地下室の手記 第二部 ぼた雪が降るから, フョードル・ドストエフスキー

第十章


十五分の後、僕は凶暴な苛立ちに部屋中あちこちを駆け回り、絶えず仕切りに近づいては隙間からリーザを覗いていた。彼女は床に座って頭をベッドにもたせかけ、泣いているらしかった。だが彼女は出て行こうとせず、それがそう、僕をいらいらさせたのだ。この時にはもうすっかり彼女はわかっていた。僕は彼女を決定的に侮辱した、だが・・・言ってもしょうがない。彼女は感づいてしまった、僕の情欲の突発はまさに復讐であり、彼女にとって新たな屈辱であり、さっきの僕のどこに向けるでもないような憎悪に、今ではもう彼女に対する個人的な、妬み深い憎悪が加わったことに・・・でもしかし、彼女がこれをすべて明確に理解したと断言はしない。だがその代わり彼女は完全に理解した、僕は下劣な人間であり、第一、彼女を愛することができないのだ。

僕はわかっている、人は言うだろう、これは信じられない、僕のような意地悪で愚かなものがいるなんて信じられない。おそらく、さらに付け加えるなら、彼女を愛するようにならない、あるいは少なくともその愛の価値を認めないとは信じられない。いったいなぜ信じられない? 第一に、僕は本当に人を好きになることもできないのだ。なぜならば、繰り返しになるが、愛するとは僕にとって暴虐をふるうこと、そして精神的に優位に立つことだ。僕は生涯、他の愛など想像することさえできなかったし、今では時々、愛というものは愛する対象から自発的に与えられたその対象に暴虐をふるう権利に存する、と思うまでに至った。我が地下室の夢の中でも僕の想像する愛とは闘争に他ならず、それはいつも憎悪に始まり、精神的征服に終るのだが、事後はもう、征服した対象をどうするのか、想像もつかないのだ。それにこの際何が信じられないのか、僕が見事にもう自分を精神的に堕落させてしまったあげく、『生きた生活』を断ち切ってしまったあげく、僕のところへ『哀れを誘う言葉』を聞きにきたなんて言って、さっき彼女を咎め、辱めてやろうという気を起こしたところじゃないか。それに思いもつかなかったことだが、彼女がやってきたのは決して哀れを誘う言葉を聞くためじゃなく、僕を愛するためだ、なぜなら女にとって愛のうちにこそ復活のすべてが、いかなる破滅の淵にあろうとも救済のすべてが、再生のすべてが存するのであり、だからそれを示すことしかできないのだ。しかし、部屋を駆け、隙間から仕切りの向こうを覗いていた時、僕はもうそれほどひどく彼女を憎んではいなかった。僕にはただ彼女がそこにいることが耐えがたく苦痛なだけだった。僕は彼女が消えてしまえばいいと思った。『静穏』が僕の願いであり、地下室で一人にしておいて欲しいと願った。慣れない『生きた生活』が僕を圧迫し、息もできないほどになっていた。

だが、さらに数分が過ぎてもなお彼女は身を起こさず、意識を失ったかのようだった。僕は無神経にもそっと仕切りを叩き、彼女に気づかせようとした・・・彼女は不意にびくっとして、その場からもがれるようにして、自分のショール、自分の帽子、毛皮のコートをあわてて捜し、まるで僕から逃げてどこかへと・・・二分後、彼女はゆっくりと仕切りの陰から出て、重苦しく僕を見た。僕は意地悪くニヤッと笑ったが、でもそれは無理やりで、体面上であり、彼女の視線から顔をそむけてしまった。

「さよなら」彼女はドアへ向かいながら言った。

僕はいきなり彼女に駆け寄り、彼女の手をつかみ、それを広げ、突っ込んで・・・それからまた握りしめた。それからすぐに顔をそむけて急いで反対の隅へ飛びのき、とにかく見ないようにとしていた・・・

僕は今この瞬間も危うく嘘をつくところだった―書こうとした、僕がこんなことをしたのは思いつきであり、自分でもわからずに、度を失って、ばかなまねをしたと。だが僕は嘘をつきたくない、だから包み隠さず言おう、僕が彼女の手を広げ、中に入れたのは・・・悪意からだ。僕が部屋中あちこち駆け回り、彼女が仕切りの向こうに座っていた時にこんなことをしてやろうという考えが僕に浮かんだのだ。だがここでこう言えるのも確かだ。僕がこんな残酷なことをしたのは、わざととはいえ、心からではなく、邪悪な頭からのことである。この残酷さは虚偽であるから、頭によって、わざと考え出された、読み物のようなものであるから、結局僕自身一分と耐えられず、初め見ないようにと隅に飛びのいたものの、その後羞恥と絶望にリーザを追って駆け出したのだった。僕は玄関のドアを開け、耳を澄まして聞き始めた。

「リーザ! リーザ!」僕は叫んだ、階段に向かって、が、おずおずと、低い声で・・・

答えはなかったが、僕は下の方の段に彼女の足音を聞いたように思った。

「リーザ!」僕は声を大きくして叫んだ。

答えはなかった。だがその瞬間僕は聞いた、下で、重そうにきしんで、外の通りへ出るきちきちしたガラス戸が開き、きちきちしながらバタンといった。うなりが階段を上がってきた。

彼女は行ってしまった。僕は考え込みながら部屋へ戻った。僕はひどく気がふさいだ。

僕は彼女が座った椅子のそばのテーブルのところにじっと立ち、ぼんやり目の前を見ていた。一分が過ぎ、不意に僕の全身に驚きが走った。まっすぐ目の前、テーブルの上に、僕は見た・・・つまり、僕はしわくちゃになった青い五ルーブリ札、ほかならぬ、一分前に彼女の手に握らせたあれを見た。これはあの札だった。他にありようがなかった。他には家になかった。とすると彼女は、僕が反対の隅へ飛びのいたあの瞬間をとらえ、手の札をテーブルに投げ出したのだ。

どうなんだ? 僕は彼女がそうすると予期したはずだ。予期できたか? いや。僕はあまりにエゴイストであり、実際、人を尊重しないことはなはだしく、彼女もそんなことをするなんて想像さえできなかった。こんなことは我慢できなかった。一瞬の後、僕は狂ったように、急いで服を着て、あわてて間に合うものを引っ掛け、前後も忘れ、彼女を追って走り出た。僕が通りへ飛び出した時、彼女はまだやっと二百歩も先を行っていなかった。

ひっそりとして、雪が降り、ほとんど垂直に落ち、舗道に、人のいない街路にクッションを広げていた。誰も通るものはなく、物音はまったく聞こえなかった。陰鬱に、無用な街灯はきらめいていた。僕は十字路まで二百歩走って立ち止まった。「彼女はどこへ行った? それに何のために僕は彼女を追って走る?」

何のため? 彼女の前にひざまずき、悔恨の涙を流し、彼女の足にキスし、許しを願う! 僕はそうしたかった。僕の胸はずたずたに引き裂かれ、この瞬間を思い起こすと絶対に、絶対に、冷淡ではいられない。だが、何のために?と僕は思った。ことによると、明日あたり、今日彼女の足にキスしたことで彼女を憎むようになるんじゃないか? 僕が彼女を幸せにできるのか? 僕は今日また、もう何十回、何百回めだか、自分の価値を思い知らされたのじゃないか? それに彼女を苦しめないことか!

僕は雪の中に佇み、濁った霧の中をじっと見ながら、それを考えていた。

「それによかったんじゃないか、よかったことになるんじゃないだろうか」もう家に帰ってから、後で、僕は空想にふけった。空想により、生きている心の痛みをやわらげながら。「よかったことになるんじゃないだろうか、彼女が今、永遠に屈辱を抱いていったとすれば。屈辱、何といってもそれは浄化だ。それはきわめて苛性の、苦しい意識だ! 明日にも僕のことだ、彼女の魂を汚し、彼女の心を疲弊させたことだろう。だが屈辱は、今や決して彼女の中で消えていくことはない、そして彼女を待つ汚濁がどれほどいやなものであっても、―屈辱は彼女を高め、浄化する・・・憎しみによって・・・フム・・・あるいは、許すことによっても・・・だが、しかし、こうしたことすべてによって彼女は楽になるだろうか?」

さて、現実問題。ここで僕は、こちらから現在のこととして一つ無益な質問をしよう。どちらがいい?―安価な幸福か、高遠な苦悩か。さあさあ、どちらがいい?

あの夜僕は自分の家で、心の痛みにほとんど死んだようになって、そんなことを思っていた。かつてあれほどの苦悩、悔恨に耐えたことはなかった。だが僕が住まいから走り出た時、途中で家に戻るのではないかという疑いが少しでもありうるものだっただろうか? 僕はもう二度と彼女に会っていないし彼女について何も聞いていない。またつけ加えるなら、僕は長いこと、屈辱と憎しみがもたらす利益という一句に満足していたものだ。自分がその頃、憂愁から病気になりそうだったのに。

多くの年月が過ぎた今でさえ、これがすっかり思い出されるとなんだかあまりにも不快になる。今思い出して不快なことはたくさんある、だが・・・もうここで『手記』は終わりにしないか? どうやらこれを書き始めたのが間違いだったらしい。少なくともこのお話を書いている間ずっと、僕は恥ずかしかった。従って、これはもう文学ではなく、懲らしめの罰だ。いやはや、たとえばの話が、道徳的堕落の片隅、欠乏した環境、生きることからの乖離、虚栄に満ちた悪意の地下室、こういうことによって僕が自分の人生をいかにないがしろにしてきたか、について語る長い話など、まったくのところ、おもしろくはない。小説にはヒーローが必要だが、ここにはわざとのようにアンチヒーローのあらゆる特徴が集められていて、それに何より、これがみんな非常に不快な印象をもたらすのだ。なぜなら、僕たちは皆、誰だって、多かれ少なかれ、生から乖離し、皆、不自由な歩き方をしているからだ。乖離のあげく、時々真の『生きた生活』に一種の嫌悪を感じ、それゆえ、それを思い出すと耐えられないのだ。なにしろ僕たちは真の『生きた生活』をほとんど労働と、任務も同然とみなすまでになってしまったし、僕たちはみんな書き物に従った方がいいことに内心同意している。それではなぜ、僕たちは時として這い回る、なぜ気まぐれを起こす、なぜ願いをかける? 自分でもなぜかわからない。僕たちの気まぐれな願いがかなったら、僕たちにとってまずいことになるだろう。ねえ、試してみたまえ、ねえ、僕たちにたとえば、あとほんのちょっと独立を与えたまえ、僕たちの手を自由にしたまえ、活動の輪を広げたまえ、監視を緩めたまえ、そうしたら僕たちは・・・そうさ、僕は君たちに請合うがね、僕たちは直ちにまた元通りに監督を求めるぜ。わかってるよ、君たちはたぶん、こう言うと僕に腹を立て、叫び声を上げ、地団太を踏むね。いわく、『自分一人のこと、君のみじめな地下室のことと言いたまえ、ずうずうしく言うんじゃない、《僕たちみんな》だなんて』。いいじゃないか、諸君、僕はこのみんなってことで自分を正当化しやしないからね。僕に関して正確なところを言えば、いいかな、僕はね、君たちが半分までも進める勇気がなかったことを僕の人生において極端にまで持っていっただけだ。いやもう君たちは臆病を分別とみなし、それで自分自身を欺いて慰めてるんだから。従って僕の方が、もしかすると、君たちよりよほど『生きている』ことになるかもしれない。さあ目を凝らして見てみたまえ! 僕たちは知りもしないじゃないか、その生きているものってのは今どこに生きているんだ、それはどんなもので、何と呼ばれてる? 僕たちを一人で、本もなしで放り出してみたまえ、僕たちはすぐに混乱し、あわててしまう、そしてわからなくなるだろう、どこに参加するか、何を支えとするか、何を愛し何を憎むか、何を尊敬し何を軽蔑するか? 僕たちは人間であることさえ重荷に感じている。すなわち、真の、自分自身の肉体と血液を持った人間であることを。それを恥じ、不名誉とみなし、何というか前例のない人間一般であろうと努めている。僕たちは死産児であり、その上、生まれるのだってもうずいぶん前から生きた父親からではなく、そしてそれがいよいよ気にいっているのだ。嬉しくなりだしたのだ。すぐに、どうにかして観念から生まれ出ることだって考えつくさ。だがたくさんだ。僕はこれ以上『地下室から』書きたくはない・・・・・

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しかしながら、この逆説家の『手記』はここではまだ終らない。彼はこらえきれずにさらに続けたのである。しかし私たちはここでやめてもいいように思われる。


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