プロパガンダと民衆的演説, ジョージ・オーウェル

プロパガンダと民衆的演説


一九三八年に私がイングランドからモロッコに出発する時、(ロンドンから五十マイルも離れていない)私の住む村の住人の一部はたどり着くまでに海を越える必要があるかどうかを知りたがった。一九四〇年、ウェーヴェル将軍のアフリカ会戦があった頃、私は食料を買った相手の女性がキレナイカキレナイカ:北アフリカにある現リビアの東部地方。1912年から第二次大戦中までイタリアの保護領・植民地だった。はイタリアにあると思っていることに気づいた。一、二年前に、あるATSATS:補助地方義勇軍(Auxiliary Territorial Service)。第二次世界大戦時にイギリス軍が組織した女性部隊。にABCAABCA:陸軍時事問題局(Army Bureau of Current Affairs)。第二次大戦中にイギリス軍内にあった組織で、兵士に対して現在の状況や市民としての務めなどを講義した。の講義をおこなっていた私の友人のひとりがいくつかの一般知識を彼女たちに質問する実験を試みたことがある。回答の中には(a)国会には六人しか議員がいない、だとか(b)シンガポールはインドの首都である、といったものがあった。これでも不十分と言うのであれば私はまだまだ多くのこうした例を挙げることができる。私がこの三つの例に触れたのは大衆向けの演説や文章が考慮しなければならない無知無学についてまず始めに思い出してもらいたいからだ。

それにも関わらず政府のビラや白書、新聞の社説、政治家の演説や放送、どの政党であれそのパンフレットや声明文を調べると、ほとんど決まって印象に残るのはそれらがいかに平均的な人間から縁遠いものであるかなのだ。存在しない知識を前提としているだけではない。そうすることはしばしば正しく、必要なこともあろう。それに加えて大衆的で明確な日常言語が無意識のうちに取り除かれているように見えるのだ。政府広報の無感情な話法(特徴的な言い回しは「適切な時期に」「あらゆる手段を講じて」「可能な限り早い機会に」「肯定的な回答」だ)は長々と説明するまでもなく有名だ。新聞の社説はこれと同じ話法か、あるいは普通の人間であれば決して使おうとは考えない、時代がかった言葉(窮迫、勇猛、勁烈、仇敵、扶翼、復讐、卑劣、塁壁、防塁、稜堡)へ退行しがちな大げさでもったいぶった文体で書かれている。左派政党は最大限のぎこちなさで翻訳されたロシア語やドイツ語の言い回しからなるろくでもない語彙に特化している。そして特定の環境で何をすべきかを人々に教え、指導することを意図したポスターやビラ、放送でさえしばしばこうしたものの影響によって失敗しているのだ。例えば最初のロンドン空襲の時にはどのサイレンが警報を意味し、どのサイレンが警報解除を意味するのかわからない人々が無数にいることが判明した。ARPARP:空襲警報(Air Raid Precautions)のポスターを何ヶ月、何年も見ていた後でこれなのである。こうしたポスターでは警報を「さえずるような響き」と表現していた。印象に残らない言い回しである。空襲のサイレンはさえずりではなく、この言葉に何かはっきりとした意味を見出す人々はわずかだった。

戦争初期の数ヶ月にリチャード・アクランド卿が政府へ送る声明文を作成していた時、彼は世論調査のチームを雇って政治の場で飛び交う仰々しく抽象的な言葉に一般の人間がどのような意味を見出すのか――もし見出すとして――を調査させた。とてつもなく奇妙な誤解が白日のもとにさらされた。例えばほとんどの人々は「immorality(不道徳)」に性的不道徳以外の意味があることを知らなかった[以下の注記]。ある男は「movement(運動)」は何か便秘に関係するものだと思っていた。また演説放送やニュース速報が平均的な聴衆に何の感動も与えていない様子はパブに夜行けばいくらでも目にできる。それらが気取った堅苦しい言葉で、時には上流階級のアクセントでもって語られるからだ。ダンケルクでの出来事があった頃、私は一時のニュースが流れる中で作業員の一団がパンとチーズを食べているのを目にしたことがある。印象に残ることは何も起こらず、彼らは何の感動も無く食事を続けた。その後、ほんの束の間、ボートに乗って運ばれたある兵士の言葉の報告でアナウンサーの口調が口語英語になり「ともかく今回の旅で泳ぎを学んだよ」という言葉が出た。とたんに耳がそばだてられるのが見て取れた。普通の言葉だったので耳に届いたのだ。数週間後、イタリアが参戦した翌日にダフ・クーパーは、ムッソリーニの短絡的行動が「イタリアの有名な遺跡を増やすことになる」だろうと述べた。実に言葉巧みな正しい予言ではあったが、こうしたたぐいの言葉遣いが九割方の人々にどれだけ響くだろうか? 話し言葉に直せば次のように成るだろう。「イタリアは遺跡で有名だ。そのめちゃくちゃになった場所は今よりもっと増えることになるだろう」しかし、これは少なくとも公の場での閣僚の話し方ではない。

[注記:それにも関わらずイギリス連邦は驚くほど貧弱なスローガンを採用した。「道徳的に間違っていることは政治的に正しくなりようがない」というものだ。(原著者脚注)]

強い感情を明らかに喚起せず、人の口伝いに広がらない役に立たないスローガンの例は次の通り。「相応しい勝利」「自由は危機に瀕している。全力で守れ」「社会主義が唯一の解」「収奪者を収奪せよ」「緊縮財政」「革命レボリューションではなく進化エボリューションを」「平和は分断できず」。口語英語での言い回しによるスローガンの例は次の通り。「ロシアに手を出すな」「ドイツに思い知らせてやれ」「ヒトラーを止めろ」「胃袋に税金無し」「スピットファイアを購入せよ」「女性に投票を」。これら二つの分類の中間の例は次の通り。「全力を尽くせ」「勝利のために掘り進め」「全ては自分次第」。それからチャーチルの言い回しのいくつか、つまり「始まりの終わり」「柔らかな急所」「血、労苦、涙、汗」「かくも多数の者が、かくも多くを、かくも少なき者に負ったことはこれまでなかった」といったものがある(重要なのはこの最後の文句が口伝てに繰り返されていくうちに堅苦しい「人類の紛争の場において」という言い回しが抜け落ちたことだ)。大げさで鼻にかけたように聞こえるものは何であれほとんど全てのイギリスの人々に嫌われるという事実には注意が必要である。「やつらを通すな」だとか「ひざまずいて生きるくらいなら、立って死んだ方がましだ」「やつらを通すな」だとか「ひざまずいて生きるくらいなら、立って死んだ方がましだ」:スペインの政治家ドロレス・イバルリによるスペイン内戦時のスローガンといった大陸の国民を興奮させるスローガンはイギリス人、とりわけ労働者を少々気恥ずかしくさせるように見える。しかし政治宣伝者・普及者の最大の弱点は口語英語と文語英語が異なる二つのものであると気づいていないことなのである。

最近、私が「客観的反革命的左派逸脱」だとか「プチブルジョア的要素の劇的清算」といった言い回しを使うマルクス主義者の話法に紙面で異議を唱えた時のことである。私は、長年にわたる社会主義者たちから私が「プロレタリアートの話し方を侮辱している」という怒りの手紙を受け取った。それとほとんど同じ精神でもってハロルド・ラスキ教授は彼の最新著作「信仰、理性、文明」の中で長い文章を割いてT・S・エリオット氏を攻撃している。「少数の者のためだけに著作をしている」と非難しているのだ。こうした出来事が起きている現在、エリオットは話し言葉の英語で著作をおこなおうと真剣に取り組んでいる現代における数少ない作家のひとりなのである。次のような文章――

And nobody came, and nobody went,
But he took in the milk and he paid the rent

(誰も来ず、誰も行かず、
しかし彼はミルクを手に、家賃を支払った)

は印刷できるものの中で最も口語英語に近いものだ。一方で、ラスキ自身の文章の中から全体的に見て典型的な一文をここに挙げておこう。

As a whole, our system was a compromise between democracy in the political realm—itself a very recent development in our history—and an economic power oligarchically organised which was in its turn related to a certain aristocratic vestigia still able to influence profoundly the habits of our society.

(全般に私たちの体制は政治領域における民主主義――それ自体、私たちの歴史においてごく最近発達したもの――と私たちの社会習慣にいまだ深く影響を与えるある種の貴族的な痕跡器官と関係を持つ姿を変えた経済的権力寡頭制との妥協物なのだ)

ちなみにこの一文はある講演録から引用したものである。ラスキ教授が演壇に立ってとうとうとまくしたてる様子が細部まで目に浮かぶようである。こうしたやり方で話したり文章を書くことのできる人々は日常言語がどのようなものだったかを完全に忘れてしまっていることは明らかである。しかしラスキ教授の文章、さらに良いのは共産主義文学、最良はトロツキストのパンフレットだが、そこからこうしたものとは異なる文章を探し出すことは私にはできなかった。左派の出版物を読むと、プロレタリアートについてまくしたてる人々はその声が大きければ大きいほどプロレタリアートの言語を見下すようになる、という印象を受けることは間違いない。

口語英語と文語英語が二つの異なるものであることについては既に述べた。こうした多様性はあらゆる言語に存在するが英語のそれはおそらくほとんどの言語よりも大きい。口語英語は俗語に満ちていて、可能なところでは決まって省略され、あらゆる社会階級の人々が文法や構文をぞんざいなやり方で扱う。しゃべる時にその場で完璧な文を紡ぐことのできる者は極めてわずかしかいない。何よりも、膨大な英語の語彙には文章を書く時に皆が使う多くの言葉が収められているにも関わらず、そこには話す時に実際に使われている語は無いのだ。さらにまたそこには数千を超える完全に廃れてしまった言葉も含まれているが、それらは賢く聞こえたり、威勢がよく聞こえたりするようにと望む者によって無理やり引っ張り出されているものなのである。こうしたことを心に留めておけば、それが口に出されるものであっても文章として書かれるものであっても、狙った聴衆にプロパガンダを届ける確実な方法について考察できるようなる。

文章について言えば誰もが試せるのはシンプルに書くことだ。最初の一歩――社会調査をおこなう組織は数百ポンドか数千ポンドでこれをおこなえるだろう――は政治家が習慣的に使う抽象的な言葉のうちのどれが大多数の人々に本当に理解されているかを見つけ出すことである。もし「宣言公約の無節操な違反」だとか「民主主義の基本原則に対する潜行性の脅威」といった言い回しが平均的な人間には全く意味のわからないものであったとしたら、それらを使うのは馬鹿げている。第二に、文章を書く際には話し言葉を常に心に留めておくことだ。完全な口語英語を紙の上に写すことは実に厄介な問題で、これについては後で示して見せる。しかし「これをシンプルにできないだろうか? もっと話し言葉のようにできないだろうか?」と習慣的に自身に言い聞かせれば、先にラスキ教授から引用したような文章を生み出すことはめったになくなるし、殺すと言う時に「除去」と言ったり、防火用水と言う時に「静水」と言ったりすることもなくなるだろう。

しかしながら話し言葉によるプロパガンダを用いればさらに大きな改善の可能性がある。この時、口語英語によって文章を書くという問題が生じるのである。

演説、放送、講演、さらには礼拝での説教でさえ通常は事前に原稿が用意されている。ヒトラーやロイド・ジョージといった最も有能な演説家は普通は即興で話すが、そうした者たちはとてつもなく珍しいのだ。概して――ハイド・パークの一画ハイド・パークの一画:ハイド・パークの「スピーカーズ・コーナー」と呼ばれる自由に演説ができる一画を指す。で耳を傾ければそれを確かめることができるが――即興話者と呼ばれる人々はある決まり文句から別の決まり文句へと際限なく言葉を紡ぎ続けているだけだ。いずれの場合もおそらくは以前に何十回もおこなったことのある演説をおこなっている。飛び抜けた才能のあるごくわずかな話者だけが平易さと明瞭さを実現できるのだが、それらは日常会話であれば最も口下手な人間でさえも実現しているものだ。即興演説の放送は試みられることすらめったに無い。ブレインズ・トラストブレインズ・トラスト:BBCによって放送されていたラジオ番組。聴取者からの質問に専門家が回答するという内容だった。といったごくわずかな番組――それらにしても前もって入念にリハーサルをおこなっているのだが――を除けば、BBCから送り出されるあらゆる言葉には原稿が用意されていて書かれた通りに正確に発話される。これは検閲だけが理由ではない。もし追っていく台本が無ければ多くの話者はマイクの前で頻繁に言葉に詰まってしまうためでもあるのだ。結果、もたついて退屈で堅苦しい意味不明な言葉遣いになり、ほとんどのラジオ聴取者は話が始まるやいなやスイッチを切ってしまうことになる。手書きではなく口述筆記することで話し言葉での演説に近づくことができると思うかもしれない。しかし実のところ全く逆なのである。口述筆記は何はともあれ人間にとっては決まって少々の困惑を生む。人には長い沈黙を避けようとする強い欲求があり、そのために必然的に英語を取り散らかったものにしているお決まりの言い回しや死んで腐臭を放つ比喩(いろいろな調子で鳴らす、歯鉄で踏みつける、剣を交える、棍棒を手に取る)にすがりつくことになる。口述筆記による台本は普通は手書きしたものよりも生気に欠ける。必要とされているのは明らかに、日常的でぞんざいな話し言葉による英語を紙の上に捕まえる何らかの方法なのだ。

しかしこれは可能だろうか? 私は可能だと考えている。それも私が知る限りではこれまで一度も試されていない実にシンプルな方法によってだ。それは次のようなものである。まず、しっかり用意ができている話者をマイクの前に座らせ、彼が選んだ任意の題材について流暢にでも途切れ途切れにでもいいから話をさせる。これを異なる一ダースほどの話者におこなわせ、そのそれぞれを録音する。三、四人の人々に対話や会談をさせたものを少しまぜて変化をつけてもいい。それから録音を巻き戻して速記者にそれらを書き取らせるのだ。速記者が普段書いているような短く省略・整理された形ではなく一語一語、適切と思われるところに句読点までつけた形にする。そうすれば――私が信じるところでは、その時に初めて――紙に写し取られた口語英語の正真正銘の標本を手に入れられるだろう。おそらくそれらは本や新聞記事のようには読みやすく無いだろうが、それは口語英語が読まれることを意図したものではないからだ。聞き取られることを意図したものなのだ。私が信じるところでは、こうした標本から口語英語の規則を体系化し、それが文語英語とどれほど異なるのかを理解することができるはずだ。そして口語英語で文章を書くことが可能になった時には、前もって原稿を用意する必要のある平均的な話者や講演家は現在よりもずっと自身の自然な話し方を身近なものにし、本来の話す力を増せるだろう。

もちろん民衆的な演説はたんに話し言葉や、間違った言葉を取り除くといったことに留まるものではない。アクセントの問題もある。現代のイングランドにおいて、大勢の聴衆に狙いを定めている話者にとって「教養ある」上流階級アクセントが致命的であることは確実なように思われる。最近の有能な話者は皆、ロンドン訛りか地方訛りで話す。一九四〇年のプリーストリープリーストリー:J・B・プリーストリー。イギリスの著作家、劇作家、司会者。の放送の成功の大部分は彼がその時にいささか広めたであろう彼のヨークシャー訛りのおかげだった。一見するとチャーチルはこの法則から外れている。現代的な「教養ある」アクセントを習得するには老い過ぎていた彼はエドワード朝的な上流階級の鼻声訛りで話すが、しかしそれは平均的な人間の耳にはロンドン訛りのように聞こえるのだ。「教養ある」アクセント――BBCのアナウンサーのアクセントはそれのある種のパロディーである――には英語を話す外国人にとって聞き取りやすいことを除けばなんら利点は無い。イングランドでは、それに慣れ親しむ少数派もとりわけそれを好んでいるわけではないし、人口の残りの四分の三の間ではただちに階級対立を引き起こしている。また名前の発音が疑わしい場面では、たとえもしそれが間違っているとわかっている場合でも巧みな話者は労働階級の発音を続けるであろうことは注目に値する。例えばチャーチルは「Nazi」や「Gestapo」を誤った発音で呼んでいたがそれは一般の人々が同様に誤った発音を続けている間、ずっと続いた。ロイド・ジョージは先の戦争の間、「Kaiser」をその言葉の大衆版である「Kayser」と表現していた。

戦争の初期、配給手帳を受け取るように人々を誘導しようとして政府は大変な苦労をした。議会選挙では最新の有権者登録名簿がある時でさえ自分の投票権を行使する有権者が半数を下回ることがしばしば起きる。こうした出来事は統治者と被統治者の間の知的断絶を示すものである。しかしこれと同じ断絶は知識人と一般人との間にも常に存在するのだ。ジャーナリストは、彼らがおこなう選挙予測から見て取れるように一般の人々が何を考えているのかを全くわかっていない。革命のプロパガンダは信じがたいほど無力だ。国中の教会には人けがない。こう考えているはずだと仮定する代わりに、平均的な人間が何を考えているのかを調査しようという発想はこれまでなかったし歓迎もされていない。社会調査は左派からも右派からも同じ様にひどく非難されている。しかしながら世論を調査する何らかの仕組みは明らかに現代の政府に必要とされているし、全体主義的な国よりも民主主義的な国での方がその必要性は高いのである。そしてそれを補うのが一般の人間が理解し返答できる言葉で語りかける能力である。

現在のところ、プロパガンダが成功しているのはそれがどちらにしろ人々がおこなおうとしていることと一致した時だけのように見える。例えば現在の戦争の間、政府は士気を保つための施策をほとんどおこなっていない。既に存在した善意の蓄えをただ引き出しているだけである。そしてあらゆる政党はどこも同じ様に極めて重要な問題に一般の人々の関心を向けさせることに失敗している――ひとつだけ例を挙げるとすればインド問題だ。しかし、いつの日か私たちは真に民主的な政府を手に入れるだろう。何が起きているのか、次に何をすべきなのか、どのような犠牲が必要なのか、なぜそれが必要なのかを人々に告げようと欲する政府だ。その政府はそれをおこなうための仕組みを必要とするだろう。手始めは正しい言葉、正しい話し方である。一般人とはどのようなものかを調べることを提案してそのために一般人に近づいていくと、大衆を「見下したい」知識階層の俗物と非難されるか、さもなければイギリス版ゲシュタポの設立を目論んでいるという疑いをかけられるが、こうした事実は民主主義に対する十九世紀的な私たちの観念がどれほど漫然と維持され続けているかを示しているのである。

1944年夏
Persuasion

広告
オーウェル評論集7: 新しい言葉 表紙画像
オーウェル評論集7: 新しい言葉
©2021 H. Tsubota. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示-非営利-継承 2.1 日本