イワン・イリッチの死, レフ・トルストイ


こうして一、二ヶ月たった。ちょうど新年を迎える前に、義弟がこの町へやって来て、彼らの家に泊った。イワン・イリッチは裁判所に出ていたし、プラスコーヴィヤ・フョードロヴナは買物に出て留守だった。イワン・イリッチが家へ帰って、書斎にはいって見ると、血の気の多い元気そうな義弟が、自分で鞄の荷物を拡げていた。イワン・イリッチの足音を聞いて、彼は首を上げた。そして一秒間ばかり、ものも言わずにじっと見つめていた。この目つきがイワン・イリッチに一切の秘密を打ち明けてくれた。義弟は口を開けて「あっ」と言おうとしたが、やっとのことで抑えつけた。この動作が一切を裏書きしたのである。

『どうだ、変ったかね?』

『ええ……変りが見えますよ』

それからイワン・イリッチは自分の外貌のことに話を向けようと苦心したが、義弟はとかく逃げるように逃げるようにした。そのうちにプラスコーヴィヤ・フョードロヴナが帰って来たので、義弟はその方へ行ってしまった。イワン・イリッチは戸に鍵をかけて、じっと鏡を眺めはじめた――はじめは正面、それから横向きに映してみた。彼は妻と二人でとった写真を出して、それを鏡の中の姿とひき較べた。それは恐ろしい変りかたであった。それから両腕を肘までまくって、じっと眺めた後、また袖をおろした。彼はオットマンに腰をかけたが、その顔は夜よりも暗かった。

「こんな事を考えちゃいけない、こんな事を考えちゃいけない」と言って、彼は飛び上った。そして卓の傍へ行って書類を拡げ、さて読みにかかったが、しかしやはり読めなかった。彼は戸を開けて、広間の方へ行った。客間の戸は締まっていた。彼は爪先だちで傍へよって、耳を傾けはじめた。

『いいえ、それはお前が余り大業なんだよ』とプラスコーヴィヤ・フョードロヴナが言った。

『何が大業なものですか! 姉さんにはあれが見えないんですか――あの人はまるで死人ですよ。あの目をご覧なさい。まるで光りというものがないじゃありませんか。一たい病気はなんです?』

『誰にも分らないんだよ。ニコラーエフ(それは別の医者であった)は何とやら言ったけれど、わたしにはよく分らない。レシチェチーツキイ(これは有名な医者であった)は、またまるで反対なことを言うし……』

イワン・イリッチは傍を離れて、自分の居間へ帰った。そして横になりながら考えた。

「腎臓、腎臓遊動症」腎臓が千切れてふらふら動いている、こう言った医者の言葉を思い出した。彼は想像力を緊張さして、この腎臓をつかまえて押さえつけ、ひと所へ固定させようと骨を折った。僅かこれだけのことさえ出来ればいいのに、というような気持ちがした。「いや、もう一度ピョートル・イワーノヴィッチの所へ行ってみよう」(それは医者の友達をもっている友達であった)。彼はベルを鳴らして、馬車の用意を命じ、外出の支度をした。

『あなた、どこへいらっしゃるの、Jean』何か特別うれわしそうな、いつになく優しい表情で妻がこう訊いた。

このいつにない優しい表情が、彼をむらむらとさした。彼は暗い目つきで妻を見やった。

『おれはピョートル・イワーノヴィッチの所へ用があるんだ』

彼は医者の友達をもった友達の所へ出かけた。そして一しょに医者を訪問した。医者はいい塩梅に在宅だったので、長い間いろいろ話をした。

医者の意見によって、彼の内部に生じているものを、解剖学的生理学的に詳しく検査したとき、彼は一切のことを悟った。

盲腸の中にちょっとしたもの、ほんのちょっとしたものがあった。それは全治するのも難かしくない。ある一つの器官の精力を強め、いま一つの器官の作用を弱める、そうすれば吸収作用が起って、何もかもよくなるに相違ない。彼は少し食事に遅れた。食後、愉快に談笑したが、長いあいだ書斎へ仕事に行くことが出来なかった。とうとう思いきって書斎へはいり、さっそく仕事に向った。彼は書類を読んだり書き物をしたりしたが、しかし自分は大事な用件を心に秘めていて、この仕事が終ったら、それにかからなければならないという想念が、一刻も彼の脳裏を去らなかった。仕事を片づけた時、彼はこの大切な用件というのが、盲腸のことを考えることだと思い起した。しかし彼はその瞑想に没頭しないで、客間へ茶を飲みに行った。客が来合せていて、話をしたり、ピアノを弾いたり、歌ったりしていた。娘にとって望ましい花婿の予審判事もいた。イワン・イリッチは、プラスコーヴィヤ・フョードロヴナの観察によると、誰よりも一ばん快活にその晩を過した。しかし彼は、盲腸に関する重大な思索を後廻しにしているのを、一刻も忘れることが出来なかった。十一時に一同と別れを告げて、自分の居間へ帰った。彼は病気以来書斎に附属した小さな部屋で、たったひとり寝ることにしていた。彼はこの部屋へはいって、着替えをすました後、ゾラの小説を手にとったが、べつだん読もうともせずに考えていた。彼の想像の中では、つね日ごろ望んでいる盲腸炎の全快が成就された。吸収作用が起り、排泄作用が起って、規則ただしい機能が復活された。「そうだ、全くこの通りなんだ」と彼は独りごちた。「ただ自然の働きに助力しなけりゃならん」彼は薬のことを思い出したので、起き上って服用した。それからまた仰向けに寝ながら、薬がうまく効き目を現わして、痛みを除いてゆくのに心の耳を澄ましていた。「ただ規則正しく薬を飲んで、有害な影響を避けるようにすればいいんだ。もう今から気分がよくなったような気がする、ずっとよくなったようだ」彼は横腹に触ってみた。――触ったところでは別に痛くない。「そうだ、別に感じない。全くもうずっとよくなった」彼は蠟燭を消して、横向きに寝た……盲腸がよくなっている、吸収している。と、不意に以前から馴染みになっている、鈍い疼くような痛みを感じた。静かな、執拗な、真剣な痛みである。口の中には依然として例の厭な味。心臓がしんとひきしまって、頭の中が濁ってきた。「何ということだ、何ということだ」と彼は声に出して言った。「またしても、またしても、決してやみっこありゃしない」とつぜん全体の事情がすっかり別の方面から、彼の目に映ってきた。「いや、問題は盲腸でもなければ、腎臓でもない、生きるか……死ぬるかという問題なのだ。そうだ、もとは命があった、それがいま逃げて行ってる、逃げて行ってる。しかもそれをとめる事が出来ないのだ。そうだ、何も自分で自分を欺くことはない。おれ以外の人はみんな誰もかれも、おれが死にかかっていることを、はっきり知っているんじゃないか。問題はただ週とか日とかいうものの数ばかりだ……事によったら、今すぐかも知れない。以前は光明だったが、今は闇だ。以前おれはここにいたのだが、今はあちらへ行ってしまう! 一体それはどこだ?」彼は身に冷水を浴せられたような気がして、息がとまった。ただ心臓の鼓動が聞えるだけであった。

「おれがいなくなると、その時は一体どうなるんだろう? なんにもありゃしない。おれがいなくなった時、一体おれはどこへ行くんだろう? 本当に死ぬんだろうか? 厭だ、死にたくない」彼は跳ね起きた。蠟燭をつけようとして、ふるえる手で探る拍子に、燭台を床の上へ落してしまった。彼はまた仰向けに枕の上へぶっ倒れた。「何のためだ? どちらだって同じことだ」両眼を開けて闇の中を見つめながら、彼はこう独りごちた。「死、そうだ、死だ。しかもあの連中は誰ひとり知らないんだ。知ろうともしなければ、気の毒だとも思わないんだ。あいつらは音楽をやっている(彼は戸の蔭から洩れてくる賑かな人声と、歌節リトウルネイユの響きをかすかに聞いた)。あいつらは平気でいる。しかし、あいつらもやはりいつかは死ぬるんだ。馬鹿者めら! おれの方が少し先であいつらが少し遅れるだけのことだ。しかし結局おなじことなんだ。それだのに、あいつらは嬉しがっていやがる。畜生!」彼は憎悪の念で息がつまりそうだった。彼は悩ましかった、たまらないほど苦しかった。「そんな法はない、皆が皆いつもこんな恐ろしい恐怖を背負わされているなんて、そんな筈はない!」彼は起き上った。

「何か違ったところがあるんだ。落ちつかなけりゃならん、すっかり始めから考えてみなけりゃならん」そこで彼は考えはじめた。「そうだ、病気のはじまりはと。おれは横腹を打った。しかし別に何の変りもなかった。今日も、明日も、同じようなおれだった。ただ少しずきずきするばかりだった。ところが、その後すこし酷くなって、それから医者にかかった。それから意気消沈、憂愁、それからまたしても医者――こうしておれは次第に深い淵へ近よっていたのだ。だんだん力がなくなってくる。次第々々に近くなる。現にこの通り憔悴しょうすいしてしまって、目の中には光りがなくなってしまった。つまり死なのだ。ところが、おれは盲腸のことなんか考えてる。盲腸を治すことなんか考えている、ところが、これは死なんだ。一体これが死なのだろうか?」またもや恐怖が襲ってきた。彼は息を切らして屈みこみながら、燐寸マッチを捜しにかかった。と、その拍子に、肘を何かの棒に押しつけた。これが彼の邪魔をして、しかも痛い目にあわせたので、彼は癇癪まぎれに一そう強く押しつけて、その棒を倒してしまった。彼は絶望のあまり、はあはあ息をきらせながら、仰向けにそこへぶっ倒れて、今にも死がやって来るのを待っていた。

このとき客が帰って行った。プラスコーヴィヤ・フョードロヴナは見送りに出ていた。彼女は物の倒れる音を聞きつけて、部屋へはいって来た。

『あなた、どうなすったの?』

『何でもない、ちょっとうっかりして倒したんだ』

彼女は出て行ったが、やがて蠟燭を持って来た。彼はまるで一露里ベルスタも走った人のように、重々しくせかせかと息を切らせ、じっと据わった目で妻を見つめながら、床の上に横になっていた。

『あなたどうなすったの、Jean』

『な……なんでもない。たお……した……んだ』

「何を言ったってしょうがない。分ってくれやしないんだ」と彼は考えた。

彼女には本当に何も分らなかった。彼女は蠟燭を拾って灯をつけると、急がしそうに出て行った。彼女はいま一人の女客を見送らなければならなかったのである。帰って見ると、彼は依然として天井を睨みながら、仰向けになって寝ていた。

『どうなすったの、気分が悪いんですの?』

『うむ』

彼女は頭を振って、腰をおろした。

『ねえ、Jean、あのレシチェチーツキイさんに来診を願ったらどうでしょう?』

それはつまり金に糸目をつけないで、名医を招こうというのであった。彼は毒々しく微笑して『いや』と言った。彼女はしばらく坐っていたが、やがて傍へよって夫の額を接吻した。

彼は妻が接吻している時、真底から彼女が憎くてたまらなかった。そして彼女を突きのけないために、自分で自分を抑えなければならなかった。

『さようなら。何とかしておやすみなさいね』

『うむ』