アーカム市街の西方には急峻な丘が連なり、谷間谷間には斧鉞の打ちこまれたことのない深い森が広がっている。暗い峡谷に入り込めば、木々が斜めに傾ぐさまは幽谷の趣、渓流は、水面の綾波に華を添える陽の目を見るもあたわず、か細く流れ下っていく。丘では傾斜が緩やかな区域ごとに農場が見受けられ、いずれも岩がちな地形に開かれた昔ながらの牧園の態であり、そこに座す苔むした平屋のコテージは、大岩棚を背に、ニュー・イングランド初期の秘密をとこしえに守り抜かんという構えを見せている。だが今は、そのいずれにも住み手がなく、幅広の煙突は風化しはじめ、壁を葺く板も、軒の低い駒形屋根に押しつぶされて危うげにたわんでいる。
古くからの住民は散り失せ、新来の人々は居着こうとしなかった。フランス系カナダ人が入り、イタリア人が入り、ポーランド人もやってきたが、みな去って行った。原因は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手に触れうるもののいずれでもなく、空想の所産になるなにものかのせいだった。この土地は好ましくない空想をもよおさせ、夜は安らかな夢をもたらさない。よそものが来ては去って行った原因はそこに求めるべきだろう。かれらを相手に、アミ・ピアス老人が過去の奇怪な日々の記憶を語ったはずはないのだから。アミはこの数年来頭の調子がおかしくなりつつあるが、ここに住み留まる者としても、件の奇怪な日々のことを語りうる者としても、唯一の存在である。アミがあえてこの地に居残った理由は、その住まいの、平野部ともアーカムに到る各街道ともほど近い立地のよさにある。
往時の道は、丘を上って谷間に下るを繰り返して、今は風吼が原と呼ばれる地域まで続いていたのだが、敬遠されるようになったため、南手に大きく迂回するルートをとる新しい道ができている。古い道は雑草がはびこり野に帰しつつあるが、なお健在であり、今後も完全な消滅に至ることはないと思っていい――その大半が、今回新たに設けられるダムの底に消えるとしても。ダムの建設にともない、闇深い森は切り開かれ、風吼が原は青々とした水の底に沈み、水面は鏡となって空を映し、陽光がさざなみをきらめかせることだろう。件の奇怪な日々の秘密は、水底に眠る秘中の秘となるだろう。古代の海に秘し伏せられた伝説や、原始の地球の謎と同じように。
私がこの丘陵地帯に足を運び、ダムを設置するに値するかどうかの調査をおこなったとき、この土地は呪われているという話を耳にした。その話を聞いた場所が、アーカムという、魔女の伝説が数多く残されたとても古い街だったので、呪われているというのも、おおかた、老婆が孫に聞かせるような怪談が、百年、二百年と語り継がれてきたものにすぎまいと私は考えた。「風吼が原」という呼称については、ひどく奇抜で芝居がかったもののように私には思われ、清教を重んじる土地柄らしくないその着想がどうにも腑に落ちなかった。そののち、谷と丘を深い闇が包む西方をこの目で見てからは、あの土地古来の謎はともかく、余の点であれこれ考えるのはやめにした。私が訪れたのは午前中のことだったが、そこかしこにいつも翳がかかっていた。木々はあまりにも密に群生しており、幹まわりもニュー・イングランド地方のあたりまえの樹木と比べて太々としすぎている。薄暗い森の間道には度を越した静寂が満ち、足元は湿った苔に覆われた永年の腐植土で、ひどく頼りなかった。
おもに旧道に沿って点在する平地では、丘の斜面まで使って小規模な農場が営まれていた。場所によってはすべての建物が健在で、あるいは一棟か二棟しかなく、またあるいは煙突や仮置き用の地下貯蔵庫しか残されていないこともある。雑草と茨がはびこり、野生の何かが下ばえをがさごそと鳴らす。あらゆるものを包みこむように、不安と悪寒をもよおす靄がかかっていた。虚妄と怪異の気配がした。まるで、遠近法や明暗法の要が狂っているかのように。よそ者が居つかないというのは何の不思議もない。安心して眠れるような場所ではなかったからだ。サルヴァトール・ローザの描く風景や、怪奇小説の挿絵にあるような木版画にあまりにも似かよっていた。
だがそのいずれも風吼が原と比べるとまだましだ。そうと悟ったのは、広々とした谷間まで降りた時のことだった。あの地にふさわしい名は他になく、その名にふさわしい地もまた他にあるまい。このフレーズが『マクベス』に登場するのは、かの詩人がこの地にインスピレーションを得てのものであるかのようだった。あの地を一望した私は、火災の果てにそうなったに違いないだろうと思ったものだが、しかしどうしてこの五エーカーの灰色の地には新しく芽吹くものがないのだろう? 空の下で広々と開けているようすは、まるで森か草原に酸でもぶちまけたかというほどであった。その大部分は旧道の北側に広がっていたが、ほんの少し南側にもはみだしていた。私はその地に近づくのが妙に気乗りしなくなっていた。それでも歩を進めたのは、仕事意識が上回ったからにすぎない。広範囲にわたっていかなる植物の姿も見あたらず、白っぽい塵、あるいは灰が積もっており、風にも吹き散らされずにいる。一帯にほど近い木立は病におかされ、立ち枯れの裸幹、あるいは樹皮から腐り始めている倒木が累々としていた。私が足早に歩いていくと、右手に石組みの崩れかけた古い煙突と地下貯蔵庫が見え、そのそばでは打ち捨てられた井戸がぽっかりと黒い口を開いて、そこから立ちのぼるよどんだ蒸気が陽光を奇妙にちらつかせていた。先のほうに見える闇に閉ざされた森丘の奥の奥まで入っていくほうがまだ歓迎できそうな雰囲気で、アーカムの人々がおびえながらぼそぼそとつぶやく態度も驚くに値しないと思い知った。そのあたりには家屋はもちろん廃屋すらなかった。昔日でさえ、周囲から孤立した場所だったにちがいない。夕闇が押し迫ると、その不気味な場所をふたたび通るのが恐ろしくなって、南に大回りする新しい道を使って街に引き上げた。空に雲が出てくれればいい、と思った。頭上に広がっているのは大空にあらず、底なしの虚無なのではないか。そういう理屈を超えた恐怖が私の胸の奥に忍びこんできたためだった。
夜、私はアーカムの老人たちに、風吼が原はどうしてああなのか、そして多方面から漏れ聞く「奇怪な日々」という言葉はいったいなにを意味するのかと尋ねた。だがしかし、まともな答えを得ることはできず、その謎が私の予想よりもずっと最近の出来事であるのを知ったのが唯一の成果だった。それはまったくのところ古い伝説というべきものでなく、「奇怪な日々」と口にする人々が生まれた後の出来事だったのだ。一八八〇年代のこと、ある家族が失踪したり殺されたりしたという。具体的に話して聞かせようとする者はいなかった。そしてアミ・ピアスの気のふれた話に耳を貸すなとみな口を揃えて言うものだから、私は直接その話を聞いてみたくなり、あくる朝、樹木の密生が始まる地域に古さびれた居を構えているという噂のかれを訪ねてみることにした。アミの住まいはおそろしく時代からとりのこされており、築後あまりにも年数を経た家屋に染みつく瘴気をほのかに放ちはじめていた。しつこくドアをノックするとようやく中にいる人物が起きだす気配がし、それから何かにおびえるように戸口に向かってくる足音がして、どうやら私を歓迎する気はなさそうだった。老人は思っていたほどに衰えてはいなかった。だがその瞳は異様に濁り、着たきりの服、伸び放題の白いひげが、ひどく憔悴したふうに老人を見せていた。
どうすればかれに話の口火を切らせることができるだろうかと思案しながら、私は、とりあえず仕事の話を装うことにした。請け負っている調査の話をし、この地方に関する漠然とした質問を投げかけたのだ。この老人は、街の人々の話から私がイメージしていたよりもはるかに機転の利く、素養ある人物だったのだろう、私がふと気づいたときには、アーカムで私が話をしただれよりもしっかりと話の要点をつかんでいた。その反応はダムの予定地内に住む他のだれとも違っていた。数マイルにわたって森と農地が水没するということにもとくに異議をとなえなかった。もっとも、かれの住まいがその範囲内にあったとしたら、やはり反対したのかもしれないが。安堵、それが老人の表したすべてだった。生涯歩き回ってきた、闇深い、いにしえの谷が滅び去ることに対し、かれは安堵したのだ。もう水底に沈めてしまったほうが良い――あの奇怪な日々以来ずっと、水にでも沈めてしまったほうがよかったのだ。身を乗り出し、震える右の人差し指を演技がかったふうに立てると、ひびわれた声でぼそぼそと話しはじめた。
私が一連の物語を聞いたのはこのときのことだ。途切れがちな、つぶやくようなしわがれ声を聞いている間、私は、夏の暑い日だったにもかかわらず、繰り返し身の震えを感じた。ときに私は、話が脱線しそうになるのを引き戻してやったり、教授たちから聞きかじって覚えていただけの部分に科学的な要点を補ったり、あるいは論理や時系列に断絶が生じているところに橋を渡したりしなければならなかった。話を聞き終わって私は納得した。老人の精神にいささかの狂いが生じているのも、アーカムの人々が風吼が原の話をしたがらないのも当然だ。日が落ちる前に、と、私は急いで帰路をとった。星々が頭上に現れる時間にまでこのような場所にいたくなかった。翌日、仕事を辞めるつもりでボストンに帰った。私には、年経た森の暗い混沌の奥に分け入りよじ登っていくことも、風化した石材と煉瓦のかたわらに深々と口を開く暗黒の井戸とふたたび対面することもできそうになかったのだ。いま、ダムは完成を待つばかりとなっている。古い秘密のすべては何尋もの波水の下に永遠に封じられることだろう。だが、そののちであろうと、あの地方を夜に訪れたいと思うかといえば、それはまずなさそうだ――少なくとも、あの凶星が空にまたたく刻限はお断りだ。そして、誰に何と言われようと、アーカムの新水道の水を飲む気にはなれない。
すべては一個の隕石から始まった、と、アミ老人は言う。数々の魔女裁判以来この隕石が落ちるまでの間、迷妄な伝説は一つとして生じなかった。魔女裁判のころでさえ西の森への怖れはさほどでもなく、むしろそれに倍する恐怖の対象であったのはミスカトニック川の川中島のほうで、そこに残る石の祭壇は、悪魔が裁きをくだすところとも、インディアンより昔から存在するともいわれていた。森に化生の気配はなく、怪幻の黄昏も奇怪な日々以降ほどひどくはなかった。あのとき、空に白い雲が伸び、空中で何かが爆発するような音が立て続けに響いたかと思うと、森の奥深くの谷間から噴煙が立ち昇った。その日の夜までには、大きな岩が天から降ってきたこと、それがネイハム・ガードナーの敷地の井戸の脇に落下したことが、アーカム中に知れ渡っていた。このネイハム・ガードナーの住まいは、こんにちの風吼が原にあったのである――実り豊かな農園の中に建つ、こざっぱりとした白い家だったという。
ネイハムは隕石のことを詳しく知らせるために街に出ることになったが、その道中に立ち寄ったのがアミ・ピアスの家だった。アミは当時四十歳で、一連の奇妙な出来事を鮮明に記憶していた。その翌朝、未知なる星の世界からの訪問者を実見しようと勢い込んでやってきたミスカトニック大学の三人の教授を、アミは妻と連れ立ってネイハムの農場に案内した。教授たちは、隕石の大きさが前日にネイハムから聞いたほどでないことを疑問に思った。隕石が縮んでいると言うネイハムが指差した井戸のかたわらでは、波打った地面と野草の燃えかすの上に茶褐色の土くれが堆積していた。しかし、教授たちは鉱物が縮むことはないと答えた。隕石の発する熱は一向に下がらず、ネイハムの言うところでは夜にはぼんやりと光っていたらしい。教授たちが地質学者が使うハンマーで叩いてみると、存外にやわらかいことが分かった。まったくのところ、粘土に近いものだった。大学に帰って試験に付すために標本を採取することにしたが、そのときも、けずりとるというよりむしろそぎとるような感じだった。ネイハムの家の台所にあった古い手桶を借りてその中に標本を放り込んだが、小さなかけらとなってさえもまるで冷える様子がなかった。街に戻る途中でアミの家に寄ったかれらは、かけらが手桶の底で燃えながら小さくなっていくとピアス夫人に言われ、改めて手桶の中を見直した。なるほど、確かに大きくはない。だがまあ、採取できたものが思っていたより小さかったというだけのことだ――。
その翌日――これらはみな一八八二年の六月の出来事である――教授たちは大興奮の面持ちで大学を飛び出した。途中でアミの家に寄ったかれらが語った、標本が示した奇妙な性質の話をアミは聞き覚えていた。そして、どんな作用が働いたものやら、標本がガラス製のビーカーの中から完全に消え去ってしまったことも。ビーカーごと消失しており、教授たちは、この奇妙な隕石が持つ珪素と強く反応する性質について議論を交わしていた。設備の整った実験室で観察された隕石のふるまいは非常に信じがたいものだった。木炭で加熱しても変化せず、吸蔵ガスの放出も見られなかった。硼砂球にも反応もしない。与えうるあらゆる温度条件において完全に安定した状態を保ち、酸水素吹管をもって加熱しても融解させることはできなかった。鉄床の上で叩くとかなりの展性を示し、暗所では燐光を放つことがはっきりと認められた。依然として温度はさがらず、やがて大学中が大騒ぎになった。分光器を前において加熱したときに通常のスペクトルの色に似ても似つかない色彩の帯があらわれるのがわかると、すわ新元素の発見か、この奇妙な光学的性質は何を意味するのか、などといった、未知のものに直面して困惑状態にある研究者にお決まりの論議が、息を継ぐ合間もなく飛び交った。
一向に温度が下がらないため、坩堝の中でさまざまな試薬を試してみることになった。水は反応なし。塩酸も同様。硝酸、そして王水を用いてさえも、じゅっという音とともに試薬の飛沫が飛び散るだけの結果に終わった。アミはこれらの名前を一つ一つは思い出せなかったが、私がこうした試験に使われる定番の溶媒の名前を口にすると、それと認識した。アンモニアに苛性ソーダ。アルコール系溶剤、エーテル系溶剤。悪臭を放つ二硫化炭素をはじめとする十余の劇薬。隕石の質量は着実に減少しており、どうやら温度も若干低下しているようであるのに、それでも、どの溶剤も隕石を侵すことに成功している兆しを見せなかった。金属であるということはいずれにしても間違いなかった。磁性を有していたのもその根拠のひとつとなった。また、各種の酸に暴露した後、ウィドマンシュテッテン図像の痕跡がかすかに表れたからでもある。十分に冷えたと判断された時点で、実験はガラス容器を使ったものに移行した。そして、大元の小塊から都度切り出して実験に供したすべての切片をひとまとめにして、ガラスのビーカーに保存した。翌朝、切片もビーカーも跡形もなく消失していた。あとにはただ、木製の棚のそれが置かれていた部分に焦げ跡だけが残っていたのである。
以上は教授たちがアミの家に寄った時の立ち話の内容で、結局、アミはふたたび教授たちと一緒に、隕石という星界からの使者の元を訪れることになった。今度はアミの妻は同行しなかった。隕石はもうはっきりとわかるほどに縮んでおり、頭の固い教授たちでさえ、自分たちの目を疑う気にはなれないようだった。井戸の近くの一画は褐色の土を盛り上げたようになっていて、その中央が浅くくぼんでいた。そのくぼみの上、前日は差し渡しでたっぷり二メートルはあったはずの隕石は、いまや一メートル五十あるかどうか。まだ熱をもったままで、学者たちは、ハンマーと鏨で前回より大きな塊を採取しようとしながら、隕石の表面を熱心に観察した。今回、深く鏨を打ち込み、より小さくなったその隕石を調べているうちに、核部分の質がまったく違っていることに気づいた。
外郭と色合いの異なる球状のものの一部が、隕石の内奥から露出したのである。その色は、隕石を加熱した際に現れたスペクトルと同様、なんとも表現のしようがないものだった。まったくのところ、それを色と呼ぶのもかれらが用いたアナロジーにすぎない。表面はぶよぶよしていて、指で押してみても、中身が詰まっているのか詰まっていないのか判然としない。教授の一人がハンマーでひと打ちすると、頭に響く小さな破裂音とともに弾けとんだ。何かが放出されるでもなく、破裂するとともに跡形もなく消えてしまった。あとには直径八センチメートルほどの球状の空隙が残されたが、一同は、隕石を採削していくうちにおなじようなものがふたたび現れるだろうと考えた。
予測は外れた。穿孔中に新しい球体を見つけようとする試みは失敗に終わり、教授たちは新しい標本を持って帰還したが、しかし前回と同様、実験の結果にとまどうばかりだった。可塑性、発熱性、磁性、かすかな発光性、強い酸にさらすとわずかに温度を下げ、未知のスペクトルを生じ、空気中で消耗し、珪素化合物を侵すと同時に自らも崩壊する。これがいったい何なのかを同定できるような特徴を検出することはできなかった。実験の果てに、大学の学者たちもまったくのお手上げであることを認めざるを得なくなっていた。この地球上のものではない、遠くかけはなれた世界のかけら。その有する性質も、その従う法則も、地球のそれの埒外にあったのである。
その晩は激しい雷雨となった。夜が明けてネイハムの元を訪ねた教授たちは失意を禁じえなかった。隕石は、その磁性と同様に、なんらかの電気的特性を有していたにちがいない。ネイハムの言いようを借りると、隕石は繰り返し繰り返し「稲妻を吸い寄せ」たのである。ネイハムは一時間のうちに六回も雷が前庭のくぼみに落ちるのを目撃していた。そして嵐が去ったあと、古びた井戸のそば、半ば土砂に埋もれたくぼみには、歪な穴が開いているばかりとなっていた。地面を掘ってみたものの無駄に終わり、隕石が完全に消滅したことを学者たちは認めた。得るものはまったくなかった。なすすべもなく研究室に帰ったかれらは、消えゆくかけらをふたたび実験に供し、鉛のケースに慎重に封じた。かけらは一週間存在していたが、結局、なんら成果があがることなく消え去った。消え去ってしまうと、その痕跡はなにひとつ残っておらず、そのうち教授たちは、自分たちのその目で見たはずのことがおぼつかなくなってきた。遥かに隔絶した世界から飛来した謎の物体、宇宙から、化学的・物理的・力学的に異質な規則が支配する異世界からやってきた孤高の使者は、はたして本当に存在したのだろうか、と。
当然ながら、アーカムの新聞各紙は大学内の事情通を介して事件を知り、ネイハム・ガードナーとその家族に取材記者を派遣した。ボストンからも少なくとも一紙の記者がやってきて、ネイハムは時の人となった。ネイハムは、もの知りで頭の回転もはやく、年齢は五十ほど、谷間に農場を開き、妻と三人の息子とともに暮らしていた。アミとは互いに足しげく訪ね合う仲であり、妻同士もまた同様で、アミは、後年になってもネイハムのことをただただ尊敬していた。ネイハムは、自分の土地が注目を集めるようになったことを誇らしく思っていたようで、その後何週間か、しばしば隕石の話を語って聞かせた。その年、七月も八月も暑い日が続いた。ネイハムはチャップマンズ・ブルックという小川を挟む十エーカーの牧草地で精を出して働いた。荷車はがたがたと音を鳴らし、牧草地と倉庫の間、影がちな道に深い轍を刻んだ。労働に例年になく疲労したネイハムは、それを年齢がものをいいはじめたのだと思った。
そして収穫の季節がやってきた。梨と林檎がだんだんと熟していく中、ネイハムは自分の果樹園がかつてないほどの収穫をあげるだろうと確信していた。果実は規格外のサイズに育ち、いつにない見事なつやを有していて、豊作に備えて樽を追加注文したほどだった。だが、収穫がもたらしたのはひどい落胆だった。見栄え良く、食欲をそそる果実の山の中には、一顆として食用に適するものがなかったのだ。梨も林檎も、その上質な味わいの中に苦みとえぐみが潜んでいて、ほんの一口食べただけでも嫌な後味が残った。メロンもトマトも同様であり、ネイハムは、収穫すべてを諦めざるをえないことを悲しみとともに悟った。この事態に即座に結びつけてネイハムが考えたのは隕石のことで、隕石が土壌を汚染したのだと判断した。そして僥倖に思ったのは、ほかの作物の大部分を街道を行った先の高台で育てていたことだった。
冬が例年より早く訪れ、例年より厳しく冷え込んだ。アミがネイハムを目にする機会は少なくなり、たまに会うと、どこか悩んでいる風に見えた。ネイハムの妻子もまた同様で、ひどく口数が少なくなっていった。教会からも足が遠のき、地域の集まりにも顔を出さなくなっていった。引きこもる理由はなんなのか、たしかに家族のだれしもが、体のきれが悪いとか理由もなく不安感に襲われるとか言うときがありはしたものの、はっきりとした原因を見極めることはできなかった。ネイハム本人はといえば、だれかに会うたびに、雪の上に残されているある種の足跡がひどく気にかかっていると、しきりに言った。たしかにそれはこの季節なら当たり前のように見られる北栗鼠や白兎、狐の足跡であったが、しかしネイハムの見るところ、なにか常ならぬところがある、自然に反するもののように思われた。ネイハムはものごとを懐疑的に捉えるたちではなかったが、栗鼠や兎、狐といった生き物の、解剖学的・生態的な特徴に一致しないように思っていたようだった。アミがネイハムの話を聞き流していられたのは、そんな折のある晩、雪橇にのってクラークズ・コーナーズから帰る途中、ネイハムの家のそばを通るまでのことだった。月が出ていて、一羽の兎が道を横切って行ったが、そのひと跳ねで稼ぐ距離の異常な長さにアミも馬も戦慄した。馬に至ってはひどく興奮して逃げ出そうとしたため、アミは手綱を引いて抑え込まなければならなかった。そのようなことがあって、アミは、ネイハムの話を軽んじるのをやめ、また、ガードナー家の犬たちが毎朝おびえ震えているその原因はなにだろうかと考えるようになった。犬たちは、いつの間にか、まるで吠えようとしなくなっていた。
二月、メドウ・ヒルのマグレガー家の子供たちがウッドチャックを撃ちに出かけ、ガードナーの地所の近くで非常に奇妙な個体を捕らえた。胴体・手足のバランスがどことなくおかしく、顔つきはウッドチャックにはありえないものを帯びていた。子供たちは心底怖くなり、そのウッドチャックを放り出して一目散に逃げ出し、結果、奇怪なうわさ話だけが近隣の住民の知るところとなった。だが、馬たちがネイハムの家の近くを通るときに物怖じする様子を見せるということが、だれもが知る事実となっていることも合わせ、一連の口承の土台はすみやかに成立していった。
ネイハム家のあたりはよそよりも雪解けが早いということを誰もが認めつつあった三月初旬のある日、ポッターがクラークズ・コーナーズで営む万屋では恐ろしい話題でもちきりだった。その日の朝、馬でガードナーの地所のそばを通ったスティーヴン・ライスは、林道のはずれのぬかるみに座禅草が群生しているのに気がついた。その座禅草は、見たこともないほど丈高く伸び、言葉にしようのない奇妙な色彩を帯びていた。その造形は化け物じみていて、ただよう臭気に馬はいなないた。スティーヴンにとってもまったく未知の、異様な匂いだった。午後、幾人かがその異常な成長を見るべく向かったが、健全な世界に生育する植物ではないと全員の意見が一致し、その話が口伝えに広まるにつれ、ネイハムの土地は毒に害されているということになった。もちろんそれは隕石のせいだ。大学からきた教授たちが隕石がいかにも奇妙な特徴を有すると言っていたことを思い出した複数の農夫が、事態を教授たちに注進した。
ある日、教授たちがネイハムを訪ねてきた。だが、俗説の類を好まなかった教授たちの見解は実に退嬰的だった。たしかに変わった植物である。だが、座禅草は、姿形においても色彩においても、ある程度の個体差を有するものだ。隕石に含まれていたミネラルの一部が土壌に浸透した可能性はあるが、遠からず洗い流されてしまうだろう。そして足跡や馬の挙動については――いうまでもなく単なる噂の域を出るものではなく、隕石が落下した地域でこのような風説が生じるのは定番の現象である。かような与太話を真面目にとりあう必要はない。なんとなれば、迷信好きの田舎者は何でも口外し、信じ込んでしまうのだから。というわけで教授たちは、奇怪な日々の間、この件に関与しない姿勢を貫いた。その中のひとりだけは、一年半の後、塵がつめられた二本の瓶の分析を警察から依頼されたときに、座禅草の奇妙な色彩、隕石が大学の分光器に示した未知の光の帯、それに、地中から掘り起こした隕石の内部に見出されたもろい球体の色合いは、それぞれ非常によく似かよったものだったことを思い出した。サンプルの塵は、はじめ、同様に奇妙な光の帯を示したが、やがてその性質を失ってしまった。
ネイハムの土地近辺の木々は早くも芽吹き始め、夜になると、風を受けて不気味に揺れた。ネイハムの次男であるタデウスは、このとき十五歳だったが、風のないときでも木が揺れていると言い張った。だが、噂話においてすら、タデウスの言葉に信が置かれることはなかった。とはいえ確かに、気の休まることのない空気が一帯に満ちていた。ガードナーの一家は知らず知らずのうちに聞き耳をたてるのが習慣となった。はっきりと意識してこれという音を聞こうとしているのではなかったが。実際、むしろ上の空でいるときに聞き耳を立てているということのほうが多かった。不幸にも、上の空でいる時分は週を重ねるごとに長くなり、そのうち「ネイハムのところの連中はどうも良くないようだ」と広く言われるようになった。やがて早咲きの雪ノ下が異様な色を伴って現れた。例の座禅草と等しく同じ、というわけではなかったが、関連を有するのが明らかで、人知を絶する色合いだった。ネイハムはその花をいくらか摘み、アーカムに出向いて『ガゼット』の編集部に持ち込んだが、同紙の対応は、迷妄がちな片田舎での珍事を慇懃を装って揶揄するといった按配の、ユーモア調の記事を掲載したに過ぎなかった。これはネイハムに落ち度がある。この手の話を受け流しがちな都会の人間が相手なのだから、話を雪ノ下のことにとどめておけばよいものを、その周りを飛ぶ巨大に成長した立羽蝶にまで触れてしまったのだ。
四月になるとある種の狂気がこの土地の人々に蔓延し、ネイハムの地所を通る道が使われなくなりはじめた。この道は最終的には打ち捨てられることになる。植物が問題だった。果樹はどれもみな異様な色の花を咲かせ、岩がちの農場とその周辺に広がる放牧地に覆い茂った植物の異常さといったら、在来の植物とのつながりを見出せたのがたった一人の植物学者だけだったというほどのものだった。どの草木も葉の緑を除けばどこにもまともな色合いがなく、なんらかの病に侵され、色素がさまざまに変異した変種としか思えず、その基調とする色は、地球上において既知のいかなる色にも属していなかった。角駒草は本来の姿にほど遠い不気味な姿を押し出し、血根草は色合いの狂った花を傲然と咲き広げた。おのおのの色にどこか否定しがたいつながりがあるとアミもガードナー家の人々も思い、それは、隕石の中にあった球体の色を思い出させるからだと判断した。ネイハムは牧草地から高台にかけて十エーカーほどの土地に鍬をいれたが、家の周辺は放置した。手を入れても無駄だとわかっていたからで、今夏の異常な植物の繁茂が土壌の毒物を残さず吸い上げてくれれば、と期待した。ネイハムはもう大抵のことには覚悟ができていて、自分の近くに侍る何者かが何事かを聞かせようとしている感覚にもずいぶん慣れてきていた。近隣の人々が自分の家を避けているのはネイハムにもこたえたが、もちろん、ネイハムの妻にはもっとこたえただろう。子供たちはましだった。毎日学校に行っていたからだ。それでも、噂話に怖気づいてしまうのはどうしようもなかった。とりわけ多感な年頃だったタデウスがもっともつらい思いをしていた。
それまで草の葉には異常が見られなかったので、牛たちは家のまわりで自由に草をはんでいたが、五月の終わりにかけて、乳の質が悪くなっていった。ネイハムが牛たちを高台にやるとそのうちにおさまった。それからそう時をおかずに、草木の異常が目に見える形で現れはじめた。緑が灰色に変わっていくと同時に、なにかの拍子でぼろぼろと崩れ去るという、きわめて特異な性質が強まっていったのである。訪ねてくるのはアミだけになっており、そのアミもどんどん足が遠のいていった。学校が休みに入るとガードナー家は事実上世間と切り離され、街での所用はときおりアミに託して片付けるという按配だった。かれらは不思議なほど精神力も体力もすり減らしており、ガードナー夫人が発狂したという情報が出回っても、だれも驚きはしなかった。
それは六月、隕石が落ちてきてからちょうど一年になるかならないかという時期のことだった。哀れなガードナー夫人は空中の何ものかについてまくしたてたが、それは説明の体をなしていなかった。狂乱した彼女の口からは名詞が一つも出てこず、ただ動詞と代名詞ばかりで構成されていた。うごめき、形を変え、飛び交う。耳に押し寄せるものはしかし音とはまるで違う。何かを奪われた――自分から何かを吸い取って行った――絶対になくしてはいけない何か――だれもが持っていないといけない何か――夜がくればあれもこれも動き出す――壁や窓ですらぐらぐらと。ネイハムは妻を郡の療養施設に送らず、自由に歩き回らせていたが、それは人に危害を加えそうなそぶりがなかったためでもある。彼女の表情が常ならないものとなってさえも、ネイハムはかまわなかった。だが子供たちはそんな彼女におびえるようになり、あるときタデウスがこちらを向いた彼女の顔の変わりように気が遠くなりかけたということがあって、ネイハムは妻を屋根裏部屋に閉じ込めることにした。七月を前に、ナビーは、人語を発すのをやめ、四つん這いで歩くようになった。そして七月の終わるころには、ネイハムは、暗がりの中の妻がかすかに燐光を放っているという妄執めいた考えを抱くようになっていた。その燐光は、いまやネイハムの目にもはっきりと見えている、付近の植物が発するものと同じものだった。
馬たちが逃げ出したのは、この少し前のことだった。その晩、何が起きたのか、厩舎の馬たちはひどくいななきながら暴れはじめた。なだめようもなかったので、ネイハムが馬小屋の扉を開放すると、馬たちは、まるでなにかに追われる野鹿のように、一斉に飛び出していった。四頭の逃げた先を突き止めるのに丸一週間かかったが、見つけたときにはどの馬もまるで言うことを聞かなくなっていた。脳になんらかの障害が生じたものと思われ、予後不良として射殺せざるをえなかった。ネイハムは干し草を刈り入れるのにアミから馬を借りたが、アミの馬は厩舎には近寄ろうとしなかった。無理に寄せようとするとひどく興奮して抵抗するので、厩舎のロフトに干し草を運び入れるには、結局、前庭で馬を止め、重い荷車を厩舎の近くまで男手で押していかなければならなかった。その間、草々は灰色に変わって、もろく崩れやすくなっていった。奇妙な色合いを見せていた花でさえいまや灰色になり、果実は灰色になって萎み、味がしなくなった。野菊や泡立草が形のゆがんだ灰色の花を咲かせた。庭の入り口の薔薇、百日草、葵はあまりに禍々しい姿になったため、ネイハムの長子ジーナスが刈り取った。奇妙に膨張した昆虫たちはこの時期に死に絶え、蜂でさえも巣を捨て森へと逃げていった。
九月を待たず草花はみな崩れて灰色の塵と化し、ネイハムは、土壌の毒が消えるより先に果樹園の木々が枯死する事態を思って恐怖した。妻はすさまじい悲鳴を発するようになっていて、ネイハム自身も息子たちも神経が常時張り詰めた状態にあった。人付き合いはなくなり、子供たちは学校が始まっても登校しようとしなかった。だがアミは、めったに顔を出さなくなっていたものの、井戸の水がまともでなくなっているのにだれよりも早く気付いた。臭みとも塩気とも少し違う忌まわしい味がしたので、ネイハムを諭し、新たに高台に井戸を掘って、土壌がもとにもどるまでの間は今の井戸を使わないようにすすめた。ネイハムはしかし、アミの警告を省みなかった。その時点ですでにネイハムは、不自然な事、不愉快な事に心が動かなくなっていたのだ。父子ともども、汚染された水源を使い続け、その水を無関心に機械的に飲み、調理の行き届かない粗末な食事をとり、悦びのない単調な家事を消化して、張りのない日々を過ごした。家族間にぼんやりとした諦観のようなものがただよい、その行状はあたかも、浮世からなかば足を踏み外しているものの、無銘の防柵の内側を歩んでいるがために、約束された破滅への転落をまぬがれているかのようだった。
タデウスは、九月、井戸に行った直後に狂気に陥った。手桶を持って出たはずだったが帰ってきたときは手ぶらで、悲鳴をあげながら両腕を振り回し、時折正気と思えぬ忍び笑いを漏らしたり、ぼそぼそと「ずっと下のほうで蠢く色」についてつぶやいたりした。一家族で二人の病人を抱えるのは重い事態であったが、この点ではネイハムはたいへんに果敢だった。一週間ほどタデウスがそこら中を走り回るのを放置していたが、やがて物にぶつかったり怪我をしたりするようになったため、屋根裏の、母親を閉じ込めている部屋の向かいの部屋に押し込めた。鍵のかかった扉の向こうで二人が各々奇声をあげる模様は陰惨をきわめた。とくにこたえたのは末子マーウィンで、マーウィンは二人がこの地球上のものでない異質の言語で語り合っているという妄念を抱いた。マーウィンは日に日に恐怖のイメージをたくましくし、いちばん仲の良かった次兄が屋根裏に閉じ込められた後は、不安をいっそう募らせた。
時を同じくして家畜が倒れはじめた。鶏は灰色になってあっけなく死に、さばいてみるとその肉はぱさぱさとしていて悪臭がした。豚は規格外に肥え、その後突如、だれも説明のできない、忌まわしい変化をし始めた。その肉はもちろん使い物にならず、ついにネイハムの心身は限界を迎えた。近隣の獣医師たちは一人として往診の依頼に応じず、アーカムからやってきた獣医は途方に暮れたようすを隠そうともしなかった。豚は灰色になり死を待たずにぼろぼろに崩れはじめ、目鼻は特異な変容に見舞われた。不可解だった。鶏も豚も汚染された草を食んではいなかったのだから。次は牛だった。体の一部、ときには全体が、不気味に萎びて皺だらけになり、肉がそげ落ちたり骨が折れたりといった症状が蔓延した。末期には――死をまぬがれたものはなかった――豚の身にふりかかったとおり、灰色になって組織が崩れていった。毒物の疑いはなかった。どのケースも鍵がかかった厩舎という密室の中で起きたのだから。野生動物に噛まれた傷から病に感染したはずもなかった。この世のどこに壁をすり抜けたりできる動物がいるというのだ? 自然の病としか考えられなかった――しかしいったいどういう病がこのような症状を引き起こせるのか、だれにも見当さえつかなかった。収穫期を迎えたとき、ネイハムの農場には動物がまったく残っていなかった。家畜は死に絶え、番犬も逃げ去っていた。逃げた犬は全部で三頭いて、ある晩一斉にいなくなり、二度と遠吠えを聴くこともなかった。五匹の猫は少し前にいなくなっていたが、なにぶん鼠が見当たらなくなっていたし、猫をかわいがっていたのはガードナー夫人だけだったこともあって、いなくなったことがだれにもほぼ意識されていなかった。
十月十九日、アミの家に飛び込んできたネイハムが、おぞましい知らせをもたらした。死が屋根裏部屋のタデウスを襲い、しかもその死にざまは言葉にできないようなものだったという。ネイハムは農場の裏手にある先祖来の墓地に穴を掘って、屋根裏部屋で見つけたものをうずめた。何者かが外部から侵入することはありえなかった。小さな窓の閂もドアの錠もそのままの状態だったからである。だが、状況は厩舎のときと同じであった。アミは妻と一緒に手をつくしてネイハムを慰めたが、そうしながらもおののきを禁じ得なかった。純然たる恐怖がガードナー家にまとわりついているように思えて、その一員が家の中にいるということは、名もない領域、名づけようのない領域からの息吹を浴びるようなものだった。アミは、まったく気乗りしなかったが、ネイハムに付き添ってガードナー家に赴き、ヒステリックに泣き続ける幼いマーウィンをなだめようと手をつくした。ジーナスはケアする必要がなかった。ジーナスはこのところ、虚空を凝視するか、父親に言いつけられたとおりに動くかのどちらか以外のことはしなくなっていた。そんなジーナスの状態をアミはとても慈悲深く思った。繰り返されるマーウィンの慟哭に対してかすかな応答が屋根裏から返ってきて、怪訝に思ったアミがネイハムに目を向けると、ネイハムは妻が非常に弱ってきていると言った。夜近くにアミはようやく辞去した。いかに大切な友人であっても、植物がぼんやりと光ったり、樹木が風もなく揺れるとか揺れないとか言われたりする刻限になってまで、その場所にいつづけることはできなかった。アミが余計な想像力を有しなかったのは本当に幸運であった。そのような環境にあってさえもアミの精神は微塵も揺るがなかった。仮に身の回りで起きていることを繋ぎ合わせて熟考したならば、完全な狂人と化すのは必然であっただろう。夕闇の中、家路を急ぐアミの耳の奥では、狂気を発した女の絶叫と癇気に高ぶる子供の絶叫とが恐ろしげに鳴り響いていた。
三日後、早朝のうちにアミの家の勝手口から飛びこんできたネイハムは、アミの不在にもお構いなしで悲劇が起きたことをまくしたて、聞き手のピアス夫人を恐怖の淵に追いやった。今度はマーウィンだった。マーウィンがいなくなったのだ。昨晩、水をくむために角灯と手桶を持って表に出ていき、二度と戻ってこなかった。マーウィンはこの数日平静を失っており、自分が何をしているのかもまるでわかっていない様子だった。あらゆるものに怯えて悲鳴をあげた。すさまじい絶叫が外から響き渡ったとき、父親はすぐに飛び出していったが、すでにマーウィンの姿はなかった。角灯を持っていたはずだがその灯りはどこにも見えず、本人も跡形もなく消えていた。そのときネイハムはマーウィンは角灯と手桶を持ったまま失踪したと思っていた。夜を徹して森も野原も探しまわったが不首尾に終わり、黎明とともに家に帰ってきたところ、井戸のそばに奇妙なものを発見した。ひしゃげて一部溶解したように見える鉄の塊。元は角灯であったに違いなかった。そのかたわらにあった曲がった取っ手とねじれた鉄の輪は、どうやら手桶の部品のようだった。その他には何もなかった。ネイハムはそれ以上の想像を拒み、ピアス夫人は呆然とするばかりで、アミは、家に帰ってきたところで一通りの話を聞いたのだが、何が起きたのか見当もつかなかった。マーウィンが失踪した。近隣の人々に相談しても意味がなかっただろう。かれらはいまやガードナー家を敬遠していた。アーカムの人々にしても同様で、おそらく一笑に付されただろう。タデウスがいなくなり、いまマーウィンもいなくなった。忍び寄るなにものかが、何事かを期待して耳目に訴えかけてくる。自分もやがて消されてしまうだろう、そう思ったネイハムは、アミに、万一のときまだ妻とジーナスが生き残っていたら、その面倒を見てやってほしいと頼み込んだ。ネイハムの考えでは、これはある種の天罰だった。天罰とはいうものの、ネイハムはそれまで主の教えに従って生きてきたつもりであったから、いったい何の罪があってのものなのか、それはネイハムも知るところではなかった。
それから二週間以上、アミはネイハムの姿を見かけなかった。そうなると、何かがあったのかもしれないという懸念が恐怖心に打ち勝って、アミはガードナー家を訪れた。大きな煙突から煙があがっていないのを見たアミは最悪の事態を予感した。農場の様子も衝撃的だった――灰色の草葉が地面に広がり、古びた壁や切妻を這う蔓は萎びて折れ、垂れ下がっている。葉の散った大樹が並ぶさまは十一月の灰色の空に突き立つ逆茂木のようで、その枝ぶりの微細な変化に、何かしらの悪意が感じられて仕方なかった。だがネイハムは生きていた。衰弱し、天井の低い台所の長椅子に寝こんではいたものの、意識ははっきりしており、ジーナスに簡単な指示を出すことはできた。部屋の中は恐ろしく寒かった。アミが震えているのを見たネイハムは、しわがれ声をはりあげ、ジーナスに薪を持ってくるように言いつけた。薪、それこそまさに必要とされているものだった。暖炉には火が絶え、薪もなく、煙突の先から逆流してきた凍てつく外気が灰を吹き散らしていた。しばらくしてネイハムが、まだ寒いようならもっと薪を持ってこさせるが、と言い出したとき、ようやくアミは事態を把握した。もっとも強い精神力を有したネイハムもついに正気を失っていた。心が砕けたからこそ、この不幸な農夫は一切の悲しみに耐え続けているのだ。
アミは切り口を変えながら質問を重ねたが、ジーナスがいなくなった時期をはっきりさせることはできなかった。「井戸の中だ――あいつは井戸の中で生きている――」と、思考の混濁した父親は言うばかりだった。それから、狂った妻のことを唐突に思い起こした訪問者は、質問の方向をそちらに切り替えた。「ナビーがどうした? おいおい、そこにいるじゃないか!」と、憐れむべきネイハムは驚いた様子で答え、アミは自分自身で探さなければならないと悟った。益体なく喃じるネイハムをそこに残し、ドアのわきの釘に下がっていた鍵束を手に取ると、軋む階段をのぼって屋根裏に向かった。壁天井が迫ってくるような狭さにくわえて不快な臭気が立ちこめていたその屋根裏では、しかし、どの方向からも物音がしなかった。視界に入った四つのドアの中にひとつだけ鍵がかかっているものがあったので、アミは持ってきた鍵を順に試していった。三つめの鍵が合い、建て付けの悪さに苦戦しながら、その白い小さな戸を力任せに開いた。
部屋の中はひどく暗かった。小窓が一つあるきりで、それも木材で目張りされ、半ばふさがれていたからである。板張りの床の上には何もないようにアミの目には見えた。耐えがたい臭気に満ちており、部屋の奥に進む前に、他の部屋に避難して肺に新鮮な空気をたくわえてこなければならなかった。そうやって部屋に入ると、隅のほうに黒っぽい何かが見えた。それがだんだんとはっきり見えてきたとき、アミは悲鳴をあげた。悲鳴の木霊が消えるより早く、窓に翳がさしたようにアミは思った。その次の瞬間、じめついた空気に撫でまわされているようなおぞましい感触が走った。目の前で奇妙な色彩が舞った。もし恐怖で呆然としていなかったとしたら、アミはその色彩からの連想で、隕石の内部にあり学者の槌によって打ち砕かれた球体の色を、この春にはびこった病める植物の色を思い起こしたことだろう。実際のところは、いま目の前にいる禍々しい姿のことでアミの頭はいっぱいだった。それもまた、タデウスや家畜がたどった無銘の定めをなぞっているのがあきらかだった。だが、その恐怖の源のありようはなお壮絶だった。まだのろのろと動いており、動くにつれてぼろぼろと体が毀たれていたのだから。
アミはそのときの機微を他に言い足しはしなかったが、しかし部屋の隅にいたものが動いてどうしたという描写は二度と話の中に出てこなかった。世の中には口にだすべからざる事柄が存在し、あたりまえの人道的見地からなされたことも、ときに、法によって酷薄に処断されることがある。前後の事情からみて、屋根裏部屋に動くものは残されなかったし、動きうるままに放置するのは、心を有する者にとってすれば、みずからに永劫の苦悶を課す鬼畜の所業であっただろう。失神する、発狂する、といったことにならなかったのは、感情を殺すすべを心得た百姓なればこそだった。アミは正気を失うことなく、狭い戸口をくぐって部屋を出、鍵をかけて呪わしい秘密を封じ、その場を後にした。あとはネイハムをどうするか。養い、介護してやらねばならず、どこか世話が受けられるところに移してやらなければならなかった。
階段を降り始めたアミは、途中、階下から鈍い衝撃音を聞いた。悲鳴が一瞬聞こえたように思いさえもし、階上の恐怖の部屋で自分の身を撫でた冷たい霧の記憶が神経をそばだてた。あの部屋に押し入り、悲鳴をあげたことが、いったいどんな存在を目覚めさせたのか? 漠然とした畏れに硬直し、じっと立って階下の音の続きに聞き耳を立てた。聞き間違いようのない、何か重いものを引きずる音、そして何より耳朶を撃つ、魔性な、不浄な類の、何かをすすりたてる嫌な音。狂熱をもよおす連想、アミはそこに屋根裏で遭遇したものの異様な姿を重ねた。嗚呼、なんという怪奇幻想の世界に入り込んでしまったのだろう! アミは、進む勇気も退く勇気もなく、左右を壁に守られた階段の踊り場の陰で、震えながら立ち尽くした。そのときの状況は微に入り細に入りアミの脳裏に焼きついた。物音、絶望感、暗がり、狭い階段の勾配の急さ――そして何ということか!――ぼんやりとした、しかし見違えようのない燐光が、視界内にあるすべての木材にまとわりついていた。階段にも、壁の漆喰の剥げた部分にも、梁にもみな一様に。
そうこうするうち、外に置いてきた馬の狂乱したいななきが聞こえ、直後に何かが壊れる音が続いて、馬が逃げ出したことを知った。遠ざかる馬と馬車の音はすぐに聞こえなくなったが、アミは、馬を驚かせたものの正体を考えながら、暗い階段の途中で恐怖に身をすくませていた。だがそれで終わりではなかった。外でまた違う種類の音がした。液状のもの――水――が飛散する音。井戸に違いなかった。アミは馬を井戸のそばに繋がないまま置いてきた。馬車の車輪が井戸の縁石に接触し、石の欠片が井戸に飛び込んだに違いない。そしてその間も、厭わしいほど年季の入った住居の中では青白い燐光がともりつづけた。嗚呼、その家の古めかしさといったら! 大部分は一六七〇年以前に建築されており、今の屋根に葺き替えられたのも一七三〇年より後ということはないだろう。
階下から弱々しく床をひっかく音がはっきりと聞こえてきたのに対し、アミは、とある目的をもって屋根裏で手にした重みのある棒を、強く握りしめた。おそるおそる階段を降りきり、台所に突き進む。だが台所に行きつくことはできなかった。なぜなら、アミが探していたものはそこにいなかったからだ。アミのほうに向かってきたそれは、曲がりなりにもまだ生きていた。自分の力で這ってきたのか、外部の力によって引きずられてきたのか。アミにはわからなかった。だが死の間際だった。この三十分の間にあらゆる症状が出たわけだが、とりわけ骨格の変形、体色の離褪、組織の脱落といった症状がすでにひどく進行していた。恐ろしいほどにぼろぼろと干乾びて、乾いた組織片を巻き散らかしていた。アミはそれに手を触れることができず、ねじくれたまがい物と化した、かつて顔だった部分を恐怖に震えながら見つめた。「どうした、ネイハム――なにがあったんだ?」と、アミが震え声で問うと、むくんだ唇からしわがれた声で答えが返ってきた。
「なにも……なにもいやしない……色が……燃やすんだ……冷たくて湿ってる、でも燃やしやがるんだ……井戸の中で生きてる……俺は見たんだ……煙みたいなやつだ……春に咲いた花と同じ……夜になると井戸が光って……タッドもマーウィンもジーナスも……生き物から命を吸い尽くす……あの隕石……あの隕石の中に入ってたんだ……目的なんかわかるもんか……大学の先生たちが隕石の中で見つけた丸いやつ……叩き壊されたやつ……あれとおんなじ色なんだよ……まったく同じ、あの花の色……あれはきっと……種が詰まってた……種が……育って……はじめて見たのは今週で……ジーナスでもかなわんくらい力をつけた……力の強い、健康そのもののジーナスでも……あいつは人の心を弱らせて襲ってくる……燃やしてしまう……井戸の水の中……おまえの言うとおりだった……悪魔の水……ジーナスは井戸から帰ってこなかった……逃げられん……溺れさせて……何かが迫ってくるのがわかるがそのときは手遅れで……ジーナスがやられた後から何度も俺の前に出た……ナビーはどこだ、アミ?……頭が働かん……最後に飯を持って行ってからどれくらいになるかわからん……あいつからナビーを守るために手を尽さんと……色が……ナビーの顔が夜の入りにときどきあの色に……燃やして啜る色……こことは何もかもが違う場所から来た……先生方の中にそう言った人がいた……まさにそうだ……気をつけろ、アミ、あれはもっとやばいやつだ……命を啜り尽くすんだ……」
だがそれ以上聞き出すことはできなかった。声を発していたそれは原形をとどめないほど歪み果て、もはや話をすることはできなかったからだ。アミは、そのなれはてに赤のチェック柄のテーブルクロスをかけてやり、よろめきながら勝手口を抜け、裏庭に出た。斜面をのぼって十エーカーの牧草地を目指し、そこから自宅へと、北側の道に沿い、森を通ってふらつきながら歩いた。逃げ出した馬を繋いでいた井戸を避けたのだ。窓越しに見たとき、井戸の縁石に欠けがないことを見取っていたのである。つまり、馬車が井戸にぶつかったわけではない――水飛沫を立てたのは別のもの――ネイハムを襲った何者かが井戸に飛び込んだのだ。
アミが自宅にたどり着いたとき、馬と馬車はすでにひとりでに戻ってきていて、それを見た妻がアミの身を案じていたところだった。その妻へ大丈夫だからとだけ声をかけてすぐにアーカムに向かい、ガードナー家が全滅したことを当局に通報した。事細かに説明したい気分ではなかったが、ネイハムとナビーが死んだことを伝え、タデウスの死は既知のことだったため省き、死因については家畜たちを死に至らしめた奇病によるものと思われると陳述した。また、マーウィンとジーナスが行方不明になっていることにも触れた。警察署ではしつこい聴取を受け、しまいには、三人の警官をガードナー家に案内することを承知させられてしまった。警官のほかに検死官と監察医、それから、以前ガードナー家の家畜を診察した獣医が加わった。アミとしては行きたくなかった。午後もだいぶん回っており、あの呪わしい場所で夜を迎えるのを恐れたからだ。だが、それだけの大人数で行動することになったのは多少の気休めにはなった。
二頭立ての馬車に六人が乗り込み、アミの馬車の後ろに続いた。現場に着いたのは四時ごろだった。警察官として陰惨な経験を積んできたかれらでも、屋根裏部屋で見つけたもの、階下のテーブルクロスの下にあったものに対し、動揺を隠すことはできなかった。農場全体を覆う灰色の荒廃だけでも十分に悲惨なありさまではあったが、二つの朽ちかけた物体は極めつけであった。長時間直視しえた者はおらず、監察医もその場で確認すべき点がほとんどないことを認めた。もちろん、実験室レベルでの解析は可能であったから、監察医はせわしなく試料を集めた――ここで採取され、最終的に大学に持ち込まれた二瓶の塵芥の解析結果も謎めいたものだった。試料は分光器を通じて未知のスペクトルを示した。その帯の多くは、前年の奇妙な隕石のスペクトルときわめて近いものであった。スペクトルを放つ性質は一か月のうちに失われ、以降は、アルカリの燐酸塩と炭酸塩を主成分とする塵でしかなかった。
アミが警官たちに井戸のことを話したのは、それが井戸を調べようという展開につながることに思いが至らなかったからに相違ない。日没が近づいてきたため、アミとしては早く家に帰りたかっただろう。アミは、大きな釣瓶のそばの縁石のあたりの様子が気になって仕方なく、ちらちらと視線を向けていたのだが、それを警官に問い質されたので、井戸の底にいるなにかをひどくネイハムは恐れていて、マーウィンやジーナスを探す際も井戸をさらってみようとはしなかったという話をした。そうと聞けば、警官たちとしては直ちに井戸の水を抜いて調べてみるほかない。アミが震えながら待つ間、手桶に一杯また一杯と井戸の水が汲み出され、周囲の地面に撒き捨てられていった。男たちは水が放つひどい臭いに顔をしかめ、底のほうに近づくにつれ、あまりの悪臭に鼻をつままずにはいられなかった。作業が恐れていたほどには時間を要さなかったのは、井戸の水位が非常に低かったからである。何が発見されたかについてことさらに話す必要はないだろう。マーウィンとジーナス。ふたりの遺体は大部分白骨化していた。同じような状態の小鹿と大型犬。小動物の骨の山。底の泥濘はぬめりを帯び、どうしたわけか、一面に小さな穴が開いていて、ぼこぼこと気泡を吐き出していた。一人が長い棒を手に井戸の中に入り、その棒を底に突き立ててみたが、どこまで押し込んでも固いものに突き当たる手ごたえはなかった。
宵の帳がついに落ち、家の中から角灯が集められた。その後ようやく、井戸の調査から得るものはこれ以上ないと見切りをつけた一行は、戸内に戻り、古めかしい居間で協議をはじめた。雲間に見え隠れする半月は、その色を虹のように変えながら、灰色の戸外に弱々しい光を投げかけた。事件の全体像は率直なところ理解の及びつかないものだった。草木の奇妙な状態。人畜を襲った未知の病。汚泥のたまった井戸に沈んでいたマーウィンとジーナスの怪死。それらに関係性を求めようにも、確たる共通の因子が見出せなかった。この地域で広まっていた噂話は耳にしたことがあった。聞くことには聞いていたが、しかし、自然の摂理に反することが起きたなど信じられようもなかった。まず疑いないのは隕石が土壌を汚染したという点だが、しかしその土壌で育ったものを食べていない人間と動物が病に倒れたのが引っかかる。井戸の水のせいだろうか? その可能性はかなり高い。分析してみるのが良案と言うものだろう。しかしいったいいかなる狂気に襲われたのだろうか、子供たちが井戸に身を投げたのは? 二人の行動はひどく似ている――そして、その遺骸が示すように、二人とも灰色に変わってもろく崩れる死の病に冒されていた。なぜ、なにもかもが灰色になって脆く崩れていくのか?
検視官は、窓から外の様子を見ているうちに、だれよりも早く井戸のあたりが光っていることに気がついた。時はすっかり夜に入っていた。周囲の呪われた大地がほの明かりに包まれていたが、それは、きれぎれに差す月光の反照とは違っていた。新たな光は局地的で特異なもので、井戸の黒々とした穴から湧き立つそのさまは、出力を抑えたサーチライトの光線を思わせるものがあった。その光を、あたりに井戸水を撒き捨てた結果生まれた一つ一つは小さな水たまりが、鈍く照り返していたのである。その光はとても奇妙な色合いを宿していて、一向が窓際に鈴なりになって見守る中、アミは平静ではいられなかった。瘴気を纏った奇妙な光条が見せる彩りはアミの知らぬものではなかった。その色は確かに以前に見たことのあるものだったが、それが何を意味しうるか、考えたくもなかった。昨年の夏に落ちた隕石の中にあった不気味な球体の色。春の狂った植物が見せた色。思えば、まさにその日の午前中、正体不明のものと遭遇した屋根裏部屋の目張りされた小窓、あそこにもこの色を見なかっただろうか。窓のそばで一瞬閃き、じっとりとした不快な空気となってアミのかたわらを流れ去り――そして、哀れなネイハムを何かしらの形で襲った、あの色。ネイハムは今わの際に言った――それは、あの球体やあの植物に似ていた、と。その後、それは表に飛び出して、井戸に逃げ込んだ――そして今その井戸から夜気の内へと、同種の魔性の彩りを帯びた蒼白の妖光が噴き出している。
これはアミの知力を裏書きするところでもあるのだが、この緊迫した瞬間にあっても、アミはまことに科学的な点で不審に思っていた。日の照る刻限に遭遇したあの蒸気は、窓越しに見える南中前の空を背景としていた。いま現れた妖光の宿る夜霧は、闇に包まれた大地を背景としている。なのに、そのそれぞれの光の強さに差がないように見えるのはどうしたわけだろう。それは正常ではなかった――自然の摂理に反していた――そして死んだ友人の最期の言葉を思い起こした。「こことは何もかもが違う場所から来た……先生方の中にそう言った人がいた……」
三頭の馬は表の一対の若木につなぎ置かれていたが、一様にいなないて地面を蹴立てる音が聞こえてきた。どうしたものかと思った御者が扉に向かおうとしたが、その肩にアミが震える手をかけた。「外に出ちゃいかん」と、アミは小声で言った。「外には得体の知れんやつがおるんだ。ネイハムは、なにかが井戸の中に巣くっていて、人の命を吸いとると言っていた。去年の六月に落ちてきた隕石の中にあった丸い玉、あれと似たもんから育ったんだ。吸いとりながら燃やすとネイハムは言った。色のついた靄みたいなもんだと。ちょうどあそこで光ってるやつみたいな。あんたもあれがいったい何なのかわからんだろう? ネイハムの考えでは、あいつは生きてるものをなんでも食らってどんどん力をつけていったらしいんだ。先週になってはじめて姿を現したと言っていた。空の涯てからきたんだ。隕石ってのはそういうもんだと大学の先生たちが言っていた。あれもおんなじだ。どうやってうまれてきよるのか、どういった力をもっとるのか。神様のお作りになったこの世界にはいないものなんだ。もっとずっと遠いところからやってきたんだ」
たじろぐ一行が動けずにいるうちに、井戸からの光はどんどん強くなり、馬の騒ぎ方はますます狂乱の度合いを増してきた。真に恐怖に満ちた時間が過ぎていった。呪われた古い家も、薪小屋に安置した四山の骨肉の寄せ集め――二山は家の中から、もう二山は井戸の中から――も、泥の詰まった最深部から正体不明の怪光を噴き出す眼前の竪穴も、恐怖心をあおりたてた。アミは、とっさに御者を制したとき、当のアミが屋根裏部屋で例の霧と遭遇しながら害を受けなかったことは失念していた。しかし、アミの判断は間違いでなかったかもしれない。その夜、家の外に何がいたのかは今後とも知りえない。最果てからやってきた、神の摂理を超越したそれは、それまでのところ精神の弱っていない人間に危害を加えることがなかったとはいえ、いつまでもそうとはかぎらない。おりしも雲がちな月夜の下、力を増しているようすもあらわに、果たすべき目的の兆候を示そうとしているこのときにおいては。
突然、窓辺にいた警官の一人が驚きの声をあげた。一行がかれの方を見、そしてその先ほどまで漫然としていたが、いまはきっと一点を見つめている視線の先を追って、すばやく空を見上げた。言葉は必要なかった。土地の噂の中でもその真偽に議論のあった部分はもはや議論の余地がなくなった。事件後、このときの一行のめいめいが頑として譲らなかった部分が問題となって、アーカムでは奇怪な日々のことは話題にならなくなってしまった。まず前提として、この夜のその刻限、風がなかったことを確認しておきたい。長時間をおかずして次の風は吹くのだが、しかしそれまでは一切吹いていなかった。枯れきって灰色に変わった垣根辛子の干乾びた頂部も、警官たちの馬車の屋根にあしらわれていた房飾りも、少しも揺れていなかった。張り詰めた寂滅で満たされた農園内で、あらゆる木々の、葉の散り落ちた梢が動いていた。個々に枝を揺らすさまはひどく無様で秩序を欠き、月影の雲を背景に、狂気の発作にもだえていた。穢れた空気をひっかくその動きは見るからにぎこちなく、あるいは、黒々とした根の下に潜んだ土中の恐怖の存在と見えない糸でつながっていて、それがのたうつ動きに引きずられているだけのようだった。
一行は息を殺して外を見つめていた。やがて厚い雲の塊が流れてきて月光をさえぎると、一時的ながら、揺れる木々の影は視界から消えた。ここにきて一同はようやく悲鳴をあげたが、恐怖が喉をつかえさせたのか、悲鳴とはほど遠いただのかすれた声しか出てこなかった。木々の影は見えずとも恐怖は失せず、深い闇に包まれた恐ろしい時が過ぎる中、木々は、枝という枝の先端から禍々しい光を発し始めた。セントエルモの火のような、あるいは精霊降臨の折に信徒たちの首に降った聖火のような、幾千もの微光。それはまるで、超自然の光が織りなす魔物の星座のようであり、死骸を食らって育った蛍が呪われた沼の上で繰り広げるサラバンドのようだった。そしてその色は、アミのよく知り畏怖するところとなった、正体不明の侵入者のものだった。その間にも、井戸から湧き出る燐光の輝きはますます強くなって、身を寄せあう一行の心中に、常識では想像の及びつかないような破滅と異変の予感をもたらした。井戸からの光はもう光が湧き出るというどころではなかった。迸り出ていた。そして井戸から迸りでた万変の色は、無形の水路を驀進し、空へと直接に流れこんでいくように見えた。
獣医はがたがたと震えながら、玄関に歩み寄り、扉の閂を追加した。アミも劣らず精神的なダメージを受けていて、思うように声を出すことができなかったため、木々が輝きを増していることに一行の注意を向けるには、かれらの体を引っぱり指差すという手段を取らざるをえなかった。外にいる馬たちのいななき声、その暴れる音は恐慌の極みであったが、しかしこのとき室内にいた人間たちは、たとえこの世のどんな財宝を積まれたとしても、表に出ようとはしなかっただろう。木々が輝きを増す一方、なお蠢き続ける枝々が、なにか強い力で引っ張られているかのように天を衝きはじめた。ついに井戸の鶴瓶竿が輝きはじめた。それとほぼ同時に、警官が震える指で西手の石垣のそばにあった納屋と蜂の巣を示した。それらもまた同様に光を放ち始めていた。もっとも、アミと警官たちの馬車は一向に影響を受けていなかったが。道路の方で何かが壊れるすさまじい音と蹄の音がしたので、外の様子をもっとよく見えるようにとアミは明かりを消した。そして一行は、狂乱した二頭の芦毛の馬たちが、繋がれていた若木をへし折って、馬車ごと逃げ去っていったのを知った。
そのショックに舌の緊張がほぐれたのか、幾人かの間で困惑の思いがぼそぼそと交わされた。「このあたりの生き物すべてに広まっているようだ」と監察官が言った。だれも返事はしなかったが、井戸の中に降りた男は、底に突き立てた棒に異様な手応えがあったと言い出した。「不気味だった。底がないみたいだったんだ。泥と泡、それと、下の方で何かが蠢いている感触があった」と言い重ねる。表の道端ではアミの馬が地面を蹴立てる音といななく声が続いていて、そのあまりの騒がしさに半ばかき消されながらも、飼い主であるアミは、整理のつかないままにぼそぼそと自分の考えを語りだした。「隕石から出てきた――井戸の中で育ち――生き物をなんでも食らう――心も体も食い物にしてしまう――タデウス、マーウィン、ジーナス、ナビー――最後にネイハムが――みんなあの水を飲んでいた――そうして力をつける――どこか遠いところからやってきたんだ、なにもかもがここと違う世界から――そしていま帰っていこうとしてる――」
ここに至り、未知の色の柱は突如輝きを強め、目撃者によって描写の異なる、つかみどころのない形をとりはじめた。つなぎ置かれたままのヒーローは、ここで、馬の声としては人知を絶する音をたてた。天井がゆるやかに傾斜した居間にいた全員が耳をふさぎ、アミは恐怖と悪寒のあまり窓から顔を背けた。その気持ちを言葉で伝えることは不可能だった――アミが再び窓に目を向けたとき、あわれな馬は、月光の照らす地面の上、折れた左右の轅の間に横たわっていた。ヒーローは二度と起き上がらず、翌日に埋葬されるまでそのままの状態だった。が、悼む暇はなかった。ほぼ同じタイミングで、室内に危険が迫っていることに警官の一人が声を潜めて一行の注意を喚起したのである。明かりを落としていたため、部屋中が燐光を発するものに侵略されつつあることがはっきりとわかった。板張りの床の上にも、絨毯の端にも、ガラス張りの小窓の木枠にも、光点が現れていた。それは、隅柱を上へ下へと走り、棚を暖炉を這い回り、家具にも建具にも押し寄せようとしていた。その勢いは分刻みで強くなり、ついに、命が惜しくばこの家にとどまっていてはならないと確信しうるほどになった。
アミは一同を案内して、勝手口から続く、畑を通って十エーカーの牧草地に抜ける裏道に出た。上り道を全員ただ夢中になって歩き、遠く高台に到るまでの間、振り返ってみる勇気もなかった。裏道の存在はありがたかった。表から出れば井戸のそばを通過しないわけにいかなかったのだから。それでも十分生きた心地がしなかっただろう、ほの光る厩舎や納屋、よじれ節くれだった枝ごと輝く果樹園の木々のそばを通るのは。だが、天の助けか、道行きを困難にしたであろうもつれ絡まる枝も、その向きを天へと変えていた。一行がチャップマンズ・ブルックにかかる橋に達したとき、月は厚い雲の影に隠れ、その先放牧地までは、暗闇の中を手探りで進んだ。
谷を振り返った一行は、遠い谷底のガードナーの農場の光景に戦慄した。農場全体が、色を無暗に混ぜ合わせたような、きたならしい色彩をともなって輝いていた。木々も、建物も、そして灰色になって枯れていくさなかにあった野草や作物さえも。木々の枝は天空に向かって反りたち、その先端には穢れた炎が揺れていた。同等の妖異の火が建物の棟木を舐めつくそうとしていた。家も、厩舎も、納屋も。フュッセリの幻視した世界はこのようなものだっただろうか。残余のものにも無形の燐光が怒涛のごとく押し寄せていた。虚次元に架かる異界の虹、井戸から迸る深淵の毒――煮え、かぎつけ、とり囲み、迫り、閃き、絡みつき、残忍に泡ぶく、認識を拒む宇宙生まれの色調。
やがて汚らしい混沌の色は、何の前触れもなく、ロケットか流れ星かという勢いで天へと一直線に飛び上がり、尾も引かず、奇妙に整った円形の雲間の向こうに消えていった。声をあげる暇もなかった。だれしもがその光景を忘れることができなかった。アミはただ呆然と、未知の色が溶け込んでいった天の川の白鳥座、中でもひときわ輝くデネブのあたりを見つめていた。しかしその視線も次の瞬間には大地に引き戻される。破断音が谷中に轟いたのだ。それ以外のものではなかった。ただ木製のものが割れるなり折れるなりした音であって、爆発音でなかったことは一行のほとんどが認めている。だが、それに伴って生じたことはまさしく爆発そのものだった。陽炎う万華鏡の刹那、呪われた農場に超自然の雷光と煙霧の奔流が炸裂したのである。目もくらむ光と霧の中、この世界に存在しえぬ色合いを有する光の欠片が、雨あられと天上へ打ち上っていった。早々と薄れゆく霧の中から飛び出した光の群れは、先行して飛び去った忌むべき塊の後を追い、次の瞬間には同じように消え去った。そのあとにはただ暗闇だけが残されたが、あえて引き返そうという者はいなかった。そこに、星間の虚無から下ってきた漆黒の凍気としか思えないような、一陣の山風が起こった。風は、すさまじい風切り音をとどろかせながら、宇宙的な凶暴さを誇示するように、草々を吹き飛ばし、木々を薙ぎ倒した。その様子を見ていた一行は、月が出るのを待ってネイハムの農場の現状を確認するという選択の無益さを、たちまちのうちに悟ったのである。
感想を述べる気にさえなれず、震える七人は北周りの道を使ってアーカムに戻った。中でもアミはいちばん悲惨な状態で、同行者たちに、まっすぐに街に帰るのでなく、途中アミが勝手口から家の中に入るまでの共連れになってほしいと懇請した。本道沿いにある自分の家までの間に横たわる、風吹きすさぶ荒廃した森を一人きりで通りたくなかった。アミがそれほどまでに恐怖に囚われていたのは、他の六人が見過ごしたものを一人だけ見ていて、そのショックが大きかったからだ。その恐怖は止むことなくアミを苦しめつづけ、後年ずっと、自分が見たものを一言も他人に漏らす勇気がもてなかった。丘を登っている間、周りが一心に顔を道に落として歩いていたとき、アミはふと振り返り、非業の死を遂げた友人がつい先程まで生活の場としていた、荒れ果て影に覆われた谷を見やった。そのとき、だいぶん遠くなったその荒地から、何かが弱々しく飛び出し、失速して、例の形も知れぬ大いなる恐怖が空に向かって飛び立ったまさにその場所へと沈んでいったのである。それは色だった――天にも地にもありえない色。アミはその色が何かわかっていた。その最後の残滓があの井戸に潜んだのを悟り、以来、完全な正気ではいられなくなった。
アミはもう二度とその場所に近づこうとしなかった。事件から四十年の歳月が経った今も決して行こうとせず、ダムの建設によって消え去ることを良しとしている。私もまた良しとする。あの井戸、近づくにつれ陽光の彩りが妖しく遷ろうあの廃井戸のそばを通る道を、私は好きになれない。望むらくはダムに満々たる水の常にあれかし――だがそれが叶ったとしても、その水を飲む気にはなれない。今後アーカム地方を訪れるつもりもない。アミと一緒にいた三人の男たちは、陽光の下で廃屋を検分するため、夜が明けるとネイハムの土地を再訪したが、しかし、廃屋といえるようなものはなかった。残されていたのはただ、煙突の煉瓦、地下室の石材、あちらこちらに散らばった無機物と金属のかけら、そして、あの恐ろしい井戸の縁石。アミの馬のなきがらがそのまま残っていたので、少し離れた場所に運んで葬ってやり、その足で馬車をアミのところに戻しに行った。馬のなきがら以外には、生き物にせよ、生き物であったものにせよ、影も形もなかった。五エーカーに渡って広がった灰色の砂漠には、爾来、草の一本も生えてこない。こんにちでもその地は、大空の下、森か野原を酸が焼き尽くしたように開けていて、当地の奇談も怖れず実見に訪れた物好きどもが「風吼が原」と名付けた、という次第なのである。
一帯に伝わる話は奇怪である。いや、まだおとなしい話にまとまっているほうかもしれない。もし好事家や科学者が興味を抱き、廃井戸の水や風に散ることのない灰色の塵を分析したとしたらどうなることか。それに植物学者もまた、界隈の境界に生育する異様な植物群を詳しく調べるべきところであろう。土地の荒廃が広がっていっている――わずかながら、ひょっとしたら年に一インチ程度のペースではあれど――という風説に対して、なんらかの光明を投げかける可能性がある。人々が言うには、春に界隈に生える草の色も、冬の薄い積雪に残る野の生き物の足跡も、どこかおかしいらしい。雪は風吼が原にだけはさほど積もらず、まるでそこを避けて積もっていくように思わせる。馬は――自動車の時代たる今日では数少なくなったが――静かな谷間に入ると、まるで落ち着きのない様子を見せる。塵の吹き溜まりに近すぎるところでは、猟犬が役に立たなくなると猟師たちは言う。
精神に与える影響もまた非常に深刻という話だ。ネイハム亡き後数年のうちに多数の住民が奇妙なふるまいをするようになってしまい、そうした人々は常に居を新たにする気力を有していなかった。意思の強い人物は土地を捨て、よそ者だけが捨てられた農地に住み着こうと試みた。だが定住することはできなかった。言霊を耳奥に残す奇妙奇天烈な物語を語るかれらが、その心の目にいかなるものを見ていたものか、つい首をかしげたくなる向きもあろうが、それは常人のよく知るところではないだろう。あの怪異の地では夜ごとにひどく恐ろしい夢を見ると、かれらは言い募る。たしかに闇に閉ざされたあの地域は、見るだに、妄想をかきたてるだけのものがある。山峡に足を踏み入れた旅人で違和感を覚えずにすむ者はなく、深い森をカンバスに描こうとした画家たちは眼に映る以上の神秘に感応して震えだす。私自身もまた、アミから話を聞いた直後に一人で帰路をとったとき、自分の感覚を奇異に思ったものだ。黄昏時がやってきたとき、空に雲が出てくれればいいのにと私はぼんやり思った。頭上に広がっているのは大空にあらず、底なしの虚無なのではないか。そういう理屈を超えた恐怖が私の胸の奥に忍びこんできたからだった。
私の意見を求めないでほしい。私にはわからない――としか言いようがない。話を聞けるのはアミの他いなかった。アーカムの人々は件の奇怪な日々のことを話そうとしないし、隕石とその中にあった色の球体を見た三人の教授はもう亡くなっていた。球体はほかにも存在していた――事態はそこによる。一つは力を蓄え、逃亡した。もう一つ、手遅れになったかもしれないものがある。間違いなくあの井戸の中にいるのだ――瘴気を放つあの井戸には、降り注ぐ陽の光をゆがめる何かがいることを、私は知っている。アーカムの郊外に住む人々は、土地の荒廃が年を追うごとに少しずつ広がっていると言っている。ということは、今もまだその何かは成長をつづけているのだ。だが、あそこに巣くっている魔物がいかなるものであるにせよ、あそこを離れられないなんらかの理由がある。さもなくば瞬く間に広がっていったはずだ。空中に爪をたてるような格好でのびる木々の根に寄生しているとか? 最近のアーカムの噂話を一つ挙げよう。太々としたオークの木立が、夜になると、輝きながら異様な動きを見せるという。
正体は何か、それは神のみぞ知る。物理的に考えるとアミが描写したものは気体を思わせるが、我々の知る宇宙における気体の法則には従っていなかった。科学者が天地を相手に、望遠鏡によって、あるいは写真板によって収穫するような成果を、それはもたらさなかった。天文学者が、その動きや広さを予測し、あるいは予測できぬと匙を投げる天空のいったいどこからやってきたのか、その手がかりもなかった。天の涯てからやってきた色という他なかった――我々の知る大自然の枠組みから完全に外れた、輪郭も定かでない領域からやってきた恐怖の使者。その領域は、ただ存在するだけで我々の頭脳を麻痺させ、力を奪う。そして狂乱する我々の目の前に、黒々と口を開く超宇宙の奈落が迫ってくる。
アミが故意に偽りを語ったとは思いがたいし、話のすべてがアーカムの住人から諭されたとおりの狂人の妄言だとは考えない。恐るべきなにものかが隕石とともにあの谷丘にやってきた、そしてその恐るべきなにものかは、いくばくか――私にはどれほどかわからないものの――まだあの地にいる。水底に沈めるというのは大賛成だ。それまでの間、アミの身に何事もおきなければよいのだが。アミは繰り返しそれと遭遇しており、それの及ぼす影響はときに陰にこもるようだ。どうしてアミは立ち退こうとしなかったのだろう? ネイハムの最期の言葉、「逃げられん――引きずり込まれちまう――わかっておっても何もできん」をいかにはっきり覚えていたことか。アミの老いこみは頃合いに達している――もしダムの話が本格的に動き始めたら、私から技師長にあてて、アミの動静に目を配っておくようにという手紙をしたためねばなるまい。アミのことを灰色に染まって壊れていく異形の人外と重ねるのは本意ではないが、しかしその想像上の姿が私の眠りをさいなむ頻度が次第に多くなってきている。