具体芸術, ワシリー・カンディンスキー

具体芸術


全ての芸術は同じ一つの根から生じる。しかし、不思議で稀有なことに、同じ幹になる《果実》が実に多種多様なのである。この差異は、個々の芸術の手段――すなわち表現手段――の違いによって生じる。

一見すると、これは非常に単純なことに見える。音楽は音で表現し、絵画は色で表現する、等々。そんなことは周知の事実である。

しかし、違いはこれに尽きない。例えば音楽は、その手段(音響)のために時間を必要とし、絵画はその手段(色彩)のために平面を必要とする。時間と平面は正確に《測定》されなければならないし、音響と色彩は正確に《限定》されなければならない――これらの《限定》が 《均衡》、すなわちコンポジションの基礎である。

こうした違いを打ち壊すのが、コンポジションにおいて決定的な力を持つ、幾つもの謎めいた法則である。なぜなら、こうした諸法則は全ての芸術において普遍的だからである。

さらに言うと、時間と空間の《有機的相違》が一般に誇張されすぎているという点を、私はぜひ強調しておきたい。作曲家は聴衆の手を取って音楽作品の中へ没入させ、一歩一歩と導いていき、《作品》が終わると解放する。この誘導は完璧だ。絵画においては不完全である。しかし!……画家は作曲家と同様にこの誘導法を使うことができる。画家は、望むなら、観賞者に《ここ》から自分の絵のところまで真直ぐ歩かせ、《そこ》まで来たら解放することができる。これは極めて複雑な問題であり、まだほとんど世に知られておらず、解決など夢のまた夢という状況である。私の言いたかったことは、絵画と音楽の親近性は明らかだ、ということだけである。それどころかこの親近性は、もっと深いところから発するものである。諸君もきっと、様々な芸術の手段を通して引き起こされる《連想》の問題を知っているだろう。何人かの学者(特に物理学者)と芸術家(特に音楽家)は、ずいぶん昔から、例えば音楽の響きが特定の色の連想を引き起こすという現象を観察してきた。(スクリャービンによって確認された一致の例を見よ。)言い換えれば、諸君は色を《聞き》、音を 《見る》のである。

私が同じこの問題を扱った小冊子(『芸術における精神的なもの』ミュンヘン 1912)を刊行してから、間もなく30年が経過する。[同書から一例を引けば、]例えばは《上昇》という特殊な性質を持ち、私たちの耳と精神にとって耐え難いほどの高さに達するまで、絶えず高くなっていく。トランペットの音も、高くなればなるほど《鋭く》なっていき、耳と精神を傷つける。これに対して青は《下降》という反対の力を持ち、無限の深みへと降りていく。この色は、フルート(明るい青の場合)やチェロ(暗い青へ《降りていった》場合)、ついにはコントラバスの壮大な低音を連想させる。最終的には、パイプオルガンの最も低い音階において、青の幾つもの深みが見られるだろう。バランスのとれたは、バイオリンのゆったりした中音階に対応する。(朱)が適切に塗られた場合、強い太鼓の響きの印象を伝えることもある、等々。

音は空気の振動で、色は光の振動であることが、きっとこの物理的親近性の根拠になっている。

しかしこれだけが唯一の根拠ではない。別の根拠、すなわち心理学的な根拠も存在する。こちらは《精神》の問題である。

諸君も「ああ、何と冷たい音楽だ!」とか「おお、氷のような絵だ!」ような表現を聞いたり、自身で使ったことがあるだろう。そのようなときは、窓の隙間から入ってくる、あの身も凍るような冬の冷気を感じ、体に不満が満ちてくるものである。

しかし一転、今度は突然暑くなる――画家や作曲家が熱い色や音を正しく使って、《熱い》作品を創ったからだ。そういう作品は諸君を直に焼くことになる。どうかご容赦いただきたいが、腹痛を引き起こしうる絵画や音楽も(ごく稀にではあるが)実在するのである。

諸君はきっと、心の中で音楽や色の組み合わせの上を《散歩》しているとき、自分の指が突然とげに刺されたという経験を知っているだろう。また別の場合には、あたかもビロードや絹の上を《散歩》しているかのように感じるであろう。

そして最後に――例えばとは異なる芳香を放っていないだろうか? は? 明るい緑青はどうだろう?

さらに《味覚》においても、これらの色は異なっているのではないか? 何と美味しい絵だろう! こうして舌も芸術作品に関与し始める。かくして、私たちは良く知られた人間の五官を備えた。絵画を目だけで受容しているなどと勘違いしたり、信じたりしてはいけない。諸君は無意識のうちに五官で受容しているのである。

絵画において《形態》という語で理解されるのは、色彩だけに限らない。《図形》と言われるものも、絵画の表現手段の必要不可欠な部分である。

[図形は]《点》から始まる。点は、無限に数多くある全ての形態の原形態(Urform)である――この小さな点は生きた存在であり、人間の精神に多種多様な影響を及ぼす。芸術家がカンヴァスにうまく配置すれば、この小さな点は満足し、観賞者も満足させる。点は言う、「そう、これが私です――作品という大『合唱』における私の小さな、しかし不可欠の響きが聞こえますか?」

一方、あるべからざる場所に点が見えることは、何と不快だろう! そういうときは、泡立てた生クリームを食べたり、胡椒が舌の上でピリピリする印象がする。いわば腐臭のする花。腐敗――まさにこの言葉がふさわしい! コンポジションは崩壊する。すなわち死である。

ところで諸君は、私が長々と絵画とその表現手段について語りながら、《対象》については一言も触れなかったことに気づいただろうか? その理由はとても簡単である。私は絵画の本質的な手段、つまり必要不可欠な手段について語っているからである。

《色彩》や《図形》を抜きにして絵を描くことの可能性は全く考えられないが、対象なしの絵画は今世紀においてすでに30年以上前から存在している。従って絵の対象は、使っても使わなくてもいいのである。

対象を《使わない》ことについての議論は30年前に始まり、現在でも決着していない。こうした全ての議論を考えるとき、私は《抽象的》とか《非対象的》と名づけれらている絵画の計り知れない力を見る思いである。私は、むしろこうした絵画を《具体的》と呼びたい。

世間は実にたびたびこの芸術を葬りたいと思ったし、《問題》は決定的に解決された(もちろん否定的な意味で)と考えた。そして――未だ葬ることに成功していない。葬り去るには生気に溢れ過ぎているのだ。印象主義、表現主義、キュビスム、これらにはもはや何の問題も存在しない。これらの《主義》は全て、芸術史のそれぞれの引き出しにきちっと収められいる。通し番号が振られ、内容を示すラベルが貼られている。ゆえにもう議論は終わっている。それは過去のことである。

しかし具体芸術をめぐる議論はまだ終結の様子を見せない。願ったりかなったりだ! 具体芸術は、特に自由な国々において、衰えしらずの発展を続けている。そしてこの運動に参加する若い芸術家の数は、全ての自由な国々において増え続けている。未来はわれわれの手にあるのだ!


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