ケトルウェルはどうにかニューワークで稼いだ富を守り抜いたまま事態を切り抜けていた。彼は毎年のように巨額のボーナスを受け取り、それはコダセルが成長……実際に稼ぎ出す利益よりも良い尺度だ……を続けている間ずっと続いた。彼は分散されたポートフォリオに投資していて投資対象は大豆からソフトウェア、さらには不動産(こいつは失敗だったが)や美術品にまで及んでいた。彼がニューワークを信じていなかったわけではない。全身全霊でその可能性を信じていたが同時に集中したポートフォリオなどというのは全く無責任なものだと思っていたのだ。
ニューワークの崩壊は大勢の無責任な人々の純資産を殺した。
一年も経つとケイマンでの生活にも飽きがきた。子供たちはインターナショナルスクールを嫌うようになっていた。スクーバダイビングは一年もしないうちに果てのない瞑想的で魅惑的なものから死ぬほど退屈なものに変わり、そのことが彼を驚かせた。ヨットをやろうとは思わなかったし飲んだくれていようとも思わなかった。カリブのセックスツアーに励む身の毛もよだつ大富豪どもの仲間入りもしたくはなかった。たとえもし妻がそいつに賛成したとしてもそんなのはまっぴらだ。
ニューワーク崩壊から一年後、彼はIRSにフォーム一〇四〇の書類を提出して追徴金と罰金合わせて四千万ドルを払うと自分の財産をアメリカの銀行に戻した。
今の彼の住まいはサンフランシスコのポトレロヒルにある元公営住宅を改装した建物だった。住宅はごてごてと飾りのついた窓の格子や年代物の床材、飾り漆喰の天井が復元されて完全に富裕層向けに改修されていた。彼が所有しているのはそのうちの二フロアにまたがる四つの物件で、壁をうまいこと取り除いて螺旋階段で上下階をつないでいた。その階段は子供たちのお気に入りだった。
SFOからスザンヌ・チャーチが電話をかけてきたのはそんな時だった。たまたま近くに立ち寄ったのでセキュリティーチェックを受けて税関審査を待つ間に電話したのだと彼女は言った。彼女と話しながら自分がなんとなくわくわくしていることに彼は気がついた。まるで彼女に惚れているようだと思って彼は苦笑した。まったくその気はなかった……彼の妻が気を揉むようなことは全くない……しかし彼女は聡明で愉快で魅力的で辛辣で恐れ知らずだった。最高の組み合わせだ。
子供たちは学校でいないし妻は女友達とヨセミテ国立公園に数日間のキャンプに出かけている。そのことがスザンヌの急な来訪を受けることを多少は後押しした。彼はバスの時刻表を確かめて彼女がトゥエンティフォースストリート駅に到着するまでにどれだけの時間が残されているかを計算した。駅から彼の家までは徒歩二十分というところだ。
たいして時間はかからないだろう。彼は客室を点検してからちらりと鏡の中の自分を見た。ケイマンでの数ヶ月は彼の肌を真っ黒に変え、彼はサンフランシスコの灰色の空の下でもその状態を維持していた。中年らしくやや突き出た腹にも関わらず彼は今もサーファーのような姿をしていた……妻が妊娠している間に妻以上に体重が増えたがポトレロヒルのあたりのきつい心臓破りの地形を自転車で走り回っているうちにそれも元通りに減っていた。ジーンズのきちんと並んだポケットとメビウスの輪の形の縫い目は少し時代遅れだったが機械ねじをモチーフにしたハワイ風のプリントシャツとあいまって彼の見栄えをよくしている。
結局、彼は腰を降ろして本を読みながらスザンヌを待つことにした。十分ほどの遅延があったおかげで彼は何とか全てのページに目を通すことができた。
「ケトルベリー!」ドアから入ってくるなり彼女は叫んだ。飛行機と浅い眠りのむっとするような匂いをさせながら彼女は彼と抱擁をかわして強く彼の体を締めあげた。
彼の体に手を置いたまま彼女が体を離すと二人は互いの様子を見た。最後に会った時、彼女は年の割には若く見える四十代半ばでカリフォルニアのヨガ・マニア風の生真面目な人物だった。眼の前にいる彼女は何歳か歳をとり、ロシアでの歳月がその口元と目尻にたくさんの笑いじわを刻んでいた。身にたたえた哀愁と聡明さがその顔を以前は目にしたことがないものに変え、まるで色鮮やかなピエタ像のようだった。両方の手にはしわが増え、指の関節が浮き出て見えたが爪には美しくマニキュアが塗られ服は洗練された異国風の魅惑的なヨーロピアンスタイルだった。
かすれた声で彼女は笑うと言った。「少しも変わっていないわね」
「これは手痛い!」彼は答えた。「歳をとって賢くなった。すぐにわかるさ」
「ちっとも老けてないわ」彼女が言った。「私は歳をとったけど賢くはなっていない」
彼女の手をとって見るとシンプルなプラチナの指輪が見えた。「だが結婚をしている……これに以上に人を賢くさせるものは無いね。私の経験から言わせてもらえば」
彼女は自分の手を見ていった。「ああ、これは違うわ。たんなる男避け。結婚している女性は独身女性とは違う分類になるのよ。水をくれない。それからビールをお願い」
何でも喜んでだ。彼女が家の中をぶらついている間に彼はキッチンで忙しく動きまわった。「このあたりが爆撃跡みたいに何もない本物のゲットーだった頃のことを憶えているわ」
「君は注目の的になっているらしいじゃないか?」
「知っての通りサンクトペテルブルクは無法状態よ。みんな金儲けに夢中だわ。私は四六時中ボディーガードを連れて歩いてる。それでももしレストランに行きたくなったらデートサービスを経営しているロシアンマフィアを避けては通れない。やつらは私に人生を切り売りしてグリーンカードのための偽装結婚をしてくれないかと持ちかけたがっているのよ」
「そいつはすごいな」
「別世界よ。ランドン。今週、あそこであった大きな騒ぎが何か知っている? 熱狂的な福音主義キリスト教カルトがショッピングモールで女たちを『洗脳』して彼女たちの赤ちゃんをさらったのよ。主に仕える戦士として育てるために。その話がどこまで本当かは神のみぞ知るね。その男たちは風呂にはいらずひげを伸ばし放題にして一年中厚いコートをきているんだって。なんというかもうおかしな事ばかりだわ」
「そいつらが女性に催眠を?」
「おかしいでしょう? それに運転の仕方! 五十より年上で運転の仕方を知っている人はみんなソビエト時代の共産党政治局員なのよ。つまり道路が空っぽだった時代に運転の仕方を習っているってわけ。ハザードは使わないし車線をまたいで走るし駐車ができないのよ……文字通り駐車ができないの。それから酔っぱらい! みんな四六時中、酔っ払ってる! あんなの見たことがないと思うわ。男子学生の社交パーティーの翌日を想像してみて。大勢の野次馬と売春婦と路上強盗とすりがいるやつをね」
ランドンは彼女を見た。彼女は快活で生気にあふれ痩せていた……歳月がその頬骨と目を浮き上がらせていた。以前はあごの下にたるみがなかっただろうか? 珍しいことじゃない……医療観光客はみんなロシアが大好きなのだ。たぶん彼女は年の割に若く見えるというだけだろう。
彼女が自分の体をかぐ仕草をしてみせた。「臭うわね! シャワーを浴びたいわ! 貸していただける?」
「もちろん」彼は答えた。「子供用のバスルームに新しいタオルがある……上の階の右の二番目だ」
シャワーを浴びて降りてきた彼女は髪を耳の上で後ろに撫でつけ、洗った顔は輝いていた。「生き返ったわ」彼女が言った。「どこか行って何か食べましょう。いい?」
彼はゴートヒルにあるエルサルバドル料理屋に彼女を連れて行ってププサをふるまうことにした。二人は起伏のある土地をとぼとぼと歩き、傾斜のきつい坂をよじ登っていった。通りに立ち並ぶ家並みはいわゆるペインティッド・レディ……荘厳で派手派手しいビクトリア調の木造家屋……と大きな地震と地すべりによって丘の一部が押し流されてしまった跡に建つ頼りなさげな厚いキャンバス地の球体ハウスだった。
「こんな丘があったことも忘れていたわ」オルチャータを一息に飲みながら彼女は言った。額に汗の筋が走り、顔は火照っていた……それが彼女の姿を美しく若々しく見せていた。
「息子と私は毎日あの丘を歩いているんだ」
「小さな子どもを連れてあそこを毎日? やれやれ。児童虐待ね!」
「いや、丘をひとつふたつ超えると息子は疲れてしまってね。最後は私がおぶっていくんだ」
「おぶるですって? あなたはスーパーマンか何かに違いないわ」彼女は彼の二の腕と太ももをつかんで、最後に尻を叩いた。「健康体の見本だわ。あなたの奥さんはラッキーな女性ね」
彼はにやりと笑った。会話に妻が出てきたことで少し不安が治まった。その通り。私は結婚しているし二人ともそれを知っている。こいつはちょっとしたおふざけでそれ以上のものじゃない
二人はププサにかじりついた……挽いたトウモロコシの粉でできた皮にグリルした豚肉を詰めこんでキャベツのみじん切りと熱いソースをトッピングしてある。そいつで二人は腹を満たした……むさぼるように食べ終わるとさらに追加注文をした。
「なんていう料理だったかしら?」
「ププサだ。エルサルバドル料理さ」
「ふーん。昔は二人でサッカーボールみたいな大きさのメキシコ料理のブリトーを食べて満足していたわね」
「ブリトーを食べてるやつなんかもういないさ」彼は答えてから口を抑えた。どれだけそれが偉そうに聞こえるか気がついたのだ。
「お客様」彼女が言った。「ブリトーは二〇〇五年風です。ぜひププサを試して見るべきです……これこそが今、もっとも魅力的な中米の小作農民たちの食べ物なのです」
二人は大笑いしながらさらに頬張った。「そういえばこのあたりだったかファトキンスの溜まり場のどこかだったかで三段重ねのピザを出すところがあってね、私が思うに……」
「ほんとうに彼らそんなものを?」
「ファトキンスどものことか? ああ……魔法の一万カロリーを毎日摂るためならなんだってするさ。そいつはロシアでも変わらないはずだ。そうだろう? つまりやつらはそういうものを考えだすのさ」
「たぶん十五分もかからずに食べきるわね。だけどほとんどの人はわざわざそんなことはしない……ちょっとした代謝のチューニングをしているだけでそんな風にスロットルを全開にしているわけじゃないもの。ひどいわね。消化器に一日一万カロリーを処理させるためにいったいどれだけのことをしているのかしら!」
「人の好みはそれぞれさ」彼は肩をすくめて見せながら言った。
彼女がまた笑い、二人は食事を続けた。「ようやく人心地ついたわ」
「私もだ」
「まだ昼下がりなのね。私の体内時計は今、午前二時だって告げてるけど。起きてるために何かしなくちゃ。さもないと明日の朝四時に目が覚めるはめになる」
「家にモダフィニルがあるよ」彼が言った。
「もう使わないって決めたのよ。ちょっと歩きましょう」
二人は丘の散歩を少し楽しんでからミッション地区ヘ向かいメキシコ人のやっている露店や髪結いでごったがえす北アフリカ産の小間物を扱っている市場を見て回った。革製の太鼓や鳴子にはレーザーで複雑な模様が描かれていた……コカコーラのロゴや必須医薬品特許へのアクセスに関する国連宣言、ディズニーのキャラクターといったものだ。それは二人にニューワークの日々を思い出させて自然と二人の話題はその話に戻った。最初はためらいがちだったが次第に競いあうように二人は思い出話をした。
スザンヌは彼にペリーとレスターがやったことの話をした。彼らがどうやって法律とケトルウェルの命令を回避したかというとても彼女には報道できないようなたぐいの話だった。彼は自分の経験した話をいくつかして二人は通りで笑い転げた。まるで酔っぱらいのようにふらつきながら互いの背を叩きあい、膝と腹に手を当てて身をよじる二人を通行人たちが奇妙なものを見る目で眺めた。
あの頃は楽しかったとランドンは思った。忘れたまま背負い込んでいたなにか大きな悲しみが取り除かれたように背筋が伸びて息が楽になったようだった。何を悲しんでいたのだろう? ニューワークの死だ。ドットコムの死だ。彼が重要で価値あると考えていたもの全てが死んでしまったことだ。みんな、派手派手しく安っぽいノスタルジーに埋もれていった。
二人はドロレスパークの芝生に座って犬の糞を拾うロボットの間を犬とその飼い主が駆け回っているのを眺めた。彼は彼女の肩に手を回していた。それはちょうど酔っ払った戦友同士がそうするようなもので(彼は自分にそう言い聞かせた)、中年男が何年も会っていなかった女性といちゃついているというようなものではなかった。
それから二人は寝転がって腹が痛くなるまで笑い転げた。太陽の光が二人の顔にあたり、周りでは犬の吠える声と楽しそうな叫び声がしていた。二人は絡め合うように手を握り合っていた(だが友達同士だってそうする。アラブの男たちは友情を示すために手をとりあって通りを歩くのだ)。
今では二人の会話はおき火のようにときどき火花を散らすだけになっていた。どちらかが何か面白い逸話を思い出して低い声で一言、二言話すと二人してくすくすと控えめに笑いあうのだ。二人の手は絡み合い同じ息遣いで呼吸をしていた。脇腹が触れ合っていたがそれはもはやたんに友情を示すだけのものではなくなっていた。
不意に彼女が手を振り払って身をよじって離れた。「聞きなさい。既婚者さん。もう十分だと思うわ」
彼は自分の顔が赤くなるのを感じ、耳鳴りがした。「スザンヌ……何を……」彼は興奮しながら言った。
「危ないことやいけないことはなし。だけど仲良くやりましょう。大丈夫よ」
魔法が解け、あの悲しみが戻ってきた。彼は言うべき言葉を探した。「神様。私は忘れられないんだ」彼は言った。「ああ、スザンヌ、神様、忘れられなくて毎日考えている」
彼女も顔を歪めた。「ええ」目をそらした。「自分たちが世界を変えているんだと本気で思っていた」
「私たちは」彼は言った。「私たちはやったんだ」
「ええ」彼女が再び言った。「だけど結局何も変わらなかった。そうでしょう? 今では私たちは年老いて、私たちのやったことは忘れ去られ全てが無駄になった。ペテルブルクはいいところだわ。だけどそれがなんだって言うの? 私が残りの人生でやることはペテルブルクをうろついてロシアンマフィアと医療ツーリストについてブログ記事を書くことだっていうの? いっそ今殺して欲しくなるわ」
「あの人たちが忘れられない。毎日、何人もの創造性あふれる天才に出会った……一日十人以上だ! そして彼らに金を渡すとそれを使って彼らは驚くようなものを実現させるんだ。今一番それに近いのは私の子供たちだ。子供たちが学び、ものを作るのを見ている時だ。本当にすばらしいものを作る。だけど誤解しないでくれ。あの頃とは全く違うんだ」
「私はレスターが忘れられないわ。それにペリーやティジャン。あの連中のことが本当に忘れられない」彼女は肩肘をつくと彼の頬に激しくキスをして彼をびっくりさせた。「ありがとう。ケトルベリー。私をあれのど真ん中に放り込んでくれて本当に感謝している。私の人生を変えてくれたのは間違いなくあなたよ」
彼は熱を持って頬に残る彼女の唇の感触を感じながらにやりと笑った。「OK。いいアイデアがある。ワインを二、三本買って、私の家の中庭で酔っぱらおう。それからペリーに電話してやつが今、何をしているのか確認するんだ」
「あら、いいわね」彼女が答えた。「本当にいい思いつきだわ」
数時間後、二人はケトルウェルの家のリビングルームで馬巣織りのクラブソファーに座って彼が今まで一度も使ったことのない短縮ダイヤルの番号を叩いていた。「もしもしペリーです。メッセージをどうぞ」
「ペリー!」二人は声を合わせて叫んだ後、顔を見合わせて次に言う言葉が見つからずに爆笑した。
「ペリー。スザンヌとケトルウェルだ。最近はいったい何をやっているんだ? 電話してくれ!」
新たな浮き立った気持ちで電話を見ながら二人はまた笑いあった。だが太陽がポトレロヒルに沈む頃になると時差ぼけが再びスザンヌを襲い、二人はそれぞれの物思いにふけった。それからスザンヌは来客用の寝室へ行くと歯を磨いたりネグリジェに着替えることさえせずにベッドへと潜り込んだのだった。