良い悪書, ジョージ・オーウェル

良い悪書


つい最近、とある出版業者にレオナルド・メリックのある小説の復刻版のために紹介文を書いてくれないかと依頼されたことがある。この出版社はどうやらマイナーで半ば忘れ去られた二十世紀の小説の長いシリーズの再出版をおこなおうとしているようだ。最近の書籍不足の状況では価値のある仕事だし、三ペニーボックスを探しだしたり、少年時代のお気に入りの写しを追い求める職に就くであろう人物が私は羨ましくてしかたない。

最近ではほとんど見かけることもないが十九世紀後半から二十世紀の初頭に栄華を極めた種類の書籍がある。チェスタートンチェスタートン:ギルバート・ケイス・チェスタートン。イギリスの作家。カトリック教会のブラウン神父を探偵役とした推理小説で知られる。が呼ぶところの「良い悪書」だ。文学的な体裁はしていないものの、文学的に真面目な作品が消え去った後でもなお読む価値を持ち続ける種類の作品だ。こういったものの中でも明らかにずば抜けているのがラッフルズシャーロック・ホームズの物語で、無数の「問題作品」、「ヒューマン・ドキュメント作品」、「恐ろしい告発作品」といったものが忘却の彼方に消えていった後でもなおその地位を保っている(コナン・ドイルとメレディスメレディス:ジョージ・メレディス。ヴィクトリア朝時代のイギリスの喜劇作家。のどちらが時の試練に耐えているだろうか?)。それらとだいたい同じ分類のものとして挙げられるのがR・オースティン・フリーマンの初期の作品……「歌う白骨」、「オシリスの眼」といった作品……やアーネスト・ブラマのマックス・カラドス、少し格は落ちるがガイ・ブースビーのチベットを舞台にした冒険小説であるニコラ博士やヒューのタタールへの旅の学童版だ。最後のものを読めばおそらく陰鬱でけだるい中央アジアへ本当に訪れた気になれるだろう。

冒険小説以外にもその時代にはマイナーなユーモア作家がいる。例えばペット・リッジ……だが彼の原書はもはや読みやすいとは言えないことは認める……E・ネズビット(宝の探求者)、ジョージ・バーミンガム(政治の話を始めない限りは)、成人向けだとビンステッド(ピンク紙の地方紙PINK'Unに載っていた「ピッチャー」)、それにアメリカの書籍を含めていいならばブース・ターキントンのペンロッド・シリーズもだ。中でもとりわけ優れているのがバリー・ペインだ。ペインのユーモア作品のいくつかはまだ出版されているはずだが、もし見つけた人には今ではまず目にすることのできなくなっている一冊を勧めたい……クラウディウスのオクターブだ。薄気味悪さを見事に書き表している。いくらか時代を下がるとピーター・ブランデルがいる。W・W・ジェイコブズに連なる文体で極東の港町の物語を書いているがどういうわけかすっかり忘れ去られていて、H・G・ウェルズの本の中で称賛されているだけだ。

しかしここまで私が話してきた作品は簡単にいえば全て「気晴らしのための」文学だ。これらは人々の記憶の中、ふとしたはずみに思い出すひっそりとした片隅で心地よい一画を形作っているが、現実の生活にはおよそ影響を与えそうには思えない。良い悪書にはもうひとつの種類がある。そちらはより真剣な意図で書かれ、私が思うに小説というものの性質やそれらが現在直面している衰退の理由を私たちに教えてくれる。過去五十年の間、一群の非常に大勢の作家がいた……彼らの一部は今なお著作を続けている……どのような厳密な文学的基準から見ても「良い」と呼ぶことはまったく不可能な人々だが、彼らは生まれついての小説家であり、ある意味においては誠実であるように思える。なぜなら良識によって筆を抑えるということがないからだ。ここに分類されるのはレオナルド・メリックまさにその人、W・L・ジョージ、J・D・ベレスフォード、アーネスト・レイモンド、メイ・シンクレア、そして……水準は下がるものの基本的には同類である……A・S・M・ハチンソンだ。

彼らのほとんどは多作で、その作品の質は当然ながらさまざまである。私の念頭にあるのはどの作家の場合でも一つか二つの特に優れた作品だ。例えばメリックのシンシア、J・D・ベレスフォードの真実の候補者真実の候補者:A CANDIDATE FOR TRUTH、W・L・ジョージのキャリバン、メイ・シンクレアの組み合わされた迷路組み合わされた迷路:THE COMBINED MAZE、そしてアーネスト・レイモンドのわれら、被告人われら、被告人:WE, THE ACCUSEDといった作品である。それぞれの作品での著者による想像上の登場人物や、彼らへの共感や同情、優れた知性のある人々には実行が難しく思われるであろうある種の投げやりさを見ればそれが誰の作品かはすぐにわかる。物語の語り手にとって理知的な上品さは欠点になり得るという事実を彼らは証明している。大衆劇場向けの喜劇作家にとってはもっともなことだろう。

例えばアーネスト・レイモンドのわれら、被告人を見てみよう……非常に浅ましい現実味のある殺人の物語で、おそらくクリッペン事件クリッペン事件:ホメオパシー医師のクリッペンが妻を殺害した事件。国外逃亡を企てた容疑者を見つけた船長が船上から当時まだ珍しかった無線によって通報したことで話題になった。を元にしている。私が思うにこの作品の非常に優れているところは描かれている人々の哀れを催すほどの下品さを著者自身がほんの一部しか理解しておらず、それゆえに彼らを蔑んでいないということだ。おそらくまた……セオドア・ドライサーのアメリカの悲劇と同様……ぎこちなく長々しいその文体も何らかの効果を与えている。描写は微に入り細に入り、ほとんど取捨選択されておらず、そうした中で恐ろしさ、圧倒的な残酷さという効果がゆっくりと作り上げられていくのだ。真実の候補者も同じだ。こちらには同じようなぎこちなさは無いが同様に平凡な人々の抱える問題を真剣に受け止める力がある。シンシアも同じだし、キャリバンの冒頭部分にもそれがかいま見られる。W・L・ジョージの著作の大部分は粗悪なごみくずだがノースクリフノースクリフ:ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース。デイリー・メールの創業者。の生涯を元にしたこの作品で彼はすばらしい、真実に満ちた筆致で下流中産階級のロンドンでの生活を描き出すことに成功している。この作品の一部はおそらく自叙伝なのだろう。良い悪書の作家が持つ長所の一つは自叙伝を書くことに対する恥じらいのなさだ。露出癖と自己憐憫は小説家の悩みの種だが、もしそれを過度に恐れれば創作の力は衰えてしまうだろう。

良い俗悪文学の存在……知性が真剣にそれを受け止めることを強く拒む作品が人を楽しませたり、興奮させたり、時には感動さえさせるという事実……は芸術と思考は別物であるということを思い出させてくれる。私は想像するのだ。カーライルカーライル:トーマス・カーライル。イギリスの歴史家、評論家。がトロロープトロロープ:アンソニー・トロロープ。イギリスの作家。よりも知的な人間であることを示すような何らかの判定方法を考えだすことができるだろうかと。トロロープはいまだに読まれ続けているが、カーライルはそうではない。その頭の良さから彼は単純でわかりやすい英語でさえひねった書き方をせずにはいられなかった。小説家、そして詩人もほとんど同じだが、彼らの知性と創作能力の関係を示して見せるのは容易なことではない。良い小説家というものはおそらくフローベールフローベール:ギュスターヴ・フローベール。フランスの作家。写実主義を確立したと言われる。代表作は「ボヴァリー夫人」。のような自己鍛錬の天才であるか、ディケンズのような知的無秩序なのだ。ウインダム・ルイスの小説と称する一群、例えばター高慢なる準男爵高慢なる準男爵:SNOOTY BARONETといった作品へと注がれただけの才能さえあれば多くの平凡な作家を生み出すことができるだろう。だがそういった作品の一冊でも読み通すのはひどい重労働になることだろう。なんとも名状しがたい性質やある種の文学的に欠かさざるもの、冬が来るなら冬が来るなら:IF WINTER COMESのような作品にさえ存在するそういったものがそれらには欠けているのだ。

おそらく「良い悪書」の最高の例はアンクル・トムの小屋だろう。意図せずこの作品は興味深いものになっている。馬鹿げたメロドラマ風の事件が満載で、同時に強く感動を覚えさせ、本質的には真実だ。他のものと比べてどこが優っているのかを指摘するのは難しい。だがアンクル・トムの小屋は結局のところ、真剣に現実の世界を扱おうと試みているのだ。あからさまな現実逃避をしている作家たち、スリルと「軽快な」ユーモアを流布している者たちはどうだろうか。シャーロック・ホームズあべこべあべこべ:VICE VERSAドラキュラヘレンの赤ちゃんヘレンの赤ちゃん:HELEN'S BABIES、あるいはソロモン王の洞窟はどうだろうか? それらは全て疑いなく馬鹿げた内容の作品で、どの一冊をとっても笑わされるというよりはむしろ笑われるもの、その著者でさえその内容を真剣には受け止めてはいないものだ。だがそれらはこれまで生き延びてきたし、おそらくこれからも生き延び続けるだろう。一つ言えるのは人々がときおり気晴らしを欲するという現代社会の状況が変わらない限り、「ライトな」文学は現在の位置を保ちつづけるということだ。そして純粋な技術であろうが生まれつきの才能であろうが、それは博学や知性による力よりもずっと強い生存力を持っているだろう。名曲集に選ばれる歌の大半よりも優れた大衆歌劇の歌が存在するのだ。

酒の安いところへおいで
鍋がいっぱいのところへおいで
親方の機嫌が良くなるところへおいで
さあ近くのこの酒場へおいで!さあ近くのこの酒場へおいで:COME WHERE THE BOOZE IS CHEAPER……E・W・ロジャーズ、A・E・デュランダウによる演劇場歌曲

あるいは

二つの愛らしい黒い瞳
ああ、これはたまげた!
他の男になんて呼びかけないでくれ
二つの愛らしい黒い瞳!二つの愛らしい黒い瞳:TWO LOVELY BLACK EYES……チャールズ・コーボーンによる演劇場歌曲。ただし現在知られている歌詞とここでオーウェルの書いている歌詞は異なる。

「祝福されし乙女祝福されし乙女:The Blessed Damozel。イギリスの詩人であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの詩。」や「谷間の恋谷間の恋:Love in the Valley。ジョージ・メレディスの詩。」といった詩よりもこういった詩を私は書きたい。そしてバージニア・ウルフやジョージ・ムアによる完成された作品よりもアンクル・トムの小屋の方が後世まで残ることに賭けたい。それらのどちらが優れているのか決める厳密な文学的判定方法を思いつくことができないにしても。

1945年11月
Tribune

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オーウェル評論集1: ナショナリズムについて 表紙画像
オーウェル評論集1: ナショナリズムについて
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