人類の大部分は二つの種類に分けられる。一つは思慮の浅い連中で、真理には程遠い。もう一つは深遠な思索家で、真理を越えて突き進む。後者の連中はとても数が少ない。それに付け加えておくと、とても役に立って有益だ。連中は少なくとも手掛かりを示してくれるし、難題にも取り組む。こういう難題には、ことによると、彼らが遂行する技量が欠けていることもあるが、ちゃんと適切な考え方の人が扱えば、すばらしい発見がなされることだってあるんだ。最悪の場合でも、彼らの言うことは並外れている。理解するのに苦労するにしても、新しいことを聞く楽しみがある。ぼくらがコーヒーハウスのおしゃべりで学べることしか言わない著述家なんて、ほとんど価値がないんだ。
思慮の浅い連中はみな、深遠な思想家や形而上学者や緻密な思索家みたいな確固とした理解力のある人のことさえ罵倒しがちだ。それに彼らの愚かしい見解を超えた真っ当なことは決して受け入れようとはしない。緻密に走りすぎると誤った強固な憶測を生むし、どんな推論でも当たり前で簡単なことしか確かなものとしないという場合もあるのは、ぼくも認める。人がなにか特定の事柄での自分の振舞いについて熟慮するときや、政治、交易、経済、その他人生の諸事大綱を作るとき、その論旨をあまりに詳細に立てるべきじゃないし、因果の連鎖を長くしすぎてはならない。その推論を混乱させるようなことや、思いもしなかった事象を生み出すことが、きっと生じる。でもぼくらが一般的な問題について推論するとき、ぼくらの考察がちゃんとしたものなら、それが精緻すぎるなんてことはほとんどありえないということ、また凡人と天才の違いというのは、考察をすすめるときに基づいている原理が浅薄か深遠かってことでわかるものだということが、正当にも断言できるだろう。一般的推論というのは、単にそれが一般的だという理由から、難解にみえる。しかも、大部分の人間にとっては、数多くの特殊事項の中で、全員が認めるような共通の事象を識別することや、他の余分なものの混じる事象から純粋で混じりけのない共通の事象を抽出することは簡単じゃない。それにともなって、どの判断や結論も特殊個別的なものになる。彼らは自分の見解を普遍的命題にまで拡張できない。この普遍的命題は、その下に無数の個別的命題を包含し、単一の定理の中にすべての知識を含めるのだ。彼らの目はこうした広大な眺望に混乱してしまい、それから引き出される結論は、どんなにはっきり表現されていようと、難解で不可解なものに見えるんだ。でも、どんなに難解そうでも、一般的原理は、それが根拠のある妥当なものなら、特殊な場合に役に立たないことはあっても、一般的なことの成り行きではいつだってうまくいくにちがいない、ということは確かなことだ。それに、一般的なことの成り行きを考慮するのが哲学者の主な仕事なんだ。付け加えると、それは、特に国家の国内統治では、政治家の主な仕事でもある。そこでは公衆の福利というのが彼らの目的であり、そうでなければならないのだけれど、そういう福利は多くの原因の共同作用に依存している。対外政策のように、偶然や運だとか、少数の人の気まぐれによるのではないんだ。だから、このことが特殊な検討と一般的な推論との違いとなっていて、そのために、微妙さや緻密さは、特殊な検討より一般的な推論のほうに似つかわしいものになる。
商業や貨幣、利益、貿易収支等々といったこの後述べる論述に先立って、こういう導入部が必要だと、ぼくは考えた。おそらく、そこには驚くような、そしてこうした世俗的な問題についてはあまりに精緻で微妙すぎるように思える原理があるだろう。間違っていれば、それを拒否すればよい。しかし、それが普通の道からはずれたところにあるからというだけで、それにたいする先入見を抱いてはならない。
国家の偉大さとその臣民の幸福は、いくつかの点ではどんなに独立したものと思われようが、一般には、商業という観点では分かちがたいものだと思われている。私人は商売や富を保持するうえで、公権力から多大な安全保障を受けており、それで公権力も私人が豊かになり商業が拡大するのに応じて強力になっていく。この原理は一般に成り立つ。とはいえ、例外を認める余地はありそうだし、あまりに留保や制限なしにそれを認めすぎることが多いんじゃないかと、ぼくはつい思わざるをえないんだ。個々人の商業だの富や贅沢っていうのが、公権力を強化するかわりに、その軍隊を貧弱にし近隣諸国間での権威を弱める働きしかない状況だってあるかもしれない。人間というのはとても変わりやすいもので、多くの異なった意見や原理や行動基準とかの影響を受けやすいものだ。ある一つの考え方に固執していると正しいように思えたものが、正反対のやり方や意見を受け入れてみると、間違いだと分かったりするんだ。
どの国でも大部分の人間は農夫と手工業者に分けられる。農夫は土地の耕作に従事するし、手工業業者は農夫が供給する素材に手を加えて、人間の生活に必要か、あるいはその生活を飾るための、あらゆる商品を作り出す。人間は主に狩猟や漁労で生活していた未開状態から抜けだすと直ちに、この二つの階級に分かれるものなんだ。もっとも最初は農業に社会の大部分が従事していた。時間と経験によってこの技芸が大きく改良されると、土地は、その耕作に直接従事する人間や、そういう耕作従事者に必要性の高い製造品を供給している人間より、もっと多くの人間を容易に養えるようになるだろう。
こういう余剰の人手が、普通は贅沢の技芸と呼ばれるもっと洗練された技芸に使われると、国家の幸福を増進する。なぜなら、彼らは多くの人に、もしそうでなければ知らなかったような享楽を味あう機会を提供するからだ。しかし、なにか別の計画がこういう余剰の人手を使うために提案されることもあるのではないか。主権者が彼らに号令をかけて、海軍や陸軍に従軍させ、海外の国家の領土を拡げ、はるか彼方の諸国に名声を広めることはないのだろうか。土地所有者や農業労働者に欲求や必要が少なければそれだけ、彼らが煩わせる人手も少なくなるのは確かだ。その結果、土地からの余剰物は、商人や手工業者を養うかわりに、海軍や陸軍を維持する程度が、個々人の贅沢に供するためにより多くの技芸を求める場合より、大きいこともある。だから、国家の偉大さと臣民の幸福の間には一種の対抗関係がある。余剰の人手をみんな公共の役務に使ったとき以上に、国家が偉大にはなることはない。私人の安逸だとか便宜が求めるのは、そうした人手を自分たちの役務に使うことだ。だれかが満足すると、その付けは他人に回る。主権者の野望は個々人の贅沢を侵害するしかない。一方、個人の贅沢は軍事力を削減し、主権者の野望を食い止めてしまう。
そしてまたこの推論はただ想像上のものにとどまらず、歴史や経験にも見出すことができる。スパルタ共和国は確かに、国民の数が同じであれば、現在の世界のどの国より強国だったが、それはもっぱら商業と贅沢が欠如していたためだ。ヘロットは労働者であり、スパルタ人は兵士か貴族であった。スパルタ人が安逸で優雅な生活を送り、さまざまな交易や手工業に使役していれば、ヘロットの労働がそんなに多数のスパルタ人を養うことができなかったのは明かだ。同様の政策はローマにも見られる。実際、古代史全体を通じて目につくのは、最小の共和国が、現在では三倍の住民からなる国家が維持できるよりも多い軍隊を集め保持していたことだ。計算してみると、すべてのヨーロッパ諸国では、兵士と一般民衆との比率は一対百を超えることはない。しかしぼくらが読んだところでは、ローマ市だけでその初期には、その小さな領土にラテン人にたいして十軍団を集め保持していた。アテネの全支配圏はヨークシャー州より大きくなかったが、シシリア遠征には四万人を派兵した。ディオニュシオス一世の領土は、シシリア島の三分の一程度のシュラクサイとイタリアおよびイリリクム海岸のいくつかの海港と要塞でしかなかったが、彼は十万の歩兵と一万の騎兵からなる常備軍と四百隻の大艦隊を擁していたということだ。古代の軍隊が戦時には略奪で生計を立てていたというのは本当だ。しかし、敵も自分の番がくれば略奪したのではないだろうか。略奪とは、編み出されたなかで最も破滅的な徴税方法だ。簡単に言うと、古代の国家のほうが近代国家にまさって大きな武力を持っているのは、商業と贅沢の欠如以外に理由がなさそうだ。農民の労働で養われる技能工はわずかしかおらず、だからより多くの兵士が、農民の労働によって生計を立てた。リヴィウスの言うところでは、ローマは初期のころケルト人やラテン人に対して派兵したのと同じ軍勢を、リヴィウスの時代には召集するのが困難になっていたそうだ。カミルスの時代には自由と帝国のために戦った兵士たちがいたが、そのかわりに、アウグストゥスの時代には音楽家、絵描き、料理人、演奏家、仕立て屋がいた。そしてもしどちらの時代でも土地が同じように耕作されていたとすると、土地が養える数はどの専門職でも同じなのは確かだろう。彼らが単なる生活必需品には何の増加ももたらさないのは、カミルスの時代でもアウグストゥスの時代でも同じことだ。
この場合、主権者は古代の政策の原理に立ちかえり、この点で自分自身の利害を臣民の幸福以上に考慮するなんてことになるんじゃないのかって質問が、当然出てくるだろう。ぼくの答えはこうだ。そんなことはほとんど不可能に思える、なぜなら、古代の政策は暴力的で、もっと自然で普通な事の成り行きに反するからだ。よく知られていることだが、スパルタはなんとも風変わりな法で統治されていて、それ以外の民族、それ以外の時代には、人間性は自ずと示される通りだと考えてきた人たちのだれが見ても、その共和国はまさしく驚異の極みだ。歴史上の証拠があまり明白で詳しいものでなかったなら、こんな統治はただの哲学的な思いつきか作り話で、実際に行うのは不可能に見えただろう。ローマやその他の古代の共和国は、もう少し自然な原理に基づいて維持されていたとはいえ、こうした耐え難い義務を甘受させる状況が異常なほど同時発生していた。これらは自由な国家で、小さな国家だったが、時代は軍国的で、すべての近隣諸国は絶えず戦時体制にあった。自由は当然にも公共心を生み出し、公権力がほとんど絶え間なく危機に瀕しているときは、この公共心、この祖国愛は強化されるしかなく、人々はいつでも公権力を防衛するため、いかなる危険にも身を晒す義務を負うた。うち続く戦争はすべての市民を兵士にした。市民は自分の番がくると出陣した。兵役に就いている間は、主に自前で自分の生活の面倒を見た。この兵役は実際のところ重税に等しかったが、戦争に溺れた人々はさほどとは感じていなかった。彼らは報酬のためではなく、名誉と復讐のために戦い、快楽と同様、利得だの勤勉には不案内だった。言うまでもないことだけど、古代の共和国の住民の間では財産は非常に平等で、それぞれの耕作地は、所有者が異なっても、その家族を扶養することができたし、それで、交易や手工業がなかったとしても、市民の人口はかなりのものになってきたんだ。
しかし、交易と手工業の欠如が、自由で非常に好戦的な国民の間では、ときには公権力を強力にするだけってこともあるけれど、人生諸事の普通の成り行きでは、まるで反対の傾向をもつってことも、確かなことだ。主権者は人類を彼らが自分たちをそうだと思っている通りに扱うしかなく、おこがましくも、彼らの思考原理や考え方の強制的な変化を持ち込もうなんてできない。種々の偶発事や出来事を伴った長い時の流れは、必ずや大革命を生み出して、人生諸事の見かけを様々に変化させてきた。特定の社会を支えている、一そろいの原理があまり自然でなければ、社会を隆盛させ育成していくうえで、立法者が出くわす困難もそれだけ大きくなる。彼のとる最良の政策とは、人類のありふれた性向に従っておき、その受け入れやすい改善をすべて施すことだ。さて、一番自然な成り行きによって、産業と芸術と交易は、主権者の権力と同時に臣民の幸福を増大させる。個々人を困窮にすることで公権力を増強しようという政策は、乱暴だ。そのことは、怠惰と残酷のもたらす結果がどんなものだか、ちょっと考えてみれば、容易に見えてくる。
手工業と職人の技芸が発達していないところでは、人々の大部分は農業に従事せざるをえない。その技量や勤勉が増大すれば、その労働から、自分たちを養うに足る以上の大きな余剰が生まれる。余剰をなにか商品と交換して、快楽や虚栄を満すことができないのだから、彼らには自分たちの技量や勤勉を増大させる誘因がない。当然、怠惰な習慣が蔓延する。土地の大部分は未耕作のままとなる。耕作地は、農民の技量と熱心さの欠如から、最大収穫量には達っしない。いつなんどきか公的な緊急事態が必要とすれば、多数の人間を公的任務に就けなければならないが、人々の労働は今や余剰を供給せず、こうした人員を養えないんだ。労働者はいきなり技量や勤勉を増大することはできない。未耕作地を数年で耕地にすることはできない。一方では、軍隊はいきなり暴力的征服をなしとげるか、兵糧不足で解隊するかだ。だから、規律のとれた攻撃や防衛は、こういう国民には期待しできないし、その兵士は、その農民や手工業者と同様、無知で未熟なんだ。
世の中のあらゆるものが、労働で獲得される。そして、ぼくらの情欲が労働の唯一の動機なんだ。国に工業製品と職人の技芸が満ちていれば、農民だけでなく土地所有者も技術としての農業を研究し、勤勉さと配慮を倍加する。彼らの労働が生み出す余剰は無駄にはならず、手工業者の商品と交換される。人間の奢侈心がそれらを熱望するんだ。こうした手段によって、土地は、耕作従事者を養うに十分な量以上の生活必需品を供給するようになる。平和で安穏な時代には、余剰は手工業者の生活の維持と学芸の改善に向けられる。しかし、公権力にとって、こうした手工業者の多くを兵士に転じ、農民の労働によって生まれた余剰で兵士を養うことは、容易なことだ。見てきたところでは、これがどの文明国にもある実情なんだ。主権者が軍隊を増強すると、どういう結果になるだろうか。主権者は課税する。この課税によって、国民はみんな、生活にもっとも必要性の小さなものを切り詰めなければならなくなる。そうした商品の生産で労働していた人は、軍隊に志願する。さもなければ農業に転じることになるが、それによって別の労働者が職を失なって、軍に志願せざるをえなくなる。事態を抽象的に考えてみると、商工業はそれが蓄積した労働の分だけ、しかもだれかの生活必需品を奪うことなく、公権力が要求できる分だけ、国力を増加させる。だから、単なる生活に必需なものを超えて用いられる労働が多いほど、どの国家も強力になる。なぜなら、そういう労働に従事する人は、容易に公的任務に転用できるからだ。手工業のない国家では、同じ人手があったとしても、労働の量も種類も同じではない。そこでは、あらゆる労働が必需品に費されており、僅かしか、あるいは一切、労働を削減するわけにはいかないんだ。
こうして、主権者の偉大さと国家の幸福とは、交易と手工業に関して、大いに結びついている。労働者とその家族が生計をたてる以上に土地の生産を増加させるため、労働者に労苦を強いるのは、乱暴な方法であって、たいていの場合、実行不可能だ。彼に手工業品や有用品を提供すれば、彼は自発的にそうするだろう。その後は、彼の余剰労働を取り上げて、通例の見返りなしに、それを公的任務に使うのは、容易なことだ。勤勉であるのが習慣となれば、褒賞なしに直ちに労働を増加するよう強制されるほどには、彼はそのことを苛酷とは思わないだろう。国家のそれ以外の成員に関しても、事態は同じだ。あらゆる種類の労働の蓄積が大きくなればなるほど、目立った変化を起すことなく、蓄積物からより多くのものを取り出せるんだ。
公的な穀物倉、織物倉庫、武器庫、これらはみな、どの国家でも、真の富と力がもたらしたものにちがいない。交易と産業は実のところは、労働の蓄積でしかなく、平和で安穏な時期には、個々人の安楽と満足に使われるが、国家の緊急時には、ある程度は、公的便益に向けられる。ぼくらは都市を一種の要塞化した野営地に変え、各人の胸に武勇の精神を吹き込み、誰もが公権力の目的のために最大限の苦難を喜んで耐え忍ぶようにすることができるかもしれない。こうした感情は今や、古代と同じように、それだけで産業を十分刺激となることを示し、共同体を維持するだろう。そのときは、野営地でと同じように、あらゆる技芸や贅沢を振り払うこと、また、余った家臣を軍隊につぎ込むより、装備や糧食を制限することで、糧食と馬糧を長持ちさせることのほうが、利にかなっているだろう。しかし、こうした指針は、あまりにも清廉すぎて、あまりにも維持するのが困難だから、人々を他の熱情によって統治し、貪欲と勤勉、技芸と奢侈といった精神で彼らを鼓舞することが不可欠だ。この場合は、野営地には余剰の随行員が送り込まれるが、しかし糧食もそれに応じて大量に送られるのだ。全体の調和はこれまでどおり保たれる。精神の自然な傾向に、より即したものなので、公権力だけでなく、個々人もこの原理を遵守することは割に合うことなんだ。
同じ推論法で、外国貿易が、臣民の富と幸福だけでなく、国家の力の増加にも有利だということがわかる。外国貿易は国の労働の蓄積を増加させ、主権者はそのうち必要と思われる分を公権力の役務に振り向けることができる。外国貿易は、輸入によって、新しい手工業に材料を供給し、輸出によって、国内で消費できないような特定の商品の中にも労働を結実させる。簡単に言えば、大きな輸出入のある王国は、相変わらず国内産の商品で満足している王国に比べ、産業も豊かで、それを優雅な趣味と贅沢に使うことができる。だから、その国はより富裕で幸福であると同時に、より強力なんだ。個々人は、その感覚と好みを満足させる限り、こうした商品の恩恵を享受している。また、より大きな労働の蓄積が、公的な緊急時に備えて蓄えられるかぎりは、公権力も受益者なんだ。つまり、より多くの労働者が養われるが、誰からも必需品、あるいは主な生活利便さえ奪い取ることなく、彼らを公的役務に転じることができる。
歴史をひもとけば、ほとんどの国で、外国貿易が国内手工業の洗練に先行し、国内の贅沢の原因となった。外国の商品はすぐにも使え、ぼくらに全く目新しいので、いつもゆっくりとしか進歩せず、目新しさではまるで訴えかけるところのない国内商品を改良しようというより、外国品を使いたいという誘惑のほうが強い。国内では余剰で、価格もつかないものを、土壌や気候がその商品の生産には適さない外国に輸出すると、その利益も莫大なものとなる。こうして人々は贅沢の快楽と通商の利益を知ることになる。そして、彼らの優雅な趣味と勤勉さが一旦目覚めると、外交貿易と同様、国内交易のどの分野でも、彼らを改善へと駆り立てる。そしておそらく、これが外国人との通商から生じる主要な利点なんだ。それは人々を怠惰から目覚めさせ、その国のより快活でより豊かな連中は、以前は夢想だにしなかった贅沢な品々を差し出され、自分たちの先祖が楽しんだよりずっと素晴らしい暮らし方をしたいという欲望を起こす。そして同時に、この輸入と輸出の秘密を握る僅かな商人が、莫大な利益を上げて、富では古代の貴族に匹敵するまでになり、他の冒険者たちに、商売上の競争相手となるようたきつける。模倣によって、こうした技芸はすべて、たちまち普及する。一方では、国内の手工業者は改良を加えて、外国品と張り合い、あらゆる国産商品を、施しうるかぎり完成の極みにまで仕上げていく。彼らのもつ鋼や鉄は、こうした勤勉な働き手の手中で、インドの黄金やルビーと同等のものとなる。
社会の諸情勢が一度こういう状況になれば、国が外国貿易の大半を維持してなくて、しかも偉大で強力な国民であり続けるってこともありうる。もし外国人がぼくらの商品のうち特定のものを引き取らなくなれば、ぼくらはそれに労働を投入するのを止めるだろう。その同じ人手は、国内で求められる他の商品の改良に振り向けられるだろう。それに、彼らには働きかける素材がいつもあるんだ。もっとも、国中のだれもが金持ちになり、望むだけの量の国産品を、しかも完全な状態で享受するようになるまではの話だけど、そんなことは決して起こりえない。中国は、国境を越えた通商をほとんど行っていないが、それでも世界一繁栄している帝国といわれてる。
無用な脱線だと思われなければよいのだけど、ここでぼくが言いたいのは、職人の技芸が多いことが国家に好都合であるのと同じように、こうした技芸の生産物の分け前にあずかるのも好都合だ、ということなんだ。市民の間のあまりに大きな不均衡は、国家を弱体化する。どの人も、できることなら、必需品をすべて、また生活に便利な品の多くを十分に所有して、自分の労働の果実を享受すべきだ。疑いもなく、こうした平等が人間の本性には適っていて、金持ちの幸福が減る分より、貧乏人の幸福が増える分の方が大きいんだ。そのことはまた、国家の力を増大し、どんな臨時の課税や賦課も、もっと気前えよく払ってもらえるようにする。富が少数者に専有されていれば、公的な必要物の提供は大部分、この少数者が担わなくてはならない。しかし、富が多数者に分散されていれば、各人の肩には負担が軽く感じられるし、税金が各人の暮しに感じられるほどの違いをもたらすこともない。
これに加えて、富が少数者の手中にあると、この少数者はすべての権力を享受するにちがいない。そして、たちまち共謀して、すべての負担を貧乏人に担わせ、貧乏人をさらに迫害して、あらゆる産業を阻害するんだ。
こうした状況にこそ、イギリスが世界に現存するどの国よりも、また歴史の記録に現れるどの国よりも、大きな利点をもっているんだ。確かに、イギリス人は高価格の労働が外国貿易ではなにがしか不利に働いていると感じているが、労働が高価だということは、一つには、通貨が多量だということはもとより、技能工がもつ富の効果もあるんだ。しかし、外国貿易だけが最重要な事項だというわけではないので、そのことを何百万人もの幸福と競合させるべきじゃない。それに、イギリス人がその統治下で暮らしている自由な政府が彼らにとって好ましいとする理由がこれしかなくても、これだけで十分だ。一般大衆の貧困は、絶対君主制の絶対確実な効果とはいえないにしても、当然の効果ではある。とはいえ、一方で、一般大衆の富裕が自由の絶対確実な成果であるということが、いつでも成り立つのかってことについては、ぼくは疑わしいと思っている。ベーコン卿は、フランスとの戦争でイギリス人が持っていた大きな利点を説明するとき、その理由を主にイギリスの一般大衆が非常に生活が楽で富裕だったこと求めている。とはいっても、その当時、この二つの王国の統治はとても似ていたんだ。労働者と機能工が低賃金で働き、自分の労働の成果の小さな部分しか確保できないのが当たり前のところでは、自由な統治下にあったとしても、彼らが自分たちの境遇を改善し、あるいは、協力し合って自分たちの賃金を引き上げたりするのは、困難だ。しかし、彼らがより豊かな暮らしになれているところでさえ、専制的な統治の下では、金持ちが彼らに陰謀を企てて、税の重荷をすべて彼らの肩に背負わせるのは、簡単なんだ。
フランスやイタリア、スペインの一般大衆が貧しいのは、ある程度は、非常に地味が豊かで気候にも恵まれているせいだというのは、奇妙な状況に見える。だけど、この逆説を正当化する理由を欠いているわけではない。もっと南の地域と同じように、すばらしい耕地や土壌に恵まれた地域では、農業は簡単な技芸であり、役立たずの馬が二、三頭もいれば、一人の人間が、地主にかなりの借地料を支払うことになるような広さの土地を、一農期で耕すことができるだろう。農夫がしっている技芸というのは、一年も休耕していると、たちまち土地は不毛になるということくらいだ。太陽そのものの暖かさと気温によって土地は豊かとなり、肥沃さを取り戻す。こうした貧しい小作農は、その程度だから、労働でただ単なる生活の維持だけを求めるだけなんだ。彼らは蓄えとか富をもたず、生活維持以上のものを求めない。また一方では、彼らは永久に地主に依存するが、地主は土地を賃貸することもないし、間違った耕作法で土地をだめにされる心配もしない。イギリスでは、土地は肥沃だが、土粒が粗く、耕作するには大きな費用をかけなければならないし、注意深く管理し、数年かけてやっと十分な利益がでるような耕作法によるのでなければ、わずかの穀物しか育たない。だから、イギリスの農民はかなりの蓄えがあって、長期の土地賃借を結ばなければならない。そうやって、労力に釣り合った利益が生まれるんだ。シャンパーニュやブルゴーニュの素晴らしい葡萄畑は、地主にエーカ当り5ポンド以上の収益をもたらすこともまれではないけれど、それを耕作する小作農はパンにも事欠くありさまだ。そうなる理由は、自分の両の手足と20シリングで買える農具以外には、蓄えが必要ないからなんだ。農民はそうした国ではもう少しましな境遇にある。しかし、土地耕作者の中でもっとも気楽なのは、牧畜業者だ。その理由もまったく同じなんだ。人はその犠牲と危険に見合った利益を得なくてはならない。小作人や農民といった数多くの労働する貧乏人がきわめて劣悪な境遇に置かれているところでは、その国の統治が君主制なのか共和制なのかにかかわらず、残りの人々もみな、貧困を共に味あうべきなんだ。
人類の一般的な歴史についても、同様の見解がまとまるだろう。南北回帰線の間に住む人々が今だになんら技芸や文明を持たず、あるいは、その統治が警察制度や、軍事的規律を持つまでにさえ至らないのに、温帯では大半の民族がそういう利点をもっている理由は何だろうか。この現象の一因となっているのは、おそらく、熱帯地方は温暖で気候が一様であって、生活するにはあまり衣服や家屋を必要とせず、それで産業や工夫の大きな動機となる必要性というものを、ある程度欠いていることなんだ。「ヤッカイ事コソ人ノ機転ヲ磨ク」と言うものだ。言うまでもないが、どの民族もこの種の財貨や財産をわずかしか享受しなければそれだけ、たぶん彼らの間に起る揉め事も少いだろうし、彼らを国外の敵からも、お互いからも保護し防衛するために、確固たる警察、あるいは規制権限をもつ必要はほとんどないのだけれど。