書評 F・A・ハイエク著「隷属への道」、K・ジリアクス著「過去の鏡」, ジョージ・オーウェル

書評 F・A・ハイエク著「隷属への道」、K・ジリアクス著「過去の鏡」


合わせて読むことで、これら二冊の書籍は混乱の理由を教えてくれる。最初のものは自由放任レッセフェール的資本主義に対する雄弁な擁護であり、もう一方はそれに対するさらにいっそう激しい非難である。この二冊はある程度同じ題材を扱っていて、頻繁に同じ出典から引用をおこない、さらには同じ前提から出発さえしている。つまり、どちらも西欧文明は個人の尊厳に依存していると考えているのである。しかしどちらの著者も他方のやり方はまっすぐに隷属へと導くものであることを確信しており、驚くべきことにそのどちらもが正しいかもしれないのだ。

二冊のうち、おそらくハイエクハイエク:フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(一八九九年五月八日-一九九二年三月二十三日)。オーストリア出身の経済学者、哲学者。二十世紀における代表的な自由主義の思想家として知られる。教授の書籍はより高い価値を持っている。なぜならそこで提出されている考えは現在のところジリアクスジリアクス:コンニ・ジリアクス(一八九四年九月十三日-一九六七年七月六日)。イギリス労働党の政治家。第二次世界大戦後、イギリス下院議員を務めた。氏のそれよりも流行りに乗っているところが少ないからである。ハイエク教授の主張とは、社会主義は必ず専制へとつながり、またドイツにおいてナチスが成功を収めることができたのは彼らのためにその作業のほとんど、とりわけ自由への欲求を減少させるという知的作業を社会主義者たちがすでに終えていたためであるというものだ。生活の全てを国家の統制下に置くことで社会主義は不可避に権力を限られた内輪の官僚に与えるが、ほとんど全ての場合において彼らは権力をそれ自体を理由に欲する人間であり、それを保持し続けるためにはためらいなく何でもする。彼の語るところによればイギリスは今まさにドイツと同じ道を進んでおり、その先頭には左派知識人たちが、そのすぐ後ろにはトーリー党が付き従っているのだ。唯一の救済の道は無計画経済、自由競争、安楽よりも自由を重視することへの回帰の中にある。ハイエク教授の主張における否定的な面には多くの真実が含まれている。口に出されることはほとんどない……少なくともほとんどの場合に不十分にしか語られていない……が集産主義は本質的に民主的でなく、反対にスペインの宗教裁判官も思い及ばぬほどの権力を専制的な少数の者に与える。

また、この国では一般の人々よりも知識人の方が全体主義的傾向が強いという言葉についてもおそらくハイエク教授は正しい。しかし彼が理解していない、あるいは認めようとしないであろう点は、大多数の人々にとって「自由」競争への回帰はよりひどい専制を意味するだろうということだ。なぜならそれは国家による専制よりもずっと無責任なものだからだ。競争における問題は誰かが勝利することである。ハイエク教授は自由資本主義が必ず独占へとつながることを否定しているが、実際のところ導かれる先はそれなのであり、人々の圧倒的大多数は不況や失業よりも国家統制を望むだろうから世論がこの問題について何らかの意見を持っているとすれば集産主義への流れは続かざるを得ない。

帝国主義と権力政治に対するジリアクス氏の優れた、十分な裏付けのある攻撃はその大部分が二度の世界大戦を引き起こした出来事を明らかにすることから成り立っている。残念ながら一九一四年の戦争の正体を暴く彼の熱意は彼がどのような立場でこの立証をおこなっているのかという疑問を抱かせる。一九一四年へと結実した極秘条約や商業的対抗意識についての浅ましい物語を再度語った後、彼は結論する。現在の宣言されている戦争目的は虚偽であり、「我々がドイツに対して宣戦布告したのは、もし相手がフランスやロシアに対して勝利すればドイツはヨーロッパ全体の主人となり、イギリス植民地を蚕食するのに十分な力を得るためである」。他にどんな理由があって現在の戦争をおこなっているというのだろうか? 一九一四年以前の十年間のドイツへの反対と一九三〇年代のドイツへの譲歩は同じくらい邪悪であり、また、私たちは一九一七年に譲歩による和平をおこなうべきだったように思われる一方で、それを今おこなうのは欺瞞であるように思われる。一九一五年においてはドイツを分割し、ポーランドは「ロシアの内政問題」であると合意することもまったく邪悪なことだった。つまり同じ行為であってもその道徳的色合いは時間の経過とともに変わっていくのである。

ジリアクス氏が説明せずに済ましているのは戦争には結果がともなうということだ。それは戦争を引き起こした者たちの動機がどうであろうと関係ない。一八七〇年以降の国際政治の汚らわしさには誰も疑問を差し挟まないだろう。だからと言ってドイツ軍にヨーロッパ支配を許していいことにはならない。何らかの浅ましい取引が現在も舞台裏で進んでいる可能性もおおいにあり得るし、流行りのプロパガンダであるところの「反ナチズム」(「反プロイセン軍国主義」を参照)は一九七〇年にはまったく浅薄なものになっているだろうが、ヒトラーとその信奉者を取り除けばヨーロッパは間違いなくより良い場所になるだろう。その中間地点で、この二冊は私たちの現在の苦境を要約しているのだ。資本主義によってもたらされるのは施しに並ぶ失業者の列、市場での奪い合い、そして戦争である。集産主義によってもたらされるのは強制収容所、指導者崇拝、そして戦争である。計画経済をどうにかして知的自由と組み合わせない限りこれ以外の道は無いのであり、それが起きるとしたら善悪の概念が政治へと取り戻された時だけなのだ。

どちらの著者も多かれ少なかれこのことに気がついている。しかしそれを実現する実行可能な方法を彼らが示せないために、二冊の書籍の組み合わせられた要旨は憂鬱なものとなっている。

1944年4月9日
Observer

広告
オーウェル評論集6: ライオンと一角獣 表紙画像
オーウェル評論集6: ライオンと一角獣
©2019 H. Tsubota. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示-非営利-継承 2.1 日本