鰐, フョードル・ドストエフスキー

第二章


私を迎えたチモフェイ・セミョーヌイチ老は何かせかせかとして、戸惑っているようでもあった。彼は私を手狭な書斎へ案内し、しっかりとドアを閉めた。見るからに心配そうに「子供たちが邪魔をしないように」と彼は言った。それから彼は私を書き物机のそばの椅子にすわらせ、自分は安楽椅子に腰掛け、古い、綿の入った部屋着でひざをくるんだ。私やイワン・マトヴェーイチの上司に当たるわけでもなく、それまで普通の同僚であり、友人でもあると思っていた彼が、不測の事態に備えるように、なんだか堅苦しい、厳格とも言える態度を見せた。

「まず第一に」と彼は切り出した。「私が部長ではなく、君やイワン・マトヴェーイチとまったく同様に、下級役人であることに注意していただきたい・・・・私は路傍の人ですし、何かおせっかいをするつもりもないね」

どうやら彼が既に何もかも知っていることに私は驚いた。それでも私は改めてことの顛末をすべて詳細に話した。また、私の話し振りは動揺もしていた。この瞬間、真の友人として義務を果たしていたのだから無理もない。彼は特に驚くこともなく、だが明らかに不審の色を浮かべて聞いていた。

「どうだろう」聞き終わると彼は言った。「私はいつも思っていたんだ。彼にはきっとこういうことが起こるだろうって」

「何ですって、チモフェイ・セミョーヌイチ? こんなことはめったに起きることじゃないでしょうに・・・」

「それは認めるよ。だがイワン・マトヴェーイチは仕事をしていてもいつもそんな結果を生むようなところがあった。機を見るに敏ですし、高慢でもある。常に『進歩』とさまざまな観念、ですからね。まさしく進歩の行き着く先がそこです!」

「ですけどねえ、あれはまったく珍しい出来事だし、とても進歩主義者すべてにあてはまる一般的原則とは言えないでしょう」

「いや、実際そうなんだよ。これはねえ、いいですか、余分な教養から生じたんだ、本当ですよ。なにしろ余分に教養のある人たちはどんな所にも、とりわけまったく招かれもせぬ所にまで首を突っ込むからね。もっとも、君のほうがよくご存知だろう」彼はなんだか腹立たしげに付け加えた。「私はあまり教養のない老人だし、出は軍人の子で、勤めも今年で五十年の記念を迎えたんですから」

「ああ、とんでもない、チモフェイ・セミョーヌイチ、お願いします。それどころか、イワン・マトヴェーイチはどうしてもあなたの助言が、どうしてもあなたの指図が欲しいと願ってるんです。それこそ、いわば涙ながらにです」

「『いわば涙ながらにです』か? フム? なに、それはそら涙だ、鵜呑みにしろと言われてもねえ。しかしまあ、どうして外国なんかに行く気になったんだろう、え? それにどういう金で? あの男に財産なんかない、でしょう?」

「貯めておいたんですよ、チモフェイ・セミョーヌイチ、この前のボーナスを」と答えたが私は悲しくなった。「ほんの三ヶ月行くつもりだったんです。スイスへ・・・ウィリアムテルの国へ」

「ウィリアムテル? フム!」

「ナポリで春を迎えるつもりでした。それから見物。博物館、風習、動物・・・」

「フム? 動物? 思うにそれは単に思い上がりからだな。どんな動物? 動物だって? こっちにいる動物で不足ですか? 移動動物園もあるし、博物館も、ラクダも。熊だってこのペテルブルグのまわりに住んでいる。今度は自ら鰐の中におさまりかえって・・・」

「チモフェイ・セミョーヌイチ、お願いですから、人が困っているんです、人が友だちを頼るように、おじさんおばさんを頼るように助言を求めているのに、それをあなたは非難なさる・・・せめてエレナ・イワノヴナに同情してやってください!」

「それは君、奥さんのことですか? 魅力的な女性だ」と言って、チモフェイ・セミョーヌイチは、目に見えて表情をやわらげ、うまそうにかぎタバコを吸い込んだ。「繊細な人だ。それにふくよかで、いつも首をこんなふうに斜めに・・・かしげて・・・とても感じがいい。アンドレイ・オシプイチがついおととい噂してたな」

「噂を?」

「そう、えらく感じ入ってましたよ。胸、まなざし、髪型・・・女というより、甘いケーキのようだって言って、そこにいた連中も、笑ってたよ。まだ若い人たちだから」チモフェイ・セミョーヌイチはちんと鼻をかんだ。「それにしても、こちらの若い人は何という出世の仕方ですかね・・・」

「この際まったく別問題でしょう、チモフェイ、セミョーヌイチ。」

「もちろん、もちろんですとも。」

「それでどうでしょう、チモフェイ・セミョーヌイチ?」

「だが、いったい私に何ができます?」

「御助言を、御指導をおねがいします。人生の先輩として、親戚のように? 何から手をつけましょう? 上司のところに行きましょうか、それとも・・・」

「上司に? 絶対にいけませんよ」チモフェイ・セミョーヌイチはあわてて言った。「助言をとおっしゃるなら、何をおいても内密に行動すべきです、いわば、個人という形式で。うさんくさい話ですしね、先例がない。何より先例のないことだし、前代未聞ですし、とても褒められたことじゃない・・・従って慎重であることがまず第一・・・そこに寝ていてもらうことだ。必要なのは好機を待つこと、待つことです・・・」

「しかし待ってられるものですか、チモフェイ・セミョーヌイチ? それで、もしあそこで窒息してしまったら?」

「そりゃまたどうしてです? だって君の話では、彼はむしろなかなか快適に過ごしていると思ったのだが?」

私は話を最初から繰り返した。チモフェイ・セミョーヌイチは考え込んでしまった。

「エヘン!」かぎタバコ入れをくるくる回しながら彼は言った。「私の考えでは、外国行きなどというものの代わりにですよ、そこにしばらく横になっているのはむしろ結構なことなんだが。余暇を取って、よく考えてもらうのは。もちろん窒息したらいけないから、健康維持のために適切な手段を講じなければならん。つまり、まあ、せきをしないようにするとか、まあそんなことだね・・・それとそのドイツ人だけどね、私の個人的意見では彼は正当だし、相手のことを考えればなおさらですよ。なにしろ、その男の鰐の中に許可なく入ったのであって、その男が許可なくイワン・マトヴェーイチの鰐の中に入ったんではないのだからね。といっても、私の知る限りでは、彼は鰐を持っていなかったな。そこでです、鰐は私有財産であり、従って、補償せずに切り開くことはできません」

「人を救うためです、チモフェイ・セミョーヌイチ」

「まあそれはもう警察の問題です。警察で扱うべきことだ」

「しかしイワン・マトヴェーイチが役所で必要になるかもしれない。彼に用ができるかもしれませんよ」

「あのイワン・マトヴェーイチが必要に? ヘッヘッ? その上、彼は休暇ということになっている、従って、我々は彼を無視してかまわないし、彼にはヨーロッパの地を視察してもらうというわけです。期間が過ぎても顔を出さなかったら話は別だが、まあその時は、訊き合わせ、問い合わせをして・・・」

「三ヶ月後ですよ? チモフェイ・セミョーヌイチ、お願いだから!」

「身から出たさびですね。ええ、誰かが彼をそこへ押し込んだんですか? こうなると、おそらく公的に看護人を雇うことになるが、そんなものに支出をする規則にはなってませんな。だが主要な点は、鰐が私有財産であり、従って、既にいわゆる経済の原則が有効になっている。そして経済の原則は最優先です。ついおととい、ルカ・アンドレーイチの夜会でイグナチイ・プロコフィイチが言ってたがね、イグナチイ・プロコフィイチはご存知かな? 資本家で、手広く商売をやってますよ、それに実に話し上手ですよね。いわく、『我々に必要なのは産業であり、産業がわが国には不足しています。私たちで生みださなければなりません。資本を生みださなければならない、すなわち、中産階級を、いわゆるブルジョアジーを生みださなければなりません。また我が国に資本がないとなれば、国外から導入しなければなりません。まず第一に、現在外国ではどこでも認可されているのですから、外国企業による我が国の土地の買い占めに道を開かなければなりません。共有資産は、』有害だし、破滅だ!って言うんだよ。いやねえ、熱の入った話だったねえ。そりゃまあ、連中にとっては結構なことだ。資産家ではあるし、勤め人ではないからねえ。続けていわく、『共同体では、産業も、農業も、発達しません。複数の外国企業ができる限りわが国の全土を少しずつ買占めるべきであり、その後それを分割し、分割し、可能な限り小区画に分割するのです』そしていいかな、断固として言ったよ。いわく『分割し、それから売って個人の私有財産とする。あるいは売らずに単に貸し出すのです』彼いわく、『全土が流入した外国企業のものになった時、そうなれば地代は思い通りに決めることができます。そうすると小作人は日々のパンのために三倍も働くでしょうし、また、いつでも追い出せるというわけです。そうなると、小作人は物分りがよくなり、従順で勤勉になり、同じコストで三倍も生産するようになるでしょう。しかし今の共同体ではそんな気づかいはありません? 飢えて死ぬことはないと知っていれば、怠けて酒びたりです。さて、同時に、金はわが国に引き寄せられ、資本が造られ、ブルジョアジーが生まれます。あちらイギリスの政治、文芸新聞《タイム》が先日、わが国の財政についての論じていたところでは、わが国の財政が成長しない理由は、中産階級を持たない、大資本もなく、奉仕するプロレタリアもなく・・・・・』見事な話ぶりだったな、イグナチイ・プロコフィイチは。雄弁家です。自ら当局に意見を提出し、それから《イズヴェスチヤ》に寄稿するつもりなんですな。それはもうイワン・マトヴェーイチの作る韻文とは違う・・・」

「それでそのイワン・マトヴェーイチですが?」私は、老人におしゃべりさせてから口をはさんだ。チモフェイ・セミョーヌイチは時々、好んでおしゃべりをして、時勢に遅れることなくこうしたことすべてを知っているところを見せることがあった。

「イワン・マトヴェーイチはどうするかですって? だってそこにさしかかってるんじゃないですか。こうして我々自身が外国資本の祖国への導入を願っているわけですが、そこで考えてごらんなさい。鰐という持ち込まれた資本がイワン・マトヴェーイチのおかげで二倍になったばかりなのに、我々は、外国人所有者に助力する代わりに、反対に、まさにその資本の源泉の腹を切り裂いて開けようしているんだよ。え、それが道理に合ってるかね? 私の考えでは、イワン・マトヴェーイチは、祖国の真の息子として、自分が外国の鰐の価値を二倍にも、ことによると三倍にもしたことをむしろ喜びとし、誇りとするべきだ。それが資本導入ために必要なことです。一人が成功すれば、いいかな、鰐を連れてくるのがほかにも出る、そして三人目は一度に二匹、三匹と連れてくる、そして彼らの周囲に資本は集積してゆく。ブルジョアジーが生まれる。奨励されねばなりません。」

「頼みますよ、チモフェイ・セミョーヌイチ!」私は叫んだ。「それじゃあなたはほとんど超自然的な自己犠牲をイワン・マトヴェーイチに要求するんですね!」

「私は何も要求していませんし、何よりもまず―もうさっき言ったけど―ひとつ考えてもらいたいんだが、私には権力はないし、従って、誰に対しても何も要求できない。私は祖国の子として、すなわち、《祖国の子》紙式にではなく、祖国の子として言っているんだ。重ねて言うが、一体誰があの男を鰐の中に入れたんだ? 立派な男が、ちゃんと結婚している、地位もある男が突然、そんなことを? 道理に合っているかね?」

「でもねえ、あれは偶発的な出来事ですよ。」

「どうだかなあ。それにどういう金で鰐の飼い主に補償するのか、どうですかな?」

「たぶん、給料から、でしょうチモフェイ・セミョーヌイチ?」

「充分ですかね?」

「不足ですね、チモフェイ・セミョーヌイチ」私は鬱々として答えた。「飼い主は初めは鰐が破裂するのを恐れていましたが、その後大丈夫だと確かめると、横柄になり、入場料を倍にできると大喜びでした。」

「三倍か、ことによると四倍になる? こうなると見物人が押し寄せる、連中は抜け目のない国民だ。しかも、四旬節の前、人は娯楽を求めている、というわけで繰り返しになるが、まずはとりあえず、イワン・マトヴェーイチにはひそかに探索でもしててもらいましょう、急がないでもらいましょう。たぶん、彼が鰐の中にいるってことはみんなに知れるだろうが、表向きには知らせぬことです。この点、イワン・マトヴェーイチの場合、外国にいると思われているわけで、実に好都合と言っていい。鰐の中だ、と言われても、私たちは信じないんです。そんなふうにすればいい。肝心なのは、時機を待ってもらうこと、だいいち急いで行ってもらうべき場所がありますか?」

「ええ、でも、もし・・・」

「心配しなさんな、体質は丈夫ですし・・・」

「ええ、でも、待って、その後は?」

「そうですねえ、きわめて異常な出来事であることを覆い隠すつもりはないんだ。考えもつかないことだし、何より痛いのは、これまでに似たような例がないことだ。先例があれば、何とかそれに従うこともできたろうが。実際、どうしたものかねえ? 考えてみると事は長引きそうだし・・・」

私の頭に名案がひらめいた。

「こんなふうに運ぶことはできませんか?」私が言った。「もう怪物の内臓の中にいるのが運命なら、そして、神の意志により、彼の生命が維持されるなら、奉職中とみなすよう請願を出す、というわけにはいきませんか?」

「フム!・・・たぶん休暇中として給料なしで・・・」

「ちがうんです、給料もというわけにはいきませんかね?」

「いったいどんな根拠が?」

「出張ということで」

「どんな職務でどこへ?」

「それは内臓、鰐の内臓の中です・・・いわば、調査、現場における事実の研究です。もちろん、例のないことになりますが、進歩的なことですし、同時に啓発への意志を示すことになりますし・・・」

チモフェイ・セミョーヌイチはしばらく考えた後、やっと言った。

「公務の出張、鰐の内部での特別任務のため、というのは、私の個人的な意見では、ばかげてますね。規則にないし。それにそんなとこにどんな任務がありうるね?」

「それはいわば実地の自然研究、生体内の自然研究です。自然科学は当節大流行ですから、植物学とか・・・・・そこで生活し、報告するのです・・・・・ええと、消化作用についてとか、あるいは単に性質についてとか。事実を収集するために」

「つまりそれは統計の分野だね。うーん、そういうことには私は弱いし、それに学者でもないから。君は、事実、と言ったね。それでなくとも我々は事実を貯め込んで、それをどうしていいかわからないでいる。その上、この統計というやつは危険だ」

「いったいどうして?」

「危険なんです。そのうえ、いいですか、事実を報告すると言ったって、ごろごろ寝ながらですよ。いったい仕事と言えるのかね、ごろごろしてて? それはもう更なる革新であり、そのうえ危険なことです。それにまたそのような先例がない。何か先例があるなら、そのときは、私の個人的意見では、あるいは公務の出張ということになるかもしれない」

「でもなにしろ生きた鰐はこれまで持ち込まれたことがないのですから、チモフェイ・セミョーヌイチ」

「フム、そう・・・」彼は再び考え込んだ。「おそらく、その君の反論は正当なものであり、この話を先に進める根拠として役立つこともありうる。しかし、もう一度考えてみたまえ、生きた鰐が現れるたびに役人たちが姿を消し始める、それからそこが温かくて柔らかいという理由で、そこへの出張を要求する、それからごろごろ寝転がって・・・おわかりでしょう、悪しき例になります。そんなふうにしてね、たぶん、誰も彼もがそこへ入り込んで何もしないで金を取ることになりますよ。」

「どうかお願いしますよ、チモフェイ・セミョーヌイチ? ところでですね、イワン・マトヴェーイチからカードで、エララーシュで負けた七ルーブリをあなたに渡すよう頼まれたのですが・・・」

「ああ、この間ニキーフォル・ニキーフォルイチのところで負けたんですよ、彼は。思い出した、はい。あの時はあんなに楽しそうに笑ってたのに、こんなことに!」

老人は嘘偽りなく感動したようだ。

「どうかお願いします、チモフェイ・セミョーヌイチ!」

「できるだけやってみましょうよ。個人として話してみよう、ひそかに、照会ということで。でもねえ、君も非公式に、遠まわしにね、その亭主が鰐にいくら出せば承知するか、聞き合わせてくれませんか?」

チモフェイ・セミョーヌイチは目に見えて優しくなった。

「承知しました」私は答えた。「すぐに報告をもってきます」

「それで奥さんは・・・今一人かな? 悲しんでいるかな?」

「行ってあげませんか、チモフェイ・セミョーヌイチ。」

「訪ねてみますか。前からそう思っていたし、いい機会だし・・・しかし、まったくどうして鰐なんか見に行く気になったんだろう? もっとも、私だって見てみたいが」

「かわいそうな男の所へも行ってみませんか、チモフェイ・セミョーヌイチ」

「行ってみますか。もちろん、それで一歩踏み出したと期待を抱かせたくはないんだが。個人として行きましょう・・・・それじゃ、ごきげんよう。いや、今日もニキーフォル・ニキーフォルイチのところなんですよ。君も行きますか?」

「いいえ、私は。虜囚の所です」

「そうか、今や虜囚、の所ですな!・・・ああ、軽率なことを!」

私は老人に暇を告げた。いろいろな考えが私の頭に浮かんだ。チモフェイ・セミョーヌイチは善良な、非常に正直な男だと思ったり、それから、彼の所を出ながら、彼が勤続五十年を祝ったことやチモフェイ・セミョーヌイチのような人が今どき我が国では珍しいことを思い、ちょっと嬉しくなったりした。もちろん、私は直ちに、かわいそうな男、イワン・マトヴェーイチにすべてを報告するため、ショッピングセンターに飛んでいった。それに私は好奇心でいっぱいだった。彼があの鰐の中でどうしているのか、どうしたら鰐の中で生きていけるのか? いや、実際、鰐の中で生きていけるのか? 私には、時おり、本当に、何もかも奇怪な夢のように思われた。ましてや、事件そのものに絡んでいるのが奇怪な生き物であり・・・・


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