あの楽しかりし日々, ジョージ・オーウェル

第六章


これら全ては三十年以上前の出来事だ。私が疑問に思うことがあるとすればそれは「現代の学校に通う子供は同じような経験をするのだろうか?」ということだ。

私が信じる、唯一の誠実な回答は「正確なところを私たちは知らない」というものだ。もちろん現代における教育への姿勢は過去のそれに比べればずっと人道的で、良識あるものであることは明らかだ。私自身が受けた教育に不可分に結びついていた高慢さは今日ではほとんど考えもできないものだろう。それを育んできた社会が死に絶えたからだ。聖シプリアン校を卒業する一年ほど前に繰り広げられた会話を思い出す。私よりひとつ年上で、体格のいい金髪のロシア人の少年が私に尋ねたのだ。

「君の父親の年収はいくらだ?」

私は、聞こえを良くするために自分の考えている額に数百ポンドを足したものを彼に教えた。ロシア人の少年は几帳面に鉛筆と小さなメモ帳を取り出すと計算を始めた。

「僕の父さんは君のより二百倍以上、金を持っているぞ」彼は侮辱するのを楽しむような雰囲気を漂わせながら宣告した。

これは一九一五年の出来事だ。その金は二年後にどうなったのだろうか二年後にどうなったのだろうか:1917年にロシア革命が起きた。と私は思いを巡らせる。そしてさらに、今でもこうした会話が予備校では交わされているのだろうかと考えるのだ。

物事の考え方の広範な変化や「進歩」の広がりが、ごく普通の思慮に欠ける中流階級の人々の間でさえ起きたことは明らかだ。例えば宗教的信念の大半は消え去り、その他の無知蒙昧もその道連れとなった。現代では、マスターベーションをしたら最後には精神病院に行くことになると子供に教える者はごくわずかだろうと想像する。また体罰も体面の悪いものとなり、多くの学校で廃止されている。子供に食事を十分に与えないことを普通だとか、称賛に値するとさえ考えることも同様だ。今では、子供にはできるだけ少ない食事しか与えないようにしているだとか、食事の席に着いた時と同じように腹をすかせたまま席から立つのが健康的だと子供に教えていると公言する者はひとりもいないだろう。子供の置かれた状況は全体的に向上している。それは一部には子供の数が比較的少なくなってきているためでもあるだろう。また、ほんのわずかとは言え心理学的知識が広まったことで、両親や教師が訓練と称して自らの逸脱をほしいままにすることが難しくなったためでもある。ひとつの例がある。私個人の体験ではないが身元の確かなある人の体験で、私と同時代に起きたことだ。ある幼い少女がいた。彼女は聖職者の娘で、おねしょをしなくなる歳になってもそれが続いた。このひどい振る舞いに対する罰として彼女の父親は彼女を大きなガーデン・パーティーに連れて行って参加者全員におねしょをする少女として紹介した。さらには彼女の邪悪さを強調するために前もって彼女の顔を黒く塗っていた。フリップやサンボが実際にこうしたことをおこなっていたと言うつもりは無いが、こうした話を聞いても二人はたいして驚かなかったのではないかと私は思う。結局のところ、事態は大きく変化したのだ。しかし、それでも……!

少年たちはいまだに日曜日にはイートン・カラーをつけているのかだとか、いまだに赤ん坊はオオスグリのやぶの下から掘り出されると教えられているのかといったことには疑問はない。こうした種類のことはとどのつまり許容可能なものだ。本当の疑問は、不条理な恐怖や狂った考え違いに囲まれて何年も生活することが学校に通う子供たちにとっていまだに普通のことなのかどうかということなのだ。そしてここで直面するのは、子供が本当は何を感じ、考えているのかを知ることが極めて難しいということだ。それなりに幸福に見える子供が実際は明かすことのできない、あるいは明かすつもりのない恐怖に苦しめられていることもあり得るのだ。子供はある種の異質な水面下の世界に生きていて、その世界は私たちが理解するには記憶か占いに頼るしかないものなのだ。私たちの持つ主な手がかりは私たち自身もかつては子供だったという事実だが、多くの人々は自分自身の子供時代がどんな風だったかをほとんど全て忘れているように見える。例えば人々が子供を学校に送り返す時に間違った模様の服を持たせて不必要な苦痛を負わせていること、そしてそれが重要な問題であることを認めようとしないことを考えてみるといい! こうした物事に対して子供は時に不満の声を上げることもあるが、たいていの場合は子供の態度は他のものと同じようにたんに隠されるだけだ。自分の本当の感情を大人に見せないようにすることは七、八歳を過ぎると本能のようなものだ。人が子供に対して感じる愛情、子供を守って大切にしたいという欲求さえもが誤解の原因になる。人はおそらく他の大人を愛するよりも深く子供を愛することができるが、お返しに子供が何らかの愛情を抱いてくれると早計にも考える。自分自身の子供時代を振り返ってみると幼児期を過ぎた後には成人した人物に何らかの愛情を抱いたことは一度もなかったと思う。母親は別だが、その母親にしても気恥ずかしさによって自分の本当の感情のほとんどを彼女から隠していたという意味では信頼はしていなかった。愛、自発的で無条件の愛情は私にとって若い人々に対してしか抱くことのできないものだったのだ。歳をとった人々……子供にとって「歳をとった」が意味するのは三十歳以上、さらには二十五歳以上の場合もあることを憶えておくべきだ……に対して崇敬の念や感嘆、悔恨を感じることはあったが、私は肉体的嫌悪とないまぜになった恐怖や気恥ずかしさのベールでそれらを締め出していたように思う。大人に対して子供が物質的にしり込みすることを人々はつい忘れてしまう。大人の巨大さ、不格好で柔軟さに欠けたその体、ざらざらとして皺のよった肌、ひどくたるんだまぶた、黄ばんだ歯、あらゆる動作の度にまき散らされるかび臭い服やビール、汗やタバコの匂い! 子供の目から見たこうした大人の醜さの理由の一部は子供が普通は上を向いていて、下から見た時に見栄えのいい顔は少ないということにある。加えて、それ自体は目新しく語られないこととして、肌や歯、顔の色つやに関して子供は達成不可能なほど高い基準を持っていることが挙げられる。しかし中でも最大の障壁は子供が年齢について思い違いをしているということだ。子供は三十歳を超えた後の生活というものをほとんど想像することができず、人々の年齢を判定する時に信じ難い間違いを犯す。子供は二十五歳の人物を四十歳、四十歳の人物を六十五歳といった風に考えるのだ。そのためエルセに恋した時、私は彼女のことを大人だと思っていた。再び彼女にあった時、私は十三歳で、彼女はおそらく二十三歳だったはずだが、彼女は私にとっていくらか盛りを過ぎた中年の女性のように思われた。そして年を取ることを道理に合わない災厄、何か不思議な理由によって自身には決して起きないものだと子供は考える。三十歳を過ぎた者は全員、不機嫌でグロテスクな者になり、どうでもいい事に絶えず愚痴を言いながら、子供が見る限りでは特に生きる意味も持たずに生きながらえ続けるのだ。子供の生活だけが本当の生き方なのである。自分が少年たちに愛され、信頼されていると思っている教師は実際のところは背後で物真似され、笑われている。危険に見えない大人はたいてい滑稽に見えるのだ。

こうした一般論は思い出せる限りの私自身の子供時代の考え方に基づいている。記憶は不安定なものであるとはいえ、それこそが子供の精神がどのように働くかを知る主な手段であるように私には思われる。私たち自身の記憶をよみがえらせることによってのみ私たちは子供の目に映る世界がどれだけ信じ難いほど歪められているかに気がつけるのだ。例えば次のように考えてみよう。もし現在の年齢のままで一九一五年の聖シプリアン校に戻ることができたとして、それは今の私にどのように見えるだろうか? 私には彼らが愚かで浅薄で能力に欠けた二人の人間、思慮ある人であれば誰しもが崩壊し始めていると考える社会序列を懸命に登り続けているように見え、ヤマネに怯えるほどにも彼らに対して怯えることはないだろう。さらに言えば当時、彼らは途方もなく老いているように私には思えたが……確かなことはわからないにせよ……実のところ、今の私よりもいくらか若かったに違いないと私は想像している。鍛冶屋のように太い腕と嘲りの表情が浮かんだ赤い顔のジョニー・ヘイルが現れたらどうだろう? たんなるだらしない幼い少年で、他の数百のだらしない幼い少年と見分けることも難しいだろう。こうした事実の二つの対は私の頭の中で隣り合って存在可能で、それはたまたまそれが私自身の思い出だからだ。しかし他の子供の視点に立ってそれを理解するのは私には非常に難しいことで、想像力を駆使してそうしてみても最後には完全に方向を見失ってしまうのが関の山だ。子供と大人は別の世界に住んでいるのだ。そしてもしそうなのであれば学校、少なくとも寄宿学校が、もはや多くの子供たちにとってかつてのようにひどい体験の場ではないと私たちが確信することはできない。神様やラテン語、鞭、階級区別、性的タブーを取り除いても、恐怖や憎悪、高慢や誤解は依然として全て存在することだろう。私自身の一番の弱みは割合や確率に対する感覚の完全な欠如であるように思われる。それによって私は侮辱を受け入れたり、馬鹿げたことを信じたり、また実際にはさして重要でない物事に苦悩したりしてきた。私が「愚か」で「もっと物事をよく知るべき」だったと言うだけでは十分でない。自身の子供時代を振り返って、かつて信じていた無意味なことや自分を苦しめていたささいなことについて考えて欲しい。もちろん私自身の例はそれ独自の色彩を持っているが本質的には無数の他の少年のそれと同じである。子供の弱さは白紙で生まれるということにある。自分が生きている社会に対する理解も疑問も持ち合わせてはおらず、物事を信じやすいために他の人々は子供に働きかけて劣等感や謎めいた恐ろしい規範を犯すことへの恐怖を植えつけることができる。聖シプリアン校で私に起きた全ては、おそらく異なる形ではあろうが「進歩的」な学校のほとんどでも起き得ることだろう。しかしながらひとつ強く確信できるのは、寄宿学校は通学制の学校よりもずっとひどいということだ。子供は身近に家庭という安らぎの場を持った方が好ましい。そして私が考えるところでは、イギリスの上流階級・中流階級に特徴的な欠点は八、九歳、さらには七歳ほどの幼い子供を家庭から引き離すというごく最近まで一般的におこなわれていたこの習慣にその一部を負うものであろう。

私は聖シプリアン校を再訪したことは一度もない。同窓会やOBの集いといったものには寒々とした感情しかわかない。心地よい思い出があってもそうなのだ。比較的楽しかった場所であるイートン校さえ訪れたことは一度も無い。ただ一九三三年に一度だけそこを通りがかって、今では売店でラジオが売られていることを除けば何も変わっていないように見えて感心したことがあるだけだ。聖シプリアン校に関して言えば何年もの間、私はその名前を聞くのも嫌で、あまりに嫌いすぎてそこで自分の身に起きたことの意味からあえて目を背けるようにしなければそれについて考えることもできないほどだった。ある意味で、常につきまとうその記憶を通じて自分の学校生活について鮮明に、深く考えるようになったのはここ十年のことに過ぎない。今となってはその場所を再び目にしてもたいした感慨はわかないだろうと思う。もしいまだにその場所が存在していたとしてたらの話だが(あそこは焼けて無くなったという噂を何年か前に聞いた憶えがある)。イーストボーンを通りがかっても、あの学校を避けるためにあえて遠回りはしないだろうし、偶然あの学校に行きあたったら急な坂が下に延びる低いレンガ壁の脇にしばらく立ち止まって、平らな運動場の向こうにある、前にアスファルトの広場が広がる醜い建物を眺めることさえするかもしれない。そしてもし中に入ってあの大教室のインクと埃の匂い、礼拝堂の松脂の匂い、水泳プールのよどんだ匂いと洗面所の冷たい嫌な匂いを再び嗅いでも、子供時代のどれかの場所を再訪した時に人が決まって感じることを感じるだけだろうと思う。あらゆるものが何と小さく縮み、自分は何とひどく老いさらばえたことか、と! しかし何年もの間、そこを思い出すのが耐えがたいことだったのは事実だ。どうしてもそうしなければならない時を除けば私はイーストボーンに足を踏み入れようとはしなかった。聖シプリアン校があった州であるサセックスに対して偏見を抱くことさえして、大人になってからもサセックスを訪れたことは一度しかないし、それもごく短い滞在だった。しかし今となってはあの場所は永遠に私の関心の埒外である。もはやその魔力は力を持たず、フリップとサンボが死んだとかあの学校が焼けて無くなったとかいう話が真実であるよう願うだけの敵意さえも無い。

1952年
Partisan Review

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