現在、小説の地位が極端に低くなっていることはあえて指摘するまでもないだろう。どれほど低いかと言えば、十年ほど前であれば大抵は弁解じみた雰囲気で口にされていた「私は一度も小説を読んだことがない」という言葉は、今では決まってわざとらしく誇るような調子で口に出されているのだ。読むに耐えると知識人階層が考える現代の小説家、あるいはおおまかには現代に属する小説家が今でもわずかばかりいることは確かだ。しかし問題はよくある優れた低俗小説が決まって無視されていることなのだ。一方でよくある優れた低俗な詩集や評論はいまでも真剣に受け取られている。これが意味するのはもしあなたが小説を書いた場合には何か別の形態を選んだ場合よりも知識ある公衆から注目を集める度合いが自動的に少なくなるということだ。現在、なぜ優れた小説を書くことが不可能なのかについては二つの明確な理由が存在する。今でさえ小説は目に見えて衰退しており、もし小説家のほとんどが自分の作品を読むのが誰なのかに思いが及ばなければ、この衰退はさらに加速するだろう。小説は劣った芸術形態であってその運命などさして重要でないと論じるのは確かに容易だ(ベロック(ヒレア・ベロック(一八七〇年七月二十七日-一九五三年七月十六日)。イギリスの作家、歴史家、政治家。ここで言及されているエッセイは一九二〇年の『On People in Books』と思われる。)の妙に恨みがましいエッセイを例として参照して欲しい)。こうした意見に議論すべき価値があるかどうかは疑問である。ともかく私は、小説には救い出すべき価値があり、それを救い出すには知識ある人々にそれを真剣に受け取るよう説得しなければならないと当然のように思っているのだ。そうしたわけで小説の地位の凋落の主因のひとつ――私の意見では最も大きな要因―――を分析することには価値があるだろう。
問題は小説がその存在を抹消するよう叫ばれていることだ。誰でもよいので思慮ある人になぜ「一度も小説を読んだことがない」のかを質問してみれば、多くの場合、突き詰めればそれは宣伝文句ばかりの書評者によって書かれた不快な駄文のためであるとわかるだろう。多くの例を挙げる必要はない。ここでは先週のサンデー・タイムズ紙(ザ・タイムズ紙の日曜版。一八二一年創刊。)からひとつだけ標本を示しておこう。「もしこの作品を読んで喜びの金切り声をあげなかったなら、あなたの精神は死んでいる」これに類したものが今では出版される全ての小説に書かれていて、宣伝広告の引用文を研究すればそれがわかる。サンデー・タイムズ紙を真剣に読んでいる全ての人にとって人生は追いつくための長い戦いであるに違いない。あなたに向けた小説が一日に十五冊も発表され、そのどの一冊をとってもそれは見逃せばあなたの精神を危機に陥れる忘れがたい名作なのだ。これは並んだ本から一冊を選ぶのを間違いなくひどく難しくするし、喜びの金切り声をあげられなかったならあなたはひどい罪悪感に襲われるに違いない。とはいえ実際のところ、まともな人でこうした類のものに惑わされる者はひとりもいないし、小説書評者が被るべき軽蔑は小説そのものへ及ぶことになる。全ての小説が天才の作品として押し付けられれば全てが駄作と見なされるのは実に自然なことだ。文芸に通じた知識人階層の間では今やこうした仮定が当然のこととなっている。小説を好むと認めることは最近では、ココナッツアイスに病みつきになっているだとか、ジェラード・マンリ・ホプキンス(ジェラード・マンリ・ホプキンス(一八四四年七月二十八日-一八八九年六月八日)。イギリスの詩人、聖職者。)よりルパート・ブルック(ルパート・ブルック(一八八七年八月三日-一九一五年四月二十三日)。イギリスの詩人、軍人。容姿が優れていたことで有名。)を好んでいると認めることとほとんど同じなのだ。
こうしたことは全て明らかなことだ。私の頭に浮かぶのはそれよりずっと明らかでないこと、どうして現在のような状況になったのかということだ。一見したところ、この書籍詐欺はまったく単純で冷笑的な詐欺だ。Zが書いた作品がYによって出版され、Xによるその書評が『週刊W』に掲載される。書評が悪いものであればYは広告を引き上げるので、Xは「忘れがたい名作」と書くか、さもなければクビになるかのどちらかだ。本質的にこれが現在の状況である。小説書評者が現在の破滅状態へと落ち込んでいる原因の大部分は、全ての書評者に代理人を通して彼を虐げる出版者がいることなのである。しかし状況は見かけほど単純ではない。この詐欺行為のさまざまな加担者たちは一致団結して意識的にことに及んでいるわけではないし、なかば自らの意思に反して現在の状況へと追い込まれているのだ。
まず第一に、よく言われているような(例えばビーチコマー(デイリー・エクスプレス紙にコラムを執筆していた匿名記者のペンネーム。実際の執筆者はJ・B・アーバスノット、D・B・ウィンダム・ルイス、J・B・モートンであることが知られている。)のコラムの多くを参照)小説家は自分が受けた書評を楽しんでいるだとか、何らかの意味でそれに責任を負っているだとかいったことは考えるべきではない。英語が続く限り朽ちることのない胸踊らせる情熱的な物語を書いていると言われることを好む者など誰一人としていない。とは言えもちろん、そう言われなければがっかりはする。なぜなら全ての小説家が同じようにそう言われていて、そこからはじき出されることはおそらくは本が売れないだろうことを意味するからだ。雇われ書評は実際のところ商業的に必要なもの、いわば表紙カバーに書かれた宣伝文句のようなもの、それを長く引き伸ばしたものに過ぎない。しかし悲惨な雇われ書評者であっても彼が書いたたわごとを理由に責めることはできない。彼が置かれた特殊な状況においては他に書けることなどないのだ。直接的・間接的な賄賂のやり取りの疑いが無い場合でさえ、全ての小説は書評する価値があると考えられている限り、優れた小説批評などと言ったものは存在し得ない。
定期刊行誌は毎週のように一群の書籍を手に入れてそのうちの一ダースほどを雇われ書評者であるXへ送りつける。彼には妻と家庭があって日銭を稼がなくてはならない。書評を売ってひとつあたり半クラウンを得ているのだ。受け取った作品についてXが真実を語ることがなぜまったく不可能なのかについては二つの理由がある。まず第一に、十二の作品のうち十一までが書評者にわずかばかりの関心のひらめきも起こさせない可能性が高い。それらは平凡な駄作であり、どっちつかずで生気の抜けた要領を得ないものなのだ。もし支払いがされなければ書評者はどの一冊をとっても一行たりとも読みはしないだろうし、ほとんど全ての場合で書くことのできる唯一の誠実な書評は「この作品は私に何の感想も呼び起こさなかった」となる。しかしそんなことを書いた人間に誰が支払いをするだろうか? 誰もしないことは明らかだ。それゆえ始めからXはでっちあげ、つまり何ら興味のわかない作品について三百ワードをひねりだすという間違った立場に置かれている。普通、書評者は短いあらすじを述べ(時には著者を裏切って作品を読まずに済ませる)、おおよそ売春婦の微笑みほどの価値しかないまったく鼻についた態度でいくつかの称賛の言葉を散りばめることでこれをおこなう。
しかしさらにずっとひどい不正もある。Xに期待されているのはこの作品が何についてのものなのか述べることだけでなく、それが良いか悪いか意見を述べることだ。ペンを握ることができるのだからXはおそらく馬鹿ではないだろう。少なくとも『永遠の処女(一九二四年に出版されたマーガレット・ケネディによる恋愛小説。『The Constant Nymph』)』こそがこれまでに書かれた中で最もすばらしい悲劇であると考えるほどの馬鹿ではないはずだ。もし小説になんらかの関心があるとすれば、彼自身のお気に入りの小説家である可能性が高いのはスタンダール、ディケンズ、ジェーン・オースティン、D・H・ローレンス、ドストエフスキー――いずれにせよ、ありきたりな並みの現代小説家と比べれば計り知れないほど優れた誰かだ。したがって書評者は自らの評価基準をとてつもなく低くすることから始めなければならない。他のところでも指摘したように、まともな基準をありきたりな並みの小説家に適用するのは象用のばねばかりでノミの重さを量るようなものだ。そんなはかりではノミはまったく検知もされないだろう。始めにしなければならないのは大きなノミと小さなノミがいるという事実を明らかにする別のはかりを作ることだ。そしてこれこそがおおよそXのおこなうことなのだ。作品に次ぐ作品に単調に「この作品は駄作である」と言うことはできない。なぜなら繰り返しになるがそうした物を書いても誰も支払いをしないからだ。Xはどこか駄文でないところを見つけ出さなければならず、多くの場合そうするが、もしできなければクビにならざるを得ない。これは書評者の基準を例えばエセル・M・デル(エセル・メイ・デル・サベージ(一八八一年八月二日-一九三九年九月十七日)。イギリスの作家。多くの恋愛小説を書いたことで知られる。)の『鷲の道(一九一〇年に出版されたエセル・M・デルによる恋愛小説。『The Way of an Eagle』)』が実に優れた作品となるほどの低みへ落ち込ませることを意味する。しかし『鷲の道』が優れた作品となり、『永遠の処女』が壮大な作品となるような価値尺度では『財産家(ジョン・ゴールズワージーの小説『フォーサイト物語』中の一篇。『The Man of Property』)』は――いったいどうなるのだろうか? 胸踊らせる情熱的な物語、魂を揺さぶるすばらしい名作、英語が続く限り朽ちることのない忘れがたい大作、などなど、などなど(何であれ本当に優れた作品であれば、この温度計を破裂させてしまうだろう)。全ての小説が優れているという前提から出発すれば、書評者は天井知らずの形容詞のはしご段を延々と上へ追いやられていくことになる。そうして到達する所はグールド(ジェラルド・グールド(一八八五年-一九三六年十一月二日)イギリスの作家、書評者、ジャーナリスト。)だ。同じ道を進む書評者を無数に見ることができる。ともかくもそれなりに誠実な態度で始めたところで二年も経てば、ミス・バーバラ・ベッドワージーの『深紅の夜』(著者名、書名ともオーウェルの創作か。一九三五年にオーウェルが友人へ書いた手紙にペンネームの例として「ミス・バーバラ・ベッドワージー」が挙げられている。)は最もすばらしく鋭敏で心を打つ忘れがたい素朴かつ率直などなどであり、これまでにない名作である、などなど、などなど、などなど、と躁状態の叫び声で褒めそやすことになる。ひどい作品を優れた作品であると装う最初の罪をひとたび犯せば、そこから逃れるすべはない。しかしこの罪を犯さずには小説書評で生計を立てることはできないのだ。そしてそうする間に知性ある読者の全てが顔を背けてうんざりし、小説を侮蔑することはお高くとまった人間にとっての責務に類したものになる。こうしたわけで、ただそれが駄作と同じ言葉で褒められているというだけで真に価値のある小説が気づかれずに終わるかもしれないという奇妙な事態が起きるのだ。
どの小説もまったく書評されなくなれば全てがうまくいくだろうとさまざまな人が提案している。それはそうかもしれないがこの提案は無益だ。なぜならそんなことは起きないからだ。出版社の広告に頼る新聞の中にそれを放棄できるだけの余裕があるものはひとつも無いし、宣伝書評をやめても別に何も問題は起きないと比較的知性ある出版社は気づいているかもしれないが、国々が武装解除できないのと同じ理由から彼らはそれをやめられない――誰も最初の一人にはなりたくないのだ。これまで長い間、宣伝書評は続いてきたが、それはますますひどくなっている。唯一の解決方法はどうにかしてそれらが無視されるよう働きかけることだ。しかしそんなことが起きるとすれば、それは比較基準として機能するまっとうな小説書評がどこかでおこなわれる場合だけだ。つまり駄作の宣伝を拒否して小説書評に特化した定期刊行物がひとつだけでも必要であり(最初はひとつで十分だろう)、そこで書評者は、出版社が糸を操る口をぱくぱくさせる腹話術師の人形ではなく書評者として振る舞うのだ。
そうした定期刊行物はすでに存在しているという答えが返ってくるかも知れない。例えば高尚な雑誌は実にたくさんあって、そこに掲載された小説書評はどれであれ知的なもので買収はされていない。その通りだ。しかし問題はそうした種類の定期刊行物は小説書評に特化しておらず、最新のフィクションの成果物を常に把握しようとしてはいないことなのだ。そうした雑誌は高尚な世界に属していて、その世界では小説はすでにそれ自体として劣等なものと見なされている。しかし小説は大衆的な芸術形態である。文学は知識人の小集団の間での(状況に応じて爪を出したり引っ込めたりする)馴れ合いゲームであるという「クライテリオン・スクリュートニー(両方ともイギリスの文芸雑誌の名前。『クライテリオン』誌は一九二二年から一九三九年まで、『スクリュートニー』誌は一九三二年から一九五三年まで刊行されていた。)」的前提に立ったやり方は役に立たない。小説家はまず何より物語の語り手であり、おそらくは狭い意味での「知性」を持たない方が人はすばらしく優れた物語の語り手になる(例えばトロロープやチャールズ・リード、サマセット・モーム氏を参照)。小説は一年に五千作品が出版され、ラルフ・ストラウス(ラルフ・ストラウス(一八八二年-一九五〇年)。サンデー・タイムズ紙の書評担当編集者。)はその全てを読むようあなたに懇願している。あるいはそうしてなくとも仮に彼がその全てを書評すればそうなるだろう。『クライテリオン』誌はおおよそ一ダースほどに書評を与えている。しかし一ダースと五千の間にはさまざまな水準の偽りのない価値を持つ百、二百、あるいは五百もの作品が存在するのであり、小説に関心のある批評家はそれらにこそ集中するべきだ。
しかしまず必要なのは等級をつけるための何らかの方法だ。きっと膨大な数の小説が完全に言及されないままになっているはずだが(例えば『ペグズ・ペーパー(一九一九年から一九四〇年まで刊行されていた労働階級の女性向けの女性誌。平凡な若い女性が貴族の男性にみそめられるロマンス小説を多く掲載していた。)』誌の全ての連載を真剣に書評した場合に批評に及ぼされる恐ろしい影響を想像してみて欲しい)言及に値するものでさえそれらはまったく異なった分類に属している。『ラッフルズ(E・W・ホーナングによる泥棒紳士ラッフルズを主人公とした小説シリーズを指す。)』は優れた作品だし、『モロー博士の島』や『パルムの僧院』『マクベス』もそうだ。しかしそれらはまったく異なる度合いで「優れて」いるのだ。同様に『冬来りなば(一九二一年に出版されたA・S・M・ハッチソンによる小説。『If Winter Comes』)』や『最愛の人(一八九七年に出版されたトーマス・ハーディによる小説。『The Well-Beloved』)』『非社交的な社会主義者(一八八七年に出版されたジョージ・バーナード・ショーによる小説。『An Unsocial Socialist』)』『ランスロット・グリーブス卿(一七六二に出版されたトバイアス・スモレットによる小説『The Life and Adventures of Sir Launcelot Greaves』を指すものと思われる。)』は全てひどい作品だが、それは異なる度合いの「ひどさ」なのだ。これこそ雇われ書評者が自身の特化した仕事で覆い隠している事実である。小説をA、B、Cなどの等級に格付けする体系、それもおそらく実に堅固な体系を考案することは可能なはずだ。そうなれば書評者が作品を褒めるにせよ貶すにせよ、どれだけ真剣にその作品を取り上げているのかは少なくともわかるだろう。書評者に関して言えば、彼らは小説という芸術について本当に関心を抱く人々(それはおそらく高尚な人でも低俗な人でも凡庸な人でもなく、柔軟な人を意味する)、技巧や、さらにはその作品が何についてのものなのかを見抜くことに関心を持つ人々になる必要が出てくるはずだ。今でもそうした人々は大勢いる。雇われ書評者のうちの最悪の部類に属している者の一部は、今となっては救いようもないが、最初はそうした人間だったのだ。その初期の仕事を見ればそれがわかる。ついでに言えば、もっと多くの小説書評がアマチュアによっておこなわれれば状況はよくなるだろう。文筆家としては未熟でも自分に深く感銘を与えた作品を読んだばかりの人間は、有能ではあるが退屈している職業書評者よりもその作品が何についてのものなのかあなたに教えてくれる可能性が高い。これこそ、その愚かしさにも関わらずアメリカの書評がイギリスのそれよりも優れている理由だ。それらはよりアマチュア仕事、つまりより真剣なのだ。
私が示して見せたこうした方法によって小説の地位が回復すると私は信じている。必要不可欠なのは最新のフィクションを常に把握し、そしてまたその評価基準を低くすることを拒絶する新聞である。それは目立たない新聞である必要がある。そこに出版社が広告を出そうとしないからだ。一方で、ひとたび出版社が本当の褒め言葉である褒め言葉が掲載されている場所を発見すれば、彼らは喜んでそれを自分たちの宣伝広告に引用するだろう。たとえそれがひどく目立たない新聞であってもおそらくそれは小説書評の全体的水準を引き上げるはずだ。日曜紙のたわごとが生き延びているのはたんにそれと比較できるものがないからなのだ。しかし仮に宣伝文句ばかりの書評者が以前とまったく変わらず仕事を続けたとしても、同時に、真剣な頭脳は今でも小説に大きな関心を寄せているとわずかな人々に思い出させるまっとうな書評が存在すれば問題はない。十人の正しい人がそこに見つかればソドムを滅ぼすことはないと主が約束した(『創世記』十八章三十二節)のとちょうど同じように、どこかに一握りでも正気の小説書評者がいるとわかっている間は小説が完全に侮蔑されることはないだろう。
現在のところ、小説に関心を寄せる者、さらにはそれを書いている者にとっても見通しは極めて暗い。ちょうど「チキン」が「ブレッドソース」を連想させるのと同じくらい自動的に、「小説」という言葉は「宣伝文句」「天才」「ラルフ・ストラウス」という言葉を連想させる。知識ある人々はほとんど本能的に小説を避け、その結果、名声を博した小説家たちは散り散りになり、「何か言うべきことがある」未経験者はほとんどの場合で何か別の形態を好むようになっている。あとに続く衰退は明らかだ。例えば安本屋のカウンターに積み上げられているような四ペンスの短編小話を見るといい。こうした代物は小説の退廃的な子孫であり、それが『マノン・レスコー』や『デイヴィッド・コパフィールド』と持つ関係は小さな愛玩犬と狼の関係と同じである。まもなく平均的な小説は四ペンスの短編小話とさして変わらないものに変わる可能性は非常に高い。それがその時になってもまだ疑いなく七シリング六ペンスの装丁を施され、出版社のトランペットのファンファーレで迎えられるにせよだ。近い将来に小説は消え去る運命にあるとさまざまな人々が予言している。私は小説が消え去るとは思わない。説明すると長くなるがこれはかなり明らかなことだ。もっと可能性が高いのは、もしそれを復活させるよう最高の文学的才能ある人々を説得できなければ、なにかぞんざいで侮蔑的で絶望的な劣化した形態でそれが生き残ることだ。ちょうど現代の墓碑(オーウェルは『気の向くままに』の1947年2月14日掲載分で古い時代の墓碑銘の文学的価値を論じている。)、あるいは『パンチとジュディ』の人形劇(十七世紀からイギリスで演じられている人形劇。過激な内容のドタバタ喜劇。)のように。