G・K・チェスタートンはかつて、小説家は誰しも人生に対する自らの態度を総括したような題名の本を一冊書くものだと述べた。ディケンズの「大いなる遺産」、スコットの「祖父の物語」を彼は例として挙げている。
サッカレーをとりわけ代表するものとして選ぶとしたらどの題名だろうか? 明らかに「虚栄の市」だろう。しかし、もしさらに詳しく調べれば「クリスマス・ブック」、「バーレスク集」あるいは「俗物の書」のどれかが選ばれるのではないかと私は思う――いずれにせよ、サッカレーがかつてパンチ誌やその他の雑誌に寄稿した一群の短編のひとつの題名が選ばれるだろう。彼は生まれながらのバーレスク作家だっただけでなく、生来のジャーナリスト、短編作家であり、その最も特徴的な作品はそこに付けられた挿絵と切っても切れない関係にある。中でも最も優れたものはクルックシャンクの筆によるものだが、サッカレー自身もまた才能ある滑稽画家であり、彼のとても短い短編のいくつかでは画と本文が有機的に結びついている。彼の長編小説の中でも最も優れている部分はどれもパンチ誌への寄稿の中で育まれたもののように思えるし「虚栄の市」でさえ短編的性質を持っていて前に何が起きたかを確認するために読み返すこと無く、ほとんどどの場所からでも読み始めることができる。
現在では彼の代表的な作品のいくつか――例えば「エズモンド」や「バージニアの人々」――は実に読みづらいし、今、私たちが真剣な小説と見なすようなものを彼が書いたのはただ一度、非常に短い作品である「みじめにもはなやかな物語」でだけのことだった。サッカレーの二つの主要なテーマは俗物根性と浪費だが、彼が最高の手腕を見せるのはそれらを面白おかしく扱う時なのである。なぜなら――例えばディケンズとは異なって――彼には社会的洞察力はほとんど無く、さらにははっきりとした道徳律さえ無いからだ。「虚栄の市」が価値の高い社会的資料であり、また極めて読みやすく愉快な作品であることは真実だ。物理的詳細に関しては注目すべき忠実度で十九世紀初期の恐ろしい社会競争を記録している。もはや経済的に先行きのない貴族社会がいまだ上流階級と振る舞いに関する権威者だった時代だ。サッカレーの著作全体を通して言えることだが「虚栄の市」では自らの収入の範囲で暮らしている人物が登場するのはほとんど例外的な出来事である。
自身には大きすぎる家で暮らし、給金を払えない使用人を雇い、雇いの従僕を付けた派手な晩餐会を開いて破産し、雇った職人を騙し、銀行口座から過振りし、四六時中金貸しに追われながら暮らす――これが人間の営みのほとんど標準となっているのだ。聖人を目指している者以外は誰しも可能な限り貴族を真似るのが当然であると見なされている。高価な衣服、金メッキされた馬車、お仕着せを着た大勢の使用人を求めるのは飲食を求めるのと同じく自然な本能と考えられているのだ。そしてサッカレーが最も巧みに描き出すことのできる人々は何の収入も無いのに上流階級の暮らしを営む者たち――「虚栄の市」で言えばベッキー・シャープやロードン・クロウリー、あるいは無数の怪しげな冒険家、ローダー少佐、ルーク船長、コスティガン船長、デュースエース氏、トランプ用テーブルと債務者拘留所の間を絶えず行ったり来たりして暮らす者たちなのだ。
そうした点に関して言えばサッカレーが描き出す社会はおそらく真実なのだろう。彼が描く人物像、つまり借金抵当に苦しめられる貴族やブランデーを飲む陸軍将校、コルセットを着けたり頬ひげを染めたりした初老の金持ち連中、仲人を務める女性たち、シティの下品な大物連中は確かに実在した。しかし彼が観察しているのは主にその外観だけなのだ。彼を魅了する主題であるフランス革命について止むこと無く物思いに耽りながらも彼は社会の構造が変化していっていることに気がつかない。彼は国中に広がる俗物根性と浪費の現象を目にしながら、そのより深い原因には目を向けない。さらに言えばディケンズとは異なって彼は社会的闘争が三つ巴になっていることに気がついてない。主に使用人としてしか見ていない労働階級に彼はほとんど同情を寄せない。また自分自身がどの立場を取るのかについて決して明確な自覚を持たない。品のない上流階級と貪欲に金をため込む中流階級のどちらの方が不愉快かを彼は決めかねているのだ。はっきりとした社会的、政治的、またおそらくは宗教的な信念を持たないがために、質素と勇気、また女性の場合には「純潔」(ちなみにサッカレーの描く「善良な」女性は全く耐え難いものである)の他には彼には美徳を思い描くことがほとんどできない。「虚栄の市」と「ペンデニス」の両方で言外に示される道徳は実に空疎なもので「利己的になってはいけない、俗世に染まってはならない、収入を超えた暮らしをしてはならない」というものだ。「惨めにも華やかな物語」では同じことがさらに詳細なやり方で語られている。
しかしサッカレーの狭い知的射程は実のところ彼にとっての長所となっていて、彼が現実の人間を描く試みを放棄する時、それは発揮される。ひときわ強く印象に残るのは彼の無名な著作、彼自身は完全に書き捨てだと思っていたに違いないものにさえ見られるその活力である。彼の全集の中のどれかを――例えば彼の書評でさえ――一読すればその特徴的な味わいに出くわすだろう。それはひとつには十九世紀初期に属する飽食の雰囲気、オイスターや黒ビール、ブランデーの水割り、ウミガメのスープ、ロースト・サーロイン、鹿の腰肉、マディラ・ワインとタバコの煙からなる雰囲気であり、サッカレーはそれを実に巧みに伝える。なぜなら彼は物理的詳細をしっかりと把握し、食べ物にとりわけ強い関心を持っているからだ。
おそらくはディケンズにも増して彼は食事について頻繁に、そして正確に書いている。「飽食の思い出」にあるパリでの夕食――どれも高価な夕食ではない――についての説明は魅惑的な読み物だ。「ブイヤベースのバラッド」は英語で書かれたこうした種類の詩の中でも最良のもののひとつである。しかしサッカレーの特徴的な味わいはバーレスクのそれであり、善良な者はひとりもおらず、真剣なものは何も無い世界のそれなのである。それは彼の小説の中の最も優れた文章全てに充満し、「バーチ博士とその若き友人」、「バラと指輪」、「破滅の長靴」、「ティミンズ家でのささやかな夕食」といった短いスケッチや物語で完成の域に達する。
「バラと指輪」は一種の茶番劇で、精神的には「インゴールズビーの伝説」とよく似ている。「ティミンズ家でのささやかな夕食」は比較的自然主義的な物語、「破滅の長靴」はその二つの中間あたりに位置している。しかしこれら全てや同じような短編でサッカレーは、ほとんどの小説家を悩ませ、人物を描く英語小説家がこれまで誰一人として解決していない困難を回避している――現実感ある「ありきたりな」存在として描かれる登場人物をたんに面白おかしいだけの人物と組み合わせる困難である。
チョーサー以降の英語作家はバーレスクに抗うことが極めて難しいことに気がつくことになった。バーレスクになるやいなや、物語の現実感が損なわれてしまうのである。フィールディング、ディケンズ、トロロープ、ウェルズ、さらにはジョイスさえもが皆、この問題につまずいた。サッカレーはその最良の短編において登場人物全員を風刺的人物にすることでそれを解決している。「破滅の長靴」の主人公が「ありきたりな」存在であることは疑いない。彼は偶像と同じくらいありきたりだ。「ティミンズ家でのささやかな夕食」――めったに再版されないにも関わらず、これまで書かれた中で最も愉快な短編のひとつ――で、サッカレーは「虚栄の市」でしたのと全く同じことをしているが、違うのは現実世界を模倣するための複雑な要因を廃して私欲のない動機を導入していることだ。これはシンプルでささやかな物語で、この上なく見事な語り口で語られながらクレッシェンドのように次第に盛り上がり、まさに絶妙なタイミングでそれが止む。非常に高額の謝礼を受け取ったひとりの弁護士が晩餐会を開いてお祝いをすることを決める。すぐさま彼は払えるよりもずっと高い出費へと追いやられ、さらに重い借金を背負わせる一連の惨事が続き、疎遠だった友人たちと義理の母が彼の家にずっと居座ることになる。始めから終わりまでこの晩餐会で何かを得られる者はひとりも無く、手に入るのは惨めさだけだ。そして最後にサッカレーが「実際のところ、ティミンズ一家はいったい何だってこんなパーティーを開いたのでしょう?」という時、社会的野心の愚かさが「虚栄の市」でやられたよりもずっと説得力を持って証明されたように感じられるのだ。これこそがサッカレーのできる完璧な仕事であり、中心的なストーリーではなく、こうした滑稽な出来事の繰り返しこそが彼のさらに長い小説を読む価値あるものにしているのである。