。

昔の御ことは、年ごろかく朝夕に見たてまつり馴れ、心隔つる隈なく思ひきこゆる君たちにも、一言うち出で聞こゆるついでなく、忍びこめたりけれど、中納言の君は、「古人の問はず語り、皆、例のことなれば、おしなべてあはあはしうなどは言ひ広げずとも、いと恥づかしげなめる御心どもには、聞きおきたまへらむかし」と推し量らるるが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、「またもて離れてはやまじ」と、思ひ寄らるるつまにもなりぬべき。

[第七段 薫、日暮れて帰京]

今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも、「これや限りの」などのたまひしを、「などか、さしもやは、とうち頼みて、また見たてまつらずなりにけむ、秋やは変はれる。あまたの日数も隔てぬほどに、おはしにけむ方も知らず、あへなきわざなりや。ことに例の人めいたる御しつらひなく、いとことそぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払ひ、あたりをかしくもてないたまへりし御住まひも、大徳たち出で入り、こなたかなたひき隔てつつ、御念誦の具どもなどぞ、変らぬさまなれど、『仏は皆かの寺に移したてまつりてむとす』」と聞こゆるを、聞きたまふにも、かかるさまの人影などさへ絶え果てむほど、とまりて思ひたまはむ心地どもを汲みきこえたまふも、いと胸いたう思し続けらる。

「いたく暮れはべりぬ」と申せば、眺めさして立ちたまふに、雁鳴きて渡る。

秋霧の晴れぬ雲居にいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらむ

[第八段 姫君たちの傷心]

兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを扱ひぐさにしたまふ。「今はさりとも心やすきを」と思して、宮は、ねむごろに聞こえたまひけり。はかなき御返りも、聞こえにくくつつましき方に、女方は思いたり。

「世にいといたう好きたまへる御名のひろごりて、好ましく艶に思さるべかめるも、かういと埋づもれたる葎の下よりさし出でたらむ手つきも、いかにうひうひしく、古めきたらむ」など思ひ屈したまへり。

「さても、あさましうて明け暮らさるるは、月日なりけり。かく、頼みがたかりける御世を、昨日今日とは思はで、ただおほかた定めなきはかなさばかりを、明け暮れのことに聞き見しかど、我も人も後れ先だつほどしもやは経む、などうち思ひけるよ」

「来し方を思ひ続くるも、何の頼もしげなる世にもあらざりけれど、ただいつとなくのどやかに眺め過ぐし、もの恐ろしくつつましきこともなくて経つるものを、風の音も荒らかに、例見ぬ人影も、うち連れ声づくれば、まづ胸つぶれて、もの恐ろしくわびしうおぼゆることさへ添ひにたるが、いみじう堪へがたきこと」

と、二所うち語らひつつ、干す世もなくて過ぐしたまふに、年も暮れにけり。

第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち

[第一段 歳末の宇治の姫君たち]

雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音なれど、今はじめて思ひ入りたらむ山住みの心地したまふ。女ばらなど、

「あはれ、年は替はりなむとす。心細く悲しきことを。改まるべき春待ち出でてしがな」

と、心を消たず言ふもあり。「難きことかな」と聞きたまふ。

向かひの山にも、時々の御念仏に籠もりたまひしゆゑこそ、人も参り通ひしか、阿闍梨も、いかがと、おほかたにまれに訪れきこゆれど、今は何しにかはほのめき参らむ。

いとど人目の絶え果つるも、さるべきことと思ひながら、いと悲しくなむ。何とも見ざりし山賤も、おはしまさでのち、たまさかにさしのぞき参るは、めづらしく思ほえたまふ。このころのこととて、薪、木の実拾ひて参る山人どもあり。

阿闍梨の室より、炭などやうのものたてまつるとて、

「年ごろにならひはべりにける宮仕への、今とて絶えはつらむが、心細さになむ」

と聞こえたり。かならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを、思し出でてやりたまふ。法師ばら、童べなどの上り行くも、見えみ見えずみ、いと雪深きを、泣く泣く立ち出でて見送りたまふ。

「御髪など下ろいたまうてける、さる方にておはしまさましかば、かやうに通ひ参る人も、おのづからしげからまし」

「いかにあはれに心細くとも、あひ見たてまつること絶えてやまましやは」

など、語らひたまふ。

君なくて岩のかけ道絶えしより松の雪をもなにとかは見る

中の宮、

奥山の松葉に積もる雪とだに消えにし人を思はましかば

うらやましくぞ、またも降り添ふや。

[第二段 薫、歳末に宇治を訪問]

中納言の君、「新しき年は、ふとしもえ訪らひきこえざらむ」と思しておはしたり。雪もいと所狭きに、よろしき人だに見えずなりにたるを、なのめならぬけはひして、軽らかにものしたまへる心ばへの、浅うはあらず思ひ知られたまへば、例よりは見入れて、御座などひきつくろはせたまふ。

墨染ならぬ御火桶、奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけても、宮の待ち喜びたまひし御けしきなどを、人びとも聞こえ出づ。対面したまふことをば、つつましくのみ思いたれど、思ひ隈なきやうに人の思ひたまへれば、いかがはせむとて、聞こえたまふ。

うちとくとはなけれど、さきざきよりはすこし言の葉続けて、ものなどのたまへるさま、いとめやすく、心恥づかしげなり。「かやうにてのみは、え過ぐし果つまじ」と思ひなりたまふも、「いとうちつけなる心かな。なほ、移りぬべき世なりけり」と思ひゐたまへり。

[第三段 薫、匂宮について語る]

「宮の、いとあやしく恨みたまふことのはべるかな。あはれなりし御一言をうけたまはりおきしさまなど、ことのついでにもや、漏らし聞こえたりけむ。またいと隈なき御心のさがにて、推し量りたまふにやはべらむ、ここになむ、ともかくも聞こえさせなすべきと頼むを、つれなき御けしきなるは、もてそこなひきこゆるぞと、たびたび怨じたまへば、心よりほかなることと思うたまふれど、里のしるべ、いとこよなうもえあらがひきこえぬを、何かは、いとさしももてなしきこえたまはむ。

好いたまへるやうに、人は聞こえなすべかめれど、心の底あやしく深うおはする宮なり。なほざりごとなどのたまふわたりの、心軽うてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思ひおとしたまふにや、となむ聞くこともはべる。何ごとにもあるに従ひて、心を立つる方もなく、おどけたる人こそ、ただ世のもてなしに従ひて、とあるもかかるもなのめに見なし、すこし心に違ふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞ、なども思ひなすべかめれば、なかなか心長き例になるやうもあり。

崩れそめては、龍田の川の濁る名をも汚し、いふかひなく名残なきやうなることなども、皆うちまじるめれ。心の深うしみたまふべかめる御心ざまにかなひ、ことに背くこと多くなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々しく、初め終り違ふやうなることなど、見せたまふまじきけしきになむ。

人の見たてまつり知らぬことを、いとよう見きこえたるを、もし似つかはしく、さもやと思し寄らば、そのもてなしなどは、心の限り尽くして仕うまつりなむかし。御中道のほど、乱り脚こそ痛からめ」

と、いとまめやかにて、言ひ続けたまへば、わが御みづからのこととは思しもかけず、「人の親めきていらへむかし」と思しめぐらしたまへど、なほ言ふべき言の葉もなき心地して、

「いかにとかは。かけかけしげにのたまひ続くるに、なかなか聞こえむこともおぼえはべらで」

と、うち笑ひたまへるも、おいらかなるものから、けはひをかしう聞こゆ。

[第四段 薫と大君、和歌を詠み交す]

「かならず御みづから聞こしめし負ふべきこととも思うたまへず。それは、雪を踏み分けて参り来たる心ざしばかりを、御覧じ分かむ御このかみ心にても過ぐさせたまひてよかし。かの御心寄せは、また異にぞはべべかめる。ほのかにのたまふさまもはべめりしを、いさや、それも人の分ききこえがたきことなり。御返りなどは、いづ方にかは聞こえたまふ」

と問ひ申したまふに、「ようぞ、戯れにも聞こえざりける。何となけれど、かうのたまふにも、いかに恥づかしう胸つぶれまし」と思ふに、え答へやりたまはず。

雪深き山のかけはし君ならでまたふみかよふ跡を見ぬかな

と書きて、さし出でたまへれば、

「御ものあらがひこそ、なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、

つららとぢ駒ふみしだく山川をしるべしがてらまづや渡らむ

さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」

と聞こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。けざやかに、いともの遠くすくみたるさまには見えたまはねど、今やうの若人たちのやうに、艶げにももてなさで、いとめやすく、のどかなる心ばへならむとぞ、推し量られたまふ人の御けはひなる。

かうこそは、あらまほしけれと、思ふに違はぬ心地したまふ。ことに触れて、けしきばみ寄るも、知らず顔なるさまにのみもてなしたまへば、心恥づかしうて、昔物語などをぞ、ものまめやかに聞こえたまふ。

[第五段 薫、人びとを励まして帰京]

「暮れ果てなば、雪いとど空も閉ぢぬべうはべり」

と、御供の人びと声づくれば、帰りたまひなむとて、

「心苦しう見めぐらさるる御住まひのさまなりや。ただ山里のやうにいと静かなる所の、人も行き交じらぬはべるを、さも思しかけば、いかにうれしくはべらむ」

などのたまふも、「いとめでたかるべきことかな」と、片耳に聞きて、うち笑む女ばらのあるを、中の宮は、「いと見苦しう、いかにさやうにはあるべきぞ」と見聞きゐたまへり。

御くだものよしあるさまにて参り、御供の人びとにも、肴などめやすきほどにて、土器さし出でさせたまひけり。また御移り香もて騷がれし宿直人ぞ、鬘鬚とかいふつらつき、心づきなくてある、「はかなの御頼もし人や」と見たまひて、召し出でたり。

「いかにぞ。おはしまさでのち、心細からむな」

など問ひたまふ。うちひそみつつ、心弱げに泣く。

「世の中に頼むよるべもはべらぬ身にて、一所の御蔭に隠れて、三十余年を過ぐしはべりにければ、今はまして、野山にまじりはべらむも、いかなる木のもとをかは頼むべくはべらむ」

と申して、いとど人悪ろげなり。

おはしましし方開けさせたまへれば、塵いたう積もりて、仏のみぞ花の飾り衰へず、行ひたまひけりと見ゆる御床など取りやりて、かき払ひたり。本意をも遂げば、と契りきこえしこと思ひ出でて、

立ち寄らむ蔭と頼みし椎が本空しき床になりにけるかな

とて、柱に寄りゐたまへるをも、若き人びとは、覗きてめでたてまつる。

日暮れぬれば、近き所々に、御荘など仕うまつる人びとに、御秣取りにやりける、君も知りたまはぬに、田舎びたる人びとは、おどろおどろしくひき連れ参りたるを、「あやしう、はしたなきわざかな」と御覧ずれど、老い人に紛らはしたまひつ。おほかたかやうに仕うまつるべく、仰せおきて出でたまひぬ。

第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる

[第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る]

年替はりぬれば、空のけしきうららかなるに、汀の氷解けたるを、ありがたくもと眺めたまふ。聖の坊より、「雪消えに摘みてはべるなり」とて、沢の芹、蕨などたてまつりたり。斎の御台に参れる。

「所につけては、かかる草木のけしきに従ひて、行き交ふ月日のしるしも見ゆるこそ、をかしけれ」

など、人びとの言ふを、「何のをかしきならむ」と聞きたまふ。

君が折る峰の蕨と見ましかば知られやせまし春のしるしも

雪深き汀の小芹誰がために摘みかはやさむ親なしにして

など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らしたまふ。

中納言殿よりも宮よりも、折過ぐさず訪らひきこえたまふ。うるさく何となきこと多かるやうなれば、例の、書き漏らしたるなめり。

[第二段 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答]

花盛りのころ、宮、「かざし」を思し出でて、その折見聞きたまひし君たちなども、

「いとゆゑありし親王の御住まひを、またも見ずなりにしこと」

など、おほかたのあはれを口々聞こゆるに、いとゆかしう思されけり。

つてに見し宿の桜をこの春は霞隔てず折りてかざさむ

と、心をやりてのたまへりけり。「あるまじきことかな」と見たまひながら、いとつれづれなるほどに、見所ある御文の、うはべばかりをもて消たじとて、

いづことか尋ねて折らむ墨染に霞みこめたる宿の桜を

なほ、かくさし放ち、つれなき御けしきのみ見ゆれば、まことに心憂しと思しわたる。

[第三段 その後の匂宮と薫]

御心にあまりたまひては、ただ中納言を、とざまかうざまに責め恨みきこえたまへば、をかしと思ひながら、いとうけばりたる後見顔にうちいらへきこえて、あだめいたる御心ざまをも見あらはす時々は、

「いかでか、かからむには」

など、申したまへば、宮も御心づかひしたまふべし。

「心にかなふあたりを、まだ見つけぬほどぞや」とのたまふ。

大殿の六の君を思し入れぬこと、なま恨めしげに、大臣も思したりけり。されど、

「ゆかしげなき仲らひなるうちにも、大臣のことことしくわづらはしくて、何ごとの紛れをも見とがめられむがむつかしき」

と、下にはのたまひて、すまひたまふ。

その年、三条宮焼けて、入道宮も、六条院に移ろひたまひ、何くれともの騒がしきに紛れて、宇治のわたりを久しう訪れきこえたまはず。まめやかなる人の御心は、またいと異なりければ、いとのどかに、「おのがものとはうち頼みながら、女の心ゆるびたまはざらむ限りは、あざればみ情けなきさまに見えじ」と思ひつつ、「昔の御心忘れぬ方を、深く見知りたまへ」と思す。

[第四段 夏、薫、宇治を訪問]

その年、常よりも暑さを人わぶるに、「川面涼しからむはや」と思ひ出でて、にはかに参うでたまへり。朝涼みのほどに出でたまひければ、あやにくにさし来る日影もまばゆくて、宮のおはせし西の廂に、宿直人召し出でておはす。

そなたの母屋の仏の御前に、君たちものしたまひけるを、気近からじとて、わが御方に渡りたまふ御けはひ、忍びたれど、おのづから、うちみじろきたまふほど近う聞こえければ、なほあらじに、こなたに通ふ障子の端の方に、かけがねしたる所に、穴のすこし開きたるを見おきたまへりければ、外に立てたる屏風をひきやりて見たまふ。

ここもとに几帳を添へ立てたる、「あな、口惜し」と思ひて、ひき帰る、折しも、風の簾をいたう吹き上ぐべかめれば、

「あらはにもこそあれ。その几帳おし出でてこそ」

と言ふ人あなり。をこがましきものの、うれしうて見たまへば、高きも短きも、几帳を二間の簾におし寄せて、この障子に向かひて、開きたる障子より、あなたに通らむとなりけり。

[第五段 障子の向こう側の様子]

まづ、一人立ち出でて、几帳よりさし覗きて、この御供の人びとの、とかう行きちがひ、涼みあへるを見たまふなりけり。濃き鈍色の単衣に、萱草の袴もてはやしたる、なかなかさま変はりてはなやかなりと見ゆるは、着なしたまへる人からなめり。

帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持たまへり。いとそびやかに、様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足らぬほどならむと見えて、末まで塵のまよひなく、つやつやとこちたう、うつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見えて、匂ひやかに、やはらかにおほどきたるけはひ、女一の宮も、かうざまにぞおはすべきと、ほの見たてまつりしも思ひ比べられて、うち嘆かる。

またゐざり出でて、「かの障子は、あらはにもこそあれ」と、見おこせたまへる用意、うちとけたらぬさまして、よしあらむとおぼゆ。頭つき、髪ざしのほど、今すこしあてになまめかしきさまなり。

「あなたに屏風も添へて立ててはべりつ。急ぎてしも、覗きたまはじ」

と、若き人びと、何心なく言ふあり。

「いみじうもあるべきわざかな」

とて、うしろめたげにゐざり入りたまふほど、気高う心にくきけはひ添ひて見ゆ。黒き袷一襲、同じやうなる色合ひを着たまへれど、これはなつかしうなまめきて、あはれげに、心苦しうおぼゆ。

髪、さはらかなるほどに落ちたるなるべし、末すこし細りて、色なりとかいふめる、翡翠だちていとをかしげに、糸をよりかけたるやうなり。紫の紙に書きたる経を、片手に持ちたまへる手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。立ちたりつる君も、障子口にゐて、何ごとにかあらむ、こなたを見おこせて笑ひたる、いと愛敬づきたり。