怪談:妖しい物の話と研究, ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

虫の研究 蟻


夜の大嵐が過ぎ去った後の今朝の空は、快晴で青がまぶしい。空気──このかぐわしい空気──は嵐で無数の松の大枝が折れて、流れ出た甘い樹脂の匂いで満ちている。竹薮の近所で法華経を讃える鳥の笛のような声を聞く、その世界は南風のおかげで非常に穏やかである。今は夏、遅れに遅れて、真実我々と共に有り、風変わりな日本独特の色合いをした蝶が辺りをひらひら飛び、せみはぜーぜーあえぎ、スズメバチはハミングし、ブヨは太陽の下で踊り、そして蟻は損壊した住居の修理に忙しい……ふと日本の詩を思い出す──

行方なき、
蟻の住まいや
五月雨ごげつあめ

〔今、可哀想な生き物が何処にも行く所が無い!……悲しいかな蟻の住まいもこの五月の雨の中では!〕

しかし、庭のこの大きな黒い蟻達には、特に同情が必要とは見えない。大木が根こそぎにされ、家々は微塵に吹き飛ばされ、道路が存在から洗われる中で、嵐を思いもよらぬ方法で切り抜けた。まだ台風の前に、地下の町への出入り口を塞ぐより他は、目に見える予防措置をとらなかった。そして勝利した今日の労働の光景は、蟻のエッセイを企てよと駆り立てる。

私は論文を何か古い日本の文献で始めたかった──情緒的か哲学的な何かである。しかし日本の友人の全てが、その主題について捜し出せたのは──小さな価値ある若干の詩句を例外とするが──それはチャイナの物であった。このチャイナの素材は主に不思議な物語から成り、その内のひとつが価値の有る引用に見える──他ニ良イ物ガ無イカラ。

チャイナの台州地方に、ある女神を長年に渡って毎日熱心に崇拝する、信心深い男がいた。ある朝、祈祷をしている間に、黄色い衣を着た美しい女が部屋へやって来て、目の前に立った。たいそう驚いて、何が望みで、どうして断りもなく入って来たのかたずねた。彼女は答えた。「わらわは人にあらず、そなたが長きに渡り誠実に崇拝して参った女神にあり、この度は、信心が無駄ではなかった証明にやって参った……そなたは蟻の言葉を使いこなせるか?」崇拝者は返事をした。「私は卑しい生まれの無学の者にございます──学者でもなければ身分の高い人達の言葉でさえ分かりません。」この言葉に女神は微笑み、懐から香箱のような形をした小さな箱を取り出した。箱を開け、その中に指を浸すと、何かの軟膏を付け男の両耳に塗った。「さあ」彼女は言う「どこかで蟻を捜して、見付けたなら、かがんで注意深く話を聞いてみるが良い。そなたにはそれが理解できて、何かの役に立つ話が聞けるであろう……ただし、これだけは覚えておくが良い。蟻を怖がらせたり、苛立たせたりしてはならぬ。」そう言い残して女神は消え去った。

男はすぐさま蟻を捜しに家を飛び出した。戸口の敷居を横切るとすぐに、家の柱のひとつを支える石の上の二匹の蟻に気が付く。立ち止まり見下ろして聞き耳を立てると、驚いたことにその話が聞こえ何を言っているか理解できるのが分かった。「暖まる場所を捜しに行こうぜ」蟻の一匹が提案した。「何でまた暖まる場所を?」別のが訊ねた──「この場所に何か不都合でも有るのか?」「そりゃあ寒い上に湿っぽいじゃないか。」最初の蟻が言った。「ここには大きなお宝が埋まっていて、お日さまの光じゃその辺を暖められないのさ。」二匹の蟻が行ってしまうと、すきを取りに走った。

柱の近くを掘ってみると、金貨の詰まった大きな壷が多数出てきた。この宝の発見は彼をたいそうな金持ちにした。

その後しばしば蟻の会話に耳を傾けてみた。しかし、再びその話を聞くことはできなかった。女神の軟膏は彼の耳を神秘的な言葉へと、一日だけのために開いた。

さて、このチャイナの帰依者のように、私は生まれつき蟻の会話を聞くことができない、無学の者だと白状しなければならない。しかし科学の妖精が時々目と耳を彼女の魔法の杖で触り、そうすると少しの間だけ聞き取れないはずの物事が聞こえ、ごくわずかな物事が認識できるようになる。

さまざまな界隈で、我々の物より倫理的に優れた文明を作り出した非キリスト教徒の人々の話をするのが、不道徳であると考えられるのと同じ理由から、蟻について語ろうとするのを、ある者達は喜ばないだろう。しかし、私とは比較にならないほど賢い人が居て、いつかその人達が虫とキリスト教の祝福とは無縁の文明について考える望みは持てるし、ケンブリッジ・ナチュラル・ヒストリーの最新号に掲載された、デヴィッド・シャープ教授の蟻に関する次の談話を見付けて勇気付けられた──

「この昆虫の生態における非常に驚異的な現象が、観察によって明らかになった。まったく、多くの観点から共同生活を営むための技術を、我々の種が持つよりも完璧に獲得しているという結論を回避できず、いくつかの産業と技術の修得が社会生活を大いに円滑にするという点において、先を行っている。」

熟練の専門家による、この分かりやすい供述に、異議を唱える識者は少数ではないかと思う。同時代の科学者は蟻や蜂に対して感傷的にはなりにくいが、社会的進化に関してこの昆虫が「人を越えた」進歩を見せていると認めるのを躊躇しないだろう。ハーバート・スペンサー氏には、誰もロマンチックな傾向が有ると非難しないだろうが、シャープ教授よりもかなり先を行き、まさに真の意味にいて、その蟻は経済性ばかりではなく、倫理的にも人類の先に位置していると主張する──利他的な目的にひたすら忠実であることによって生活している。実のところシャープ教授は蟻への慎重な所見での称賛に、いく分か余計な認定をしている──

「この蟻の能力は人のような物ではない。それは個体よりむしろ種の繁栄に忠実な、犠牲や共同体の利益に特化している。」

──含まれる意味は明白である──どんな社会的状態でも、個の進歩を公共の福祉の犠牲とするのは多くの点で改善の余地が有る──おそらく現在の人間の観点からは正しい。人の進化がまだ不完全であるから、人間社会は個別化を進めることによって多くを手に入れる。しかし社会的昆虫への関心で、暗黙の批判は疑わしい。「個の進歩は、」ハーバート・スペンサー氏は言う「社会的な協力へのより良い適合に一致し、そして社会的繁栄に貢献するこれは種の存続に貢献する。」言い替えれば、個の価値は社会との関わりのみとなり得るし、これを認め、社会のために個を犠牲にしようと、善悪は社会がその構成員の進んだ個別化によって得るであろう損得に左右されるはずだ……しかし、やがて見えるように、蟻社会の状態で最も注目に値するのは倫理的状態であって、これは人間の批評を越え、スペンサー氏の述べる道徳的進化の極致「利己主義と利他主義がしっかり融和したので他方に一方が溶け込む状態」を既に実現している。つまり唯一可能な楽しみが、無欲な行動を楽しむ状態。あるいは再びスペンサー氏の言葉を借りれば、蟻社会の活動は「共同体の福祉の為なら個の幸福は先送りに徹する活動、それは個の生活が社会生活への配慮ができる間、必要とされる限り、しばらく参加しているように見える……個々に活力を維持する為に必要な、適当な食べ物と適当な休憩だけは摂る。」

読者は蟻の園芸と農業の習慣を知っていると期待するが、キノコの栽培に熟練していて、さらに(現在知られている限りでは)五百八十四種の異なる動物を飼育し、硬い岩を貫いてトンネルを作り、子供達の健康を脅かす大気の変化に対する備えを知っていて、かつその長寿は虫にとっては例外的である──より高度に進化した種の仲間は相当な年数を生きる。

しかし話したいのは、特にこの事態という訳ではない。何について話したいかと言えば、凄まじい礼儀作法であり、恐ろしい蟻の道徳である。我々の最高に凄まじい理想的行為でさえ蟻の倫理を満たさない──進歩には時間がかかる──少なくとも何百万年は……私が言う「蟻」とは最も高度な種類の蟻である──当然ながら、蟻全般ではない。およそ二千種の蟻は既に知られているが、ここに示す社会的組織では、進化の度合いがはなはだしく異なる。間違いなく生物学的に最大級の重要事象であり、倫理の主題の不思議な関連の重要性は小さくなく、最高度に進化した蟻の社会の存在だけで役立つ研究となり得る。

蟻の長い寿命に比例する経験の価値の可能性については、およそが近年書かれた後なので、蟻の個々の性格を敢えて否定する者は少ないだろうと思う。小さな生き物が、まったく新しい種類の障害に遭遇し乗り越える知能と、それまでまったく経験したことのない状態への適応は、独立した思考力の多くを証明する。しかし少なくとも確実なのは、この蟻が個体として純粋に自分本意の方面に対して無能なことである──ありふれた意味で「自分本意」という言葉を使っている。貪欲な蟻、好色な蟻、七つの大罪のどれかや小さな許される罪にでさえ、有能な蟻は考えられない。もちろんロマンチックな蟻や観念的な蟻、風流な蟻、哲学的思索にふけりがちな蟻を考えられないのは同様である。人間の心は、純粋に事務的な蟻の心の特性を獲得できない──人類が、今のような組織では、蟻のように非常に完璧な実用的精神を修得できない。しかし、この最高度に実用的精神は、道徳的な間違いをできない。蟻が宗教的観念を持たないと証明するのは、おそらく困難だろう。しかし、そのような観念は、間違い無く役に立てられない。道徳的な弱さを実行できないのは、「精神的指導」の必要性を越えている。

漠然とした方法でのみ、蟻社会の性格と蟻の自然な道徳を考えられるが、これをする為になお人間社会と人間の道徳のまだ多少なりとも可能な状態を想像してみるべきである。それでは、休みなく猛烈に働く人々で埋め尽くされた世界を想像してみようではないか──その全てが女性であるかのように見える。この女性達に、体力の維持に必要とする以上の食べ物を摂取するような説得や誘惑は誰もできず、よく働けるような神経組織を維持するのに必要以上の余分な睡眠は決して誰も摂らない。そして最小限のどうでもいい道楽が、何らかの目的の障害となってしまい得る、全員が非常に特異な体質である。

日々の仕事はこの女性労働者による道路作り、橋の建造、材木の製材、無数の種類の建物の構築、園芸と農業、百品種の家畜の屋内誘導と飼育、様々な化学製品の製造、数え切れない食品の保管と維持、種族の子供達の世話といった構成によって遂行される。この勤労の全ては共和国のために成される──国家社会へ属さない「財産」については、市民に考える能力が無い──共和国の唯一の目的は若者達の養育と訓練──そのほぼ全てが少女である。幼少の時期は長い、かなりの間子供のままであり、無力なだけではなく、形が定まらず、そのうえかなり繊細なので、ごく小さな温度の変化に対してさえ非常に慎重な注意を払わなくてはならない。幸いにしてこの看護婦達は健康の法則を理解している。それぞれが、換気、消毒、排水、湿気と病原菌の脅威など知っているべき配慮の全てに徹底した知識が有る──病原菌は、おそらく目に見えていて、近視の視界では顕微鏡を通した我々の目そのものと同じになる。実際に全ての衛生面の問題は非常によく理解されていて、周辺の衛生状態について今まで看護婦が間違いを犯した事がない。

この永久に続く勤労にもかかわらず、労働者は櫛を入れないままではなく、それぞれが一日に何度も化粧をし、こざっぱりと身だしなみを整えている。しかし、全ての労働者が櫛とブラシの内で最も美しい物を生まれつき手首に備えているが、化粧室で時間は浪費されない。そのうえ自分自身で厳しく清潔を保ち、労働者は子供達のために家屋と庭も完全無欠に整理し管理しなくてはならない。地震や噴火、洪水、命掛けの戦争でもなければ、ちり払いやき掃除、き掃除、消毒といった日常業務の中断は許されない。

さて、次は更に不思議な事実を──

この世界の絶え間ない労役はローマの女神ウェスタの世界以上である。その中に時々男を見掛けるのは事実だが、ごく特別な季節にのみ現れ、労働者や仕事に対しては何もしない。敢えて労働者に話しかける者は誰もいないだろう──おそらく危機を共有する異常な状況下でもない限りは。それに、労働者は男と話すつもりは無いだろう──この変わった世界で、男という物は下位の存在であり、闘争や労働の資格は無いに等しく、必要悪としてだけ容認されている。女の特権階級のひとつ──種族の選ばれし母親達──は特別な季節のごく短い時期の間、恥を忍んで男の配偶者となる。しかし選ばれし母親は、働かずに夫達を受け入れる義務がある。労働者は男との交際を、夢でさえしたくない── このような交際は最もくだらない時間の無駄を意味するとの思いや、労働者は必然的に全ての男を言語に絶する侮蔑の目で見るからだけでも無いが、労働者には結婚生活の能力が無いからである。幾つかの労働者には確実に単性生殖の能力が有り、父親の無い子供を生む。原則だからとはいえ、道徳的本能に限定して見れば労働者は本当に女らしい、「母性」と呼ばれる優しさと忍耐と先見の明の全てを持っているが、仏教伝説の龍の聖女の性のように、その性別が消失している。

捕食生物や敵国に対する防衛のため、労働者が武器を配布した上で、大きな軍隊が防衛に回る。この戦士は労働者とは比較しようもないほど大きい(少なくとも幾つかの共同体では)一見しただけでは、それが同じ種族だと信じるのは難しい。保護する労働者より百倍以上大きな兵士は珍しくない。しかしこの全ての兵士はアマゾネスである──あるいはもっと正確に話せば半女性である。力強く働けるが、戦闘と主に重い物を引くための頼りにされ、その有用性は技能より力が必要なこの方面に制限される。

〔おそらく大部分がそれほど単純ではないのだろうが、どうして男よりも女が兵隊と労務者において進化論的に特化したのだろう、という疑問が出てくる。それには大きな自信を持って答えることはできない。しかし自然経済の観点からは問題を解明できる。生命の多くの形態では、大きさとエネルギーの点ではメスがオスより大いに優れている──おそらく、この場合では、完全なメスに本来備わっていた生命力のより大きな備蓄は特別な戦闘階級の育成のため、より迅速かつ効果的に利用されたのかもしれない。豊穣なメスに存在する生命を与えることに消費されるであろうエネルギーの全てが、ここでは攻撃的な力や労働の才能の進化のため転用されたように見える。〕

正真正銘の女──選ばれし母親達──は実のところ非常に少なく、女王のように扱われる。要望をするようなことはほとんど無く、非常に頻繁かつ大きな敬意が待っている。生存の介護のことごとくに安心する──子孫を残す義務を除く。夜も昼も可能な限りの方法で介護をされる。単独では過剰なほど豪華な満足である──子孫の利益のため、王として適切に食べて飲んで休息しなければならず、その生理的な特殊化は、このような耽溺の自由が認められている。外出することはほとんど無く、強力な護衛でも伴わなければ有り得ず、同様に無用な疲労や危険を招くようなことは許されない。おそらく外出には大した欲求を持っていないだろう。彼女達を中心にして種族の活動が行われる。全体の知能と労働と節約は、単にこの母親達とその子供達の福祉に向けて管理される。

しかし種族の最下位に、母親達の夫である男を──必要悪として──位置付ける。特別な季節にのみ現れるのは既に観察したが、その生涯は非常に短い。高貴な家柄の自慢など少しもできないにもかかわらず、王族との婚姻が運命付けられている。王族の子孫ではないが、処女から生まれたので──単性生殖の子供であり──特にその理由から、劣等な存在、いくらか不可解な隔世遺伝の偶然の産物である。しかし男の内の幾らかは、選ばれて共和国から許容されるが数は少ない──選ばれし母親達の夫として仕えるのに、かろうじて足りる程度で、この少数は任務が終了するとほとんど間を置かず死滅する。自然の法則が意味するこの驚くべき世界は、ラスキンが教える努力の無い生活は罪悪と一致し、男は労働者や戦士のようには役立たないから、生存の重要性は一時的にしかない。実のところ屠殺されるのではない──テスカ・ポリトカの祭りに選ばれ、心臓をえぐり取られる前の二十日間に新婚生活を許された、アステカの生け贄とは違う。しかし高度な幸運の中にあっても、不幸はそれほど小さくない。想像してほしい、王の一夜の花婿となるよう運命付ける知識で育てられた若者達である──婚礼の後では生きていく道徳上の権利を持たないだろう──婚礼は全員のそれぞれに、死の確信を物語るだろう──より長く生きる妙齢の未亡人に嘆き悲しみを望むことさえできない……多くの世代の内の1回なのだから!

しかし、前に述べた全ては「虫の世界のロマンス」の序文にしか過ぎない。

──この驚くべき文明に関する最大に驚愕する発見は、性の抑制である。確かに蟻の生活の進歩した形態では、個体の大多数において性行為は完全に消失する──より高位の蟻社会ほぼ全域において性生活は、種の継続のために必要不可欠な範囲に限って存在が現れる。しかし、生物学的事実は、それ自体が提示する倫理的暗示に比べたら、それほど大したことではない──この事実上の抑制や、性的能力の規制は自主的に出現しているからだ。少なくともその種に関する限り自主的である。現在信じらているのは、その素晴らしい生き物達は、発展か若い性の発展の阻害の仕方を学んだというのだ──幾つかの栄養学的方法からである。本能のうちで最も力強く制御不能と一般に思われている物を、完璧な管理下に置くことに成功したのだ。かつこの厳格な禁欲生活への必要な制限の範囲で絶滅に対する備えは、種の多くの重要な経済的効果の内のたったひとつ(ではあるが最も驚くべきもの)である。自分本意の喜びのためのあらゆる能力──「自分本意」の言葉は普通の意味で──は、生理的な改変を通して等しく抑制される。自然な欲望に耽る行為は、直接的か間接的にでもそのような耽溺が、種の利益になる場合でなければ全くできない──必要不可欠な食事や睡眠でさえ、健全な活動を維持するため正確に必要な程度に限定して満足している。個々は務めと考えが公共のためになる場合のみ生存でき、共同体は愛か飢餓による支配の受け入れを、宇宙の法則が許す限り、勝ち誇るかのようにどちらも拒絶する。

我々の大部分は、何種類かの宗教的な教義──将来の褒美への希望や将来の罰への恐れ──無しでは文明は存在し得ないという信念の元に育てられた。我々が考えるよう教わってきたのは、道徳思想に基づく法律の不在や、そういった法律を執行するのに有効な警察が無い状態では、全ての他人の損害に対し、ほとんど全ての人は、彼や彼女の個人的な利益だけを求めるであろう。強者はそれから弱者を滅ぼし、哀れみと同情は消え去り、社会構造全体が粉々になって落ちていくであろう……この教えは、人間の本質は不完全な存在だという、明白な真実を抱えていると白状する。しかし、この真実を最初に宣言した何千年も前の人達は、利己的行動が生まれつき不可能になる社会の存在形式を全く想定していなかった。それは積極的な善行の喜びが義務の思想を不要にする社会は存在できると、疑いようの無い証拠を伴って無宗教な自然が我々への提供を残した──天性の道徳が全ての倫理的規則を不要にできる社会──全員が完全に利他的に生まれ、精力的に優秀な社会、それは最年少の者にさえ道徳の鍛練が時間を浪費せず過不足無くできることを意味する。

進化論者にこういった真実が必然的に暗示するのは、我々の道徳的理想主義の価値が一時的なものでしかなく、美徳よりも、優しさよりも、自制よりも──この表現で現在の人間が意味付ける──良い何かは、確実な条件の元では、いずれそれに取って換わるのかもしれないこと。道徳の概念の無い世界は、そうした概念によって行為が規制された世界より道徳的に良くないのだろうか、という疑問に直面せざるを得ないと気が付く。さらに我々自身を取り巻く宗教的な戒律と道徳規定と倫理基準が、我々はまだ社会的進化の非常に原始的な段階にあるのではないと証明するのかと自問するはずである。そしてこの疑問は自然に別の方へと向かう、この惑星上で、その理想の全ての彼方の倫理的状態へ到達するために人類は常に有能だろうか──現在悪と呼ぶことごとくが存在から衰退していき、美徳と呼ぶことごとくが本能へと変換していく状態における──倫理の概念と規定がそれと同じように不要となっているであろう利他主義の状態は、おそらく現在でさえ、より高度な蟻の社会に存在する。

近代思想の巨人達はこの疑問に幾つかの解答を提示し、中でも最も偉大な者がこれに答えた──部分的な肯定ではあるが。人類は倫理的に蟻のそれに匹敵する文明の幾つかの状態へ到達するであろうとハーバート・スペンサー氏は確信を明言する──

「もしも生物の下層階級の中で、利他的活動が自分本意の活動のひとつとなるように、自然が体質的に大きく修正した場合、対応する条件の元で一致の確認が人類の間で生じるだろうという避けられない意味を含む。社会的な虫は最先端の実例を我々に提供する──そして実例を見せる、実際それは個体の生活が驚くべきほど、別の個体達の生活へ役立つことに没頭しているようである……蟻や蜂のどちらも、その言葉に与える意味において、義務の感覚を持つとは想像できず、自己犠牲の継続的な経験も、通常の言葉の意味としては想像できない……〔真実〕は、活発で更に活発な利他的目的の遂行が、同時にそのまま別の場合では、利己的な目的の遂行に見える自然現象を生じるが、それは組織化の可能性の内にあると見せる──そうした場合は、利他的な目的が利己的という別の顔をした目的の追求から遂行されて見える。組織体の要求を満たすため、他者の福祉に貢献するこの活動は継続されるはずである……

……………………………………

「これまで、それが真実であるから未来の全てを通して継続するはずとされた、利己心が他者への配慮を断続的に服従させる状態、これに反して、他者への配慮が最終的に非常に大きな喜びの元となる状況から、その喜びが直接的な自分本意の満足によって広範囲に広がると推論できる……やがては、さらに利己主義と利他主義が大きく融和し、一方が他方に溶け込む状態がやって来るであろう。」

もちろん前述の予言は、人間性がこの様々な階級に分化する昆虫社会と同等の構造的な専門化が示すほどの、生理的な変化をいずれ経験するだろうと暗示してはいない。働かない少数派の選ばれし母親達のための、半女性労働者とアマゾネス苦役で構成される活発な大多数が人間らしい未来国家を思い描くよう我々は要求されていない。「未来の人口」の章においてさえスペンサー氏は、より高度な道徳的種族を産み出すための、肉体改変の必然を詳細に述べるような試みはしていない──記述全般が徹底的な神経系や、人間の繁殖力の大きな低下への考察であるにもかかわらず、そのような道徳的進化は、生理的な変更に達するのはまったく無視できない意味を持つだろうと連想させる。相互の善行の喜びが生活の楽しみを代表する未来の人間性を信じるのが正しいとすれば、昆虫生物学が証明した進化論的可能性の及ぶ範囲になる真実の生理的、道徳的な異なる形質変化を推測するのも正しくはないのだろうか?……私にはわからない。この世界に今まで現れた最大の哲学者としてハーバート・スペンサー氏を最も敬虔に尊敬するが、彼の教えを何か正反対に書き留めて、とても賢明な読者がそれを総合哲学に触発されたと想像するなら、非常に申し訳ない気持ちになるだろう。後に続く非難は私ひとりの責任であり、もし間違っているのなら私自身の頭の罪としてほしい。

スペンサー氏に予測された道徳的形質変化は、生理学的変化と恐ろしい代償の助けを借りてのみ作用できると思う。この倫理的条件は昆虫社会で何百万年かけてほとんどの残酷な必然性に逆らい、必死の努力を継続して到達できた状態に顕著である。残酷に等しい必要性は人類が見い出すべきであり、いずれは修得するかもしれない。スペンサー氏は、人間が受け入れられる苦痛の最大の時はまだ来ておらず、それは人口の圧力が受け入れられる最大の時代に付属するだろうと示してくれた。長期の圧迫の異なる結果の間に、人間の知能と共感の膨大な増加が有ると解釈するが、この知能の増加は人間の繁殖力を犠牲にした上で成り立つだろう。しかし繁殖力の減衰は、我々の言う非常に高度な社会的状態を保障するのに十分ではなく、人間の苦悩の主要因である人口の圧力を解消するだけだろう。完璧な社会の均衡状態には近づくであろうが、決して人類が完全に到達することは無いだろう──

『ちょうど社会的な虫達が性生活の抑制によって解消したような、経済上の諸問題を解消するいくつかの手法が発見されなければ。』

もしこのような発見が成されるなら、人類は大部分の若い性の発育の阻止を決定するかも知れない──この力の移動による効果のような、今要求される性生活による高度な活動の発展は──あの蟻のように多様な状態が最終的な結果とならないのだろうか。そうなれば、より高い種において──男らしさより、むしろ女らしさの進化を通して──どちらの性別でもない生き物の大多数が、実際に次の人種を代表しないのだろうか。

現在でさえ、どれだけ多くの者が単なる利他的な動機(宗教はいうまでも無い)から、自身に独身主義の宣告をし、より高度に進化した人間愛が公共の福祉のため、特別優位な利益になるのが確実に展望されるなら、気持ちよく性生活の大きな比率を犠牲にするだろうとは、容易に信じられないとは見えないはずだ。そういった利点の小さくない物は──人類が蟻の天性の方法の後を追って、いつでも性生活を管理できるなら──莫大な寿命の増大であろう。性を超越した高度な人間性の形は、千年の寿命の夢を実現できるかも知れない。

既に我々は、成すべき仕事のための寿命が余りにも短すぎると気付き、そして絶えず発見の進展は加速し、知識の拡大は決して終わらない、時が過ぎるほどその寿命の短さを、もっともっと後悔する理由を確実に見付けるはずなのだ。科学が錬金術師の望む不老不死の薬エリクシルをいずれ発見するようなことは極めて有り得ない。宇宙の力は、誤魔化しを許さないだろう。全ての利益を許されるには正当な対価を払うべきで、対価の無い永遠の法則は有り得ない。おそらく長寿の対価は、蟻が払った対価が証明するだろう。おそらく幾つかのより古い惑星では、その対価は既に支払われ、階級によって制限された子孫を産み出す力は、思いも寄らない方法で種の残りから形態学的に分化しているのだろう……

しかし、昆虫生態学の真実は未来の人間の進化の道筋に関する非常に多くの示唆をするが、さらに宇宙の法則と倫理の関係に対する何か極めて大きな重要性を示唆していないだろうか。どうやら最高度な進化は、人間の道徳的経験が全ての時代で断罪した有能さを生物に許さないだろう。どうやら最高に有りそうな力は強い利他性であり、最高位の力は冷酷や肉欲には調和しないだろう。神々は存在しないかも知れないが、存在の全ての形態を形成し分解する力は、神々以上に厳しく見えるだろう。星々のやり方に「劇的な意図」を証明するのは不可能であるが、やはり宇宙の過程は全ての人間らしい倫理制度の価値を人間の我欲と根本的に対立する物と断言しているように見える。

注釈

蟻の道徳】これに関連した面白い事実は、日本の言葉で蟻は表意文字で「虫」という字と「道徳的正しさ」を示す文字「義」(義理)の結合した形式で表現される。したがって漢字での実際の意味は「義理の虫」となる。

ウェスタの世界)訳注:古代ローマで信仰されたかまどの女神ウェスタには、聖なる火を絶やさず、儀式に用いる酒食の用意、聖所、聖具、を管理し、厳しい戒律を守る処女である巫女達の奉仕が有りました。


©2006 小林幸治. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。