住宅について, ジョージ・オーウェル

住宅について


おおいに議論されている住宅再供給のためのライリー計画それ自体は、ありきたりな町や建築密集地域であればどこでも普通に見られるゴミや騒音、退屈な仕事や孤独感を文化的連続性や平均的な人間の「自分自身の家」を持ちたいという欲求をまったく犠牲にすること無く取り除こうという取り組みに過ぎない。この計画の熱心な支持者によって書かれた本書(ローレンス・ウルフ著「ライリー計画」)はその社会的、心理学的影響を発展させたものだ。序文を書いているのはチャールズ・ライリー卿で、彼は自分の弟子によって推論されたような遠大な影響を元々は予見していなかったと告白している――確かに彼は乗っていた揺り木馬がユニコーンに変わった人間の雰囲気をいくらか漂わせている。

ライリー計画では住宅の大部分は道路に沿ってではなく緑地を囲むようにして建てられる。ライリーの「ユニット」は五、六の緑地を囲むように集合したおおよそ二百五十の住宅からなる。緑地のほとんどはおおよそ長円形をしていて、それを取り囲む住宅の数は三十から六十の範囲で変わる。各ユニットにはそれぞれコミュニティーセンター、保育園、ショッピングセンター、レストランや給食サービスがあって、ある程度、自己完結していて、幹線道路は走っていない。緑地の周りに住宅が長い街区を作っていて、各住宅の背後には小さな庭があるが、正面玄関はまっすぐ緑地に面している。住宅は「地域暖房」で温められていて、常に温水が供給され、ゴミ回収は吸引によっておこなわれる。住宅やアパートにはキッチンが有るものも無いものもある。もしキッチン無しの生活がしたければ毎食を給食センターから配送される食事で賄うこともできる。保温容器に入った食事がミルクのように玄関前に置かれ、食事後の汚れた食器が同じ配達人に回収されていく。ひとつの町は必要と面積に応じた数のライリー「ユニット」から作り上げられる。もちろん大きな町であればどこでもそれぞれの中心商店街と行政区画を持つだろうが、この計画の主眼はその町をそれぞれ約千人からなる自己完結したコミュニティー、実質的な村へと分割することなのだ。

これが現実に実施できたとしよう――ウルフ氏によればこの住宅供給方法は通常の方法よりも安価で迅速だという――計画の利点は明らかである。身近にある適切な設備の託児所、「地域暖房」、コミュニティーセンターでの安価な食事をいつでも欲しい時に手に入れられ、交通による騒音と心配は存在しない(計画によってこの町では自動車道路をさまよう小さな子供たちに危険が及ばないようになっているのだ)。これらは主婦から不要な仕事による大きな負荷を取り除くだろう。緑地を囲んだ生活が社交を促進するであろうことはまず間違いないし、それぞれのコミュニティーセンターが、誰もが顔見知りであると期待できる約千人の人々にだけ提供されることは大事な要点だ。容易に運動場にアクセスできる煤煙の無い緑地空間や常時供給される温水は健康と清潔に資するだろうし、子供たちは家庭で小言を言われたり甘やかされる代わりに絶えず同年齢の他者の社会の中で育つことになる。こうしたコミュニティーでは退屈な仕事や病気、無学は現在よりも少なくなり、結婚年齢は若くなって出生率は上がり、犯罪も神経症も減るだろうと主張してもそれはおそらくウルフ氏の正当な権利の範疇だろう。しかし――!

ウルフ氏はライリー計画を彼が「孤立主義」と呼ぶものへのほとんど止むことの無い攻撃の機会として利用している。この「孤立主義」は大都市での生活の混乱と無目的さに留まらず、自身の家を持って自分のことは自分でやるというイギリスの伝統全体を意味している。近年、それが高まっているという彼の発言はおそらく正当なものだし、住宅金融組合によって刺激された住宅所有がそれを促進している(今回の戦争の直前、イギリスで自分の家を所有したり購入している人々は四百万人よりも少なかった)という発言も間違いないものだ。小さな世帯、わずかな公共施設での生活では自然に退屈な家事労働が増え、平均的な女性は三十代で中年に至る。不便なキッチンで日に六、七食を用意し、例えば二人の子供の面倒を見る労働のせいである。ウルフ氏はイギリスの姿を描き出しているが、そこではこの国がひどい過重労働に喘ぎ、貧困に襲われ、犯罪と病気が国中を覆っていることが示唆されている。彼が口にしないのは今世紀における社会変化の多くは彼が提唱する方向へ向っているということだ。

イギリスでの生活は以前よりも「孤立主義」的になっているかもしれない。しかし同時にずっと安楽で労働の少ないものとなっているのである。三十年前に比べて人々の体格は大きく、重くなり、労働時間は短くなり、食事は増え、より多くの娯楽に時間を使い、両親たちには想像さえできなかったであろう自家用設備を手にしている。ウルフ氏が採用する基準のほとんどで、人々の大多数は一九三九年において一九〇九年よりもずっと好ましい状況にあるのだ。そして今回の戦争が国民「実質」所得を減少させたにせよ、同時にそれは大きな平等化を生み出す傾向も持っているのだ。こうした事実は十分古い記憶を持つ者であれば誰しもわかっていることだが、統計で確かめることもできる。ウルフ氏の著書と並べて検討すべきは最近ゴランツ社から出版されたマーク・エイブラムス氏による「イギリスの人々の状況 一九一一年から一九四五年」である。この本では紛うこと無く生じた肉体的改善が示されている。同時にまたその統計から推論できる限りにおいては私たちの幸福度はまったく伸びていないし、生きる理由についての自意識も発達していない。ウルフ氏が当然のように嘆いている出生率の低下は物質的水準の上昇と一致している。最近の世論調査報告書「イギリスとその出生率」ではこのふたつの現象に直接的なつながりがあることが示されているように思われる。

この現在の流れを変えるために必要なのは明らかに目的意識の発達であるが、人々を昔ながらの孤立的な住宅から連れ出してプライバシーの多くを失うような労働節約的な共同体へ移住させるだけでそれが起きるかどうかは定かでない。当然ながらウルフ氏は家族の解体を望んではいないと主張しているが、彼が好むさまざまな革新はそうした影響をもたらすだろう。とりわけ彼が熱心なのがキッチンの無い住宅、そして「ごちゃごちゃとした高価で無駄の多いキッチン用品の廃絶」である。キッチンを省いた一家は「より魅力的で居心地の良い住宅を手にする」と彼は言っている。食事は「旅行用スーツケースに似た形をした」保温容器に入れられて配達され、その容器は「寒い季節でも、玄関前に置き去りされても、数時間にわたって中身を温かく保つ」。空腹を感じたらただドアを開けるだけでそこに食べ物があるのだ。どんな食事をするか選べるかどうかについては明言されていないが、おそらく選ぶことはできないだろう。もちろん常に他人と同じ食器を使うことになるが、合間ごとに殺菌されているのでこれはたいした問題ではない。

おそらくこうした種類の物事について長々と反対を述べる必要はほとんどないだろう。それよりも重要なのは、ウルフ氏が同情する働き詰め主婦を含め、ほとんど全ての者はこうしたビジョンに尻込みするということである。世論調査が示している通り、自宅にセントラルヒーティングを求める人々さえ割合としてはわずかなのだ。さらに言えば、目下、最大の関心事はまだ住める住宅を犠牲にすること無く住宅を建設することだ。

しかし遅かれ早かれ地区全体の再計画が可能になるだろうし、その時には昔ながらの住宅や昔ながらの住宅配置のやり方を残すかどうか、断固とした決断が必要になるだろう。この問題はこれまでしっかりした議論がされておらず、人々はいくらか倒錯しがちな本能に頼らざるを得なかった。彼らは託児所や福祉的な診療所を求めているが、同時にプライバシーも求めている。手間を省きたがっているが、他人が選んで保温容器に入れて届けられる食事を食べるのでなく自分の食事を自分で調理したがっているのである。深く根ざした本能が現代世界においては国家からの唯一の避難所である家族の廃絶を彼らに拒ませている。しかしその間にも機械化の時代は家族をゆっくりと廃絶していっているのだ。そして自分たちの文化が滅びていくのを目にしながらも、人々は白く塗られた玄関や暖炉といったその断片に不合理にもすがりついているのである。

とはいえライリー計画では教会という形で多くの古い文化が各ユニットで生き延びているし、この書籍のスケッチから判断する限りではそれらの教会はゴシック様式であるようだ。ウルフ氏が問わない質問、あるいは誰も問うたことない質問は、なぜ私たちはこの世界にいるか、そしてそこから派生する、私たちはどのような生活を送りたいのかというものである。この質問に答えるまでは私たちは決して住宅問題を解決できないだろうし、私たちはただ原子爆弾が私たちのためにそれを解決してしまう可能性を高めてきただけなのである。

1946年1月25日
Tribune

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