ラッフルズとミス・ブランディッシ, ジョージ・オーウェル

ラッフルズとミス・ブランディッシ


半世紀近く前に初めて登場して以来、「アマチュア泥棒」ラッフルズはイギリスのフィクションの中でも最もよく知られたキャラクターであり続けている。彼がイギリスのクリケット代表選手であること、アルバニーアルバニー:ロンドンのピカデリーにあるアパートの独身者向けの一室に住んでいること、自らが客として迎え入れられたメイフェアハウスメイフェアハウス:ロンドンにあるホテルに泥棒に入ったことを知らない者はほとんどいないだろう。これらの事実を踏まえると、彼とその手口はミス・ブランディッシの蘭のようなもっと現代的な犯罪小説について検討するうえで好ましい思考材料を与えてくれる。このような選択はどうしても恣意的なものになってしまう……例えばアルセーヌ・ルパンを選んでも私は同じように目的を果たせるだろう……しかしいずれにせよミス・ブランディッシの蘭とラッフルズ作品[下記注記]は警官ではなく犯罪者にスポットライトを当てている犯罪小説として同等のクオリティーを備えている。社会学的な目的のために両者を比較することが可能なのだ。ミス・ブランディッシの蘭は一九三九年版の美化された犯罪像であり、ラッフルズは一九〇〇年版のそれだ。私がここで論じたいのはこの二冊の間に見られる道徳的雰囲気の大きな違いについてであり、またおそらくはそれが暗に示す人々の態度の変化についてだ。

[注記:E・W・ホーナングのラッフルズ夜中の泥棒ミスター・ジャスティス ラッフルズを指す。このうちの三冊目は完全な失敗作で、最初の一冊のみが真にラッフルズらしい雰囲気を持っている。ホーナングは無数の犯罪小説を書いているが、普通は犯罪者側の視点に立ったものを書く傾向がある。ラッフルズと全く同じやり方で成功している作品にスティンガリーがある(原著者脚注)]

現時点で考えると、ラッフルズが持つ魅力のひとつはその物語の時代の空気感であり、またひとつは技術的な素晴らしさにあると言える。ホーナングは非常に誠実で、彼に類する水準の中では非常に有能な作家だ。純粋に仕事の効率に関心がある者であれば彼の仕事ぶりには驚嘆することだろう。しかしラッフルズについて言えば本当に印象的で、現在にいたるまで彼をある種の代名詞にしている(ほんの数週間前だがある窃盗事件で治安判事の一人はその被告人を「現実世界のラッフルズ」と呼んだ)のは彼が紳士であるということなのだ。私たちはラッフルズのことをよく知っていて、それは無数の会話の断片や日常的な発言で使い込まれた言葉となっている……その言葉が意味するのは道を踏み外した誠実な男ではなく、道を踏み外したパブリックスクール出身の男だ。彼が何かしら感じる呵責の念はほとんど純粋に社会的なものだけだ。「伝統」を汚し、「品行正しい社会」へ入っていく権利を失い、アマチュア選手としての地位を放棄して彼は下賤の男になった。ラッフルズにしてもバニーにしても盗み自体が悪いことだという気持ちを強くは持っていないように見えるが、一度だけラッフルズは「ともかくこの財産の分配のされ方は全く間違っている」と軽口を叩いて自己正当化を図っている。彼らは自分のことを犯罪者ではなく裏切り者、あるいはたんに社会ののけ者と考えている。そして私たちのほとんどが持つ道徳規範とラッフルズのそれが非常に近いものであるからこそ私たちは彼の状況をとりわけ皮肉なものであると強く感じるのだ。ウェストエンドに住む男の正体が泥棒とは! それだけで物語になりはしないだろうか? しかし正体が泥棒である配管工や青果商人だとしたらどうだろう? それでも、そこにある本質的な物語性は損なわれないだろうか? そんなことはない。たとえ「二重生活」や、社会的地位に隠された犯罪という主題がそのままであったとしても重要なのはそこではないのだ。牧師のカラーを着けたチャールズ・ピースチャールズ・ピース:イギリスの実在の犯罪者。非常に有名で小説、演劇、映画の題材として取り上げられている。でさえ、ジンガリのブレザーを着たラッフルズと比べればまだその偽善性は少ないと言えるだろう。

もちろんラッフルズはどんなスポーツでも得意なのだが、彼が選んだスポーツがクリケットであったことには妙に納得がいく。それはスローボウラースローボウラー:ボールの軌道やスピンでバッツマン(打者)を騙そうと試みるタイプのボウラー(投手)を指すとしての彼の狡猾さと泥棒としての彼の狡猾さの間の果てしないアナロジーを可能にするだけでなく、その犯罪の性質を正確に定義する助けとなるのだ。実際のところクリケットはイギリスでそんなに人気のあるスポーツではない……例えばクリケットがフットボールと同じくらい人気がある場所などどこにもない……しかしクリケットはこのイギリス人キャラクターの特徴である、成功よりも「礼儀」や「スタイル」に大きな価値を置くという特徴をよく表しているのだ。真のクリケット愛好者の目から見れば一イニングスで十ラン取るほうが一イニングスで百ランとるよりも好ましい(つまり、よりエレガント)と言うことができるだろう。またクリケットはアマチュア選手がプロ選手よりも優れている数少ないスポーツのひとつだ。クリケットは絶望と突然の幸運によるドラマチックな展開に満ちていて、そのルールはところどころ道徳な判断によって解釈されるように定められている。例えばオーストラリアでラーウッドがボディーライン・ボーリングを実行した時、彼は具体的に何かルールを破ったわけではなかった。たんに何か「クリケット的でない」ことをおこなっただけだ。試合に長い時間がかかること、かなりの金銭を必要とすることからクリケットは国民的なスポーツというよりは圧倒的に上流階級のスポーツであり、「礼儀正しさ」や「正々堂々と行動する」といったコンセプトと強く結びついている。そして、ちょうど「倒れた相手を打ってはならない」という伝統が凋落するのに合わせてその人気は下降し続けている。クリケットは二十世紀向けのスポーツではなく、現代的な思想の持ち主のほとんどはクリケットを嫌う。例えばナチスは苦労してクリケットをやめさせようとしている。先の戦争の前後にクリケットはドイツで一定の地盤を築いていたのだ。ラッフルズを泥棒であると同時にクリケット選手にすることで、ホーナングはたんに彼にもっともらしい扮装をさせただけでなく、彼の想像し得る最も強烈な道徳的対比を描いていたのだ。

ラッフルズ大いなる遺産大いなる遺産:イギリスの作家チャールズ・ディケンズの長編小説赤と黒赤と黒:フランスの作家スタンダールの長編小説に劣らずスノッブな物語であり、ラッフルズの社会的地位の不安定さから非常に多くを得ている。未熟な作家であれば「紳士泥棒」を貴族か、少なくとも準男爵の一員にしたことだろう。しかしラッフルズは上流中産階級の出身で、その個人的な魅力から上流階級に受け入れられているに過ぎない。「僕らは社交界にいるがそのメンバーではない」。作品の終わりごろで彼はバニーに言い、さらにこう続ける。「僕のクリケットの話を聞きたいだけさ」。彼にしてもバニーにしても「社交界」の価値は疑問の余地なく受け入れているし、もし十分なだけの盗品を盗み出せればずっとそこに腰を据えたことだろう。常に彼らを脅かしている破滅の危機は彼らの「所属」に対する疑問に由来するのだ。実刑判決を受けようと公爵は公爵だ。一方でただの社交家はいったん不祥事を起こせば永遠に「社交家」ではなくなる。ラッフルズの正体が暴かれ、彼が偽名で暮らす場面が描かれる作品の最後の章には全能感の黄昏、キップリングキップリング:ラドヤード・キップリング。イギリスの作家、詩人。「ジャングル・ブック」、「少年キム」などの著作がある。の詩「紳士の下士官紳士の下士官:Gentleman Rankers」と非常によく似た雰囲気がある:

そう、軍旅の騎兵……かつては六頭立て馬車を走らせていた!……

ラッフルズは今や取り返しの付かないほどに「亡者どもの仲間」になってしまった。彼はまだなんとか泥棒仕事は上手くやれているが、もはやピカデリーピカデリー:ロンドンのメインストリートの名前やMCCMCC:メリルボーン・クリケット・クラブ。クリケットの統括組織。のような楽園へと戻る道は無い。パブリックスクールの行動規範に従えば更生の唯一の手段は戦って死ぬことだ。ラッフルズはボーア人に立ち向かって死に(慣れた読者であれば話の始めからこれを予見していたことだろう)、バニーと彼を作り上げた著者の目から見ればそれによって彼の罪は打ち消されたことになる。

もちろんラッフルズとバニーの二人は信仰心に欠け、道徳規範は全く持ち合わせていない。あるのは半ば本能的に守っている特定の行動ルールだけだ。しかしまさにそれこそラッフルズミス・ブランディッシの蘭との間の深い道徳的な違いが別れるところなのだ。ラッフルズとバニーは結局のところ紳士であり、彼らが従うその行動基準に反する行動はしない。特定の事柄は「実行してはならない」のであり、それをおこなうということさえ思いつかない。例えばラッフルズはもてなしの心を悪用しようとはしない。彼は自分が客として招かれた邸宅で盗みを働こうとするが、その犠牲者は必ず同宿の客であって邸宅の主人ではない。殺人を犯そうとはしないし[下記注記]、可能な限り暴力を避け、武装せずに強盗を働くのを好む。友情を神聖なものと見なし、女性との関係においては道徳的とは言えないまでも騎士道に適った振る舞いをする。「スポーツマンシップ」の名のもとに、また時には美しさを理由にさえ余計な危険を犯そうとする。そして何よりも熱烈な愛国心を持っているのだ。彼はダイヤモンド・ジュビリーダイヤモンド・ジュビリー:イギリス国王の即位60周年を指すを祝って(「バニー、六十年もの間、僕らはこれまでの中で間違いなく最もすばらしい君主に仕えて来たんだ」)彼が大英博物館から盗みだした年代物の金の杯を女王に郵便で送る。彼は一部は政治的な動機からドイツ皇帝がイギリスの宿敵の一人に送った真珠を盗み出し、ボーア戦争ボーア戦争:ボーア戦争:イギリスとオランダ系ボーア人(アフリカーナ)の間で行われた南アフリカの植民地化を巡る戦争の情勢が悪くなった時には前線で戦おうと考える。前線で彼は自らの正体を明かすという対価を払ってスパイを暴き、そしてボーア人の弾丸によって栄光ある死を迎える。犯罪と愛国心というこの組み合わせは彼とその同時代人であるアルセーヌ・ルパンの共通点である、彼もまたドイツ皇帝を出し抜き、海外の駐留軍に入隊することでそのひどく汚れた過去を拭い去るのだ。

[注記:実際のところラッフルズは一人の人間を殺すし、二人の人間の死には多かれ少なかれ責任を感じている。しかしその三人は全員、外国人であり、強く非難されるべき行いをしている。また彼は一度、脅迫者の殺害計画を立てている。しかし犯罪小説では脅迫者の殺害は「数にいれない」のが広く知られたしきたりだ。(原著者脚注、一九四五年)]

現代の基準に当てはめればラッフルズの犯した犯罪が実にけちくさいものであることは注目に値する。四百ポンドの価値の宝石は彼にとってはすばらしい盗品だ。そして事実描写に説得力がある物語にも関わらず、扇情的な内容は非常に少ない……ほんのわずかな死体だけで血が流れることはほとんど無いし、性犯罪、サディズム、そしてどんな種類のものであれ倒錯趣味といったものは全く登場しない。過去二十年の間、犯罪小説はその出来の良し悪しに関わらずどんどん血に飢えたものになっていったように思われる。初期の探偵小説のいくつかでは殺人さえ起きないのだ。例えばシャーロック・ホームズの物語では殺人が起きないものがあるし、中には起訴に値しないような犯罪を扱っているものさえある。ジョン・ソーンダイクジョン・ソーンダイク:ジョン・イヴリン・ソーンダイク。イギリスの作家オースティン・フリーマンの推理小説に登場する架空の法医学者、探偵。の物語でも同様だし、マックス・カラドスマックス・カラドス:イギリスの作家アーネスト・ブラマの推理小説に登場する架空の盲目の探偵。の物語では殺人が起きることの方が珍しい。しかし一九一八年からこちら、殺人が起きない探偵小説は極めて稀で、死体の切断や発掘の気分が悪くなるような詳細な描写が乱用されている。例えばピーター・ウィムジイピーター・ウィムジイ:イギリスの作家ドロシー・L・セイヤーズの推理小説に登場する架空の貴族の探偵。の物語には死体に対するひどく病的な関心を見て取れる。犯罪者の視点から描かれたラッフルズの物語は探偵の視点から描かれた多くの現代の物語よりも反社会的な要素がずっと少ない。彼らから感じる印象は少年のそれだ。彼らは人々が道徳規範を持っていた時代に属しているのだ。たとえ彼らのそれが馬鹿げた道徳規範であったとしてもだ。鍵となる言葉は「実行してはならない」だ。彼らが引く善と悪の境界はポリネシア人の持つタブーと同じように無意味だが、少なくともそれらのタブーと同じように誰もがそれを受け入れるという利点があった。

ラッフルズについてはこれくらいでいいだろう。次は汚水槽に頭から飛び込むことにしよう。ジェイムズ・ハドリー・チェイスのミス・ブランディッシの蘭は一九三九年に出版されたが、その評判が最も高まったのは一九四〇年、イギリス本土航空戦とロンドン大空襲がおこなわれた年であるように思われる。物語の筋書きは次の通りだ:

大富豪の娘であるブランディッシ令嬢はあるギャングたちに誘拐される。このギャングたちは別のもっと大きくて勢いのあるギャング組織に今にも襲われて殺されそうな状況にある。彼らは彼女の身代金として父親から五十万ドルを引き出そうと考えたのだ。当初の計画では身代金を受け取ったらすぐに彼女を殺すことになっていたが、ある偶然から彼女は生き延びることになる。ギャングの一人はスリムという名の若い男で、人生でただひとつの楽しみは他人の腹にナイフを突き立てることだ。子供の頃はさびた鋏で生きている動物を切り刻んで腕を磨いていた。スリムは性的には不能だがブランディッシ令嬢には魅力のようなものを感じた。ギャングの真の黒幕であるスリムの母親はそれを見てスリムの性的不能を治す機会と考え、スリムが彼女をレイプできるようになるまではブランディッシ令嬢を監禁し続けることに決めたのだ。ブランディッシ令嬢を長いゴムホースで鞭打ったりといった多くの努力と説得の後、レイプは実現される。一方でブランディッシ令嬢の父親は私立探偵を雇い、賄賂と拷問の末、探偵と警察はなんとかギャング全員を検挙して壊滅させる。スリムはブランディッシ令嬢を連れて逃亡するが最後のレイプの後で彼は殺され、探偵はブランディッシ令嬢を家族の元に戻そうとする。しかしその時には彼女はスリムの愛撫の味を覚えてしまい[下記注記]、彼無しでは生きていけないと感じるまでになっていた。そして彼女は超高層ビルの窓から身を投げる。

この作品の完全な含意をつかむには何点か指摘しておく必要がある。まず第一に、この物語の本筋はウィリアム・フォークナーウィリアム・フォークナー:アメリカの小説家。代表作は「響きと怒り」、「サンクチュアリ」、「八月の光」、「アブサロム、アブサロム!」など。1949年にノーベル文学賞受賞。の小説であるサンクチュアリにとても良く似た特徴を持っている。第二に、この作品は予期されるような無学な人間の殴り書きではなく、それどころか珠玉の美文であり、無駄な言葉や不快な調子は全く無い。第三に、会話も地の文も含めて作品全体がアメリカ英語で書かれている。イギリス人であり、(私が知るかぎりでは)合衆国を訪れたことは一度もない著者は完全にアメリカ裏社会の精神性を模倣しているように見える。第四に、出版社によればこの作品は五十万部も売れたそうだ。

あらすじについては既に紹介したが、実際の内容はあらすじが示すよりもずっと下劣で残忍だ。作品では八件の殺人の詳細な様子、さり気なく描かれる無数の殺しと傷害、(入念に描写された悪臭付きの)死体の発掘、ブランディッシ令嬢に対する鞭打ち、別の女性に対するタバコの火を押し付けるという拷問、ストリップショーの様子、あきれるほど残酷な拷問の場面、その他それらに類した行為が描写されている。読者には見知らぬ広大な性の領域を教えてくれることだろうし(例えばマゾヒスティックな傾向があるように思われるギャングの一人がナイフを突き刺された瞬間、絶頂に達するという場面がある)、完璧な堕落と利己主義こそ人間の行動規範であると当然のように思えることだろう。例えば探偵はギャングとたいして変わらないひどい悪党で、ギャングとほとんど同じ動機で動く。ギャングたち同様、彼の目的は「五十万ドル」だ。ブランディッシ氏が娘を取り戻そうと必死になっているのは物語の都合上必要なことだが、それを除けば愛情や友情、人の良さ、あるいはごく普通の礼儀正しささえ全く現れない。一方で通常の性的描写は非常に多い。物語の全体を通底する究極的な唯一の主題があるのだ。すなわち権力の追求だ。

[注記:最後のエピソードについては別の解釈もあり得る。たんにブランディッシ令嬢は妊娠していたのだという解釈だ。しかし私が先に与えた解釈の方がこの作品の全体的な残酷さに調和するように思える。(原著者脚注、一九四五年)]

この作品が一般的な意味でのポルノではないことは注目すべきだ。性的サディズムを扱う多くの作品とは異なり、そこでは快楽よりも残酷さに重点が置かれている。ブランディッシ令嬢に性的暴行を加えるスリムは「つばで湿った唇」をしている。これには不快な気分になるし、それはそうすべく描かれているのだ。しかし女性に対する残酷行為が描写された場面は比較的おざなりだ。この作品で最も力を入れて描かれるのは男から男に対する残酷行為、とりわけギャングの拷問で、ギャングのエディ・シュルツはイスに縛りつけられて警棒でのど笛を殴りつけられる。また騒いだ時に殴りつけられて彼の腕は骨折している。チェイス氏の別の作品である今のところは不要で共感を呼ぶように描かれ、おそらくは高潔な性格と設定されている主人公は、ある人物の顔を踏みつけ、その口をずたずたにするように何度もかかとですりつぶしたと描写されている。具体的に同じような出来事が描写されていないにしても、これらの作品に漂う雰囲気は常に同じものだ。全体を貫く主題は権力をめぐる闘争と弱者に対する強者の勝利だ。大物のギャングが小物のギャングを消し去るその冷酷さは池の中でカワカマスが小魚を貪り食うのと変わるところがなく、警察が犯罪者を殺すその冷酷さはカワカマスを殺す釣り人のそれと変わらない。ギャングと警察の究極的な違いは、たんに彼らの方が組織力があって、より大きな力を持っているということだけだ。何しろ法律制度は犯罪よりも稼ぎの良いしのぎだ。力は正義、敗者の悲哀だ。

すでに書いたとおり、ミス・ブランディッシの蘭の人気が絶頂に達したのは一九四〇年のことだった。その後もしばらくの間、舞台劇としての人気が続いているとは言え、それは間違いない。実際のところ、この作品は爆撃の倦怠にあった人々を慰める助けになったもののひとつなのだ。戦争の初期にニューヨーカー誌に新聞の売店に近づいていく小柄な男のイラストが載ったことがある。雑然と並べられた新聞には「北フランスで大規模な戦車戦」、「北海で大規模海戦」、「イギリス海峡を超えた大空襲」といった見出しが踊っていた。そこで小柄な男は「アクション小説を下さい」と言っているのだ。この小柄な男は ギャングやプロボクシングの世界の方が戦争や革命、地震、飢餓、大規模な病気の流行よりも「リアル」で「タフ」だと考えている昏睡状態の何百万もの人々を表しているのだ。アクション小説の読者にしてみればロンドン大空襲やヨーロッパの地下組織の奮闘の説明など「しみったれたもの」なのだろう。その一方で五、六人の死者がでたシカゴでの取るに足らない銃撃戦こそまさに「タフ」に見えるのだ。こういった物の考え方は現在、非常に広範に広まっている。ほんの一、二フィート頭上で機関銃の弾丸が弾ける泥だらけの塹壕に寝そべって兵士は耐え難い倦怠をアメリカのギャング小説を読んで紛らわせる。それにしても何がこの物語をそんなに刺激的なものにしているのだろう? まさに現実世界で人々は機関銃で互いを撃ち合っている真っ最中だというのに! 兵士もそれ以外の者もこれを奇妙なことだと思っていない。空想の弾丸が現実のそれよりもスリルに満ちているということが当然のように受け入れられている。

現実の世界で人は通常は受け身の犠牲者であるが、冒険物語では自分が事件の渦中にいると考えられるからだ、というのはこれに対する明確な説明になるだろう。しかしそれ以上のものがある。ここでもう一度、ミス・ブランディッシの蘭が……おそらく技術的なミスはあるだろうが、まず間違いなく注目すべき腕前の……アメリカ英語で書かれているという興味深い事実について述べておくことが必要になる。

アメリカにはミス・ブランディッシの蘭と多かれ少なかれ似た種類の膨大な数の文学作品が存在する。書籍を別にしても無数の「パルプ・マガジン」があり、描かれるさまざまな種類の空想の内容に応じてそれらは分類されている。しかしそこに見られる雰囲気はほとんど全てで同じものだ。露骨なポルノはほんのわずかだが、その大部分は明らかにサディストとマゾヒストをターゲットにしている。ヤンク・マグズヤンキー・マガジンという名前の下[下記注記]、三ペンスで売られるそのコピーはイギリスでかなりの人気を博していたが、戦争によってその供給が途絶えた時、その十分な代わりなるようなものは現れなかった。確かに今では「パルプ・マガジン」のイギリス版模造品が存在するが、オリジナルに比べればそれは貧相なものだ。またその残虐性について言えばイギリスの犯罪映画はアメリカの犯罪映画には全く太刀打ちできていない。それにも関わらずチェイス氏が上げた実績は既に与えられたアメリカの影響がどれだけ大きなものだったかを示している。彼自身がシカゴ裏社会での空想の生活に浸りきっているというだけではない。「clipshop美容院」や「hotsquat電気椅子」が何を意味するのか理解し、「五万ドル」と言われても暗算する必要がなく、「ジョニーはrummy大酒飲みnut-factory精神病院まであと二歩ってところだ」といった文章を即座に理解できる数十万もの読者がいることを彼は当てにできた。明らかに膨大な数のイギリス人が言葉の上では部分的にアメリカ化されているのだ。付け加えておく必要があるのはそれは道徳的なものの見方にも及んでいるということだ。ミス・キャラハンのブランディッシの蘭に対する抗議の声は大きなものにはならなかった。ついにはそれは声を潜め、後になってミス・キャラハンの厄介事によってチェイスの作品に対して行政当局の関心が集まった時に改めて声があげられただけだ。当時の何気ない会話から判断して、一般的な読者はミス・ブランディッシの蘭のわいせつな描写から精神的な刺激を受けてはいたが、総じてその作品が不適切なものであるとは考えていなかった。付け加えておけば、多くの人はその作品がイギリスで再出版されたアメリカの作品だと思い込んでいた。

[注記:これらは船のバラストとしてこの国に持ち込まれ、だからあんなに安く、またよれよれになっているのだと言われている。戦争が始まると貨物船は他のもっと有用なもの、おそらくは砂利をバラストとして積むようになったのだ(原著者脚注)]

一般的な読者が問題視すべきこと……二、三十年前ならまず間違いなく問題視しただろうこと……は犯罪に対するはっきりしない態度である。ミス・ブランディッシの蘭全体で暗黙になされている非難は犯罪者になるのは割に合わないというものだけだ。警官は割に合うが、そこには道徳的な議論は存在しない。警察は本質的には犯罪者と同じ手法を使っているからだ。今のところは不要今のところは不要:He Won't Need It Nowのような作品では犯罪と犯罪予防の間の区別は実質的に消え失せている。これはイギリスの扇情的なフィクションにおける新しい試みだ。フィクションではつい最近まで善と悪の間には常に明確な区別が存在し、一般的な約束事として最後の章では必ず善が勝利することになっていた。犯罪(現代的な犯罪……海賊と追い剥ぎは別だ)を美化するイギリスの作品は極めて稀だ。ラッフルズのような作品でさえ、私が指摘したように強力なタブーに支配されているし、ラッフルズの犯罪が遅かれ早かれ報いを受けざるを得ないものであることは明確に理解できる。アメリカでは現実でもフィクションでも、犯罪を寛容に扱う傾向がもっとずっと顕著だ。成功している場合には犯罪者を称賛するような傾向さえある。そして究極的にはこういった態度によって犯罪がとんでもなく大きな規模で栄えることができているのは間違いない。アル・カポネについて書かれた本の文体はヘンリー・フォード、スターリン、ノースクリフ卿ノースクリフ卿:アルフレッド・ハームズワース。初代ノースクリフ子爵。イギリスの実業家、ジャーナリスト。デイリー・ミラー紙の創刊、ザ・タイムズ紙、オブザーバー紙の経営などを行った。やその他の「丸太小屋からホワイトハウスへ」組について書かれた本とほとんど区別がつかない。そして過去八十年を振り返れば、二十八人を殺したぞっとするような強盗犯であるスレイドや西部のならず者に対してマーク・トウェインが全く同じ態度をとっていることに気がつくだろう。彼らは成功した、彼らは「上手くやってのけた」、従って彼は彼らを賞賛するのだ。

ミス・ブランディッシの蘭のような作品では、古いスタイルの犯罪小説とは違って人はさえない現実から活力に満ちた想像の世界へ逃げ出すことはできない。本質的には逃避の先は残酷行為と性的倒錯になるのだ。ミス・ブランディッシの蘭では権力欲求を主眼としている。これはラッフルズやシャーロック・ホームズの物語では見られなかったことだ。同時に、私が見て取った限りでは犯罪に対するイギリスの態度はアメリカのそれを凌駕するものではない。権力欲求は権力崇拝とないまぜになって、ここ二十年の間にますます目につくようになっている。考察に値する作家の一人がエドガー・ウォーレスエドガー・ウォーレス:イギリスの作家。推理小説、スリラー小説を多く書いた。映画「キングコング」の脚本家としても知られる。だ。とりわけ彼の雄弁家雄弁家:THE ORATORとJ・G・リーダー氏シリーズは典型的な作品だと言える。ウォーレスは私立探偵という古くからの伝統と決別して中心キャラクターにスコットランドヤードの捜査官を据えた最初の犯罪小説作家の一人だ。シャーロック・ホームズはアマチュアであり、誰の助けも借りずに抱える問題を解いた。初期の作品では警察と対立しながら問題を解くことさえあったのだ。さらに、ルパン同様、彼は本質的には知識人であり、科学者でさえあった。観察された事実から論理的に思考し、その知性は常に警察の型にはまったやり方と対比された。ウォーレスはこれをスコットランドヤードに対する中傷と考え、それに強く反論したのだ。いくつかの新聞記事で彼はわざわざホームズを名指しで非難している。彼自身の考えでは刑事が犯罪者を捕まえられるのはその知性が優れているからではなく、非常に強力な力を持った組織の一員であるからなのだ。従って興味深いことに典型的なウォーレスの物語では「手がかり」や「推論」が何の役目も果たしていない。信じがたい偶然や、決してその方法が説明されない警察による犯罪の事前察知によって犯罪者は常に打ち負かされるのだ。物語の文体はウォーレスの警察に対する称賛が純粋にごろつきへのおもねりであることを明確にしてくれる。スコットランドヤードの刑事は彼の想像しうる中で最も強力な存在であり、一方で彼の頭の中の犯罪者は彼らに対してなら何をしても構わない無法者、ローマ時代の円形劇場に引き出される死刑宣告された奴隷のようなものなのだ。彼の描く警官は現実世界でのイギリスの警官よりもずっと残酷に振る舞う……怒りに任せて人々を殴りつけ、脅すために耳元でリボルバー拳銃を発泡したりする……いくつかの物語では恐るべき知的サディズムが披露されている(例えばウォーレスはヒロインが結婚するその日に悪役が絞首刑にかけられるというような筋書きをよく使う)。しかしそれはイギリスの流儀に従ったサディズムだ。つまり無意識なもので、性的なものが公然とは含まれず、法律の限界を超えることはない。イギリス市民は過酷な刑法に耐え、殺人事件裁判での多大な不公正から快感を得ている。しかしそうであっても犯罪に耐えたり、犯罪を称賛したりするよりはどう考えてもずっとましだ。仮にごろつきを賛美しなければならないとしたら、そのごろつきがギャングであるより警察官である方がましだろう。ウォーレスはまだある程度は「実行してはならない」という観念の影響下にあるのだ。ミス・ブランディッシの蘭ではそれが権力に結びつくのであれば全てが「実行される」。全ての障壁が取り除かれ、全ての動機がおおやけにされる。チェイスはウォーレスよりもずっと悪い兆候だ。それはちょうど、何でもありの取っ組み合いがボクシングよりも悪く、ファシズムが資本主義民主主義よりも悪いのと同じことである。

ウィリアム・フォークナーのサンクチュアリからの借用に関して言えば、チェイスが借りているのはその筋書きだけで、この二冊の本の雰囲気は似ていない。実際のところチェイスは他の作品もモチーフにしているし、この借用のひとつは象徴的なものに過ぎない。それが象徴するのは不断に起きている思想の通俗化である。それはおそらく印刷の歴史よりも前から起きていることだ。チェイスは「大衆向けのフォークナー」であると称されているが、「大衆向けのカーライルカーライル:トーマス・カーライル。イギリスの歴史家、評論家。」であると言ったほうがもっとずっと正確だろう。彼は……アメリカには大勢いるがイギリスではまだ珍しい……現在「リアリズム」と好んで呼ばれているもの、つまり力は正義であるという教義を取り入れて人気を得ている作家なのだ。「リアリズム」の隆盛は現代の精神史を大きく特徴づけている。なぜそれがこれほど流行っているのかは理解が難しい問題だ。サディズム、マゾヒズム、成功への崇拝、権力への崇拝、ナショナリズム、そして全体主義の間のつながりは巨大なテーマで、まだその外縁にかろうじて爪がたてられたに過ぎず、それについて言及するのは何か下品なことのようにさえ考えられている。頭に思い浮かぶままに例を挙げれば、これまで誰もバーナード・ショーの作品に見られるサディスティックな要素、マゾヒスティックな要素を指摘してこなかったと私は考えている。まして独裁者たちに対するショーの称賛とこれらに何か繋がりがあるのではないかとする意見も耳にしたことはない。しばしばファシズムは漫然とサディズムと同一視されるが、それをおこなうのは大抵の場合スターリンに対する奴隷のような崇拝はなんら問題視しない人々だ。言うまでもないことだが実際のところ、スターリンの尻の穴にキスする無数のイギリスの知識人はヒトラーやムッソリーニに忠誠を誓う少数派と変わらないし、ドイツ軍国主義の前に頭を垂れ、「活力」、「衝動」、「個性」を叫び、「虎のような人間になることを学べ」と説いて回った一九二〇年代の能率専門家能率専門家:おそらくアメリカの作家エドガー・ライス・バローズを指していると思われる。バローズはターザン・シリーズで知られる作家で、「能率専門家」というタイトルの作品を書いている。やカーライル、クリーシージョン・クリーシー:イギリスの推理小説家。英国推理作家協会の創設者の一人。ギデオン警視シリーズが有名。といった古い世代の知識人とも変わらない。彼らは全員、権力と成功をおさめた残酷行為を崇拝しているのだ。権力崇拝それ自体に残酷行為と邪悪さへの愛を伴う傾向があることは注目に値する。暴君は血にまみれた悪党であればあるほどさらに賞賛され、「目的は手段を正当化する」という方針は実際のところは多くの場合に「十分に汚ければ手段はそれ自体を正当化する」と変わる。こういった考えは全体主義支持者の物の見方に影響を与え、また多くのイギリスの知識人がナチスとソ連の間の協定を歓迎したその賛意の喜びを説明してくれる。この協定がソビエト連邦にとって有用な足場であったかは疑問だが、それは完全に倫理に反したものであり、それゆえに賞賛に値したのだ。無数に現れたこの協定に対する自己矛盾する説明は後づけのものだ。

最近になるまで、英語圏に特徴的な冒険物語といえばそれは主人公が不利な戦いに挑むものだった。ロビン・フッドから水兵のポパイまで常にこの構図は成り立ってきた。おそらくその基礎となった西側世界の神話は巨人殺しのジャックだろうが、現在となっては小人殺しのジャックと改名したほうがいいような状況だ。そしてもう既に、弱い者ではなく強い者の側につけとあからさまであれ暗にであれ教えるかなりの量の文学作品が存在する。現在、外交政策について書かれているこういった作品のほとんどはたんにこの問題を彩っているだけだが、おそらくは数十年の間に「正々堂々と行動する」、「倒れた相手を打ってはならない」、「それはクリケットではない」といったフレーズは知識人気取りの人間から冷笑を引き起こさずにはいられないものになるだろう。比較的新しいものとしては(a)誰が勝利しようと正しいものは正しく、間違っていることは間違っている、(b)弱い者は尊重されるべきである、という広く認められていた様式が大衆文学から姿を消しつつあることが挙げられる。二十歳の頃、初めてD・H・ローレンスD・H・ローレンス:デーヴィッド・ハーバート・ローレンス。イギリスの詩人、作家。「チャタレー夫人の恋人」などの著作がある。の小説を読んだ私は「善玉」と「悪玉」の区別が登場人物に無いように見えることに困惑させられた。ローレンスは全ての登場人物に平等に共感を覚えているようで、この異常事態に私は支えを失ったような気分になったものだ。現在では本格的な小説から英雄と悪役を探そうとする者などいないが、低俗フィクションでは善と悪、適法と非合法の間のはっきりとした区別が示されることを人はまだ期待している。一般の人々は全体的にはずっと前に知識人がそこから逃げ出した絶対的な善と悪が分かれた世界にいまだに住んでいるのだ。しかしミス・ブランディッシの蘭、アメリカの書籍、雑誌、そしてそれに類したものの人気はいかにすばやく「リアリズム」の教義が広まっているのかを示している。

ミス・ブランディッシの蘭を読んだ何人かは私に「これこそまさにファシズムだ」と言った。これは正しい表現である。しかしこの作品は政治に関することはわずかしか出てこないし、社会や経済の問題ともほとんど関係していないのだ。ファシズムとの関係はちょうどトロロープトロロープ:アンソニー・トロロープ。イギリスの作家。の小説が十九世紀の資本主義と関係していたのと同じ程度にしか過ぎない。これは全体主義の時代にふさわしい白昼夢なのだ。想像上のギャングの世界でチェイスは言わば精製された現代の政治舞台を描き出したのだ。そこでは民間人への大規模爆撃や人質を使った交渉、自白を得るための拷問、秘密刑務所、裁判無しでの処刑、ゴム製の警棒での殴打、汚水槽での水責め、整然とした記録や統計の改ざん、裏切り、贈賄、そして売国行為はごく普通のことで、そこに道徳的な呵責は無く、大規模に残虐な方法でそれが実行に移された場合には称賛の声さえ上がるのだ。平均的な人間は政治に対して直接的な関心を抱かない。そういった人間は何かを読むとき、現在の世界が抱える問題を個人をめぐる単純な物語に置き換えて欲しいと考える。スリムやフェナーには関心を持てるが、GPUGPU:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局。チェーカーから改編された組織。OGPUの前身。やゲシュタポには関心を持てないのだ。人々は自分たちに理解できる形をした権力を崇拝する。十二歳の少年はジャック・デンプシージャック・デンプシー:アメリカのボクシング世界ヘビー級王者を崇拝する。グラスゴーのスラムに暮らす若者はアル・カポネを崇拝する。職業学校の見習いはナフィールド卿ナフィールド卿:ウィリアム・モリス 。初代ナフィールド子爵。イギリスの実業家、慈善家。モーリス自動車会社の経営などを行った。を崇拝する。ニュー・ステーツマン誌の購読者はスターリンを崇拝する。知的成熟度はそれぞれ異なるが道徳的な者は一人もいない。三十年前の大衆向けフィクションの主人公たちとチェイス氏の描くギャングや探偵には何も共通するものがないし、また当時はイギリスのリベラル知識人の人物像は比較的共感を呼ぶ姿をしていた。ホームズとフェナーの間にある隔たりとエイブラハム・リンカーンとスターリンの間にある隔たりはよく似ている。

チェイス氏の作品の成功からあまり多くを読み取るべきではない。これは戦争の持つ倦怠と残虐性の混合物によって引き起こされた一度きり現象の可能性もあるのだ。しかしもしこのような作品が最終的にイギリスに定着してアメリカからのたんなる半可通な輸入品でなくなれば、それは不安のよい下地になることだろう。ミス・ブランディッシの蘭との比較対象としてラッフルズを選ぶに当たって、私はわざと当時の基準では道徳的なあいまいさを持っていた作品を選んだ。指摘したとおりラッフルズはしっかりとした道徳規範、信仰心など持っていないし、社会的問題意識などは間違いなく持ちあわせていない。彼が持っているのは一揃いの神経系の反射作用、言ってみれば紳士であることだけだ。この反射作用のようなものに鋭い刺激(「スポーツ」、「友人」、「女性」、「王と国家」と呼ばれるようなもの)を与えれば、予測可能な反応を得ることができる。チェイス氏の作品には紳士もタブーも存在しない。解放は完了された。フロイトとマキャベリは都市郊外まで到達したのだ。一方の作品の男子学生のような雰囲気と他方の作品の残酷さと腐敗を比較すれば、偽善と同様、社会的観点からその者の価値を推し量る行為であるスノビッシュは過小評価されているという思いに駆られる。

1944年10月
Horizon

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オーウェル評論集1: ナショナリズムについて 表紙画像
オーウェル評論集1: ナショナリズムについて
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