職業としての科学, マックス・ウェーバー

日々の要求にしたがえ


わたしたちの時代の宿命は合理化と知性化、そしてなにより「世界の脱魔術化」によって特徴づけられます。まさしく、最終的かつ最も崇高な価値は、公衆生活からは後退しており、秘教的な生の超越的領域か、あるいは直接的かつ個人的な人間関係における友愛のいずれかへと移っています。偉大な芸術が親しみを与え、記念碑的ではないことは偶然ではありません。かつてはより集まり、燃え上がる炎のごとく大共同体を飛び回っていた預言的な聖霊に相当するものが、今日では親密な小集団内部の個人的状況においてのみ、きわめて弱々しく脈うちつづけることも、偶然ではありません。もしも記念碑的な芸術様式をむりやり「創作」しようと試みるならば、ここ二十年来の多くの記念碑的偉業のような、悲惨な怪物が生まれることでしょう。もしも真の新たな預言なしに、知力により新しく宗教を興そうと努めるならば、内的な意味において、同じようなものが生まれ、しかもよりいっそう悪影響を及ぼすことでしょう。最終的に、学問的預言が生み出すものは、ただ狂信的セクトのみであって、正真正銘の共同体は決して生まれません。

時代の運命に耐えられない者には、こう言わねばなりません。衆人に裏切り者よばわりされるまえに、さっさと黙って立ち去るがよい。彼には古い教会が両腕を大きく広げ、情け深く待っています。結局のところ、教会が彼にひどくあたることはありません。いずれにせよ、彼は「知の犠牲」を払わねばならないのです。これは避け難いことです。もし彼が本当にそうできるならば、わたしたちは決して彼を非難しません。なぜなら、無条件の宗教的献身を求める知の犠牲は、おのれの究極の立場を明らかにする勇気を欠き、心許ない相対的判断により義務を軽減しようとするような、知的誠実さが課する質実なる義務の回避とは倫理的にきわめて異なる事柄ですから。わたしの目には、そのような宗教への回帰の方が学問的預言よりも高貴に映ります。学問的預言には、大学の講義室には飾りのない知的誠実さ以外の美徳など存在しないことを、はっきりと自覚できていません。わたしはこう言わざるをえません。今日、新しい預言者と救世主を待ち望む多くの者たちにとって、状況は流浪期のエドムの見張りの美しい歌に響くものとまったく同じです。イザヤ書には次の一節があります。

セイルから、わたしを呼ぶ者がある。見張りの者よ、今は夜の何どきか。見張りの者よ、夜の何どきなのか。見張りの者は言った。夜明けは近い、しかしまだ夜。尋ねたいならば、尋ねよ、そしてまた来なさい。(イザヤ書二十一:十一-十二)

これを語り継がれた人々は二千年以上にわたり、尋ね、待ち続けています。そしてわたしたちは、その恐るべき運命を知っています。ここから次の教訓を引き出したいと思います。あこがれ待つのみではなにものも得られない。そうではなく、違う行動を起こすのです。職業においてだけではなく、人間関係においても、「日々の要求」を満たす仕事にとりかかりましょう。もしわたしたち各々が自身の生の糸を握る霊力に気づき、それにしたがうならば、これはしごく単純明解なことです。


©2002 岡部拓也. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。