線と魚, ワシリー・カンディンスキー

線と魚


私が見るところ、一面では、いわゆる《抽象的な》線と魚との間に本質的な違いはない。

むしろ両者の間には本質的な類似性がある。

[他のものから]隔離された線は、[他のものから]隔離された魚と同じように、自身の力――その力は潜在的なものだが――を備えた生命体である。その力は、線や魚にとっては表出の力であり、人間にとっては印象の力である。[線や魚がなぜそのような力を持つかと言えば、]あらゆる存在は自らを強く印象づける《顔》を持ち、その顔が表出の力を通して現前するからだ。しかし潜在力の声は微弱である。これらの潜在力が目を覚まし、表出が眩いばかりに発せられ、その結果、印象が深まる、という奇跡をもたらすのは、線や魚を取り巻く環境によるのである。その奇跡が起これば、人は弱い声ではなく合唱を聞くだろう。潜在力が躍動し始めたのだ。

環境とはコンポジションである。

コンポジションとは、作品の全ての部分が持つ内的機能(様々な表出)の有機的総体である。

だが、もう一面から見れば、線と魚との間には本質的な違いがある。魚は泳いだり食べたりできるし、人が食べることもできる。従って魚は、線が持つことのできない属性(Fähigkeit)を有している。

しかし、魚のこうした属性は、料理に使われる場合は重要な付加価値となるが、絵画にとっては価値を持たない。それゆえ、これらの属性は余計である。

私が魚よりも線を好む――少なくとも私の絵画においては――理由は、以上のようなものである。


©2003 ミック. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示 4.0 国際