スペイン戦争を振り返って, ジョージ・オーウェル

第三章


二つの記憶のうち、最初のものは特に何かを示唆するものではなく、二つ目のものは私が思うに革命的な時期の雰囲気に対するある洞察を与えてくれる。

ある日の早朝、私ともうひとりの男はウエスカ郊外の塹壕に潜むファシストを狙撃するためにでかけた。相手方の前線と私たちの前線は三百ヤードほど離れていて、その距離では私たちの古びたライフルでは正確な銃撃は望めなかったがファシスト側の塹壕から百ヤードほどの場所まで忍び寄ると運が良ければ土盛りの隙間から誰かを狙い撃つことができるのだった。運の悪いことに前線の間の地面は平らなテンサイ畑でわずかな水路を除くとさえぎる物が無かった。そのためにまだ暗いうちに出かけて行って夜が明けたらまだあまり明るくならないうちにすぐさま戻ってくる必要があった。その時はファシストは現われず、私たちは長居をしすぎて気がつくと夜が明けてしまっていた。私たちがいるのはひとつの水路の中だったが背後には二百ヤードの平らな地面が広がり、そこにはうさぎ一羽たりとも隠れる場所は無かった。私たちが全力で駆け出すよう自分を鼓舞していると、ファシスト側の塹壕が騒がしくなり口笛が巻き起こった。私たちの側の飛行機が何機かやって来たのだ。その瞬間、おそらく将校への伝令を運んでいるのであろうひとりの男が塹壕から飛び出し、土盛りの上に沿って丸見えで走り出した。男は半裸で、走りながら両手でズボンの裾を持ち上げていた。私は彼を撃たなかった。射撃が下手で百ヤード向こうの走る男には命中させられそうもなかったというのも、また、ファシストが飛行機に注意を引かれている間に自分たちの塹壕に戻ることに頭を奪われていたというのも確かだ。しかし私が撃たなかったもうひとつの理由はそのズボンの情景にあった。私は「ファシスト」を撃つためにここに来た。しかしズボンの裾を持ち上げている男は「ファシスト」ではなかった。彼は明らかに自分と同類の生き物であり、私自身によく似ていたのだ。そうなると彼を撃とうという気にはならないものだ。

この出来事は何を明らかにしているのだろうか? たいして何も明らかにはしていない。これはどんな戦争でも四六時中起きているような出来事なのだ。他の者であれば違っただろう。この話でこれを読むあなたの考えを変えられるとは思っていないが、私の考えが変わったということは信じて欲しい。当時のある瞬間における道徳的雰囲気を持つ出来事の特性によってそれは起きたのだ。

私が兵舎にいる間に加わった新兵のひとりにバルセロナの裏通り出身のひどい姿の少年がいた。服は破れ、足は裸足だった。またひどく色黒で(たぶんアラブの血だろう)普通のヨーロッパ人がすることのないしぐさをした。とりわけそのひとつ……腕を広げ、手のひらを垂直に掲げるのだ……はインド人に特徴的なしぐさだった。ある日、当時はまだただ同然で買えたタバコのひと束が私の寝台から盗まれた。愚かにも私がそれを上官に報告すると、先に述べた悪党どもがすぐさま前に進み出て自分は寝台から二十五ペセタ盗まれたと嘘八百をまくしたてた。いくつかの理由からその上官は即座に泥棒はあの茶色の顔の少年に違いないと決めつけた。民兵組織内での窃盗は非常に厳しく裁かれる。理屈の上ではそれを理由に銃殺されることさえあり得るのだ。哀れな少年は自分を営倉に連れて行って調べるよう頼んだ。私にとって最も衝撃的だったのは彼が自分の無実をほとんど訴えようとしなかったことだ。彼の態度のその運命論的諦観に、彼がその中で育った絶望的な貧困を見て取ることができるように思えた。上官は服を脱ぐよう彼に命じた。怖くなるほどの卑屈さで彼は裸になり、彼の服が調べられた。もちろんタバコも金もそこには無かった。要するに彼は盗んでいなかったのだ。とりわけ痛々しかったのは無実が証明された後も彼が恥じ入っているように見えたことだ。その夜、私は彼を映画に連れ出し、ブランデーとチョコレートを奢った。しかしそれもまた恐ろしいことだった……つまり、それは金で傷を拭い去ろうという試みだったのだ。ほんのつかの間だが私は彼が泥棒であるとなかば信じた。そしてその事実を拭い去ることはできないのだ。

それから数週間後、前線で自隊の男のひとりと私はトラブルになった。当時、私は「カボ」、つまり伍長で、二十人の男たちを指揮していた。戦いは膠着状態で、恐ろしく寒く、主な仕事は配置についた歩哨が眠らないよう起こして回ることだった。ある日、ひとりの男が突然、ある場所への配置を拒否した。敵の射線にさらされると真剣になって訴えるのだ。彼は気弱な男で、私は彼をつかむと彼の持ち場へと引きずり出した。これが他の者たちの私に対する感情に火を着けた。私が思うにスペイン人は私たちよりも触れられることを嫌う。即座に私は叫び声を上げる男たちの輪に囲まれた。「ファシスト! ファシスト! そいつを離せ! ここはブルジョアの軍隊じゃないぞ! ファシスト!」などなど。私はなんとか下手なスペイン語で、命令には従わなければならないと叫び返し、口論は次第に大きな議論へと発展していった。革命軍ではこうした方法で徐々に規律ができあがっていくのだ。何人かは私が正しいと言い、別の何人かは私が間違っていると言った。しかし重要なのは、中でも一番熱心に私の味方をしてくれたのがあの茶色の顔の少年だったということなのだ。何が起きているのかに気がつくとすぐさま彼は輪の中に加わって熱心に私の弁護を始めた。その風変わりで荒っぽいインド風の手振りで「彼は俺たちにとって最高の軍曹だ!(NO HAY CABO COMO EL!)」と叫び続けた。その後、彼は願い出て私の隊への入れ替えがおこなわれた。

なぜこの出来事が私の関心を引くのだろうか? それは、平時の環境であればこの少年と私自身の間の友好関係を再度築き上げることは不可能だっただろうからだ。泥棒だと言外に告発すれば、その後でどれほど償おうと努力しても事態は悪くなることはあれ良くなることはないだろう。安全で文明的な生活の影響のひとつは途方もなく神経が過敏になることで、それによってあらゆる初期情動は何かしらうんざりするものに思えてしまう。気前の良さは物惜しみと同じように苦痛で、感謝は忘恩と同じくらい憎しみを呼ぶ。しかし一九三六年のスペインにおいて私たちは平時とは異なる生活をしていた。そこでは気前の良い気持ちと手振りは普段よりもずっと簡単なことだった。似たような出来事なら一ダースほども話すことができる。説明しにくいがそれらは私の頭の中で当時の特別な雰囲気と強く結びついている。みすぼらしい衣服と鮮やかな色の革命派のポスター、あらゆる場所で使われていた「同志」という言葉、薄い紙に印刷され一ペニーで売られていた反ファシストの詩、「国際的なプロレタリアートの連帯」といったようなフレーズ、それらはその言葉が何事かを意味していると信じている無知な人々によって痛々しいほど繰り返されていた。あなたは誰かに友情を感じて、口論で彼の味方になることができるだろうか? 彼の所有物を盗んだ疑いで不名誉にも彼の眼の前で取り調べを受けた後の話だ。とても無理だろう。しかしもし二人ともが何か感情的に大きな経験を経ていればそれも可能なのだ。これは革命による副産物のひとつだが、それも革命初期だけのことでいずれ破綻する運命にあることは明らかだった。


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