政治と英語, ジョージ・オーウェル

政治と英語


少しでもこの問題に頭を悩ませたことがある人であればそのほとんどは英語がひどい状態にあるということを認めるだろうが、一般にそれは意識的な対応をとれない問題だと見なされている。私たちの文明は退廃的であり……議論の帰結として……私たちの言葉もその全体におよぶ崩壊の一端を間違いなく担っている。そして言葉の荒廃に対する抵抗はそれがどんなものであれ感傷的な懐古主義であり、電灯ではなく蝋燭を好んだり、飛行機ではなく辻馬車を好むようなものなのだという主張が続くのだ。こうした議論の下に横たわっているのは言葉は自然に変わっていくもので、私たち自身の目的に合わせて形を変えられる道具ではないという漠然とした信念だ。

さて、言葉の衰退は間違いなく究極的には政治的・経済的原因によるものであることは明らかである。たんにあれやこれやの個々の作家による悪影響のせいにすることはできない。しかし結果が原因となり、それが最初の原因を強めて同じ結果をさらに強い形で生み出し、そのサイクルが無限に続いていくということはあり得る。失敗を気に病んで酒を飲み、酒を飲んだためにさらにひどい失敗をするということはよくあるものだ。英語に起きているのはこれとまったく同じことだ。言葉が醜く不正確になっているのは私たちの思考が愚かしいためだが、私たちの言葉のだらしなさは私たちが愚かな考えを持つことを容易にしてもいるのだ。重要なのはこの作用は逆転し得るということだ。現代の英語、とりわけ書き言葉の英語には模倣によって広がった多くの悪習があり、それはもし必要な手間さえかければ取り除くことが可能だ。こうした習慣を取り除けば、もっと明瞭に思考できるようになる。そして明瞭な思考は政治的再生を遂げるために必要な第一歩なのだ。従ってひどい英語に立ち向かうことは取るに足らないことでも職業作家のみの関心事でもない。これについては後でまた戻ろう。その時にはここで述べたことの意味をもっと明瞭にできればと思っている。さて、ここで現在、習慣的に書かれているもののサンプルとして、五つの英文を挙げようと思う。

これら五つの文章を取り上げたのはそれらがとりわけひどいからではなく……選ぼうと思えばもっとずっとひどいものを引用することもできるだろう……現在、私たちが苦しんでいるさまざまな精神的悪習をわかりやすく描き出しているからだ。これらはその平均にわずかに達しないものだが、実に代表的なサンプルだ。必要に応じて参照できるようにそれぞれに番号を振ってある。

(1)I am not, indeed, sure whether it is not true to say that the Milton who once seemed not unlike a seventeenth-century Shelley had not become, out of an experience ever more bitter in each year, more alien (sic) to the founder of that Jesuit sect which nothing could induce him to tolerate.

(私は確かに以下のことが間違っているのかどうかについて確信を持ってはいない。すなわち十七世紀のシェリーに似ているように見えないこともなかったミルトンが、年を追うごとにひどくなっていく経験の結果、彼に何らの忍耐も説くことのできなかったイエズス会の創設者にとっての異邦人(原文まま)へと変わってはいかなかったかということである)

――ハロルド・ラスキ教授(表現の自由の中のエッセイ)

(2)Above all, we cannot play ducks and drakes with a native battery of idioms which prescribes such egregious collocations of vocables as the Basic PUT UP WITH for TOLERATE or PUT AT A LOSS for BEWILDER.

(とりわけ、TOLERATE(耐える)の代わりにPUT UP WITH(我慢する)を、BEWILDER(当惑させる)の代わりにPUT AT A LOSS(迷わせる)を基礎に置く、こうした実にはなはだしい語の集合を処方するような天然の慣用句の一群を湯水のように使うことは私たちにはできないのだ)

――ランスロット・ホグベン教授(インターグロッサ)

(3)On the one side we have the free personality; by definition it is not neurotic, for it has neither conflict nor dream. Its desires, such as they are, are transparent, for they are just what institutional approval keeps in the forefront of consciousness; another institutional pattern would alter their number and intensity; there is little in them that is natural, irreducible, or culturally dangerous. But ON THE OTHER SIDE, the social bond itself is nothing but the mutual reflection of these self-secure integrities. Recall the definition of love. Is not this the very picture of a small academic? Where is there a place in this hall of mirrors for either personality or fraternity?

(一面においては私たちは自由な個性を持っている。定義からしてそれは神経的なものでも、葛藤や夢を含んだものでもない。その欲求はそれそのものとして透明であり、意識の先端における組織化された承認そのものである。もうひとつの組織化パターンがそれらの数と強度を変えることだろう。そこに自然なもの、単純化できないもの、文化的に危険なものはほとんどない。しかしもう一面においては社会的な結びつきそれ自体はこれら自己充足した統合性の相互反射以外の何物でもないのだ。愛の定義を思い出してほしい。これこそ絵にかいたような小さな学究の徒ではないか? 個性あるいは友愛のための場はこの鏡の間のどこにあるのだろうか?)

――政治における心理学についてのエッセイ(ニューヨーク)

(4)All the "best people" from the gentlemen's clubs, and all the frantic fascist captains, united in common hatred of Socialism and bestial horror of the rising tide of the mass revolutionary movement, have turned to acts of provocation, to foul incendiarism, to medieval legends of poisoned wells, to legalize their own destruction of proletarian organizations, and rouse the agitated petty-bourgeoisie to chauvinistic fervor on behalf of the fight against the revolutionary way out of the crisis.

(紳士クラブの「最も優れた人々」の全員、そして気が違ったファシストの指導者たち全員が、社会主義への憎しみと大衆による革命運動の潮流が起きることへの獣的な恐怖を共有して団結し、挑発的な活動をおこなっている。扇動の罪を犯し、井戸へ毒を入れたという古臭い口伝を流し、自身によるプロレタリアート組織の壊滅を合法化し、危機を脱するための革命的な手段に対抗して戦うことを支持するようにプチブルジョアジーを焚きつけて熱狂させている)

――共産主義者のパンフレット

(5)If a new spirit is to be infused into this old country, there is one thorny and contentious reform which must be tackled, and that is the humanization and galvanization of the B.B.C. Timidity here will bespeak canker and atrophy of the soul. The heart of Britain may lee sound and of strong beat, for instance, but the British lion's roar at present is like that of Bottom in Shakespeare's MIDSUMMER NIGHT'S DREAM–as gentle as any sucking dove. A virile new Britain cannot continue indefinitely to be traduced in the eyes, or rather ears, of the world by the effete languors of Langham Place, brazenly masquerading as "standard English." When the Voice of Britain is heard at nine o'clock, better far and infinitely less ludicrous to hear aitches honestly dropped than the present priggish, inflated, inhibited, school-ma'am-ish arch braying of blameless bashful mewing maidens.

(新しい精神がこの古い国に注ぎ込まれれば、議論を巻き起こす厄介な変化が現れ、それに取り組む必要が出てくる。それはここで指摘する魂の腐敗と萎縮であるところのBBC的臆病を人間的なものに変え、奮い立たせることである。例えばイギリスの心臓は鼓動をたてて強く拍動しているだろうが、現在のイギリスの獅子の咆哮はまるでシェイクスピアの真夏の夜の夢のボトムのそれ……鳩の若鳥ほどに穏やかなものだ。雄々しく新しいイギリスは、ランガムプレイスの女々しいけん怠や「標準英語」を名乗る厚かましいなりすましによって世界の耳目からいつまでも中傷され続けはしない。九時になってボイス・オブ・ブリテンの放送が始まるときには、現在の堅苦しく驕り高ぶって覇気のない、まるで女教師のような、猫が鳴くような声の無垢で内気な少女の耳障りな話し方が聞こえてくるよりも、実直なHの抜けた話し方が聞こえてくる方が冷笑はこの上なく少なくなり、ずっと良い状態になるだろう)

――トリビューンでの投稿

これらの文章はそれぞれ独自の不備を持つが、その回避し得る醜さはさておき、その全てで二つの性質が共通している。ひとつ目は修辞表現の腐敗、もうひとつは正確さが欠けていることだ。書き手は言うべきことを持っているがそれを表現できていなかったり、何の気なしに何か別のことを言っていたり、あるいは自分の言葉が何かを意味しているのかどうかにほとんど関心を払っていない。こうした曖昧さと能力のまったくの欠如がないまぜになったものこそが現代の英語でかかれた散文、とりわけ政治的な種類の文章の最も明確な特徴なのだ。何か特定の話題が持ち上がるとすぐに確固とした実体は溶けて抽象的なものへと変わり、陳腐でない言い回しを考えられる者は誰もいなくなってしまうかのようになる。散文を構成する言葉の意味は考慮されなくなり、まるでプレハブの鶏小屋の一画のような言い回しが増えていく。以下に注記と例を合わせて様々な技巧を挙げるが、これらを使って書かれた散文は決まって曖昧なものとなる。

死につつある隠喩。新しく考え出された隠喩は視覚的なイメージを呼び起こすことで思考を助けてくれ、一方で技巧としては「死んだ」隠喩(例えば鉄の決意)は実質的にはごく普通の言葉へと戻っていて概して鮮明さを失うことなく使うことがきる。しかしこの二つの分類の間には擦り切れた隠喩の大きな一群があり、それらは想像を喚起する力を完全に失っていて、ただ独自の言い回しを考え出す面倒を避けるためだけに使われている。例えばRING THE CHANGES ON(やり方をいろいろと変える)、TAKE UP THE CUDGELS FOR(加勢に加わる)、TOE THE LINE(統制に服する)、RIDE ROUGHSHOD OVER(手荒に扱う)、STAND SHOULDER TO SHOULDER WITH(肩を並べた抵抗)、PLAY INTO THE HANDS OF(術中にはまる)、AN AXE TO GRIND(腹に一物ある)、GRIST TO THE MILL(飯の種)、FISHING IN TROUBLED WATERS(漁夫の利)、ON THE ORDER OF THE DAY(時代の要請)、ACHILLES' HEEL(アキレスの踵)、SWAN SONG(断末魔の叫び)、HOTBED(温床)がそうだ。こうしたものの多くはその意味に関する知識無しで使われ(例えば「rift」とは何だろう?)、相容れない隠喩が頻繁に混ぜられ、自身が何を言いたいのかについて著者が関心を持っていない明確な証となる。隠喩のいくつかは今では元の意味から外れたものになっているが、それを使う人々はそのことに気がついてさえいない。例えばTOE THE LINE(統制に服する)はときどきTOW THE LINEと書かれていることがある。別の例を挙げるとすればTHE HAMMER AND THE ANVIL(ハンマーと金床)だが、これは今では決まってANVIL(金床)の方がより悪いものであるという意味で使われている。現実の世界ではハンマーを打ち壊すのは常に金床であり、その逆が起きることは決してない。自分が何を言っているのか考えることをやめた書き手はこのことに気がついて、元の言い回しの倒錯を避けているのだろう。

作用素や言語的なつぎはぎ。これらによって適切な動詞や名詞を選択する面倒は回避され、同時にそれぞれの文には整った見栄えを与えるための余分な音節が付け加えられる。特徴的な言い回しはRENDER INOPERATIVE(不能を宣告する)、MILITATE AGAINST(反作用)、PROVE UNACCEPTABLE(受諾不可能とわかる)、MAKE CONTACT WITH(接触を持つ)、BE SUBJECTED TO(下に服する)、GIVE RISE TO(勃発する)、GIVE GROUNDS FOR(譲歩する)、HAVING THE EFFECT OF(効果を持つ)、PLAY A LEADING PART (RÔLE) IN(指導的役割を演じる)、MAKE ITSELF FELT(自身に響く)、TAKE EFFECT(効力を発する)、EXHIBIT A TENDENCY TO(傾向を示す)、SERVE THE PURPOSE OF(目的に服する)などだ。基調となるのはシンプルな動詞の除去である。BREAK(中断する)、STOP(止まる)、SPOIL(駄目になる)、MEND(改める)、KILL(殺す)といった一語の動詞の代わりに動詞がフレーズになり、そのフレーズは名詞あるいは形容詞をPROVE(~を証明する)、SERVE(~を供給する)、FORM(~を形成する)、PLAY(~を演じる)、RENDER(~を宣告する)といったいくつかの汎用の動詞に付加することで作られる。さらにそれが可能な場所ではどこでも受動態が能動態より好んで使われ、動名詞の代わりに名詞構文が使われる(BY EXAMININGの代わりにBY EXAMINATION OFが使われる)。また「-IZE」や「DE-」といった接尾辞・接頭辞を使うことで動詞はその範囲を大幅に切り詰められ、陳腐な文章はNOT 「UN-」(~でないことはない)という構文によって外面上の奥行きを与えられている。シンプルな接続詞と前置詞はWITH RESPECT TO(~に関しては)、HAVING REGARD TO(~を考慮して)、THE FACT THAT(~という事実)、BY DINT OF(~の力によって)、IN VIEW OF(~を考慮して)、IN THE INTERESTS OF(~の理由から)、ON THE HYPOTHESIS THAT(~という仮定に基づいて)といった言い回しによって置き換えられている。また文の最後はGREATLY TO BE DESIRED(おおいに望まれる)、CANNOT BE LEFT OUT OF ACCOUNT(無視することはできない)、A DEVELOPMENT TO BE EXPECTED IN THE NEAR FUTURE(近い将来の進展が期待される)、DESERVING OF SERIOUS CONSIDERATION(真剣な考察に値する)、BROUGHT TO A SATISFACTORY CONCLUSION(満足すべき結論に到達した)などなどの仰々しい陳腐な言葉を使って、尻すぼみになることが避けられている。

仰々しい言葉使い。PHENOMENON(現象)、ELEMENT(要素)、(名詞としての)INDIVIDUAL (個人)、OBJECTIVE(目的)、CATEGORICAL(範疇の)、EFFECTIVE(効果的な)、VIRTUAL(仮想)、BASIS(基盤)、PRIMARY(一義的)、PROMOTE(促進)、CONSTITUTE(構成要素となる)、EXHIBIT(呈する)、EXPLOIT(有効活用する)、UTILIZE(利用する)、ELIMINATE(撲滅する)、LIQUIDATE(清算する)といった言葉はシンプルな文を飾り立て、偏った判断に科学的で公平な雰囲気を与えるために使われる。またEPOCH-MAKING(画期的な)、EPIC(壮大な)、HISTORIC(歴史的な)、UNFORGETTABLE(忘れがたい)、TRIUMPHANT(勝ち取られた)、AGE-OLD(歳月を経た)、INEVITABLE(必然的な)、INEXORABLE(避けがたい)、VERITABLE(正真正銘の)といった形容詞は外交における浅ましい行為に威厳を与えるために使われる。一方、戦争を賛美することを目的とした文章は普通、貴族的な色合いをまとう。それに特徴的な言葉はREALM(王国)、THRONE(玉座)、CHARIOT(二輪戦車)、MAILED FIST(武力)、TRIDENT(三叉の矛)、SWORD(剣)、SHIELD(盾)、BUCKLER(丸盾)、BANNER(軍旗)、JACKBOOT(革長靴)、CLARION(軍隊ラッパ)だ。CUL DE SAC(袋小路)、ANCIEN RÉGIME(旧体制)、DEUS EX MACHINA(機械仕掛けの神)、MUTATIS MUTANDIS(変更すべきところは変更して)、STATUS QUO(現状維持)、GLEICHSCHALTUNG(強制的同一化)、WELTANSCHAUUNG(世界観)といった外国の言葉や表現は文化的で優雅な雰囲気を与えるために使われる。I.E.(つまり)、E.G.(例えば)、ETC.(~など)という便利な略語を除けば、現在、英語で使われている数百もの外国の言い回しにはどれも実際的な必要性は存在しない。下手な書き手、とりわけ科学、政治、社会学について書く書き手は、ラテン語やギリシャ語の単語はサクソン語のそれよりも優れているという考えにほとんど常に取り憑かれていて、EXPEDITE(促進させる)、AMELIORATE(改良する)、PREDICT(予測する)、EXTRANEOUS(外部からの)、DERACINATED(流浪の)、CLANDESTINE(内密の)、SUB-AQUEOUS(水面下での)、さらには数百もの他の必要のない言葉がそれらのアングロサクソン語における等価物の領域を絶えず侵犯している[以下の注記1]。マルクス主義者の文章に特徴的なジャーゴン(HYENA(ハイエナ)、HANGMAN(絞首刑執行人)、CANNIBAL(人食い)、PETTY BOURGEOIS(プチブルジョアジー)、THESE GENTRY(こうした紳士階級)、LACKEY(追従者)、FLUNKEY(おべっか使い)、MAD DOG(狂犬)、WHITE GUARD(白衛兵)など)の大部分を占める言葉と言い回しはロシア語、ドイツ語、フランス語から翻訳されたものだ。しかし新語を作る場合に通常とられる方法はラテン語かギリシャ語の語源に適当な接辞をつけて使い、必要な場合には「-ize」の接尾辞をつけるというものだ。こうした単語(DE-REGIONALIZE(非行政区画化)、IMPERMISSIBLE(許容不可能な)、EXTRAMARITAL(婚外の)、NON-FRAGMENTARY(非断片化された)など)をでっちあげるのは、必要な意味を持つであろう英語の単語を考えるよりも簡単なことがよくある。一般的にはその結果としてだらしなさと曖昧さが増えていくことになる。

[注記1:これによる興味深い実例のひとつがごく最近まで使われていた英語の花の名前がギリシャ語のそれによって追放されていることだ。SNAPDRAGON(キンギョソウ)はANTIRRHINUMへ変わり、FORGET-ME-NOT(ワスレナグサ)はMYOSOTISへといった風に変わっている。こうした流行の変化に対して何らかの実利的な理由があるとは考えにくい。おそらくよく見知った単語を避けるという本能とギリシャ語の単語は科学的であるという漠然とした感覚によるものだろう。(原著者脚注)]

無意味な単語。特定の種類の文章、とりわけ芸術批評と文学批評においてはほとんど完全に意味を欠いた長文に出くわすことが普通である[以下の注記]。ROMANTIC(空想的)、PLASTIC(可塑的)、VALUES(価値)、HUMAN(人間)、DEAD(死)、SENTIMENTAL(感傷的)、NATURAL(自然な)、VITALITY(生命力)といった単語はそれが芸術批評で使われる限りにおいてはまず間違いなく無意味なものになる。解明可能な物体をなんら指し示さないだけでなく、読者がそれを期待することさえ無くなるのだ。ある批評家が「X氏の作品の際立った特徴はその生き生き(living)とした質感である」と書き、別の批評家が「X氏の作品でただちに気がつくのはそれ特有の生気の無さ(deadness)」と書くとき、その読者はそれを単純な意見の違いとして受け入れるが、DEAD(死)とLIVING(生)というジャーゴンの代わりにもしBLACK(黒)とWHITE(白)といった単語が使われていればただちに言葉が不適切な使われ方をしていることに気がつくことだろう。多くの政治用語も同じように乱用されている。FASCISM(ファシズム)という単語は「何か望ましくないもの」を意味する場合を除けば今やまったく無意味なものになっている。DEMOCRACY(民主主義)、SOCIALISM(社会主義)、FREEDOM(自由)、PATRIOTIC(愛国的)、REALISTIC(現実的)、JUSTICE(正義)という単語はそれぞれに互いに整合にしない、いくつもの異なる意味を持っている。DEMOCRACY(民主主義)のような単語の場合には、意見の一致が可能な定義が無いばかりか全方位から抵抗を受けるような定義を作ろうという試みさえなされる。ある国を民主的であると呼べば、それは誉め言葉あるという感覚はほとんど全世界的なものだ。その結果としてあらゆる種類の体制の擁護者はその体制が民主的であると主張し、それが何か他の意味と結びついてしまってその言葉を使うことをやめなければいけなくなることを恐れる。こうした種類の単語はしばしば意識的に不誠実なやり方で使用される。つまりそれらを使う人物は個人的な独自の定義を持ちながらも、何かまったく異なる意味として聞き手が解釈することを許すのだ。MARSHAL PÉTAIN WAS A TRUE PATRIOT(ペタン元帥は真の愛国者だ)、THE SOVIET PRESS IS THE FREEST IN THE WORLD(ソビエトの報道機関は世界で最も自由である)、THE CATHOLIC CHURCH IS OPPOSED TO PERSECUTION(カトリック教会は迫害に反対している)といった文章はほとんど決まって欺こうという意図を持って作られる。ほとんどの場合で多かれ少なかれ不誠実に、様々な意味で使われる単語としてはCLASS(階級)、TOTALITARIAN(全体主義者)、SCIENCE(科学)、PROGRESSIVE(進歩主義者)、REACTIONARY BOURGEOIS(反動的ブルジョア)、EQUALITY(平等)がある。

[注記:例えば「知覚と描像における心地よさの普遍性、射程内に置かれた奇妙なホイットマン的特徴、美的衝動におけるほとんど正反対のものが、戦慄すべき半透明な蓄積していく冷酷さの暗示、厳然とした静かな永続性を想起させ続ける……リー・ガーディナーは正確にひとつの急所を狙うことで成功を収めている。一方でそれらはそう単純なものではなく、この満ち足りた悲しみには服従の表面的なほろ苦さ以上のものがある」(ポエトリークォータリー誌)(原著者脚注)]

さてここまで私は欺瞞と倒錯の目録を作ってきたが、そこから導かれる文章の例を挙げさせて欲しい。ここで示すのはそうした性質を持つ架空のものである。優れた英語で書かれた文章を最低のたぐいの現代英語に翻訳してみようと思うのである。次に挙げるものは旧約聖書のコーヘレト書から取ってきた有名な一節だ。

I returned, and saw under the sun, that the race is not to the swift, nor the battle to the strong, neither yet bread to the wise, nor yet riches to men of understanding, nor yet favor to men of skill; but time and chance happeneth.

(私は再び日の下を見たが、競走は速い者のためにあるわけではなく、戦いは強い者のためにあるわけでもない。またパンは賢い者のためにあるわけではなく、富はさとき者のためにあるわけでもなく、恵みは技芸に長けた者のためにあるわけでもない。しかし時と機会は全ての人のためにある)

次は現代英語である。

Objective consideration of contemporary phenomena compels the conclusion that success or failure in competitive activities exhibits no tendency to be commensurate with innate capacity, but that a considerable element of the unpredictable must invariably be taken into account.

(現代の現象から導かれる客観的な考察によれば以下の結論は議論の余地のないものである。すなわち競争的活動における成功や失敗には先天的能力との相関傾向は見られないが、予測不可能で重要な要素を不可避に考慮する必要があるのだ)

これは一種のパロディーだが、まったくくだらないものというわけでもない。例えば先に示したもの(3)には同じ種類の英語からなる複数のつぎはぎが含まれている。 私が完全な翻訳をおこなっていないことはお分かりいただけるだろう。始めと終わりの文は原文の意味にかなり忠実に従っているが、その間で具体的に描かれているもの……競走、戦い、パン……は「競争的活動における成功や失敗」という漠然とした言い回しへと溶解している。これは仕方のないことだ。なぜなら私が議論しているような種類の現代の書き手……「現代の現象から導かれる客観的な考察」といった言い回しを駆使できる者……で、こうした正確で詳細な方法によって自らの考えを一覧にしてみせる者はいないだろうからだ。現代の散文の全体的傾向は具体性から距離を置いていることだ。さて、この二つの文章をもう少し詳しく調べてみよう。初めのものには四十九個の単語が含まれているが音節は六十個しかなく、そこに含まれる単語は全て日常生活におけるそれだ。二番目のものには三十八個の単語が含まれていてそれは九十個の音節からなっている。そこに含まれる単語のうち十八個はラテン語に由来するもの、ひとつはギリシャ語に由来するものだ。初めの文章には六つの鮮明な描写があり、漠然としていると呼ぶことができるであろう言い回しはひとつ(「時と機会」)だけだ。二番目のものには鮮明で目を引く言い回しはひとつたりとも無く、また音節が九十もあるにも関わらず、それが伝えるのは初めのものが持つ意味の要約でしかない。しかし疑いようもなく、現代の英語で勢力を広げているのは二番目のような文章である。おおげさな物言いをしたいわけではない。こうした種類の書き物はまだ全世界に広がっているとは言えないし、最もひどいページであっても平易な文があちらこちらに頭をのぞかせることはあるだろう。しかし、もしあなたや私が人間の運勢の不確実さについて数行の文章を書くように言われれば、おそらく私たちが書くものはコーヘレト書から取ってきたものよりも私の架空の文章にずっと近いものになるはずだ。

私が示そうとしたように、現代の最もひどい文章では、意味をより明確にするために意味と想起させるイメージを元に言葉を選ぶということがされていない。すでに他の誰かによって用意されている言葉をつなぎ合わせて長い連なりにし、まったくのたわ言によって整えられた結果を作り上げているのだ。こうした書き方の魅力はそれが簡単なことだ。いったん慣れてしまえば I THINK(私は~と考える)と言うよりも IN MY OPINION IT IS A NOT UNJUSTIFIABLE ASSUMPTION THAT(私の意見としては~は正当化し得ない仮定ではない)と言う方が簡単で、手っ取り早くさえあるのだ。あらかじめ用意された言い回しを使えば言葉を探し回る必要も、言い回しのリズムに思い悩む必要もなくなる。こうした言い回しはたいていは多かれ少なかれ耳に心地よく響くように調整されているからだ。急いで言葉を紡ぐとき……例えば速記者に口述筆記させる時やおおやけの場で演説するとき……は仰々しいラテン語をちりばめた口調に陥りがちだ。A CONSIDERATION WHICH WE SHOULD DO WELL TO BEAR IN MIND OR A CONCLUSION TO WHICH ALL OF US WOULD READILY ASSENT(私たちが頭に留めておいた方がいい判断あるいは私たち全員がただちに賛同するであろう結論)、といった決まり文句は引っかかりをともなって現れる多くの言い回しを省略してくれる。陳腐な隠喩、直喩、慣用句を使えば、意味の曖昧さが残されていることによって生じる多くの精神的労力を節約でき、それは読者のためにも自身のためにもなるのだ。混ぜ合わされた隠喩がある場合には特にそれが顕著だ。隠喩が持つ唯一の目的は視覚的なイメージを呼び起こすことだ。そうしたイメージの調和がとれていないとき…… THE FASCIST OCTOPUS HAS SUNG ITS SWAN SONG(ファシストの蛸はその断末魔の叫びをあげている)、 THE JACKBOOT IS THROWN INTO THE MELTING POT(革長靴がるつぼに投げ入れられた)……には、名状している物事について筆者は内心にイメージが浮かんでいない、言い換えればちゃんと考えていないと見てまず間違いない。このエッセイの始めに私が挙げた例を見直してみて欲しい。ラスキ教授(1)は五十三ワード中に五つの否定語を使っている。そのひとつは不必要で、文章全体を意味不明なものにしている。さらに付け加えれば、同じ国の人間にALIEN(異邦人)という言葉を使う不注意がいっそう意味をわかりにくくしているし、取り除くことが可能ないくつかのぎこちない言葉によって全体的な曖昧さが増している。ホグベン教授(2)は処方箋を書けるような一群の言葉を湯水のように使い、PUT UP WITH(我慢する)という日常的な言い回しに反対する一方でEGREGIOUS(はなはだしい)を辞書で引いてその意味を確認する気もないのだ。(3)は、厳しい態度で言えば率直に言って意味不明なものだ。この文章が意図しているものは、おそらくそれが含まれている記事全体を読んでようやく読み解くことができるだろう。(4)では書き手は多少なりとも自分が言いたいことを理解しているが、陳腐な言い回しの寄せ集めがまるで紅茶の茶葉が流し台を詰まらせるように書き手の喉を絞めている。(5)では単語と意味がほとんど完全に分離されている。こうしたやり方で文章を書く人々はたいていあるおおまかな情緒的な意図を持っている……彼らはひとつのことを嫌い、ほかの物で表現の具体性を得ようとする……しかし自分たちが何を言っているのかの詳細については関心を払わないのだ。慎重な書き手は自分が書く一文ごとに少なくとも四つの質問を自身に問うものだ。すなわち、自分は何を言おうとしているのか、どの語を使えばそれを表現できるか、どのようなイメージ・慣用句を使えばそれをより明確にできるか、こうしたイメージは効果をあげるだけの新鮮さがあるか、である。そしておそらくはさらに二つのことを自らに問うだろう。もっと短くできないだろうか、取り除くことができる醜いことを書いていないだろうか、ということだ。しかしこうした面倒全てにかかずらわずにいることもできる。考えることをたんに投げ出し、あらかじめ用意された言い回しが押し寄せるに任せて逃げ出すこともできるのだ。そうした言い回しは自分に代わって文章を組み立ててくれる……ある程度までなら自分に代わって考えてくれさえする……そして、必要となれば意味することの一部を自分さえわからないように隠蔽するという重要な役割も担ってくれる。政治と言語の荒廃の関係が明確になるのはこの点においてなのだ。

現代において政治的な文章がひどい書き方をされていることはおおまかに言って間違いのないことだろう。例外があるとすれば、それは概してある種のリベラルが「党の見解」ではなく自身の私的な意見を述べている場合である。正統なものはそれがどんな色を帯びているものであれ、生気のない、模倣的な文体であることを要求されているように見える。パンフレットや新聞の社説、党の宣言文、政府の公式報告書、事務次官のおこなう演説には政治的な方言が見られる。もちろんこれはさまざまな政党に及んでいるが、新鮮で鮮明な独自色のある演説の一文はまず間違いなく見つけられないという点においては全てよく似ている。演台の上でおなじみの言い回し……BESTIAL ATROCITIES(獣じみた残虐行為)、IRON HEEL(鉄の踵)、BLOODSTAINED TYRANNY(血塗られた独裁)、FREE PEOPLES OF THE WORLD(世界の自由な人々)、STAND SHOULDER TO SHOULDER(肩を並べた抵抗)……を機械的に繰り返す退屈な演説者を見ると、まるで生きている人間ではなく何かの人形を見ているような奇妙な気持ちによくなる。ライトが演説者の眼鏡にあたってそれを白い円盤に変え、その背後に目が無いように見えた瞬間などはその気持ちがいっそう強くなる。そしてこれはまったく非現実なことでもないのだ。こうした言葉づかいをする演説者は自らをいくぶんかは機械へと変えている。その喉頭からは適切な雑音が発せられながらも、その頭脳は自身のために自らの言葉を選ぶときのようには働いていない。おこなっている演説が何度も繰り返されて習慣化されている場合には、演説者は自分が何を言っているのかをほとんど意識しないだろう。教会で唱和の声を上げる時と同じようなものなのだ。そしてこの意識状態の低下は不可欠とは言えないまでも多かれ少なかれ政治的服従に都合のいいものだ。

現代において政治的な演説と文書の大部分は弁解の余地の無いものに対する弁解である。インドにおけるイギリスの支配の継続、ロシアでの粛清と国外追放、日本への原子爆弾の投下といったものには確かに弁解の余地はあろうが、そのための議論は激しいものになってほとんどの人々はしり込みするだろうし、政党のおおやけの目標とは合致しない。こうした理由から政治の言葉はその大部分において婉曲表現、循環論法、まったくはっきりしない曖昧さで形作られることにならざるを得ない。無防備な村々が空爆され、その住民は僻地へと追い払われ、飼われていた牛は機関銃の餌食となり、住居の小屋には焼夷弾によって火が放たれる。これがPACIFICATION(和平工作)と呼ばれる。数百万の農民が自分の農場を奪われ、手に持てるだけの荷物で道に沿ってとぼとぼと歩かされていく。これがTRANSFER OF POPULATION (人口移動)だとかRECTIFICATION OF FRONTIERS(開拓地調整)と呼ばれる。人々が裁判も無しに何年も収監されたり、背後から銃殺されたり、北極圏の丸太小屋での卑劣な死に追いやられる。これがELIMINATION OF UNRELIABLE ELEMENTS(信頼性を欠く要素の除去)と呼ばれる。こうした言葉の使い方が必要となるのは、これらの出来事によって心に描き出されるイメージを想起させずにそれらを記述したいと思う場合である。例えばある何不自由のないイギリスの教授がロシアの全体主義を擁護しているところを想像してみよう。彼は率直に「それによって好ましい結果が得られる場合には反対者を殺して取り除くことは正当であると考える」とは言えない。従っておそらくは次のようなことを言うだろう。

人道主義者が遺憾に思う傾向がある一定の特徴をソビエト体制が示していることについては率直に認めるが、その一方で、私が思うに、政治的に対立する相手の権利を一定程度制限することは移行期には避けがたく付いて回るものであること、またロシアの人々が経験することを余儀なくされた苦難はその確固とした業績の圏内において十分に正当化されるものであることを私たちは認めなければならない。

誇張された文体はそれ自体が一種の婉曲語法だ。大量のラテン語の単語が事実の上に粉雪のように降り積もり、その輪郭をぼやけさせ、全ての詳細を覆い隠す。明瞭な言葉の大きな敵は不誠実さである。ある者の実態と謳われている目標との間にずれがある時、その人物はイカが墨を吐くように本能的に長々しい単語と使い古された慣用句へ手を伸ばす。現代において「政治に近づかない」などということはあり得ない。あらゆる問題が政治問題であり、政治それ自体が大量の嘘、言い逃れ、愚行、憎悪、精神分裂なのだ。全体の空気が悪い時には言葉は必ずひどい物となる。私にはそれを確かめるための十分な知識がないのでこれは推測だが、過去十年か十五年の間に独裁の結果としてドイツ語、ロシア語、イタリア語はひどく劣化したのではないかと考えずにはいられない。

しかし思考が言葉を腐敗させるのだとしたら、言葉もまた思考を腐敗させることができる。間違った用法は慣習と模倣によって広がり、正しい用法を知っている人々、知っているべき人々にさえも広がる。私が議論してきた劣悪な言葉はある意味においてはとても便利なものだ。A NOT UNJUSTIFIABLE ASSUMPTION(正当化し得ない仮定)、LEAVES MUCH TO BE DESIRED(不十分な点の多い)、WOULD SERVE NO GOOD PURPOSE(好ましくない目的に資するであろう)、A CONSIDERATION WHICH WE SHOULD DO WELL TO BEAR IN MIND(私たちが頭に留めておいた方がいい判断)、こうした言い回しは常に魅惑的で、いわば手の届くところに常に置かれているアスピリンの包みだ。このエッセイを読み返せばまず間違いなく、自分が抗議してきたひどい過ちを私が繰り返し犯していることに気がつくだろう。今朝の郵便で私はドイツの状況を扱ったパンフレットを受け取った。その著者は自分がこれを「書かなければならないと感じた」と私に言っていた。私はそれを何気なく開封したが、ここに最初の方で目にした一文をあげよう。「(連合国は)ドイツそれ自体のナショナリスティックな反応を取り除くためのドイツにおける社会と政治構造の根本的変革を達成する機会だけでなく、同時に共同的・統一的ヨーロッパの基盤を築くための機会をも手にしている」。すでに見たように彼は「書かなければならないと感じた」……おそらくは何か目新しい、言うべきことがあると感じたのだろう……けれどもその言葉は軍隊ラッパに応じる騎兵の馬のように、自動的に自身をおなじみの退屈な隊列へと編成している。あらかじめ用意された言い回し(LAY THE FOUNDATIONS(基盤を築く)、ACHIEVE A RADICAL TRANSFORMATION(根本的変革を達成する))によるこうした思考への侵略はそれらに対する防御を常に怠らないようにしなければ防ぎ得ないものであり、こうした言い回しはどれも頭脳の特定の部位を麻痺させるものなのだ。

先に私は、私たちの言葉の退廃はおそらく治療可能なものであると言った。これを否定する人々はもし彼らが何か論拠を生み出すとしたら、言葉はたんに既存の社会条件を反映しているものであり、単語や構文を直接いじり回してもその進行に影響を与えることはできないと反論することだろう。言葉の持つ全体的な色合いや生気という点についてであればこれは正しいだろうが、細かい点について言えば誤っている。馬鹿げた単語や表現はしばしば姿を消すが、それは何らかの進化的な過程によるものではなく少数の人間の意識的な行動によるものなのだ。最近の例を二つあげればEXPLORE EVERY AVENUE(全ての通りを探索する)とLEAVE NO STONE UNTURNED(ひとつ残らず石をひっくり返す)で、これらはごく少数のジャーナリストのからかいによって抹消された。十分な数の人々がその職業において注意を払えば同じように取り除くことのできるであろう陳腐な隠喩の長いリストが存在するのだ。NOT 「UN-」という構文を笑い飛ばしてその存在を消し去ることも可能だろうし[以下の注記]、通常の文章でラテン語とギリシャ語の量を減らし、外国語の言い回しや場違いな科学用語を追い出し、全体においてそれらを気取った、流行遅れのものにすることも可能だ。しかしこれらは全て些末なことに過ぎない。英語を守るとはそれ以上のことを意味する。そしておそらくは、それが何を意味しないかを最初に説明するのが最も良いだろう。

[注記:次の文を憶えておくとこのNOT 「UN-」という構文を矯正することができる:A NOT UNBLACK DOG WAS CHASING A NOT UNSMALL RABBIT ACROSS A NOT UNGREEN FIELD(黒くなくはない犬が緑でなくはない野原を横切って小さくなくはない野兎を追っていた)。(原著者脚注)]

まず初めにこれは古文体、廃れた単語や演説の節回しへの回帰、あるいは決して逸脱しない「標準英語」を組み立てるということとはまったく関係ない。それどころか、その利用価値を失った全ての単語、慣用句を取り除くということと、とりわけ深い関係があるのだ。また正しい文法や構文といったものとも関係しない。意味するところが明確にできるのであればそうしたものはたいして重要ではない。アメリカ的語法を避けることや「良い散文」と呼ばれるものを身に付けることとも関係ない。他方、まやかしの平易さや話し言葉で英語を書くという試みも関係ない。どんな場合でもラテン語よりサクソン語を選ぶということさえ意味しないし、意味するところを満たす最小・最短の単語を使うということも意味しない。最も必要なのは意味に言葉を選ばせることで、その反対をさせないことだ。散文における言葉の用い方で最悪なのはそれに身をゆだねることだ。具体的な何かについて考えるときにはまず黙って考え、それから頭に浮かんだ情景を書き表したいと思えばそれに適しているように見える正確な単語をそれが見つかるまで探し求めることだろう。抽象的な何かについて考える時には始めから言葉を使ってしまうことがずっと多い。そしてそうならないように意識的に努力しないと既存の語法が押し寄せてあなたに代わって仕事をおこない、ひきかえに意味するところをぼやけさせたり、変えてしまうことさえするのだ。おそらくはできるだけ言葉を使うことから身を遠ざけ、意味するところを写真や知覚で感じられるほど明確にすることが好ましい。意味を最も満たす言い回しを……たんに受け入れるのではなく……選び、それから場所を入れ替わって、その言葉が他の人間にどのような印象を与えるかを見極めるのだ。この精神的な最後の努力によって陳腐で矛盾したイメージ、あらかじめ用意された言い回し、不要な繰り返し、たわ言と曖昧さ全般を全て取り除くのだ。しかし言葉や言い回しの持つ効果についてはしばしば疑いが差しはさまるし、直観が効かない時には頼ることのできるルールが必要となる。ほとんどの場合では次のルールが通用すると私は思う。

(ⅰ)印刷物でよく目にするような演説に出てくる隠喩、直喩、その他の言葉のあやは決して使わない。

(ⅱ)短い言葉で事足りるところに長い言葉は決して使わない。

(ⅲ)言葉を取り除ける場所では必ずそれを取り除く。

(ⅳ)能動態を使える場所では決して受動態を使わない。

(ⅴ)日常英語で同等のものを思いつく場合には外国語の言い回し、科学用語、ジャーゴンは決して使わない。

(ⅵ)何か粗野な物言いになってしまうくらいであればどれであろうがこれらのルールを破る。

これらのルールはごく初歩的なものに聞こえ、実際にその通りなのだが、現在流行している文体で書くことに慣れていっている人間には大きな態度の変化が要求される。これらを全て守った上でひどい英語を書くことになる場合もあるだろうが、この記事の冒頭で私が引いた五つのサンプルのような代物を書くことにはならないだろう。

ここで私は文学における言葉の使い方については考慮せず、思考を隠したり妨げる手段としてではなく、たんに表現の道具としての言葉について考えてきた。スチュアート・チェイスやその他の人々は抽象的な言葉は全て無意味なものであると主張しかねない調子で、これを口実に使って政治的な静寂主義の一種を擁護している。ファシズムが何なのかを知らずに、いったいどうやってファシズムに対抗するのか? こうしたひどく馬鹿馬鹿しい言い分を鵜呑みにする必要はないが、現在の政治的混迷は言葉の腐敗とつながっていること、言語の一端から始めることでおそらくはいくらかの改善を得られることは認識すべきだ。あなたの英語を平易なものにすれば正統の持つ最悪の愚劣さからは自由になれる。必要とされる方言をどれも話せなければ、馬鹿げた発言をした時にはその馬鹿馬鹿しさがあなた自身にとってさえも明らかなものになるだろう。政治的な言語……そしてその変種は保守主義者から無政府主義者までの全ての政党について当てはまる……は嘘が真実味を持って聞こえ、殺人が世間体の良いものになり、まったくのたわ言が堅固なものに見えるように設計されている。これらの全てを同時に変えることはできないが、少なくとも自身の習慣は変えられるし、十分大きな声で笑い飛ばせば時には擦り切れた利用価値の無い言い回し……JACKBOOT(革長靴)、 ACHILLES' HEEL(アキレスの踵)、 HOTBED(温床)、 MELTING POT(るつぼ)、 ACID TEST(厳しい検査)、 VERITABLE INFERNO(真の地獄)、その他の一群の言語的廃棄物……をそれがあるべき場所であるごみ箱へと送り込むこともできるのだ。

1946年4月
Horizon

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オーウェル評論集4: 作家とリヴァイアサン
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