ヘクトールが埋葬された後、戦争の最初の九年間と同じように、包囲はゆっくりしたものになった。その時代のギリシア人は、見てきたように、塹壕を掘ったり、塔を作ったり、重い石を投げつける機械で城壁をうち壊したりといった方法を使った都市の包囲のやり方を知らなかった。トロイア軍は落胆し、平原に出てこようとはしなくなり、同盟国からの新たな援軍、はるか彼方の国の女戦士であるアマゾーンと、輝く暁の神の息子メムノーンを王とするキターという東方の種族の到来を待ち望んでいた。
さて、皆が知ってるように、トロイアのパラス・アテーネー女神の神殿には、天から降ってきた聖なる像があって、パラディオンと呼ばれていた。このとても古い像がトロイアの幸運の宝だった。この像が神殿に安置されている間は、トロイアは決して陥落しないと信じられていた。この像は町の真中の警護された神殿にあり、女司祭たちが昼も夜も見張っているので、ギリシア兵がこっそり町にもぐり込み、幸運の宝を盗みさることなどできるわけがないと思われていた。
ユリシーズは盗みの達人アウトリュコスの孫だから、この老人がギリシア軍にいたらよかったのにと、よく思ったものだ。盗みたいものがあれば、アウトリュコスが盗めただろうから。だがこのときにはアウトリュコスは死んでおり、それでユリシーズはトロイアの幸運の宝を盗む方法に頭を悩ませ、祖父ならどんなふうにやったかといぶかしむばかりだった。ユリシーズは盗みの神、ヘルメースに山羊を生贄にささげ、こっそりと力添えを祈った。そしてついに計略を思い付いたのだ。
デーロス島の王アニオスの物語があって、それによるとアニオスにはオイノー、スペルモー、エライスという名の三人の娘がいた。オイノーは水を葡萄酒に、スペルモーは石をパンに、エライスは泥をオリーブ油に変えることができた。この不思議な力は、酒の神ディオニューソスと穀物の神デーメーテールが娘たちに与えたとされているのだ。さて、穀物と葡萄酒とオリーブ油はギリシア人にはとても必要だったのだが、それを供給するフェニキア商人に金や青銅をこれ以上払うのはもういやになっていた。それである日ユリシーズはアガメムノーンのところに行って、船に乗ってデーロス島に行き、もし三人の娘が本当にその魔力が使えるのなら、できれば野営地に連れて来るのを認めて欲しいと頼んだ。戦闘は全然進まないので、アガメムノーンはユリシーズに出発してよいという許可を出した。そこでユリシーズはイタケー島の五十人の乗組員と一緒に船に乗り、一ヵ月のうちに戻ると約束して、船出して行った。
それから二、三日後、汚い年老いた乞食がギリシア軍の野営地に見られるようになった。この乞食はある晩遅くにうろついていたが、汚い上っ張と、穴だらけで煙で汚れたとても汚い外套を着ていた。その上から半分毛の抜け落ちた牡鹿の皮をひっ被り、杖を持ち、食べ物をいれる汚らしいぼろぼろのずだ袋を首から紐でぶら下げていた。乞食はディオメーデースの小屋にやってきて、卑屈に身をかがめて笑いかけ、戸口に入ってすぐのところに座り込んだ。その場所で乞食はずっと東の方を向いて座ったままだった。ディオメーデースは乞食を見て、一塊のパンと二つかみの肉をやった。乞食はそれを足の間のずだ袋に入れ、それからがつがつと夕食を食べ、犬のように骨をしゃぶった。
夕食の後でディオメーデースは乞食に、お前は誰で、どこから来たのかと尋ねた。そこで乞食は、クレータの海賊だったこと、エジプトで略奪をしていたとき、捕虜となったこと、エジプトの石切り場で何年もの間働かされ、そこで真っ黒に日焼けしたこと、大きな石の陰にかくれて脱走し、海岸に神殿を建てるための筏にのってナイル川を下ったことなど長い物語を語った。筏は夜に着き、暗闇にまぎれてしのびだし、港でフェニキアの船を見つけ、フェニキア人は船に乗せてくれたが、それはどこかで彼を奴隷に売り飛ばすということだった。でも嵐が来て船はトロイア近くのテネドス島の沖で難破し、乞食だけが船の板材に乗って島へと脱出した。テネドス島からトロイアへは漁師の船で来たが、野営地で何か役に立ち、クレータ行きの船が見つかるまで、身と心をなんとかしのげるだけの稼ぎを得ることができるという希望を抱いてのことだった。
乞食の物語はかなり面白く、エジプト人が猫や牡牛を拝み、一事が万事ギリシア人とは正反対のことをするといったエジプト人の奇妙な風習を語って聞かせた。そこでディオメーデースはこの乞食に敷き物と毛布を渡して小屋のポーチコで眠らせた。次の日、この年老いた恥じ知らずは野営地中を物乞いしてまわり、兵士達に話し掛けた。さて、この男は、あつかましく、うるさい、年よりの無頼漢で、いつも喧嘩ばかりしていた。どこかの王侯の父親や祖父の不愉快な話があれば、それを聞きつけ、話すので、アガメムノーンの司令杖で打たれ、アイアースには蹴られ、イードメネウスからは彼の祖父の話をしたために、槍のこじりで殴られ、誰もがこの乞食を憎み、厄介者と呼んだのだ。彼は遠く離れているユリシーズのことをずっと嘲り、アウトリュコスの話をしてまわった。そしてついにはネストールの小屋から二つの把手があり、それぞれの把手には鳩がとまっている金の杯、それもとても大きな杯を盗み出した。この老将軍はこの杯がお気に入りで、故郷から持って来たのだ。この杯が乞食のきたないずだ袋から見つかったとき、みんなは奴を野営地から追い出して、とことん打ちのめさなくてはならぬと叫んだ。そこでネストールの息子の若いトラシュメーデースは他の若者といっしょに、嘲笑したり叫んだりしながら、乞食を押したり引きずったりしてトロイアのスカイアイ門のそばまで来た。そこでトラシュメーデースは大声で呼びかけた。「おおいトロイア人よ。われらはこの恥じ知らずの乞食に悩まされている。まずこいつをとことん打ちのめし、戻ってきたら、目をえぐり、手と足を切り落とし、こいつを犬の餌にしようと思う。もしこいつがそうしたければ、お前たちのところに行くかもしれない。さもなくば、さまよった挙げ句に餓死するだろうよ」
トロイアの若者たちはこれを聞いて、大笑いし、乞食が罰せられるのを見ようと、城壁の上にひしめいた。そこでトラシュメーデースは乞食を弓の弦でつかれるまで打ちのめした。それで乞食を打つのを止めたわけではなくて、乞食が泣きわめくのをやめ、倒れて、血まみれでじっと横たわるまで、打ち続けたのだ。その後、トラシュメーデースは乞食に別れの一蹴りを喰らわせて、友達と一緒に立ち去った。乞食はしばらく静かに横たわっていたが、やがて身動きしはじめ、起き直ると、目の涙をぬぐい、ギリシア軍に向かって呪詛と悪罵を叫び、奴等が背中を槍で突かれて、犬に食われてしまうよう祈った。
やっと乞食は立ち上がろうとしたが、また倒れてしまい、四つん這いでスカイアイ門に向かって這いはじめた。乞食は門の両壁の間にすわり、泣きながら嘆き悲しんだ。さて美しい手のヘレネーは門塔から下りて来たが、獣よりひどい仕打をうけた人をみて気の毒に思い、乞食に話しかけ、なぜこんな酷い目にあわされたか尋ねた。
最初、乞食はうめき声をあげるだけで、痛むところをさすっていたが、やっと自分が不幸な男で、難破し、故郷へ帰る道を捜し求めていたところ、ギリシア軍にトロイア軍が送り込んだスパイと疑われたのだと言った。ところで、その乞食はヘレネーの故郷ラケダイモーンにいたことがあり、もし彼女が思った通り美しいヘレネーなら、父親のこと、兄弟のカストールとポリュデウケスのこと、小さな娘のヘルミオーネのことを教えることができるといった。
「でも、おそらくは」と乞食は言った。「あなた様は人間の女ではなく、トロイア人に味方する女神でしょう。もし本当にあなた様が女神ならば、美しさや背恰好、姿のよさから、私はあなた様をアフロディテになぞらえましょう」するとヘレネーはすすり泣いた。なぜなら、彼女はもう何年も、父や娘や兄弟の声を聞いていないからなのだ。この兄弟は死んでいたが、ヘレネーはそのことを知らなかった。それからヘレネーは白い手を乞食にさしのべ、足元にひざまずいていた乞食を立ち上がらせた。そしてプリアモス王の宮殿の庭の中の自分の家について来るように言った。
ヘレネーは、傍らに小間使いをつれて、前方を歩き、乞食はその後をのろのろとついて行った。ヘレネーが家に入ってみると、パリスは留守だった。そこで風呂にお湯をいれるように命じ、新しい服を持って来させた。それから、ヘレネー自ら年老いた乞食を洗ってやり、油を塗ってやった。このことは、私たちにはとても不思議に思われる。なぜなら、ハンガリーの聖エリザベートはよく乞食を洗ってやり服を与えたというが、聖者でもないヘレネーがそんなことをするなんて、驚きではある。だがずっと後に、ヘレネーがユリシーズの息子テーレマコスに自分のことを話したことによると、彼の父親が乞食に身をやつし、ひどく打たれて、トロイアにやって来たときに、洗ってやったというのだ。
読者は、乞食はユリシーズで、船でデーロス島に行かずに、ボートでこっそり戻って来て、身をやつしてギリシア軍の中に現れたのだ、と思っていることだろう。彼がこんなことをしたのは、誰にもユリシーズだとわからないことを確かめるためだったし、トロイア人にギリシア軍のスパイと疑われず、むしろ哀れんでもらえるように、打ちのめされて当然の振る舞いをしたのだ。確かに彼は「辛抱強いユリシーズ」という名前だけのことはある。
そうこうするうち彼は浴槽にすわり、ヘレネーは彼の足を洗った。だが、彼女が洗い終り、傷にオリーブ油を塗ってやり、それから彼に白いテュニカと紫の外套を着せた時、ヘレネーは驚いて唇を開いて叫びそうになった。というのはユリシーズだとわかったからだ。しかし、彼は「静かに!」と言いながら、ヘレネーの唇に指を置いた。それで、ヘレネーはユリシーズがどんなに大きな危険に身をさらしてるかということを思い起こした。なぜなら、もしトロイア人か彼を見つけたら、残忍な殺し方をするだろうから。そしてヘレネーは座り込み、震えながらすすり泣いたが、ユリシーズは彼女をじっと見ていた。
「ああ、変わったお方」とヘレネーは言った。「なんて強い心臓、それに、はかりがたいほどの抜目のなさ! このように打たれ、辱めをうけ、トロイアの城壁のなかに入り込むことに、どうやって耐えられたのか? そなたに都合よいことに、我が主パリスは、アマゾーンと呼ばれる処女戦士の女王ペンテシレイアを案内しに出かけて、家から遠く離れております。彼女はトロイア軍を助けに来る途中なので」
そこでユリシーズは微笑み、ヘレネーは話してはいけないことを言ってしまい、トロイア軍の秘密の頼みの綱を洩らしてしまったことに気がついた。それでヘレネーはすすり泣いて言った。「ああ、なんて残酷で狡賢いのか。そなたは、ああ悲しいかな、故郷の人々や愛しい夫や我が子を捨ててまで、私が一緒に暮らしている人々を裏切らせた。それで、あなたが生きてトロイアを脱れ出たら、ギリシア軍にこのことを教え、トロイアに来る途中でアマゾーンを夜に紛れて待ち伏せし、皆殺しにするでしょう。そなたと私がずっと昔友達でなかったならば、トロイア人にそなたがここにいることを教え、彼らはそなたの死骸を犬に食わせ、そなたの首を城壁の上の柵に括りつけるでしょうに。ああ生まれてきたことが恨めしい」
ユリシーズは応えて言った。「そなたが言ったように、我ら二人は昔からの友。そしてギリシア軍がトロイアに侵入し、男たちを殺し、女たちを捕虜として連れ去る最後のときまで、私はそなたの友だ。私がそのときまで生きていれば、誰にもそなたに危害を加えさせず、安全に敬意をもって、そなたが裂けた丘の連なるラケダイモーンの宮殿に行けるようにしよう。さらに、天上のゼウスにかけて、また地下で偽りの誓いを立てた者の魂を罰するテミスにかけて、そなたが話したことは誰にも言わないと誓おう」
こうして、ユリシーズが誓いを立てると、ヘレネーは心が落ち着き、涙を拭いた。それで、ヘレネーは自分がどんなに不幸で、ヘクトールが死んだときには最後の慰めまでなくなったかを語った。「私はいつも哀れなもの」と彼女は話した。「心地よい眠りについているとき以外は。ところでトロイアに来る途中、エジプトにいたときのこと、エジプト王のトーンの奥方がこんな贈物をくださいました。これはつまり、どんな不幸な時でさえ眠りをもたらす薬で、眠りの神の花冠のケシの頭のところからしぼったものなのです」そうしてヘレネーはその薬のつまった、金のかわった薬壺を見せた。それはエジプト人が作った薬壺で、魔法の呪文と獣と花の模様でおおわれていた。「この薬壺のうちの一つを差し上げましょう」とヘレネーは言った。「さもなければ、ヘレネーの手ずからの記念の贈物もなく、そなたはトロイアの町から立ち去るでしょうから」そこでユリシーズは金の薬壺をとり、心中ひそかに喜んだ。そしてヘレネーは彼の前に肉と葡萄酒を並べた。食べて飲み、元気が回復すると、ユリシーズは次のように言った。
「さて、私はまた古いぼろ着を着て、ずだ袋と杖を持ち、外へ出て、トロイアの町を物乞いしなければならない。というのは、今、私が夜のうちにそなたの家から抜け出したら、トロイア人は、そなたが連中の評議の秘密を私に教え、私はそれをギリシア軍に報せにいったと思い、そなたのことを怒るかもしれないから、そうならないように、数日は乞食としてここにとどまらなくてはならぬ」それでユリシーズはまた乞食の身なりをして、杖をもち、エジプト人の薬のはいった金の薬壺をぼろの中に隠し、ヘレネーのくれた新しい服と剣をずだ袋にいれて、いとまごいをして言った。「じきにそなたの悲しみは終るから、元気をお出しなさい。それで、もし通りや井戸のそばで乞食のなかに私を見かけても、私を気に留めぬように。私は女王様に親切にもてなされた乞食として、そなたに会釈をするだけだ」
そうして、二人はわかれ、ユリシーズは外へ出ていった。ユリシーズは昼には通りで乞食たちと一緒にいて、夜になると鍛治屋の炉の火のそばで眠った。そうするのが乞食のやり方だったのだ。そうして、ユリシーズは数日の間物乞いをしながら、平穏に暮らせる遠くの町に歩いて行く間の食糧を集めており、そこで仕事をみつけるつもりだと言った。今では彼は厚かましくはなかった。金持ちの家に行ったり、不快な話をしたり、大声であざ笑ったりせず、しょっちゅう神殿に行っては、神に祈った。とりわけパラス・アテーネーの神殿にはよく行った。トロイア人は彼は乞食にしては信心深い男だと思った。
さてこの時代には、病気や悩みを抱えた男女は、夜神殿の床で眠るという風習があった。どうやったら病が癒されるか、どうやったら見失った道が見つかり、あるいは悩みから抜け出せるかを示す夢を、神様がみせてくれるかもしれないという望みを抱いて、こんなことをしたのだ。
ユリシーズはいくつかの神殿で眠ったし、パラス・アテーネーの神殿でも一度眠った。司祭や女司祭は彼に親切で、神殿の門が開く朝には、食べ物を恵んでくれた。
パラス・アテーネーの神殿には、トロイアの幸運の宝がいつもその祭壇の上に置かれていたが、女司祭が夜通し二時間毎に見回り、呼べば聞こえるところで兵士が警固する習慣だった。そこである夜、ユリシーズは神様が見せる夢をもとめる他の悩める人々と一緒に、その神殿の床で眠った。彼は最後の女司祭が見回る番になるまで、夜通しじっと横たわっていた。女司祭は手に松明をもち、女神への賛美歌を低く唱いながら、悩める人々の間を行き来したものだ。そこでユリシーズは、女司祭が後ろをむいたときに、ぼろ着のなかから金の薬壺をこっそり取り出し、自分の傍らの磨きあげた床に置いた。女司祭が戻って来ると、その松明の光がきらめく薬壺を照らした。そこで女司祭は立ち止まり、薬壺を拾い、興味深そうにそれを見た。薬壺から甘い香りがして、女司祭は薬壺を開けて、薬をなめた。それはこれまで味わった事がない程甘いものに感じられた。それで彼女はもっと薬を摂り、それから薬壺を閉め、床に置くと、賛美歌を唱いながら行ってしまった。
しかしすぐに、ひどい眠気が女司祭を襲い、官女は祭壇の階段に座り込み、ぐっすり眠りこんだ。松明は手から落ち、消えて、あたりは闇となった。そこでユリシーズは薬壺をずだ袋にしまい、非常に用心しながら、暗闇のなかを祭壇に這って行き、トロイアの幸運の宝を盗んだ。それは、今では隕鉄と呼ばれる小さな黒い塊でしかなかった。これは隕石と一緒に時々空から降ってくるものだ。でもそれは盾のかたちをしていて、人々はそれを空から降ってきた戦争好きで盾で身を覆った女神の似姿だと思ったのだ。ガラスや象牙でできた、こうした聖なる盾は、ユリシーズの時代の廃虚となった都市の地中深くから見つかっている。急いでユリシーズは幸運の宝をぼろ着の中に隠し、黒い粘土でつくった幸運の宝の複製を祭壇に置いた。それからユリシーズは寝ていた場所に忍び足で戻り、暁になって、夢をもとめて眠っていた人たちが目覚めるまで、そこにいて、神殿の門が開くと、他の人たちと一緒に出て行った。
ユリシーズは小路をこっそり歩いたが、そこはまだ誰も起きていなかった。町の後の東門に着くまで、杖にすがりながらゆっくり歩いた。この門にはギリシア軍はまだ一度も攻撃をしたことがなかった。というのは、ギリシア軍はまだ一度も町をぐるりと取り囲んだことがなかったからなのだ。そこでユリシーズは番兵に、別の町までの長旅に十分もちこたえるだけの食べ物が集まったと説明して、袋を開けたが、パンや細切れの肉でいっぱいのように見えた。兵士は運のよい乞食だなと言って、ユリシーズを外に出してくれた。彼はイーデー山の森からトロイアへ材木を運び込む荷車道をゆっくり歩いて行った。そして見渡すところ誰もいないとわかると、森の中にそっと入り込み、深い闇に紛れ、もつれあう枝の下にかくれた。そこで横になり夜まで眠った。それから、ヘレネーがくれた新しい服をずだ袋から取り出して、それを着ると、肩に剣帯を着け、ふところにトロイアの幸運の宝を隠した。山の小川で体をきれいに洗ったが、それでもう誰が見ても、彼は乞食に見えず、ラーエルテースの息子、イタケーのユリシーズとわかったにちがいなかった。
そうしてユリシーズは、木々のなか、高い土手の間を深く流れてる小川のそばを用心しながら歩いていった。そしてギリシア軍の戦線の左のクサントス川に合流するまで、この川に沿って行った。ここでユリシーズは野営地を警備するために配置されていたギリシア軍の番兵をみつけた。番兵は喜び驚いて大声で叫んだ。というのは、ユリシーズの船はまだデーロス島から戻らず、みんなどうしてユリシーズだけが海の向うから戻って来ないのか測りかねていたのだ。そうして番兵のうち二人がアガメムノーンの小屋までユリシーズを護衛した。そこではアガメムノーンとアキレウス、将軍全員が宴会の席に座っていた。みんなはぱっと立ち上がったが、ユリシーズが外套からトロイアの幸運の宝を取り出すと、これはこの戦争で最も勇敢な行いだと叫んだ。それからゼウスに十頭の牡牛を生贄に捧げた。
「じゃあ、貴殿が年寄りの乞食だったのだ」と若いトラシュメーデースが言った。
「そうだ」とユリシーズは言った。「それで次にそなたが乞食を打つときは、あんまり強く、あんまり長く叩かぬようにな」
その夜、ギリシア軍はみんな希望に満ちていた。というのは、今ではトロイアの幸運の宝は彼らのものだったからだ。一方トロイア軍は落胆し、乞食が盗人で、ユリシーズが乞食だったのかと思い当たっていた。あの女司祭テアーノーは何も語らなかった。みんなは手から消えた松明をだらりと下げ、祭壇の階段に座り込んで眠っている彼女を見つけたが、彼女は二度と目覚めなかった。