あの楽しかりし日々, ジョージ・オーウェル

第三章


学生時代を振り返って、自分たちには不幸しか起きなかったと心から言うことのできる者はいない。

多くのひどい思い出の中にまぎれているにせよ、聖シプリアン校での良い思い出もある。夏の午後にはときどきダウンズを越えてバーリング・ギャップと呼ばれる村だとか、ビーチー岬まで行くすばらしい遠足がおこなわれた。そこで巨大な岩に囲まれて危なっかしく水浴びをし、切り傷だらけになって帰るのだ。さらにすばらしい真夏の夕べもあった。特別なお楽しみとして私たちはベッドに追いやられる代わりに長い黄昏時に学校の敷地内を散策することを許され、九時ごろになると水泳プールに飛び込んでお終いとなるのだ。夏の早朝に目覚め、日の光が差す寝静まった大部屋で誰にも邪魔されずに一時間ほど読書する(イアン・ヘイ、サッカレー、キップリング、そしてH・G・ウェルズが私の少年時代のお気に入りの作家だった)という楽しみもあった。クリケットもある。得意ではなかったが十八歳くらいになるまで私はある種の望みの無い恋をそれにしていた。蛾の幼虫を飼うのも楽しかった……絹のように光沢のある緑と紫の色をしたプス・モス、幽霊のような緑色のポプラ・ホークモスホークモス:スズメガを意味する。、プリベット・ホークモス。薬指ほどの大きさで、町にある店で六ペンス払うとその標本を密かに買うことができた……また「散歩」に出て、教師の目を盗むことができた時には、ダウンズの貯水池をさらってオレンジ色の腹をした巨大なイモリを捕まえるのに夢中になったこともある。散歩に出て魅力的な、興味をそそるものに出くわし、ちょうど犬がリードで引っ張っていかれるように教師の怒鳴り声でそれから引きはがされるというこうした状況は学校生活の大事な特徴のひとつで、一番やりたいことは決まって達成できないという信念が多くの子供に深く刻まれる助けとなっている。

おそらくひと夏に一度ほどだろうか、ごくまれに学校の兵舎のような空気から完全に逃れられることもあった。教頭であるブラウンが一、二人の少年を連れて数マイル離れたところにある共有地での午後の蝶の採集に出かける許しを得た時だ。ブラウンは白髪の、いちごのような赤い顔をした男で、自然博物、模型や石膏像の作成、幻灯機の操作といったことに長けていた。彼とバチェラー氏はこの学校に何らかのつながりがある人の中で私が嫌っても恐れてもいない数少ない大人だった。一度、彼が私を自分の部屋に連れて行ってメッキされ、持ち手に真珠が埋め込まれたリボルバー拳銃……「六連装拳銃」と彼は呼んでいた……を内緒で見せてくれたことがあった。彼のベッドの下にしまわれていたものだ。そして、ああ、そうしたときおり訪れる遠足の楽しさと言ったら! 人気のない狭い小道を進む二、三マイルの乗馬、大きな緑の網を手にあちらこちらへと走りまわった午後、草原の上に浮かんで止まる大きなトンボの美しさ、不快な匂いのする不吉な殺虫ビン、そしてその後の酒場の一間でのお茶の時間には淡い色のケーキの大きな一切れがついてくるのだ! 中でも最も重要なのは鉄道での旅程で、まるで自分自身と学校の間に魔法のような距離が置かれたように思えた。

実際にそれらを禁じるまではしないまでも、とりわけフリップはこうした遠足に反対していた。「それで、ちっちゃな蝶々は捕まえられた?」戻って来た時には彼女は意地悪くあざわらいながら、できるかぎり子供のような声を作って言ったものだった。彼女にしてみれば自然博物(彼女はそれを「虫取り」と呼んでいたはずだ)は子供じみた趣味で、笑い飛ばしてできるだけ早く子供にやめさせなければならないものだった。さらに言えばそれはどことなく庶民的で、眼鏡を掛けた運動の得意でない少年たちと伝統的に結びついていて、試験に受かる助けにはならず、とりわけ科学の匂いを漂わせて古典教育を脅かすように思えたのだろう。ブラウンの招待を受けるにはかなりの労力を払って品行方正にしておく必要があった。ちっちゃな蝶々への嘲笑に私がどれほど怯えたことか! しかしその創立当初から学校にいたブラウンは自身の一定の独立を築き上げていて、サンボを御し、フリップをかなりの程度、無視していた。彼ら二人ともがいなくなるようなことが起きるとブラウンは校長代理として振る舞い、そうした時には朝の礼拝堂でその日に予定されていた聖書の朗読の代わりに、私たちに聖書の外典アポクリファから選んだ話を読んで聞かせたものだった。

おおよそ二十歳くらいまでの私の子供時代の良い思い出のほとんどは何らかの形で動物と関係がある。また聖シプリアン校でのことについて言えば、振り返ってみると良い思い出は全て夏のものなのだ。冬には絶えず鼻がたれ、指がかじかんでシャツのボタンも留められなくなり(日曜日にイートン・カラーイートン・カラー:上着の襟の上につける幅広の白いカラー。イートン校の制服が発祥とされる。をつける時には特に悲惨だった)悪夢のフットボールが毎日のように繰り広げられた……寒く、泥まみれになって、気持ちの悪い油で汚れたボールが音をたてて顔面に飛んできて、体格のいい少年に膝でえぐられ、ブーツで踏みつけにされるのだ。こうした面倒事のひとつとして、十歳になった後あたりから冬になると私はめったに健康な状態を保てなくなったことが挙げられる。少なくとも学期の間はそうだった。私は気管支に問題があり、片肺に障害があったが、そうとわかったのは何年も後になってからのことだった。慢性の咳があっただけでなく、走るとひどく苦しくなった。しかし当時は「ぜーぜー病」だとか「胸患」と呼ばれていたそれは仮病か、あるいは基本的には過食によって起きる心因性の疾病であると見られていた。「コンサーティーナコンサーティーナ:アコーディオンに似た蛇腹式の楽器みたいにぜーぜー息をするんだな」サンボは私の席の後ろに立って非難がましく言ったものだ。「年がら年中、食べ物を詰め込んでいるからそうなるんだ」私の咳は「胃袋咳」と呼ばれた。不快で非難に値するものだと言われているかのようだった。治療法は走り込みだった。十分にそれを続ければ最終的には「肺をきれいに」できるだろうと言うのだ。

こうした過程……実際の苦痛ではなく、浅ましさと養育の放棄……が当時の上流階級向けの学校では当然視されていたのは興味深いことだ。サッカレーの時代とほとんど同じように、八歳から十歳の小さな少年はみすぼらしい鼻をたれた生き物で、顔はだいたいいつも汚れていて、手は荒れ、爪は噛み跡だらけで、ハンカチはひどい有様、下半身はあざだらけで青くなっているのが当然のように思われていた。休暇の終わりの数日間、学校へ戻ることを考えるとまるで胸に鉛の塊を抱いたように思えたのは一部にはこの現実の肉体的な不快を予感するためだった。聖シプリアン校特有の思い出は学期の一日目にベッドのあまりの固さに驚いたことだ。学費の高い学校で、そこに入学することで社会階級のステップを上がったにも関わらず、その快適さの水準はあらゆる点で私の家でのそれよりもはるかに低く、また豊かな労働階級の家庭でのそれよりも間違いなく低いであろうものだった。例えば熱い風呂に入れるのは週に一度だけだったし、食事はまずいだけでなく、量も少なかった。パンに塗られたジャムはこれまで目にしたことがないほど薄かった。私たちが食べ物を盗みだす準備に取り掛かるまでの長さを思い出すと、自分たちが栄養不良だという事実に私が思い及ぶことができたとは思わない。午前二時か三時に何マイルもあるかのように思える急で暗い階段と廊下を忍び降りたことを私は何度となく思い出す……はだしで、一歩進むごとに立ち止まって耳をすませてはサンボと幽霊、そして泥棒に同じくらい怯えて身をすくませた……食料庫から古くなったパンを盗み出すためだ。補助教員たちは私たちと一緒に食事をしていたが私たちよりはいくらかましなものを食べていて、彼らの皿が下げられた時には隙あらば食べ残しのベーコンの皮やフライド・ポテトを盗み食いするのが当たり前のことだった。

常のごとく、この食事制限に確固とした営利上の理由があったのかは私にはわからない。全体的に言えば、サンボからすると少年の食欲はある種の恐ろしい増大を示すもので、可能な限り監視を続けなければならないものだったのだろうと私は受け取っている。聖シプリアン校で私たちによく繰り返されていたのは、席についた時と同じくらいの飢えた状態で食事の席を立つのが健康的であるという格言だった。ほんの一世代前には学校での食事は一切れの甘味の無いスエットプディングから始まるのが普通で、それで「少年たちの食欲を減退させる」のだと率直に語られていた。しかしそれでも予備校での食事制限はあまりひどいものではなかったはずだ。予備校では少年は正規の食事に全面的に依存しているが、それと比較するとパブリックスクールでは自分の追加の食事を買うことが許されていた……というより、そうすることを期待されていた。いくつかの学校では卵やソーセージ、イワシといった定期的な補助食を買わなければ十分な食事を取ることは文字通りできなかったのだ。例えばイートン校の少なくとも学寮では昼食以降、ちゃんとした食事を与えられる少年はひとりもいなかった。午後のお茶の時間にはスープかフライド・フィッシュ、多くの場合はパンとチーズのわずかな軽食が飲み水と一緒に出される。サンボはイートン校に入った自分の長男に会いに行って、そこでの少年たちの暮らしの豪華さに俗物的な興奮を覚えつつ戻ってきた。「軽食にフライド・フィッシュだぞ!」彼は丸々とした顔に喜びの表情を浮かべながら叫んだ。「あんな学校は世界のどこを探してもない!」フライド・フィッシュだ! 労働階級の最貧困層がよく食べる軽食である! だが極めて安い寄宿学校ではもっとひどいことは疑いない。私の最初期の記憶のひとつに、ある中学校の寄宿生……おそらく農場主や商店主の子息たちだろう……が、ゆで卵を食べているのを目にした記憶がある。

自分の子供時代について書く者は誰しも誇大表現と自己憐憫に気をつける必要がある。私は自分が犠牲者だとか、あるいは聖シプリアン校は一種のドゥザボーイズ・ホールドゥザボーイズ・ホール:ディケンズの小説「ニコラス・ニクルビー」に登場する寄宿学校。だったなどと主張するつもりはない。しかし、もしその大部分が不愉快な記憶だったことを記録しなければ私は自身の記憶を改竄することになってしまうだろう。私たちが過ごした、定員超過で栄養不良で薄汚れた生活は思い出す限りでは不愉快なものだった。目を閉じて「学校」と口にすれば、もちろん最初に記憶によみがえるのは目に映る周囲の風景だ。クリケットのための施設と射撃場に面して小さな倉庫のある平らにならされた運動場、隙間風の吹く大部屋、ほこりっぽいささくれだった廊下、体育館の前のアスファルトの広場、その奥にある松材でできた素朴な玉縁飾り。そしてほとんどあらゆるものがその細部まで不潔さに侵食されていた。例えば私たちのオートミール粥が入れられるピューター製の椀がそれだ。そり返った縁をしていて、その縁の下には古くなったオートミール粥がこびりついてそれが円状の帯になって剥がれ落ちることがあった。オートミール粥自体もそうで、得体の知れない何かの塊、髪の毛、正体不明の黒い物体が誰かが意図して入れたのでもなければ考えられないほど入っていた。そのオートミール粥は、まず最初に探ってからでないとおちおち食べ始めることもできなかった。大浴槽のぬめった湯や……大浴槽は十二フィートから十五フィートほど長さで、全生徒は毎朝それにつかることとされていたが、その湯がどれほど頻繁に換えられていたかは疑問だ……チーズの匂いがするいつも湿っているタオルもそうだ。冬場はときおり地元の浴場のよどんだ海水につかることがあって、その水は浜辺から直接引かれたものだったが、一度、私はそこに人糞が漂っているのを目にしたことがある。油じみた洗面器のある更衣室の汗臭い匂いもそうで、それについて言えば立ち並ぶ薄汚れたおんぼろの個室トイレも同じだ。ドアにはどのような錠もついていないので、そこに座っている時にはいつでも決まって誰かが押し入ってこようとするのだ。学生時代を思い出すときに冷たい、悪臭のする何かから漂う匂いを思い出さずすませることは容易ではない……汗まみれの靴下、汚れたタオル、廊下に沿って漂う糞尿の匂い、先端に古い食べ物がこびりついたフォーク、羊の首のシチュー、ばたんと音をたてて閉まる個室トイレのドア、大部屋で音をたてる尿瓶。

私がもともと社交的でないこと、多数の人間が狭い空間にひとまとめに押し込められた時にはトイレや生活における汚れたハンカチに代表される側面がより一層あらわにならざるを得ないことは確かだ。軍隊や、間違いなくそれよりひどい刑務所とまったく同じことだ。それに加えて少年時代とは不快な年代でもある。個性の違いを学び、しかも個性が固まりきる前の時期……つまり七歳から十八歳のあいだ……人は汚水溜めの上に張られたロープの上を常に歩いているようなものなのだ。新鮮な空気と冷たい水、そして厳しい訓練とともに育てられたとは言え、健康と清潔がどれほど無視されていたかを思い出すと自分が学校生活の浅ましさを誇張しているとは思わない。何日間も便秘が続くことはごく一般的だった。腹の中身を空けるのはひどく気の進まないことだったが、それは使うのが認められている下剤はヒマシ油か、それと同じくらいまずいリコリス粉と呼ばれる飲み物だけだったからだ。大浴槽に毎朝つかることとされていたが少年の一部は何日も続けてそれを怠っていた。たんにベルが鳴った時に姿を消したり、人ごみに紛れて浴槽の脇をすり抜けた後で床にこぼれた汚れた湯で髪を湿らせたりするのだ。八、九歳の小さな少年は監視する者がいない限り自分の体を清潔に保とうなどとは必ずしも考えないものだ。ヘイゼルという名の新入りの少年がいた。母親に溺愛されていた可愛らしい少年で、彼は私が卒業する少し前に入学してきた。彼を見て最初に気がついたのはその歯が美しい真珠のような純白だったことだ。その学期が終わる頃にはその歯は驚くほど緑色に薄汚れていた。学期の間、彼が歯を磨いているかどうかに十分な関心を払ったものが誰ひとりいなかったことは明白だった。

しかしもちろん家と学校の間の違いは肉体的なものに留まらない。学期の最初の夜、固いマットレスに体を放り出すと、急に目が覚めたような感覚、「これが現実だ、これが立ち向かわなければならないものだ」という感覚がわいてきたものだ。自身の家は完璧にはほど遠いだろうが、それでも少なくとも恐怖よりは愛によって統治された場所であり、まわりを囲む人間に対して絶えず防御の姿勢をとる必要がない場所だ。八歳で突如、その温かい巣穴から連れ出され、まるでカワカマスでいっぱいの水槽に投げ込まれる金魚のように力と不正と秘密のうずまく世界に投げ込まれるのだ。どれほどいじめられようとそれが正されることはない。わずかに残されたしっかりとした明確な状況を除けば、できるのはこっそりと許されざる罪に手を染めて自分の身を守ることだけだ。家に手紙を書いて両親に助け出してくれと頼むのは考慮にも値しないことだった。そうするのは自分が不幸で人から嫌われていることを認めるのと同じことであり、それは少年が決してやろうとはしないことだからだ。少年とはエレホンエレホン:サミュエル・バトラーの小説「エレホン」に登場する架空のユートピア国家。エレホンでは不幸は犯罪とされ、裁判にかけられる。「エレホン(Erewhon)」は「どこでもない(Nowhere)」のアナグラム。の住人なのだ。不運は不名誉であり、全力で隠し通さなければならないと彼らは考える。それでもおそらく食事のまずさや不当な鞭打ち、あるいは仲間の少年ではなく教師によって課されたその他のひどい扱いであれば両親に不平を言うことも許されるはずだ。サンボが裕福な少年たちを決して鞭で打とうとしなかったという事実はときおりこうした不平が言われていたことを示している。しかし私自身の場合に関して言えば、私は自分の味方として加勢してくれるよう両親に頼むことは一度もできなかった。学費の減免について知る前でさえ、両親はサンボに対する何らかの義務の下にあり、そのために彼から私を守ることができないことを私は理解していた。聖シプリアン校で過ごす間、私が一度も自分用のクリケットのバットを手に入れられなかったことについてはすでに述べた。それは「おまえの両親にはその余裕がない」ためだと私は教えられた。休暇中のある日、ちょっとした会話から両親は私にそれを買うための十シリングを払っていることが明らかになった。しかしそれでもクリケットのバットが現れることはなかったのだ。私は両親に抗議しなかったし、言うまでもなくサンボにもその件は持ち出さなかった。私に何ができるだろうか? 私の処遇は彼次第で、その十シリングは私が彼に負っているもののほんの一部でしかないのだ。もちろん今では、サンボがその金をだまし取ったなどということはまずありそうもないとわかっている。たんにそのことが彼の記憶から抜け落ちただけであろうことは疑いない。しかし重要なのは、彼がだましとったのだと私が考えたこと、そしてもしそうしたければ彼にはその権利があると考えたことなのだ。

フリップに対する振る舞いの中で何らかの現実的で主体的な態度を見せることが子供にとってどれほど難しいことだったか。学校の全ての生徒が彼女を嫌い、恐れていたと言っていいと私は思う。しかしそれでも私たちは全員、ひどく卑屈なやり方で彼女に媚びへつらい、彼女に対する感情の最上層にあるのはある種の罪悪感をともなう忠誠心だった。学校の規律はサンボよりもむしろ彼女によって左右されることが多かったにも関わらず、フリップはめったに厳格な正義を執行するそぶりを見せなかった。率直に言って彼女は気まぐれだった。ある日には鞭打ちの罰を受ける行動が次の日には少年らしいいたずらだと笑ってすまされたり、さらには「根性がある」として褒められることさえあった。くぼんだ責めるような目の前で全員が身をすくませる時もあれば、寵臣に囲まれた軽薄な女王のように振る舞い、笑って冗談を言いながら褒美をばらまいたり、約束したりする時(「ハロウ歴史賞で勝ったら、あなたのカメラ用に新しいケースをあげます!」)もあった。ときには自分のフォード製の自動車にお気に入りの少年たちを三、四人、詰め込んで町の喫茶店へ運んでいき、コーヒーやケーキを買うことを彼らに許すことさえあった。私の頭の中でフリップはエリザベス女王エリザベス女王:エリザベス女王一世を指す。と分かちがたく結びついている。エリザベス女王とレスター伯レスター:初代レスター伯ロバート・ダドリーを指す。、エセックス伯エセックス:第二代エセックス伯ロバート・デヴァルーを指す。、ローリーローリー:ウォルター・ローリー。16世紀のイングランドの廷臣、探検家。の関係は本当に幼い時から私にはよく理解できるものだった。私たち全員がフリップについて話すときに決まって使う言葉のひとつが「感じ」だった。「僕は良い感じだ」だとか「僕は悪い感じだ」だとか私たちはよく言ったものだ。一握りの裕福だったり爵位を持ったりしている少年を除けばずっと良い感じでいられる者はひとりもいなかったが、一方で普段はのけ者にされている者たちさえときおりはその恩恵に浴した。こうした理由から、フリップに関する私の記憶のほとんどが敵意に満ちたものであるにも関わらず、私には彼女の笑顔に浴したり、彼女に「大将」だとか洗礼名だとかで呼ばれたり、彼女の個人的な蔵書を頻繁に見ることを許されてそこで初めてヴァニティ・フェア誌を知ることになったりといった思い出もかなりあるのだ。良い感じの最高潮はフリップとサンボが客を呼んで夕食をおこなう、日曜日の夜のテーブルでの給仕役として招かれることだった。もちろん片付けの時には食べ残しを失敬するチャンスがあったが、それと同時に、席についた客の後ろに立って何かを要求された時にうやうやしく進み出ることには卑屈な喜びもあった。ご機嫌取りをするチャンスがあればいつでもご機嫌取りをし、笑顔を向けられれば抱いている憎しみはある種の卑屈な愛へと変わるのだった。フリップを笑わせるのに成功した時には決まって私は極めて大きな満足を感じた。彼女の指示で学校生活での祝賀記念行事のための時季の詩、滑稽詩を書くことさえ私はした。

周りの状況でやむを得ない時を除けば自分は決して反抗的な人間ではないことを示そうと私は気をもんだ。自分が気がついた行動規範を私は受け入れた。卒業が近づいた頃、ブラウンにすり寄って同性愛と疑われるようなことさえおこなったこともある。同性愛がどのようなものかはよく知らなかったが、そうしたものがあってそれは良くないことだということは知っていたし、すり寄ることはそうした場合の状況のひとつであることも知っていた。ブラウンは私を「良いやつ」だと言い、その言葉は私をひどく恥ずかしがらせた。フリップの前では自分がヘビ使いの前のヘビになったような無力感を感じた。彼女は誉め言葉と罵りの言葉のボキャブラリーがあまり豊かでなかった。全ての言い回しはどれもそれに応じた適切な反応をただちに引き出すためのものだった。「気合を入れなさい、大将!」はエネルギーを爆発させろと言うためのものだったし、「そんな馬鹿な真似はやめなさい!」(あるいは「見ちゃいられないわね?」)は自分がどうしようもない馬鹿だと思わせるためのものだった。また「あなたはそんな子じゃないわよね?」と言われれば皆、決まって涙を流した。しかしその間中、言われた者の心の中では、それが何であれ自分の行い……笑ったとか、鼻水をたらしたとか、ちょっとした親切におおげさに感謝しただとかいったことだ……を知る高潔な内なる自分が立ち上がったように思われ、わき上がる本当の感情は憎しみだけなのだった。


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