新しい言葉, ジョージ・オーウェル

新しい言葉


現在のところ、新しい言葉の形成はゆっくりとした過程で(英語は年に六つほどの言葉を手に入れ、四つほどの言葉を失っているとどこかで読んだことがある)形ある物の名前を別にすれば新しい言葉が意図的に生み出されることは無い。抽象語はこれまで全く生み出されていないが、古くからある言葉(例えば「条件(condition)」や「反射(reflex)」など)が科学的な目的のためにときおり捻じ曲げられて新しい意味を持つようになることはある。ここで私が示そうとしているのは、今は言語で特に扱いにくい私たちの経験の一部を論じるための数千語にも及ぶであろう語彙の発明が完全に実現可能であることだ。こうしたアイデアに対してはいくつかの明確な反論が存在するが、私はそれらが生じるごとに論じていこうと思う。初めの一歩は新しい言葉が必要とされるのはどういった目的のためなのかを示すことである。

何か考えたことのある者であれば誰しも気づくことだが、私たちの言語は脳内で起こる全てを表現するためには事実上、役に立たたない。高い技術を持つ作家(例えばトロロープやマーク・トウェイン)が自叙伝を書く時には最初に、自分の内面生活を記すつもりは無い、なぜならその性質上、それは記述不可能なものであるからだ、と言ってから始めることは広く知られている。何か形のないものや目に見えないもの(さらには他の大部分のものに関しても――誰かの容姿を書き記すことの難しさを思い出して欲しい)を論じ始めるやいなや、現実と言葉は生き物とチェスの駒ほども似ていないことに私たちは気づく。これが些末な問題ですまない明白な例として夢について考えて欲しい。夢をどう記述したらよいだろうか? 記述できないことは明白である。なぜなら夢の雰囲気を伝える言葉は私たちの言語には存在しないからだ。もちろん、夢の中での主な出来事のいくつかのあらましを口にすることはできる。「山高帽をかぶったヤマアラシと一緒にリージェント・ストリートを歩く夢を見た」といったことは言えるだろうが、これではその夢の本当の説明にはなっていない。さらに、たとえもし心理学者が夢を「象徴」の観点から翻訳したとしてもその大部分は当て推量に過ぎない。夢の本当の質感、ヤマアラシにその実に重要な意味を与える質感に関しては言語世界の外にあるのだ。実のところ、夢を記述することは詩を安っぽい翻訳書ボーンズ・クリブスボーンズ・クリブス:十九世紀の出版人ヘンリー・ジョージ・ボーンによって出版されたギリシャ古典、ラテン古典の安価な翻訳書を指すの言葉に翻訳するようなものなのだ。それは元を知らなければ意味のわからない言葉の置き換え過ぎないのだ。

議論の余地の無い例として私は夢を選んだが、言葉では言い表せないのが夢だけであればこの問題は思い悩む価値もないだろう。しかし繰り返し指摘されているように目覚めている精神と夢を見ている精神はその見かけ――あるいは私たちがおこなっている見せかけ――ほどには違いはないのだ。目覚めている時の思考のほとんどが「理性的」であることは確かだ――つまり、私たちの頭の中にはある種のチェス盤があり、その上で思考は論理的・言語的に動作している。私たちは自分の精神のこの部分を使ってあらゆる明快で知的な問題に対処しているし、それが精神の全てだと考えること(つまりチェス盤の上で考えること)に慣れている。しかしそれが全てでないことは明らかだ。夢に属する無秩序で非言語的な世界が私たちの精神から完全に消え去ることは決して無いし、もし何らかの算定が可能だとして、この秩序状態は目覚めている時の思考の半分でしかないだろうと私はあえて言いたい。夢を見ている時の思考は私たちが言語的な思考を試みている時でも間違いなく一役買っているし、言語的思考に影響を及ぼし、さらには私たちの内面生活を価値あるものにしている大部分はそれなのだ。不意の一瞬に自分の思考を調べてみるといい。そこにある主な動きは言葉にならないものの流れだろう――それを思考やイメージ、感情と呼んでいいのかもわからないほど言葉にしにくいものだ。まず第一に目で見た物体や耳で聞いた音がある。それら自体は言葉で記述できるが、頭の中に入ってくるやいなやそれらは全く異なった完全に記述不可能な何かに変わるのだ[下記注記]。それに加えて精神がそれ自身のために絶え間なく作り続ける夢想生活がある――そのほとんどは取るに足らない、すぐに忘れ去られるものであるにせよ、そこには言葉にできるものを超えた美しかったり、愉快だったりするものが含まれている。ある意味で、こうした精神の非言語的な部分は最も重要な部分でさえある。それこそがほとんど全ての動機の源だからだ。あらゆる好悪、あらゆる美意識、あらゆる正邪の概念(審美的判断と道徳的判断はどんな場合でも切り離すことはできない)は感情から湧き出し、感情は言葉よりもずっと繊細であると広く認められているのだ。「これこれに関してなぜあなたは行ったり、あるいは行わなかったりするのか」と尋ねられた時、あなたはその本当の理由を言葉にできないことに必ず気がつく。それを秘密にしたいと願っていない時でさえそうなのだ。その結果、多かれ少なかれ不誠実なやり方であなたは自分の行動を正当化することになる。全ての人がこうしたことを認めるかはわからないが、人々の一部は自身の内面生活に影響されていることも、さらには自分が何らかの内面生活を持っていることにさえも気づいていないように見えることは事実である。私が気づいたところによると多くの人はひとりの時に笑い声を上げない。私が思うに、ひとりの時に笑い声を上げないのはその内面生活が相対的に荒廃しているためではないだろうか。それでも、あらゆる個人は内面生活を持っていて、彼らは他人を理解したり他人から理解されることが実質的に不可能であることに気がついている――一般的に言って、人間は星のように孤立して生きていると気づいているのだ。ほとんど全ての文学は、婉曲的な方法やほとんど役に立たない直接的な方法(その第一の手段は言葉だ)によってこの孤立から逃れようという試みなのである。

[注記:「精神、それはあらゆるものの似姿が宿る大洋、しかしそれは作る、それらを超越した別の世界を、別の大洋を精神、それはあらゆるものの似姿が宿る大洋、しかしそれは作る、それらを超越した別の世界を、別の大洋を:アンドリュー・マーヴェルの詩「庭」の一節」等(原著者脚注)]

「想像力豊か」な著作は、いうなれば正面からは攻略できない場所への側面攻撃である。冷たく「知的」でないものを試みる作家は原義に沿った言葉ではほとんど何もできない。彼は巧妙で婉曲的なやり方で言葉を使うことで自身の効果を少しでも得ようとする。ちょうど演説で声色と身振りに頼るように抑揚といったものに頼るのだ。詩の場合にはこれは論ずる価値の無いほどよく知られている。詩についてごくわずかしか理解していない者でも

「死すべき運命の月は触に耐え、
哀れな占い師は自身の予言を嘲る死すべき運命の月は触に耐え、哀れな占い師は自身の予言を嘲る:シェイクスピアの「ソネット集」107番の一節

という一節が、言葉が辞書的に「意味」しているものを実際に意味しているとは思わない(この二行連句カプレットはエリザベス女王が大厄年を大過なく終えたことについて述べていると言われている)。辞書的な意味はほとんど常に何か現実的意味と関係しているが、それはせいぜい描かれた「説話アネクドート」がその図案との間に持つ関係程度のものだ。そしてそれは散文についても同じように当てはまる。小説について考えてみよう。表面上は内面生活になんら関係していない小説――「ストレイト・ストーリー」と呼ばれるもの――でもいい。「マノン・レスコー」について考えてみよう。なぜその著者は、不実な少女と駆け落ち相手の大修道院長についてのこの長くうんざりするような話を生み出したのだろうか? 彼にはある感情、ビジョン、何と呼んでもいいがそれがあったからであり、おそらくは実験した後で、動物学の本でザリガニについて書くような記述の仕方ではこのビジョンを伝えられないと知ったからだ。しかしそれを記述するのではなく、別の何か(この場合はピカレスク小説だったが、別の時代であれば別の形態を選んだだろう)を生み出すことでそれ、あるいはその一部を彼は伝えられたのだ。著作の技術は実のところその大部分が言葉の倒錯であり、さらには、この倒錯がさりげなければさりげないほどそれは完璧におこなわれたとさえ言える。言葉の意味を捻じ曲げているように見える作家(例えばジェラード・マンリ・ホプキンス)は、近づいてよく見れば、実のところは言葉をそのままの意味で使うという絶望的な試みをしているのだ。一方で何ら巧妙な技術を持っていないように見える作家、例えば古いバラッドの作者はとりわけ繊細な側面攻撃を仕掛けている。とは言えバラッドの作者の場合、これは疑いなく無意識のものだ。全ての優れた芸術は「客観的」で、全ての真の芸術家は自身の内面生活を内に秘めているといった趣旨のたくさんの御託についてはもちろん耳にしたことがあるだろう。しかしそうしたことを言う人々の本心は別にある。彼ら全員が言いたいのは、自分は並外れて婉曲的な方法、バラッドや「ストレイト・ストーリー」で表現できる内面生活が欲しいということなのだ。

その難しさは別にしても婉曲的な方法の弱みはそれが普通は失敗するということである。注目に値する芸術家でなければ(注目に値する芸術家でもそうかもしれない)言葉の重鈍さは絶えざる改竄をもたらす。ラブレターといったものを書いたことがある者で自分がまさに意図した通りのことをそこで言えたと感じる者がいるだろうか? 作家は意識的にも無意識的にも自身を偽る。意識的に、というのは言葉の思いがけない質感が絶えず彼を誘惑したり脅したりして真の意図から彼を遠ざけさせるためだ。アイデアを得てそれを表現しようと試みる、すると概して結果として言葉の恐るべき混乱状態に陥り、多かれ少なかれ思いがけない模様の自己形成が始まるのである。それは全く望んでいない模様ではあるが、ともかく下品でも不快でもない。「優れた芸術」だ。彼はそれを受け入れる。なぜなら「優れた芸術」は多かれ少なかれ天からの神秘的贈り物であり、それが現われた時に捨ててしまうのは残念に思えるからだ。多少なりとも精神的誠実さを持っている者は、話すにせよ書くにせよ、自分が一日中嘘をついていると自覚せずにはいられないのではないだろうか? なにしろ真実が芸術的形を取らない時には嘘が芸術的形を取るのだ。しかし、もし高さに底辺を掛けて平行四辺形の面積を表わすのと同じくらい完全で正確に言葉で意味を表わすことができたら、少なくとも嘘をつく必要は完全に無くなるだろう。また読み手や聞き手の頭の中ではさらなる改竄がおこなわれている。言葉は思考に直結しているわけではないからだ。彼は絶えずそこに存在しない意味を読み取る。これをよく描き出しているのが外国詩の思い込みによる鑑賞だ。「ワトソン博士の恋愛事情」の外国人批評家といったものによって私たちは、外国文学の真の理解はほとんど不可能であることを知っている。それにも関わらず全く無知な人々は外国語やさらには滅んだ言語で書かれた詩からさえも大きな喜びを得ていると公言するのだ。彼らが得ている喜びは明らかに作者が全く意図していない何か、もしかするとそれに自分の名が冠されていると知ったら墓の中で彼を身悶えさせるような何かに由来している。私自身について言えば「Vixi puellis nuper idoneusVixi puellis nuper idoneus:ホラティウスの「歌集」3巻26歌の一節(娘らにふさわしい者として私は生きてきた)」がそれで、「idoneus」という言葉の美しさのために私はこれを五分間にわたって何度も繰り返した。しかし時間と文化の大きな隔たり、ラテン語に対する私の無知、そしてラテン語がどのように発音されたのかを誰一人として知らないという事実を考慮すると、私が楽しんでいる効果がホラティウスの狙ったものである可能性があるだろうか? これはまるで絵画の美しさに恍惚としているが、それを引き起こしている絵の具の飛沫はそれが描かれてから二百年後に偶然キャンバスに付着したものであるかのようではないか。注意して欲しいのだが、私は、言葉で意味をもっと確実に伝えられれば芸術は必ず改善されると言いたいわけではない。私が知る限りでは芸術は言語の無骨さと曖昧さの上でこそ力強く育つ。私が批判しているのは思考の乗り物として想定される機能での言葉だけである。そして正確さと表現力という観点から見ると私たちの言語は石器時代に留まっているように私には思われるのだ。

私が提案する解決策は、ちょうど自動車エンジンの新しい部品を発明するのと同じくらい意図的に新しい言葉を発明することである。精神生活の大部分を正確に表現できる語彙が存在すると想像してみて欲しい。人生は言葉で言い表せないという無力感や芸術的トリックでのごまかしが必要なくなることを想像してみて欲しい。人間の意図を表現することはちょうど代数学で方程式を解くのと同じように単に正しい言葉を選択してそれらを配置するだけの問題になるのだ。これによる利点は明らかであるように私には思われる。とは言え、座り込んで意図的に言葉を生み出すことが常識的な作業であることはあまり明らかではない。申し分のない言葉を生み出すための方法について説明する前に、あがるであろう反論について取り上げた方がいいだろう。

もし何らかの思慮ある人物に「新しいもっと繊細な言葉を生み出すための協会を作ろう」と言えば、相手はまず初めにそれは全くおかしな考えであると反対し、次に、私たちが現在使っている言葉は適切に扱えばあらゆる困難に対処できると言うことだろう(もちろんこの最後のものは理論上の反論にしかならない。実際のところは誰もが言語の力不足を認識している――「言葉にならない」「何を言ったかではなく、どう言ったかだ」といった表現について考えてみて欲しい)。しかし最終的には相手は次のような返事をするだろう:「小賢しいやり方では物事は成し遂げられない。言語は花のようにゆっくりとしか育たない。機械の部品のように一時しのぎの修理はできないんだ。人工の言語はどれも個性と生命力に欠けている――エスペラントなどを見るがいい。言葉の全ての意味はゆっくりと獲得された関係性の中にこそあるのだ」などなど。

まず第一にこの議論は何かを変えることを提案した時に生じる議論のほとんどと同様、何があるべきかという長ったらしい話になる。これまでのところ私たちは言葉の意図的作成に着手したことが一度もなく、全ての現代語はゆっくりと無計画に成長してきた。従って言語は別のやり方では成長できないというわけだ。今のところ、幾何学的な定義の水準以上のことを言おうとすると私たちは音や関係性といった手品に手を出さざるを得ない。従ってこの必然性は言葉の性質に内在しているというわけである。辻褄の合わないところはない。その上で、抽象語の作成を提案した時、私は現在使われているものの拡張を提案しているのに過ぎないことに注意して欲しい。今でも私たちは形ある物を表わす言葉を生み出しているのだ。飛行機や自転車が発明され、私たちはそれらの名前を発明した。これはごく自然な行為だ。頭の中に存在する現在は名前の無いものの名前を生み出すまであと一歩のところまで来ているのだ。「なぜ君はスミスさんが嫌いなんだ?」と言われて私が「だって彼は嘘つきだし、卑怯者だし……」と答える時、私はほぼ間違いなく誤った理由を答えている。私の頭の中では「だって彼は――な人間だから」という答えが駆け抜け、――は私が理解している何事かを意味している。それは、相手に教えることができれば相手も理解できるだろうものなのだ。なぜ――の名前が見つからないのだろう? 障害は私たちが名前をつけようとしている物について合意することだけなのである。しかしこの障害に出会うずっと手前で、本を読み、考え込むタイプの人間は言葉の発明などという考えにたじろいでしまう。彼は上記で私が示したような議論か、あるいは多かれ少なかれ冷笑的で論点回避的な議論を繰り広げるだろう。実際のところ、こうした議論は全てたわ言である。こうしたたじろぎは深く根ざした不合理な本能、原初の迷信に由来している。それは、人の困難に対する直接的で合理的なアプローチ、方程式を解くようにして人生の問題を解こうとする試みではどこへもたどり着けない――さらに言うとそれは間違いなく危険であるという感覚なのだ。こうした考えはいたるところで遠回しに表現されている。一国の天才たちが「完全に混乱している」という全く馬鹿げた話や、知性の堅実さや健全さに反対して論じられる全く形になっていない神無き神秘主義が根底で意味しているのは考えない方が安全であるということなのだ。私は確信しているが、こうした感覚は空中には傲慢を罰しようと待ち構える報復の悪魔が大勢いるという子供に広く知られた信念に端を発している[下記注記]。大人にはこの信念が合理的過ぎる思考への恐怖として生き残っているのである。あなたの神、主であるわたしは妬む神であるあなたの神、主であるわたしは妬む神である:出エジプト記20章5節、おごれる者は久しからず、などなど――そして最も危険な高慢は誤れる知性の高慢なのだ。ダビデが罰せられたのは彼が人々を数えたからダビデが罰せられたのは彼が人々を数えたから:サムエル記24章――つまり彼が自身の知性を科学的に使ったからである。例えば体外発生といった考えは種の健全や家族生活などへ及ぼし得る影響を別にして、それ自体、冒涜的であるように感じられる。同様に、言語といった根本的なものに対する攻撃、いうなれば私たち自身の精神の根本構造への攻撃は冒涜的行為であり、それ故に危険なのだ。言語の改革はとりわけ神の御業への妨害となる――とは言え、それをはっきりと口にしようとする者は誰もいないだろう。こうした反論は重要な意味を持つ。なぜならそれによってほとんどの人々は言語の改革というアイデアについて考えることさえ阻止されるからだ。そしてもちろんのことだが大勢の人間によって受け入れられない限りこうしたアイデアは役に立たない。言語を作り上げようとするひとりの人間、あるいは小集団――ジェイムズ・ジョイスが今やっていることジェイムズ・ジョイスが今やっていること:小説「フィネガンズ・ウェイク」の執筆を意味しているはそれだと私は思うのだが――というのはひとりでフットボールをプレーしようとしている人間と同じくらい馬鹿げている。求められているのは現在、自身をシェイクスピア研究に捧げている人々のように言葉の発明に自身を捧げる数千もの才能ある、しかし普通の人々である。それが手に入れば私たちは言語に対して驚くべき仕事ができると私は信じている。

[注記:自信過剰になると、この悪魔たちがやって来るという考えである。このために子供たちは魚を釣っても引き上げる前に「捕まえた」と言うと逃げられるだとか、自分の打順の前にすね当てを着けると最初の球でアウトになるだとかいったことを信じている。こうした信念はしばしば大人にも残っている。大人は自分の置かれた環境を左右する力を得るのに従って子供よりも迷信深さを薄れさせるというだけのことである。誰もが無力になる困難な状況(例えば戦争や賭け事)においては誰もが迷信深くなるのだ。(原著者脚注)]

さてその手段についてである。荒削りで小規模なものではあるが言葉の発明のひとつの成功例は大家族の構成員間に見ることができる。大家族はどれも、二、三の彼ら特有の言葉を持っている――自分たちで作った、繊細で、辞書に無い意味を伝える言葉だ。彼らは自家製の言葉で「スミスさんは――な人間だ」と言い、よそ者はそれを完全には理解できない。また、家族内に限られてはいるが、辞書では取り上げられていない多くの空白のひとつを埋める形容詞も存在する。家族にこうした言葉の発明を可能にさせるのは彼ら共通の経験という土台だ。もちろんのことだが、共通の体験が無くてはどんな言葉も無意味である。もしあなたが私に「ベルガモットはどんな匂いですか?」と尋ねれば、私は「バーベナの様です」と答える。そしてあなたがバーベナの匂いを知っているのであれば、あなたは何かしら私の理解に近づいている。このように、言葉を発明する方法は間違えようのない共通の知識に基づいたアナロジーによる方法なのだ。ちょうどバーベナの匂いといった物理的な実体を参照するように、誤解の余地なく参照できる基準を持たなければならない。実質的にこれは言葉に(おそらくは目に見える)物理的存在を与えるということに行き着く。単に定義について語るだけでは役に立たない。文芸批評で使われている言葉のひとつを定義しようと試みれば、いつでもこれを理解できる(例えば「感傷的」[下記注記]「低俗」「病的」といったものは全て無意味で――さらに厳密に言うと使う者ごとに異なる意味を持っている)。必要なのは意味を何か間違えようのない形で示して見せることであり、そうした後で、さまざまな人々がそれを自分の頭で識別し、命名するだけの価値を認識した時に名前を与えることなのである。問題は思考に対して客観的な存在を与える方法を見つけ出すことだけなのだ。

[注記:私はかつて批評家に「感傷的」と呼ばれた作家のリストを作ろうとしたことがある。最終的に、そこにはほとんど全ての英語作家が含まれることになった。この言葉は実質的に無意味な嫌悪の記号なのだ。ちょうどホメロスで賓客に友好の証として渡される青銅の三脚台のようなものである。(原著者脚注)]

すぐに思い浮かぶのは映写機である。映画に潜在する並外れた力には誰もが気づいているはずだ――歪曲の力、空想の力、広く言えば物理世界の制約から逃れる力である。本来であれば映画は舞台以上の物事に集中するべきなのだが、その代わりに主として舞台演劇の馬鹿げたまがい物のために使われている理由は私が思うに商業的必要しかない。適切に使えば映画は精神的過程を伝える媒体のひとつとなる。例えば上記で私が述べたような夢は言葉では全く表現不可能だが、スクリーン上であれば実にうまく描き出すことができる。何年か前に私はダグラス・フェアバンクスの映画を見たがその一部は夢の描写だった。もちろんそのほとんどは馬鹿げたジョークで、人前で裸になる夢についてのものだったが、つかの間、それは本当に夢のようで、言葉や絵画、私が想像するに音楽でさえできないことをおこなっていた。私は一瞬だが同じようなものを他の映画でも目にしたことがある。例えば「カリガリ博士」だ――しかしこの映画はほとんどの部分が馬鹿げたものに過ぎず、優れた要素はそれらのために利用されているだけで何ら明確な意味を伝達してはいない。考えてみれば、映画の奇妙な歪んだ力によってどうしても表現できないものは精神の中にはほとんど無いのだ。個人所有の映写機、必要となる全ての小道具、そして知的な役者の一団を持つ大富豪は、もしそうしたければ実質的に自身の内面生活の全てを知らしめることができるのだ。彼は合理化された嘘を告げる代わりに自身の行動の本当の理由を説明し、自身にとって美しかったり、感傷的だったり、愉快に思えるものを指し示すことができるだろう――それを表わす言葉が無いために普通の人間は内に秘めざるを得ないものだ。一般化して言えば、他の人々に自分を理解させることができるのだ。もちろん天才でもないのにひとりの人間が自身の内面生活を見せびらかすのは望ましいことではない。必要なのは人間が共通に持つ、現在は名前のない感覚を見つけ出すことだ。言葉にならない、絶えず嘘と誤解の原因となっているあらゆる強力な動機は追い詰められ、目に見える形を与えられ、合意され、名前を付けられるだろう。映画はそのほとんど無限とも言える表現力で、適切な研究者の管理の元、それを達成できるはずだ。とは言え思考を目に見える形に変えることが常に簡単であるとは限らない――実のところ、最初は他の芸術と同じくらい難しいかもしれない。

新しい言葉が取るべき実際の形態については注意がいる。必要となる時間や才能、金銭を持った数千の人々が言語へ追加をおこなう作業を引き受けることを考えてみて欲しい。たくさんの新しい必要となる言葉について彼らがなんとか合意を図ろうとしているとしよう。彼らは発明されるやいなや使われなくなったヴォラピュクヴォラピュク:19世紀にドイツのカトリック神父ヨハン・マルティン・シュライヤーによって作られた人工言語のようなものを生み出さないよう用心しなければならないだろう。おそらくだが、いまだ存在していない言葉でさえ、言葉にはいわば自然な形態があるように思われる――もっと言えば様々な言語ごとの様々な自然な形態だ。もし言語が真に表現力豊かであれば、現在、私たちがおこなっているように言葉の音をもてあそぶ必要は無いはずだが、言葉の音とその意味の間のある程度の調整作業は絶えずおこなわれるのではないかと私は思う。言語の起源について受け入れられている(私が信じる)もっともらしい理論は次のようなものだ。言葉を持つ前の原始人は自然なことだが身振りに頼っていて、他の動物と同じように身振りしている時には注意を引くために叫び声を上げていたはずだ。そこである者がある意味にふさわしい身振りを本能的に作り出す。体のあらゆる部分がそれに合わせて動き、そこには舌も含まれる。こうして特定の舌の動き――つまり特定の音――が特定の意味と関連付けられるようになる。詩においては直接的な意味とは別に、その音によって特定の着想を伝えている言葉を指し示すことができる。「Deeper than did ever plummet sound(どんな奥深い音よりもなお深く)」(シェイクスピア――私が思うに一度ならず使っている)、「Past the plunge of plummet(奥深い奈落を過ぎて)」(A・E・ハウスマン)、「The unplumbed, salt, estranging sea(深さも知れぬ、塩辛く、よそよそしい海)」(マシュー・アーノルド)など、直接的な意味とは別に、明らかに plum- や plun- という音には何か底の無い大海と関係するものがある。このように新しい言葉の作成においては 意味の正確さと同じくらい音の適切さに注意を払わなければならない。現在のように古い言葉から新しい言葉を作ることでは真の新しさを取り出すことはできないし、かと言って単に好き勝手に並べただけの文字からそれを作り出すこともできない。言葉の自然な形を見極めなければならない。言葉の実際的な意味について合意を図るのと同じく、これには大勢の人間の共同作業が必要となるだろう。

私は急いでこの文章を書いた。読み返してみると私の議論には弱いところがあり、また大部分はごくありきたりなことしか言っていないように思える。いずれにせよ、ほとんどの人々にとって言語を改革するという考えは全くの素人考えか偏執的なものに思えることだろう。しかし人間同士――少なくともあまり親しくない者たち――の間にどれほどひどい無理解が存在するのかについては考えるだけの価値がある。現在のところ、サミュエル・バトラーが言うように最高の芸術(つまり最も完璧に伝わる思考)とはひとりの人間から別の人間へと「実況」によって伝えられなければならない。もし私たちの言語がもっと適切なものであればその必要は無いはずだ。私たちの知識や人生の複雑さ、そして(私が思うにそれに追従する)私たちの精神がこれほど急激に発達している時にコミュニケーションの主な手段である言語がほとんど変化していないことは実に興味深い。それゆえに言葉の意図的な発明は少なくともよく考えるに値するアイデアであるように私には思われるのだ。

1940年

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オーウェル評論集7: 新しい言葉 表紙画像
オーウェル評論集7: 新しい言葉
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