右であれ左であれ、わが祖国, ジョージ・オーウェル

右であれ左であれ、わが祖国


一般に考えられているのに反して過去は現在と比べて様々な出来事に満ちているわけではない。もしそう思うのであればそれは振り返って見たときには何年も隔たって起きた出来事が望遠鏡で見るように一緒になって見えるためであり、また心から鮮明に思い出せる記憶をごくわずかしか持っていないからだ。一九一四年から一九一八年の戦争一九一四年から一九一八年の戦争:第一次世界大戦を指す。が現在では考えられない、とてつもなく壮大な質感を持つように思える原因の大半はこれまでに作られた書籍、映画、回顧録にある。

しかしもしあの戦争当時すでに生まれていて、後からまとわりついた物を取り除いて自身の本当の記憶を取り出せば、当時、それは動揺を招くような大事件ではなかったことに気がつくだろう。例えばマルヌ会戦マルヌ会戦:第一次世界大戦中の戦い。1914年9月にマルヌ川でドイツ軍とフランス軍の主力によっておこなわれた。 は一般大衆にメロドラマ的な受け取られ方をされてはいなかったと私は思う。後になってそうなったのだ。「マルヌ会戦」という言葉も、何年も後になるまで耳にした記憶がない。それはたんにドイツがパリから二十二マイルまで迫り……確かにベルギーでの残虐行為を耳にした後ではそれは実に恐ろしいことだ……その後でいくつかの理由から退いたというだけの話だ。あの戦争が始まった時、私は十一歳だった。誠実に記憶をたどり、後になって学んだことを無視すれば、あの戦争全体で起きたどの出来事もその数年前に起きたタイタニック号沈没ほどには私に衝撃を与えなかったことを認めざるを得ない。大戦に比べれば小規模なこの災害は全世界に衝撃を与え、その衝撃は今に至っても完全には消えていない。朝食の席でその恐ろしい、詳細な報告が読み上げられたことを憶えているし(当時、新聞を声に出して読み上げるのは一般的な習慣だった)恐ろしい出来事の長いリストの中でも、最後になって突然タイタニックの船首が沈んで船尾が持ち上がったためにそこにしがみついていた人々が三百フィート以上も空中に持ち上げられてから深淵へと沈んでいったことがとりわけ強く私の印象に残ったことも憶えている。それは水に沈んでいくという感覚を私の心の奥深くに刻み、今でもその感覚は消えていない。一方で、あの戦争ではそういった強い感覚を私に刻み込むような出来事はひとつも無かった。

戦争勃発のころに関して言えば、後になって起きたことに影響を受けていない三つの鮮明な記憶がある。ごく些細な取るに足らないものだ。ひとつは七月の終りに現れた「ドイツ皇帝」(あの憎むべき呼び名「カイゼル」が一般的になったのはもう少し後のことだったように思う)のマンガだ。戦争の縁に立たされているというのに人々は皇族に対するこの嘲笑行為(「しかし彼はなかなかの男前ではないか!」)に控えめな衝撃を感じていた。もうひとつは私たちの小さな田舎町の馬が全て軍に徴用されたこと、そして市場で号泣する辻馬車の御者の記憶だ。彼は何年も一緒に働いてきた馬を取り上げられたところだった。もうひとつは鉄道の駅で見た若い男の群衆である。ロンドンからの列車で到着したばかりの夕刊を求めて彼らは叫び声を上げていた。積み上げられた黄緑色の新聞(当時はまだいくつかの新聞は緑色のインクを使っていた)、高い襟、細いズボン、山高帽、そういったものの方がフランスの戦線で起きた恐ろしい戦いの名前よりもずっとよく思い出せる。

戦争の真っただ中のころの出来事で一番記憶に残っているのは砲兵のいかり肩、膨れ上がったふくらはぎ、鈴のように音を立てる拍車だ。彼らの制服は歩兵のものよりずっと立派に見えた。終りのころについて言えば、何の記憶が残っているかと聞かれれば答えはひとつだと言わざるを得ない……マーガリンだ。これは子供たちの恐るべき利己心の一例だ。一九一七年、戦争による影響がほとんど消え、私たちの胃袋への影響だけが残っていたころのことだ。学校の図書館には西部戦線の大きな地図が留められた画架が置かれていた。ジグザグに留められた画鋲の間を縫って赤いシルクの糸が走っている。ときどきその糸があちらへこちらへと半インチ動き、それぞれの動きは死体の山を意味するのだった。私はまったくの無関心だった。私は平均よりも高い知的水準の少年たちが通う学校にいたが、当時起きた大きな出来事で私たちが本当に真剣に受け止めたものをただのひとつも思い出すことができない。例えばロシア革命だが、それは何の印象も残さなかった。ただ少年たちの両親のいくらかがたまたまロシアに投資をしていたというだけだ。非常に若い者の間には戦争が終わるずっと前から平和主義者的な態度が定着していた。OTCOTC:予備役将校訓練課程(Officers' Training Corps)。イギリス軍が主催していた。の行進でできる限りたるんだ態度を取ることや戦争に対する無関心は進歩の証だと考えられていた。帰還した若い将校たちは恐ろしい経験で鍛え上げられ、その経験がまったく無意味なものであるかのように振る舞う自分たちより若い世代の態度にうんざりしていた。彼らは私たちの軟弱さを見て説教したものだ。もちろん私たちが理解できるような主張を彼らがすることはできなかった。彼らにできるのは戦争は「好ましいもの」であり、「人を屈強にし」、「人の有能さを保つ」のだ云々かんぬんと怒鳴ることだけだった。私たちはただ彼らを鼻先でせせら笑うだけだった。それは視野の狭い平和主義であり、屈強な海軍によって守られた国に特徴的なものだった。戦争の後、何年もの間、軍事にかかわる知識やそれに関心を持つことは、例えそれが銃のどちらの端から弾丸が飛び出すのかといったことでさえ「進歩的な」集団の中では疑いの目を持って見られた。一九一四年から一九一八年の間に起きたことは無意味な殺戮として片付けられ、殺戮された側の人々さえもある意味で責めを負わされていた。「あの大戦争でどんなことをしたの、お父さん?」(一人の子供が恥じ入る父親にこの質問をしている)という新兵募集のポスターやあのポスターにつられて軍隊に入り、後になって良心的兵役拒否をしなかったことを自分たちの子供に責められたに違いない男たちのことを考えて私はよく笑うのだ。

しかし死者は最後には復讐を果たした。あの戦争が過去へと消えていくに従って「あまりに若すぎた」私の世代は見落としていたその経験の大きさに気がつくようになり、それを見落としていたことで自らが半人前であるように感じられた。一九二二年から一九二七年のほとんどを私は自分より少しばかり年長の男たちと過ごし、彼らはあの戦争を経験していた。彼らは絶えずあの戦争について話していた。もちろん恐怖とともにだが、同時にそこには次第に育ちつつある懐旧の響きがあった。イギリスの戦記を読めばこの懐旧をはっきりと目にすることができる。一方で平和主義者的な態度は過ぎ去り、「あまりに若すぎた」者さえも全員、戦争の訓練を受けるようになっていった。イギリスの中流階級のほとんどは幼年期から戦争の訓練を受ける。それは実際的なものというよりは道徳的なものだ。私が思い出すことのできる最初期の政治スローガンは「(ドレッドノート型戦艦が)八つ欲しい、待ちきれない」というものだ。七歳のころ、私は海軍連盟のメンバーで、帽子に「H.M.SインヴィンシブルH.M.Sインヴィンシブル:1908年に就役したイギリス海軍の巡洋戦艦。 」と入った水兵服を着ていたし、パブリックスクールのOTCに入る前でさえ、私立学校の軍事教練隊に入っていた。また十歳になって以来、ときおりライフルを持つようになった。戦争あるいはそれに類したものに備えるためだ。戦争において銃はその銃声で狂ったような絶頂感を引き起こし、決められた瞬間になれば人は塹壕を這い上がって飛び出し、砂袋に爪を突き立て、泥と針金の間を蹴つまずきながらを機関銃の集中砲火の中へ飛び出すのだ。私と同年代の人間がスペイン内戦に引きつけられた理由のひとつはそれが第一次世界大戦によく似ていたためだと私は確信している。ある時点でフランコフランコ:フランシスコ・フランコ。スペイン内戦におけるナショナリスト派の指導者。左派系の共和国派と敵対した。は戦争を近代的な水準に引き上げるのに十分なだけの航空機をかき集められるようになり、それが転換点となった。しかしそれまでの間、その戦争は一九一四年から一九一八年に起きたものの出来の悪いコピーだった。塹壕や大砲、奇襲、狙撃手、泥、有刺鉄線、虱、停滞がない交ぜになった陣取り合戦だったのだ。私がいた一九三七年初期のアラゴン戦線の片隅がちょうど一九一五年のフランスの目立たない作戦区域のひとつとそっくりだったことは疑いない。欠けているのは大砲だけだ。ウエスカウエスカ:スペインの県のひとつ。内外の全ての銃がいっせいに火を吹くめったにない場面でさえ、雷雨が止む時のような不規則で貧相な騒音が上がるのがせいぜいだった。フランコの六インチ砲から放たれる炸裂弾は当たれば大音響を引き起こしたが一度の戦闘で一ダースも使われなかった。初めていわゆる大砲の「怒れる」砲声を耳にした時、私は多少の失望を感じたことを憶えている。二十年のあいだ予想していた、とてつもない、止むことの無い轟音とは似ても似つかないものだったのだ。

現在の戦争が迫っていることに初めて気がついたのが何年のことだったかははっきりとは憶えていない。もちろん一九三六年一九三六年:一九三六年にナチス・ドイツはヴェルサイユ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに陸軍を進駐させた。以降にはよほどの愚か者でなければ誰の目にも事態は明らかだった。数年の間、迫ってくる戦争は私にとって悪夢で、それに反対する演説をしたりパンフレットを書いたりといったことさえ当時はおこなった。しかし独ソ不可侵条約が発表される前の晩には私は戦争が始まる夢を見ていた。そのフロイト的な隠された意味がどうであれ、それは時に見る本当の心理状態を明らかにしてくれるような夢のひとつだった。その夢は私に二つのことを教えてくれた。ひとつ目は長い間恐れていた戦争が始まれば単純に心の重荷が取り除かれるに違いないということ、ふたつ目は私は心の底においては愛国的で、自国に対してサボタージュをしたり敵対するようなことはせず、この戦争を支援し、もし可能であれば自らも戦うであろうということだ。私は階下に降りてリッベントロップリッベントロップ:ヨアヒム・フォン・リッベントロップ。ナチス・ドイツの外務大臣を1938年から1945年まで務めた。がモスクワへ飛んだことを報せる新聞を目にした[一九三九年八月二十一日、リッベントロップはモスクワへ招待され、八月二十三日に彼とモロトフモロトフ:ヴャチェスラフ・モロトフ。ソビエト連邦の外務大臣を1939年から務めた。は独ソ不可侵条約に署名した]。戦争が迫っていた。そして政府は、それがあのチェンバレンチェンバレン:ネヴィル・チェンバレン。保守党の政治家で1937年から1940年までイギリスの首相を務めた。による政府であったとしても私の忠誠を取りつけることができたのだ。この忠誠が実態をともなわずに終わったことは言う必要もないだろう。私の知るほとんどの者と同様に、政府はどのような立場であれ私を雇うことはないとそっけなく断った。事務員や一兵卒としてさえいらないと言われたのだ。しかしそれによって考えが変わることはなかった。どちらにしろ遅かれ早かれ私たちを使わざるを得ないのだ。

この戦争を支持する理由を説明しなければならないとしてもそれは十分に可能なことだと私は考えている。ヒトラーへの抵抗と降伏、その間に現実的な代替案は存在せず、社会主義者の観点から見ても抵抗こそが好ましいと言わざるを得ない。いずれにせよ、降伏すればスペインでの共和派レジスタンス、中国での抗日運動といったものが無意味になってしまうだろう。しかし私の行動がそうした感情に基づいていると偽るつもりはない。あの夢で私は理解したのだ。あの夜、中流階級の者であれば経験する長期にわたる愛国の教えがその力を発揮したのだ。ひとたびイングランドが深刻な窮地に立たされれば、サボタージュをおこなうことは私には不可能だろう。しかし意味を取り違えて欲しくない。愛国心と保守主義の間には何の関係もない。それは変わってゆきながらも不思議と同じであるように感じられる何かに対する献身的愛情であり、昔は白軍だったボリシェヴィキがロシアに対して抱く献身的愛情に似たものなのだ。チェンバレンのイングランドと明日のイングランド、その両方に対する忠誠はそれが日常的な現象であると知らなければ不可能に思えることだろう。イングランドを救うのは革命だけで、それはずっと前から明らかだったことだが今まさにその革命が始まったのだ。もし私たちがヒトラーを排除することさえできれば革命は速やかに前進することだろう。二年、あるいは一年の間、耐えるだけで先の読めない愚か者を驚かせるような変化を目にすることができるだろう。あえて言おう。ロンドンの排水路は流れる血で満たされることだろう。必要なのであればそれもまた仕方のないことだ。しかしリッツ・ホテルが赤軍民兵の兵舎に変わっても、依然として、ずっと昔にまったく異なる理由で愛するよう教えられたイングランドが何かしらの意味で続いていると私は感じることだろう。

私は軍国主義の色合いを帯びた空気の中で育ち、さらにその後でうんざりするような五年間を軍隊ラッパの音色とともに過ごした。その影響で「ゴッド・セーブ・ザ・キングゴッド・セーブ・ザ・キング:イギリスの事実上の国歌。王が女性の場合は「ゴッド・セーブ・ザ・クィーン」となる。」が歌われる時に直立不動の姿勢を取らないことに現在でも私はかすかな冒涜を感じる。もちろんそれは子供じみたことだが、あまりに「進歩」し過ぎてごく当たり前な感情の多くを理解できなくなっている左派知識人たちのようになる前に私はそうしたしつけを受けたのだろう。その瞬間が来た時に革命からしり込みするのはまさにユニオンジャックを見ても決して心動かされない人々なのだ。戦死する少し前にジョン・コーンフォードがジョン・コーンフォード:イギリスの詩人、共産主義者。スペイン内戦に義勇兵として参加し戦死した。パブリックスクールであるストウ・スクールの出身。書いた詩(「ウエスカの嵐の前に」)とヘンリー・ニューボルト卿ヘンリー・ニューボルト卿:イギリスの詩人、小説家、歴史家。の「終末の今宵は息をのむ静寂」を比べてみるといい。たんに時代の問題である技法的な違いを脇に置けば、この二つの詩の感情的な内容はほとんど完全に同じであることが見て取れるだろう。国際旅団で英雄的な死を遂げた若い共産主義者は骨の髄までパブリックスクールの人間だったのだ。彼は忠誠の対象を変えたが、その感情は変わらなかった。そこからわかることは何だろう? 頭の固い保守主義者の骨の上に社会主義者の肉がつくこともあり得るということ、何かに対する忠誠の力は別のものに対する忠誠の力へと自然に変化し、精神は愛国心と軍事的武勇を欲するということ、それだけだ。左派の軟弱者たちは気にくわなかろうが、しかしその代わりとなるものはいまだ見つかっていないのである。

1940年秋
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