ウォールマートに漂う臭いは耐え切れないほどだった。一部はひどいカビの臭い、一部は工業用の消毒剤の臭いで柑橘類のようなその臭いは目に染み、鼻を刺した。
「でかい送風機を何台か借りてこよう」ペリーが言った。「そいつで空気を入れ替えられるだろう。もしそれで駄目だったら床を張り直さなきゃならないな。大変な作業になるぞ……全部終わるまでに一週間はかかるだろう」
「一週間だって?」デスは言った。なんてこった。ありえない。もう一週間も待てない。確信があるわけではなかったが、夢中になれるライドがなければここにいる人間のほとんどはやがて姿を見せなくなるのではないかと彼は感じていた。自分だったらそうする。
「この臭いがわかるだろう? こんな状態じゃドアや窓を閉じておくこともできない」
周りに立つデスの仲間たちもそれを聞いて頷いた。それは確かにそうだった。こんな臭いの中で閉めきったら肺が腐り落ちるだろう。
「何か俺にできることはないかな?」デスは聞いた。これがペリーへ言ういつもの決め台詞だった。ときおりペリーが自分のことをあまり気に入っていないのではないかという考えが彼の頭をよぎった。もしそうならデスとその仲間たちがここにいるのは問題解決の手伝いをするためなのだということを絶えず彼に思い起こさせた方がいい。ペリーには自分たちが必要なのだ。
「屋根はほぼ作業終了だし、ロボットはオンラインに復帰した。仕切壁も今日中には終わるはずだ。イス型マシンは定期メンテナンスのために余計な装備をはずしてるところだ。こいつにはもう二、三人手伝いがいるかもしれない」
「レスターは何をやっているんです?」デスは訊いた。
「それはやつに尋ねるべきだな」
もうずいぶん長い間、デスはレスターの姿を見ていなかった。奇妙なことだ。レスターが自分を嫌っていなければいいのだがと彼は思った。この頃、彼はみんなが自分のことを好きでいてくれるかどうかが気になって仕方がなかった。なにせ彼はサミーが自分のことを気に入っていると思っていたのだ。
「どこにいるんです?」
「さあな」
ペリーがサングラスをかけた。
デス・ウェイツはそれを何かのサインだと理解した。「行こう」彼はレイシーに言った。車いすを立ち上げてライトバンに向かって進んでいく間、彼女は慰めるように彼の体を手で軽く叩いた。「彼に電話しよう」
「もしもし?」
「デス・ウェイツです。今、ライドに来ているんです。だけどここにはやることがあまり無いみたいで。もしかして俺たちであなたの作業のお手伝いができるんじゃないかと思ったんですが?」
「俺が何をしているのか知っているのか?」レスターが答えた。
「ええっと。知りません」
「それじゃあなんだって手伝いがしたいなんて思ったんだ?」
デス・ウェイツは目を閉じた。彼は二人を手伝いたいのだ。二人は重要な何かを作っている。自分たちでわかっていないのか?
「あなたは今、何をしているんです?」
「何も」レスターが言った。
「よしてください」デスが言った。「お願いです。俺たちは手伝いをしたいだけなんです。俺はあなたたちが大好きなんだ。あなたたちは俺の人生を変えた。どうか俺にも手伝わせてください」
レスターが鼻をすすった。「道を渡ったらまっすぐ二百ヤード進んでシーザー・チャベスの壁画が描かれている家を左に曲がってくれ。そこで会おう」
「つまりあの、あそこへ行けと……」そこがなんと呼ばれているのかデスは知らなかった。ライドに来る時にはいつもそちらには目を向けないようにしていた。あの道の反対側のスラムには。あそこが何らかの形でライドと関係があるということは知っていた。だがそれはディズニーの管理棟がパークと関係があるのと同じようなものだ。大きな違いはディズニーの付属物である建物の場合は土手で往来から見えないように目隠しされ、風景に紛れるように緑色に塗られているということだ。あの道の反対側の奇妙な町はあからさまにそこに存在した。
「ああ。道を渡ってバラック街まで来てくれ」
「OK」デスは答えた。「それじゃあまた後で」彼は電話を切るとレイシーの手を軽く叩いた。「向こうに行こう」彼はバラック街を指さしながら言った。
「危険はないの?」
彼は肩をすくめてみせた。「ないと思うけど」彼は自分の車いすを気に入っていた。乗ると目線が高くなり、自分が半トンほどの重さのサイボーグになったような気分になれるのが好きだった。後輪で立ち上がってSFに出てくる肉食植物のように前後に体を揺らすこともできる。今、彼はとても気弱になっていた……高価な装置に乗り込んだ手足の不自由なサイボーグがホームレスとほとんど変わらない人間が寄り集まって住む場所へ乗り込んでいこうとしているのだ。
「車に乗る?」
「いや、道を渡るのは問題ないさ」彼は答えた。道を走る車の数は少なかったがすっとばしていく車はどれも九十マイル以上の速度を出している。彼はもう少し仲間を集めようかと思ってから考えなおした。町に入って行くのは確かに少し怖かったが取り巻きを引き連れて行ってレスターを怖がらせたくなかった。
町を囲むガードレールは押し倒されてたいらになっていて大きく揺れはしたものの車いすの車輪でも簡単に乗り越えることができた。その境界線を超えて二人は別の世界へと踏み込んでいったのだった。料理の匂い……バーベキューとキューバ風スパイスの香り……がした。それに汚水処理槽と堆肥のかすかな臭いも。目に映る建物の群れはデスの理解を超えていた。建物は曲線を描き、傾き、ねじれ、互いにもたれかかっている。プレハブ用セメントとアルミと廃材と洗濯ひもと電線と落書きを均等に混ぜあわせて作られているようだった。
普段からデスはよく注目を集めた。美女を連れたサイボーグになる前からそうだった。しかし今回のそれは今までとはわけが違った。あらゆる所に目があった。通りで遊ぶ小さな子供たち……彼らは見知らぬ人間が危険だということを教えられていないのだ……は遊ぶのを止めてぬいぐるみの大きなボタンの目のように目を見開いて彼を見つめた。一階から三階まで窓からは顔が覗いている。ささやき声と人を呼ぶ声が聞こえた。
レイシーはできる限りの明るい笑顔で彼らに笑いかけ小さな子供たちには手を振りさえした。デスもなんとか小さな食堂のように見える建物の窓から彼を見つめるチンピラたちに会釈をしてみせた。
この小さな町がどんな様子なのか今までデスは知らなかったがこれほど小さな店が軒を連ねているとは想像していなかった。店がそれなりに文明的であることに彼は気がついた……税金の表示やサプライヤーとの取引を思わせるライセンス表示のある商品、キャッシュレジスターや従業員。無法地帯なわけでも無秩序なわけでもないのだ。
それどころか建物の一階には必ず少なくとも一店は店が入っているようだ。広告用の輝く有機LEDの電子看板では宣伝文句が踊っている……ドミニカ生まれ。女性の美のために。割引価格!!! うっとりするようなネイルアート。二十近い店の前を彼は歩いて通り過ぎていった。そのうちのいくつかは壁に埋め込まれたカウンターの他には何もなかった。カウンターの向こうでは若い男が一人座ってにやにやと笑いながら二人を見ている。
一つの店の前でレイシーは立ち止まると缶コーヒーとシナモンの粉が振りかけられた小さなメキシコ風の菓子パンを買った。レイシーが財布をだして金を払う間、百人近い人間が彼女を見守っているのに彼は気がついた。最初は身の危険を感じたが、誰かが自分たちを襲って金を奪えばそれはこの衆人環視の中でおこなわれることになると彼は気がついた。
滑稽な考えが彼の頭に浮かんだ。彼が育ったのは人気のまばらな郊外だった。歩道を歩いたり、ポーチでくつろぐ人の姿さえ見かけないような場所だ。たとえ隣人が「良い人たち」だったとしても中には一定の割合で強盗や、あるいは連続殺人犯だっている。その場所を歩くのは自分の命を無防備にさらけ出しているようなものだった。
だがここは、まるでディズニーパークのような人口密度のこの人混みの中はどうしたわけかもっと安全に感じた。奇妙なことだ。
二人はおそらくシーザー・チャベスの壁画に間違いないものの所まで来た……カウボーイハットをかぶり、まるで宣教師のようにトラックの後部ドアのところに立っているメキシコ人の壁画だ。男の周りには綿のシャツとブルージーンズを身につけカウボーイハットをかぶった農夫風のメキシコ人たちが描かれている。二人は左に曲がると細い人通りの少ない一画へと入っていった。路上にはけんけん遊びのための模様がチョークで重なるように描かれ、それを囲むように自転車やスクーターが停まっている。その中でレスターは油紙に包まれたチュロスを食べながら立っていた。
「だいぶ良くなったみたいだな」彼が車いすに座ったデスを値踏みするように見ながら言った。「会えて良かった」態度が少しよそよそしかったが仕事を中断させられたせいだろうとデスは見当をつけた。
「また会えてとても嬉しいです」デスは言った。「友達たちと俺は毎日、ライドに来ているんです。俺たちにできることがあれば手伝おうと思って。だけどあなたにはずっと会わなかったもんだから。それで電話しようと思ったんです」
「電話したな」
「俺たちに手伝えることがないか確認するためです」デスは答えた。「あなたがやっていることならなんでも手伝います」
「入ってくれ」レスターが言った。彼が身振りで背後を指しその時になって初めてデスはホテル・ロストチャイルドと書かれた小さな看板に気がついた。看板の背景には立派な孔雀が描かれている。
デスの車いすにはドアは狭すぎたが彼は切り返しを繰り返してなんとかくぐり抜けた。しかし中に入ったものの上階に続く狭い階段の前で彼は立ち往生してしまった。ロビー……もしそれがそう呼べるなら……は彼とレイシーとレスターで完全にいっぱいになった。階段を車いすで昇れるかどうか以前にまずそもそもそこにたどり着くことができなさそうだ。
レスターはきまり悪そうだった。「すまない。こうなることは考えてなかった。うーん。OK。もし君さえよければ大急ぎでウィンチを用意する。車いすはそいつで釣り上げよう。君をベルトで固定しなきゃならないが、まあそれはできるだろう。屋上に滑車をつけられる支柱があるんだ……上の階にベッドを運び込む時に使ったやつだ」
「杖があれば立てます」デス・ウェイツは言った。「俺の車いすを外に停めておいても大丈夫でしょう?」
レスターの眉が持ち上がった。「そりゃあもちろん……そうだなそうしよう」おかしな質問をしてしまったものだとデスは感じた。車いすをバックさせて外に出ると馬鹿げたことをしていると感じながらもトランスミッションにロックをかける。一体誰が車いすを直結して盗もうとするというのだ? とんでもないまぬけだ。レイシーに杖を渡され、彼は慎重に立ち上がった。ここ一週間、彼はバスルームへの行き来に杖を使っていたがまだ階段に挑戦したことはなかった。レスターが何階も上に部屋を取っていなければいいがと彼は思った。
結局、レスターの部屋は三階だった。そこにたどりつく頃にはデス・ウェイツは汗だくになっていてアイライナーが溶けて目にしみた。レイシーはガーゼのスカーフを彼にそっと押し当てて過保護に彼の面倒をみた。レスターが二人のことをにやにやしながら見ているのに気がついたデスはレイシーを押しのけると必死で息を整えた。
「OK」彼は言った。「やりのけた」
「たいしたもんだ」レスターが言った。「これが俺が今いじっているものだ。以前、君はペリーとこいつについて話し合ったんだろう? ディズニー・イン・ア・ボックス・プリンターだ。まあ言ってしまうと俺はこいつをクラックしているってわけだ。こいつに俺たちのファームウェアを読み込ませようとしている……こいつをパソコンのつながってるネットワークにつなぐ。そうするとパソコンがこいつを見つけ出してアップデートをかけるんだ。そうなればこいつはオープン・ボックスに変わる……誰の樹脂でも受けつけるようになる。自分の設計図を送り込むことができるようになるんだ」
デスがDiaBを直接見るのはこれが初めてだった。それを目にし、レスターとペリーが一番にそいつの調査をおこなっている理由を知った彼は興奮した。こんなに興奮したのはファンタジーランドを改装してゴス風にする作業が始まった時以来だ。
「それでこいつはライドとどんな風に関係してくるんです?」デスは尋ねた。「ミニチュア版のライドを作ることを前は考えていたんですけど、このスケールでみんなを感動させることができますかね? いや俺だってそれが無理だってことはわかる。
それで代わりに考えたんです。ライドの細部を送り込めるんじゃないかって。小さなテーブルの上に乗るサイズの展示のミニチュアを毎日、一つずつ送信するんです。たぶんいちばん新しいものにすればいいんじゃないかな。もちろん複数の作品を送信してもいい。ちょうど一部の人たちの好みに合わせたオブジェクトだけを集めた実験的なラインみたいなもので……」
レスターが頭を振って両手をあげた。「おいおい。ちょっと待ってくれ。いやいやいや……」デスは彼がライドや物語について話すときにはその一言一言に耳を傾ける友達相手に話すことに慣れきっていて相手に気を使うことを忘れていた。自分が誰としゃべっているのかそこで彼は思い出した。
「すみません」彼は言った。「先を急ぎすぎました」
「いいか」レスターがプリンターを指しながら言った。「こいつはそれ自体で価値がある。ここのライドよりも意味があることを俺たちはやっているんだ。君がライドを大好きだってことは知っているし、あれはあれでとんでもなくクールだ。だがこれから俺がやっていくことをなんでもかんでも全てあいつに関連付けなきゃならないってわけじゃない。あれは楽しいしクールだ。あれはあれでやってくだろうさ。だがこの機械はそれとは別の意味を持つことになるだろう。自分のリビングルームに置くものを自分でコントロールする方法を俺はみんなに知ってほしいんだ。俺のちゃちな金儲けプロジェクトの宣伝に使うんじゃなくてな」
デスにはわけがわからなかった。まるでレスターはライドを好きじゃないみたいだ。そんなことありえるだろうか? 「よくわからないな」彼はようやくそう言った。レスターはあからさまに馬鹿を見るような目で彼を見た。それもレイシーの目の前でだ。そんな扱いをされるのは気に食わなかった。
レスターがねじ回しを手にとった。「これが見えるか? これは道具だ。手に持ってネジを抜いたり閉めたりできる。握り手をハンマー代わりに使うこともできる。先端を使ってペンキ缶を開けることもできる。放り投げることもできるし、誰かに貸し出すこともできる。紫に塗ったっていいし、額に入れて飾ってもいい」彼はプリンターを叩いてみせた。「これも道具だ。だが俺たちの道具じゃない。所有しているのは他の誰か……ディズニーだ。こいつは俺たちの言うことを聞かないし、指示に従おうともしない。俺たちが自分の生活をもっとコントロールできるようになろうがなるまいがこいつの知ったことじゃない。
こいつを見ていると俺はファトキンスになる前の生活を思い出すんだ。あの時、俺は自分の体を持っていたがそいつは俺のコントロール下になかった。学者たちがそういうのを何て呼んでるか知っているか? 『行為主体性』だ。俺には行為主体性がかけらもなかった。俺が何をしようが問題じゃなかった。俺は単なるでぶで、その影で俺の脳みそは果てしない不平やうずきと痛みに息切れしていた。
自分の人生をコトンロールできなければそれは悲劇だ。自分自身の人生を送れない人たちのことを考えてみてくれ。囚人、少年院に入れられた子供、精神病患者。そんな風に生きることにはなにか本質的な恐ろしさがある。主体性は俺たちを幸福にするんだ」
彼は再びプリンターの上部を叩いた。「そしてここにこの馬鹿げたものがある。こいつはディズニーが俺たちに無料でくれたものだ。まるで道具のように見える。まるで俺たちの生活をより良い物にしてくれるものみたいにな。だが実際のところ、こいつはディズニーが俺たちの生活をコントロールするために使う道具なんだ。俺たちにはこいつをプログラムすることはできない。チャンネルを変えることもできない。電源をオフにするためのスイッチさえ無いんだ。こいつを見ていると俺はやってやろうという気になるんだ。俺はこいつを設計しなおしてコントロールするためのものからコントロールできるものに変えたいんだ」
レスターの目は輝いていた。デスは頭の先から爪先まで苦しくなった。階段を昇ったことと暴行の後遺症、そして自分の生きる人生のせいだった。ライドはもはや自分にとって重要なものではないとレスターは彼に宣言した。自分は今、このプリンターやそれに関係することをやっているのだと。それが終わったら別の何かを、そしてそれが終わればまた別のなにかをやるのだと。それに対して彼の中に不意に強烈な敵意が湧き上がった。
「それじゃあライドはどうなるんです?」
「ライドだって? 俺は今こいつにかかりきりだと言っただろう。新しいことを始める時なんだ。君は手伝いたいと言った。違うか?」
「ライドに関係することをです」子供に言い聞かせるような言い方でデスは辛抱強く言った。
レスターが彼に背を向けた。
「ライドでの俺の仕事は終わりだ」レスターが言った。「君の時間を無駄にしたくない」彼が言いたいことは明らかだった。おまえは俺の時間を無駄にしているだ。彼はプリンターの上に屈みこんだ。
レイシーはレスターの肩のあたりをにらみつけるとデスが階段を降りるのを手助けしようと身をひるがえした。彼の杖が狭い階段でがちゃがちゃと音をたてる。涙をこらえるために彼ができるのはそれだけだった。