八十日間世界一周, ジュール・ヴェルヌ

フィリアス・フォッグが不運に対して敢然と戦いを挑むこと


チャイナ号は出航してしまっていた。それとともに、フィリアス・フォッグが持っていた最後の希望まで運び去ってしまったかに思えた。他の汽船はどれも、フォッグ氏の計画には使えなかった。ペレール号というフランス大西洋汽船会社の船は、速度・快適さともに賞賛に値する汽船ではあったが、14日まで出航しなかった。ハンブルグ汽船会社の船は、ロンドンやリヴァプール行ではなく、すべてルアーブル行であった。ルアーブルからササンプトンまでの余計な旅行によって、フィリアス・フォッグは最後の努力を無にしてしまうだろう。イマン汽船会社の汽船は翌日出航の便しかなく、その便では賭けに勝てる速度で大西洋を横断することはできなかった。

フォッグ氏は以上のことを、持っていたブラッドショーの案内記を見て知った。つまり、大西洋を横断する船便を逐一調べていったのである。

パスパルトゥーはがっくりまいってしまった。チャイナ号に45分遅れたことに責任を感じて落ち込んでしまった。すべて彼のせいだった。彼は主人を助けるかわりに、道中に障害を置いていってしまったのだ!この旅行中に起こったことを思い返し、無駄にした費用や、自分を助けるために主人が費やしたお金の総額を数え、莫大な掛け金や巨額の旅行費用をおもい、それらすべての支出でフォッグ氏を完全に破産させてしまったことを考えた。彼は自分を責めに責めた。だがフォッグ氏は従者に文句を言わなかった。ただキュナード埠頭ふとうを出るときにこう言っただけだった。「明日考えることにしよう。行こうか。」

一行はジャージーシティ・フェリー・ボートでハドソン川を渡り、馬車に乗ってブロードウェイのセイント・ニコラス・ホテルに入った。部屋を取り、その晩ホテルに泊まった。フィリアス・フォッグは短いが深い眠りに落ちた。だがアウダたちは動揺のせいで眠れず、長い夜を過ごした。

翌日は12日だった。12日の朝7時から21日の夜8時45分までの間は、9日と13時間45分あった。もしフィリアス・フォッグがチャイナ号で出航していれば、チャイナ号は大西洋で航海している船の中でも最速の部類に入っていたから、約束の期間内にリヴァプール、そしてロンドンに着けるはずであった。

フォッグ氏はひとりでホテルを出た。パスパルトゥーには帰りを待つように言い、アウダにはいつでも出発できるよう用意をしておくようにと話していた。彼はハドソン川の土手に行き、港や川に停泊している船を見回し、今すぐ出発しようとしている船を探した。何隻かが出航の合図を送り、朝の潮流に乗って沖に出ようとしていた。実際、ニューヨークという巨大な良港では、日に100隻を超える船が、世界各地へ向けて出航しているのだ。だが、出航しようとしているのはほとんど帆船であった。もちろん、帆船ではフォッグ氏の役には立たないのだ。

フォッグ氏がいよいよあきらめようとしたそのとき、砲台の下、200メートル足らずのところに、一隻の商船が停まっているのが目に入った。船体はほっそりとしていて、煙突からモクモクと煙を吐いていた。それはこの船が、もう出航準備ができていることを示していた。

フィリアス・フォッグはボートを呼び、それに乗って、アンリエッタ号に乗り込んだ。アンリエッタ号は下部が鉄製で上部が木造の船であった。フォッグ氏はデッキに上がって、船長に会いたいと言った。すると船長が出てきた。船長は50くらいの、海賊みたいな男だった。大きな目、さびた銅のような顔色、赤い髪に太い首を持ち、怒鳴り声で話をしていた。

「船長ですか。」フォッグ氏が尋ねた。

「俺が船長だ。」

「私はロンドンに住むフィリアス・フォッグといいます。」

「俺はカージフのアンドリュー・スピーディだ。」

「今から出航ですか。」

「1時間以内にな。」

「どこに行かれますか。」

「ボルドーだ。」

「積み荷はなんですか。」

「何も積んどらん。バラストだけだ。」

「乗客はいますか。」

「いない。絶対乗せないんだ。道中面倒なんでな。」

「船は速いですか。」

「11から12ノットで走るんだ。アンリエッタ号はちったぁ知られてるんだぜ。」

「あのですね、我々4人をリヴァプールまで運んでいただけませんか。」

「リヴァプール? なぜシナじゃないんだ?」

「リヴァプールと言っているんです。」

「ダメだ!」

「ダメですか?」

「ダメだ。俺はボルドーに行くつもりなんだから、ボルドーに行くんだ。」

「お金はいくらでも払います。」

「絶対ダメだ!」

問答無用といった感じだった。

「では、アンリエッタ号のオーナーは。」フォッグ氏は話を進めた。

「オーナーは俺だ。」船長が答えた。「船は俺のものだ。」

「では船を貸してください。」

「ダメだ。」

「では船を売ってください。」

「ダメだ。」

フィリアス・フォッグの顔色は変わらなかったが、状況は深刻だった。ここはニューヨークであってホンコンではなかった。アンリエッタ号の船長はタンカディア号の船長ではなかった。これまではお金があらゆる問題を解決してきた。今はお金は役に立たなかった。

しかし、なんとかして大西洋を渡る方法を見つけなければならなかった。気球を使うのでなければ、船で渡るしかなかった。気球は危険を伴うし、実際問題として使うことはできないのだった。ここで、フォッグ氏は何かを思いついたようだった。船長にこんな事を言ったのだ。「分かりました。では、我々をボルドーまで乗せていってくれませんか。」

「200ドルもらっても断る。」

「2000ドル払いましょう。」

「ひとりにかね?」

「ひとりにです。」

「4人といったね。」

「4人です。」

スピーディ船長は頭を掻きだした。目の前に8000ドルがある。しかも行き先を変えずに手に入るのだ。それは乗客に対するあらゆる不満を我慢するに値するものだった。第一、2000ドル払う乗客は、もう乗客とは言えない。貴重な商品なのだ。

「船は9時に出航する。」スピーディ船長はただそう言った。「お前たちの用意はできてるか?」

「9時にデッキで会いましょう。」フォッグ氏は答えた。

時刻は8時30分だった。フォッグ氏はアンリエッタ号から降り、馬車に乗って、セイント・ニコラス・ホテルにとって返した。そして、アウダやパスパルトゥー、さらにいつもくっついて離れないフィックスとともに、アンリエッタ号に帰ってきた。こういった仕事をフォッグ氏は素早く、そしていつも変わらぬ冷静さでもって実行した。アンリエッタ号が錨を揚げるころには一行はデッキにいた。

パスパルトゥーはこの最後の航海にかかる費用を聞いて、思わず「あぁ、あぁ、あぁ……。」と長いため息をついた。その声はだんだんと低くなっていくのだった。

一方フィックスはこんな独り言を言っていた。イングランド銀行が損害を被るのは間違いないだろう。イングランドに着く頃には、フォッグが札束を海に捨てなくたって、すでに7000ポンド以上のお金を使ってしまってるからなぁ。


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