書評 ジャック・ロンドン著「鉄の踵」、H・G・ウェルズ著「眠れる者が目覚める時」、オルダス・ハクスリー著「すばらしい新世界」、アーネスト・ブラマ著「同盟の秘密」, ジョージ・オーウェル

書評 ジャック・ロンドン著「鉄の踵」、H・G・ウェルズ著「眠れる者が目覚める時」、オルダス・ハクスリー著「すばらしい新世界」、アーネスト・ブラマ著「同盟の秘密」


ジャック・ロンドンの「鉄の踵」(ワーナー・ローリー社、価格一クラウン)の再版はファシストが攻勢を強める数年を経て求める声が高まっていたこの作品を広く手に入れやすくするものだった。ジャック・ロンドンの他の作品同様、この作品はドイツで広く読まれていて、ヒトラーの出現を正確に予測したことでその評価が高まっている。実のところ本書はそうしたものではない。この作品は資本主義者による圧制の物語に過ぎず、書かれたのはファシズムを可能にするさまざまなもの――例えばナショナリズムのとてつもない復活――を容易には予見できなかった時代のことである。

しかしながら、社会主義への移行が自然には起きないこと、それが容易でさえないことに気がついていたという点でロンドンは鋭い洞察を示している。季節の終わりに枯れていく花のように資本家階級が「自身の抱える矛盾によって滅びる」ことはなかった。何が起きつつあるのか理解し、互いの違いをいったん脇に置いて労働者に反撃するだけの賢さを資本家階級は持っていたのだ。そしてその結果として生じる戦いは世界がこれまで目にしたものの中で最も壮絶で恥知らずなものとなるだろう。

「鉄の踵」と、それよりいくらか古くてそれに何らかの影響を与えたもうひとつの未来空想小説であるH・G・ウェルズの「眠れる者が目覚める時」(コリンズ社、価格半クラウン)を比較することには価値がある。そうしてみると完全に文明化されたウェルズのような人間でないことによるロンドンの限界と優位性の両方に気がつくだろう。作品としては「鉄の踵」はおおいに劣っている。筆の運びは不器用で、科学的実現可能性についての理解は全く見られず、主人公は今や社会主義のパンフレットからさえ消えつつある人間蓄音機のような人間だ。しかし自身の持つ残虐な一面によってロンドンはウェルズが明らかに理解できていないことを理解している。それは快楽主義的社会はもろいということだ。

「眠れる者が目覚める時」を読んだことがある誰もが記憶しているだろう。それは光り輝く邪悪な世界の展望なのだ。そこでは社会はカースト制へと硬直化し、労働者は永久に奴隷化されている。それはまた目標なき世界でもある。そこでは労働者が苦しみ仕える上級カーストは全く軟弱で冷笑的で不誠実なのである。人生において明確に意識される目標は存在せず、革命家や宗教的殉教者の熱烈さに対応するものは何もない。

ウェルズ的ユートピアの戦後版パロディーとも言えるオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」(チャットー・アンド・ウィンダス社、価格一ダブルフローリン)では、こうした傾向がさらにひどく誇張されている。そこでは快楽主義の原則が最大限まで強調され、世界全体がリビエラのホテルへと変えられている。しかし「すばらしい新世界」は(一九三〇年時点での)現代のすばらしい風刺画ではあったにせよ、未来を垣間見させるものとはおそらくは言えない。こうした社会は二、三世代を超えて持続することはできないだろう。主に「快楽追求」の観点から思考する支配階級はほどなくその活力を失うだろうからだ。支配階級は厳格な道徳規範、ほとんど宗教的とも言える信念、神秘性を持たなければならないのだ。ロンドンはそれに気がついていて、七世紀にわたって世界を支配している財閥カーストを非人間的怪物として描いていながらも彼らを怠惰な官能主義者とは描いていない。文明は自分たちだけの肩にかかっていると心から信じる限りにおいて彼らはその地位を維持できるのであり、それゆえに、進む道は異なるにせよ、彼らに対抗する革命家たちと同じくらい勇敢、有能で献身的なのである。

知識人らしくロンドンはマルクス主義の結論を受け入れていて、消費し尽くせない余剰品といった資本主義の「矛盾」は資本家階級が自らをひとつの企業体へと組織した後でさえ消えずに残るだろうと想像している。しかし気質的には彼は大多数のマルクス主義者とは大きく異なっている。暴力と肉体的な強さへの愛好、「自然的な貴族」という信念、動物崇拝と原始称賛、それらによって彼は人が正当にもファシスト的資質と呼ぶであろうものを持っているのだ。これは、ひとたび深刻な脅威にさらされた時に有産階級がどのように振る舞うかを彼が理解する手助けとなったのではないだろうか。

マルクス主義の社会主義者には普通は理解が及ばないのがまさにここである。その歴史解釈はあまりに機械的で、マルクスの名前など聞いたこともない人々にとっては明白な危険を彼らは予見できないのだ。マルクスはファシズムの隆盛を予測できなかったと議論されることがときどきある。彼が予測していたかどうかは私にはわからないが――当時ではできたとしてもせいぜい非常に一般的な用語でおこなうのが関の山だっただろう――いずれにせよ確かなのは自分自身が強制収容所の入り口に来るまでマルクス支持者はファシズムの危険性に全く気がつけなかったということである。ヒトラーが権力の座に就いた後の一年かそれ以上の間、公式なマルクス主義は、ヒトラーはさして重要ではなく真の敵は「社会ファシズム」(つまり民主主義)であると宣言し続けていた。おそらくロンドンであればこうした誤りは犯さなかっただろう。彼の本能はヒトラーは危険であると彼に警告したはずだ。経済法則は重力法則と同じ様には働かないこと、ヒトラーのように自身の宿命を信じる人々によって長い期間にわたって停滞させられることを彼は知っていた。

「鉄の踵」と「眠れる者が目覚める時」はどちらも大衆の観点から書かれている。「すばらしい新世界」は快楽主義への非難を主眼にしてはいるが、同時に全体主義とカースト支配への言外の非難にもなっている。これらをあるもっと無名なユートピアと比較するのは興味深いことだろう。階級闘争を上層、あるいは中流階級の視点から扱っているアーネスト・ブラマの「同盟の秘密」である。

「同盟の秘密」は一九〇七年に書かれた。労働運動の成長が中流階級を恐怖させ始めた頃のことで、中流階級は自分たちが上からではなく下から脅かされているという誤った想像をしていた。政治的な予測としては取るに足りないものだが、奮闘する中流階級の精神状態に光を投げかけるものとしては実に興味深い作品である。

この著者が想像するところでは、政権の座に就いた労働党政府はあまりに巨大な多数派に支持されていて引きずり下ろすことが不可能になる。一方で彼らが完全な社会主義経済を導入することはない。ただ継続的に賃金を上げ、官僚の巨大な大群を作り上げ、上流階級が消滅するような徴税をおこなうことで自分たちの利益となる資本主義の運営を続けるだけなのだ。それによって国はよく知られたやり方で「落ちぶれていく」。さらに外交において労働党政府は一九三一年から一九三九年の中央政府と非常によく似た振る舞いをする。これに対抗するために中流階級と上流階級による秘密の陰謀が出現することになる。その抵抗のやり方は資本主義を国内に限定されたものと見なすならば非常に巧妙なものだ。不買運動である。二年間にわたって上流階級の陰謀家たちは秘密裏に燃料油を買い貯めし、石炭火力発電所を石油火力発電所へと転換する。それから唐突にイギリスの基幹産業である石炭産業に不買を突きつけるのだ。炭鉱労働者は二年間にわたって石炭を売れない状況に直面する。とてつもない規模の失業と経済的困窮が現れて最後は内戦となるが上流階級は外国から援助を受ける(フランコ将軍を先取ること三十年である!)。勝利した後、彼らは労働組合を廃止し、議会無き「強力」な体制を樹立する――つまり現在、私たちがファシストと評する体制である。この作品の作風は当時のゆとりを反映した穏当なものだが、その思想的傾向は間違えようのないものだ。

なぜアーネスト・ブラマのようなまっとうで温厚な作家がプロレタリアートの壊滅を喜ばしい展望と見るのだろうか? これは経済的地位よりもむしろその行動規範や生活様式を脅かされていると感じる奮闘する階級の率直な反応なのである。同じ様に純粋な労働階級への社会的敵意は、さらに古く、ずっと優れた手腕の作家であるジョージ・ギッシングにも見ることができる。時間とヒトラーが中流階級に大きな教訓を与えたので彼らが自分たちを抑圧する者に再び味方し、生まれついての同族に敵対することはおそらくないだろう。しかし彼らがどう振る舞うかは一部には彼らがどのように扱われるかにかかっているのだ。そして決まって「プチブルジョア」をからかう社会主義プロパガンダの愚劣さには大きな責任がある。

1940年7月12日
Tribune

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