まだ政治的将来のある政治家にとって自分の知る全てを明かすのは難しいことだ。五十歳で赤ん坊、七十五歳で中年という職に就いていれば、現実に不祥事を起こしていない者は誰しもまだ将来があると思われるのも自然なことである。例えばチャーノの日記チャーノの日記:イタリアの外交官、政治家であるガレアッツォ・チャーノの自伝。チャーノはムッソリーニの娘婿だったが後にムッソリーニに反対したために処刑された。のような書籍はもしその著者が地位ある立場に留まっていれば出版されることは無いだろう。しかしウィンストン・チャーチルに関して言えば、彼が折に触れて出版してきた政治回顧録はその率直さにおいても文学的な質においても平均的なものより常にずっと優れていると言っていいだろう。チャーチルは何よりもまずひとりのジャーナリストであり、特に際立っているとは言えないかもしれないが本物の文学的感性を持っている。そしてまた彼は不断に問い続ける思考を持ち、確固とした事実と動機の分析――時には自分自身の動機をも含む――の両方に関心を抱いているのだ。
概してチャーチルの著作は公人のそれというよりもひとりの人間としてのそれに近い。もちろんこの本にも選挙演説から漏れ出たように見える文章が確実に含まれているが、同時に、間違いを認めようとするかなりの意志も見られる。
シリーズの二作目になるこの巻ではドイツによるフランスへの侵攻開始から一九四〇年末までの期間が取り上げられている。従って描かれる主な出来事はフランスの崩壊、ドイツによるイギリスへの空襲、次第に増していく合衆国の戦争への関与、Uボート戦の増加、そして北アフリカでの長い苦闘の始まりである。この本では各段階での演説や公式文書からの引用を交えて長大な記述がされていて、それがかなりの重複を生んではいるものの、当時、何が言われ、また考えられていて、一方で実際には何が起きたかを比較することが可能になっている。
彼自身が認めているようにチャーチルは戦争技術の近年における変化の影響を過小評価していたが、一九四〇年に嵐が始まった時にはすばやく反応した。彼の偉大な功績は、フランスは敗北したがその外観に反してイギリスは敗北していないとダンケルク当時にあっても理解していたことだ。そしてこの最終判断はたんなる好戦性ではなく状況の合理的調査に基づくものだった。
ドイツ人たちがこの戦争ですばやく勝利をおさめる唯一の方法はイギリス諸島を征服することであり、イギリス諸島を征服するためにはそこにたどり着かなくてはならない。これは海峡一帯の制海権を手にすることを意味する。このためにチャーチルはイギリス本国の空軍全体をフランス戦線へ投じることを次第に拒むようになっていった。これは厳しい決断だった。当然、その時点で恨みを買うし、フランス政府内の敗北主義者たちと対峙するレノーの立場をおそらくは弱体化させるものだっただろう。しかし戦略的には正しかった。欠くことのできない二十五の戦闘飛行隊がイギリス国内に維持されたことで迫る侵攻は退けられたのだ。その年が終わるずっと前に危機は十分に後退し、イギリスからエジプト戦線に銃や戦車、人間を移送できるほどになっていた。依然としてドイツ人たちはUボート、あるいは爆撃によってイギリスを打ち負かすことができたが、それには数年はかかるだろうし、その間にこの戦争が拡大する可能性も高かった。
もちろん遅かれ早かれ合衆国が参戦することをチャーチルはわかっていたが、この段階では何百万もの兵士からなるアメリカ軍が最終的にヨーロッパに到着するであろうことを予期していたわけではないようだ。彼はドイツ人たちがロシアを攻撃するであろうことを一九四〇年には予見していたし、どのような約束があろうともフランコが枢軸国側として参戦することはないだろうと正しく見積もっていた。また彼はパレスチナ・ユダヤ人を武装させることやアビシニアでの反乱を扇動することの重要性を理解していた。判断を誤った場合にはその主な原因となったのは彼の「ボルシェヴィズム」に対する見境のない嫌悪とその結果として生じる政治的特徴を無視する傾向だった。
彼は打ち明けるように言っている。スタッフォード・クリップス卿スタッフォード・クリップス卿:イギリス労働党の政治家を大使としてモスクワへ送った時、共産主義者が保守主義者よりもむしろ社会主義者を嫌っていることに自分は気づいていなかったのだと。確かに、一九四五年に労働党政権が誕生するまで、このシンプルな事実を理解しているイギリス・トーリー主義者はいなかったように思われる。こうした失敗の責任の一端はスペイン内戦の間の誤ったイギリスの政策にある。
おそらく一九四〇年の事態の成り行きに影響を与えてはいないとはいえ、ムッソリーニに対するチャーチルの態度もまた見当違いに基づいたものだった。過去に彼はムッソリーニを「ボルシェヴィズムに対する防壁」と称賛し、賄賂を手段としてイタリアを枢軸国から引き抜けると信じる一派に属していた。アビシニアといった問題を巡ってムッソリーニと争ったことは一度もないと彼は率直に語っている。イタリアが参戦した時にはチャーチルはもちろん手加減しなかったが、イタリア・ファシズムは保守主義のたんなる変種ではなくその本性からしてイギリスに敵対するものであることにイギリス・トーリー主義者たちがあと十年早く気づいていれば全ての状況はもっとましなものになっていただろう。
「彼ら最良の時」で最も興味深い章のひとつではイギリス領西インド諸島の基地とアメリカの駆逐艦隊の交換取引が描かれている。チャーチルとルーズベルトの間で交わされた書簡は民主政治に対するある種の解説となっている。ルーズベルトはイギリスが駆逐艦隊を手に入れればそれがアメリカの利益となることをわかっており、チャーチルは合衆国が基地を手に入れようともそれがイギリスの不利益とならない――むしろその逆である――ことをわかっていた。とはいえ、法律上・憲法上の困難を別にしても、価格交渉無しに簡単に船舶を引き渡すことは不可能だった。
選挙が迫って孤立主義者たちに目を配っていたルーズベルトは大幅な値切り交渉の装いを与えなければならなかった。また彼は、たとえもしイギリスが戦争に負けても、どんな状況であれイギリス艦隊がドイツ人たちの手に渡らないという保証を要求しなければならなかった。もちろんこれは課しても無意味な条件だ。チャーチルが艦隊を手渡さないことはまず間違いないだろうが、一方で、ドイツ人たちがイギリスの侵略に成功すれば彼らは何らかの傀儡政府を用意してチャーチルが応じられない行動を取らせるだろう。従って要求されているような確固とした保証を与えることはできず、そのために交渉は長引いた。ひとつの手っ取り早い解決策は船舶の船員を含む全てのイギリス国民から誓約を取り付けることだろう。しかし全く奇妙なことにチャーチルはこの事実の公表に尻込みしたようである。イギリスの敗北がどれほど間近に迫っているのか知らせることは危険だったと彼は語っている――この期間を通して彼が国民の士気を過小評価したおそらくは唯一の機会だった。
この本は一九四〇年の暗い冬で締めくくられる。莫大な数のイタリア人捕虜を捕らえた砂漠での予期せぬ勝利はロンドンの爆撃と増えていく海洋での沈没によって相殺された。読者の頭の中をある考えがよぎることは避けがたい。「チャーチルはどれだけ自由に話せているのだろう?」こうした回顧録の一番の関心事は後からしかわかりようがない。つまりテヘランやヤルタで本当は何が起きていたのか、またそこで採択された政策は彼自身が賛同していたものなのか、それともルーズベルトによって強いられたものなのかをチャーチルが私たちに教える時まで(もし彼が私たちに教えると決心したらだが)わからないのだ。しかしいずれにせよ、この巻と前巻の調子から見て時が来れば彼はこれまで明らかにされた以上の真実を私たちに教えてくれることだろう。
一九四〇年が他の誰かにとって最良の時だったかどうかはともかく、チャーチルにとってはそうであったことは間違いない。彼に賛成しない者は多いだろうし、一九四五年の選挙で彼と彼の党が勝利しなかったことをありがたく思う者もいるだろう。しかしそれでも「わが半生わが半生:チャーチルの回顧録。1874年の誕生から1902年頃までを扱っている。」のような本よりもずっと個人的な所の少ない、こうした公的な回顧録でさえ彼が勇敢さや、さらにはある程度の寛大さや愛想の良さを見せていることには驚かずにはいられない。イギリスの人々は大体において彼の政策を拒絶したが、常に彼に好意を持ってきたし、それはその生涯のほとんど全てにわたって語られている彼に関する逸話の調子からも見て取ることができる。その逸話がしばしば怪しげなものになることは疑いないし、時にとても出版できないものともなるが、言い伝えられている事実は実に重要な意味を持つ。例えばダンケルクでの撤退戦の当時、よく引用されるあの闘志あふれる演説をチャーチルがおこない、放送用にその演説を録音した時に彼は本当は次のように言ったと噂されている。「我々は浜辺で、街の通りで戦うだろう……我々はあのろ***し共にビンを投げつけるだろう、あたりに残っているのがそれだけだとしても」――しかし、もちろんBBCの検閲官が適切なタイミングでマイクを切ったのだと。この話は真実でないと考える者もいるだろうが、当時は真実に違いないと感じられたのだ。これは平時の指導者としては受け入れ難いが危機の瞬間には自分たちの代表と感じられるタフでユーモアある老人に対する一般の人々からの相応の賛辞なのである。