イワン・イリッチの死, レフ・トルストイ


イワン・イリッチが発病してから、三ヶ月目のことである、どうしてこういうことになったのか、じりじりと目だたないように、一足々々すすんで来たために、はっきり言うことは出来なかったけれど、しかし結局、妻も、娘も、息子も、召使も、知人も、医者も、いやそればかりでなく、彼自身さえもはっきり自覚するようになった――一たい彼はいつになったらあの位置を明けてくれるのだろう? 自分の存在で生きた人間を悩ますのは、いつになったらやめてくれるだろう? また彼自身もいつ自分の苦しみから解放されるのだろう? ということに、人々の興味が全部かかっていた。

彼はだんだん眠れなくなった。彼は阿片を飲んだり、モルヒネを注射して貰ったりしたけれど、それでも一向らくにならなかった。半醒半眠の状態で感ずる鈍い憂愁が、はじめのうちは何か珍しいもののように、彼の心持ちを軽くしてくれたが、やがてそれは明瞭な苦痛と同じように、否、それ以上に悩ましいものとなった。

彼は医者の処方によって、特別な食べ物を調理してもらった。しかし、この食べ物は次第に味のない、厭わしいものになってきた。

排便のためにも特別な設備がつくられた。そして、これがその度に彼の苦しみであった。それは不潔と、不体裁と、臭気と、他人が立ち合わなければならないという意識、そういうものからくる苦痛であった。

しかし、この不愉快きわまりないことの中にも、イワン・イリッチにとって一つの慰藉いしゃが現れた。いつも片づけに来てくれるのは、食堂番をしている百姓のゲラーシムであった。

ゲラーシムは都会風の食事で肥え太った、身綺麗なさっぱりした若い百姓であった。いつも快活で晴れ晴れしていた。いつもさっぱりしたロシア風の着物を着て、この忌わしい仕事をしている男の姿が、はじめのうちイワン・イリッチをまごつかせた。

あるとき彼は便器から立ち上って、洋袴ズボンを引き上げることが出来ないで、柔かい肘椅子にもたれながら、筋のくっきり浮き出した、力ない、あらわな腿を、さも恐ろしそうに眺めていた。

そこへ分厚な長靴を穿いたゲラーシムが、その靴に塗ったタールと、新鮮な冬の空気の快い匂いを放散しながら、力強い足どりではいって来た。さっぱりした大麻の前掛をしめ、同じくさっぱりした更紗の襯衣シャツの袖をたくしあげて、丈夫そうな若々しい腕を剥き出していた。彼はイワン・イリッチの方を見ないで――病人を侮辱しないためらしく、自分の顔に輝く生の喜びを抑えようとする様子で――便器の方へ近よった。

『ゲラーシム』とイワン・イリッチは弱々しい声で言った。

ゲラーシムは、何かしくじったのではないかと、怯えたらしい風つきで、思わずびくりとした。そしてやっと髭の生えかかった、若々しい、さっぱりした、単純で善良な顔を、素早く病人の方へふり向けた。

『何でございますね?』

『お前はさぞ気持ちが悪いだろうな? 堪忍してくれ。おれは自分じゃ出来ないんだから』

『とんでもないことを』こう言ってゲラーシムは目を輝かせ、若々しい白い歯を出して見せた。『骨折るなああたり前じゃございませんか。何しろ旦那はご病気なんですからね』

彼は逞ましいしかも器用な手つきで、馴れた仕事を片づけてしまうと、軽そうな足どりで出ていった。五分ばかりたつと、また同じような軽い足どりで帰って来た。

イワン・イリッチは、やはりいつまでも安楽椅子に腰かけていた。

『ゲラーシム』下男が綺麗に洗った便器を置いた時、彼はこう言った。『すまないがここへ来て、ちょっと手伝ってくれ』ゲラーシムは傍へよった。『おれを起してくれないか。一人では苦しくってな。それにドミートリイは使いにやったし』

ゲラーシムは傍へよった。歩きぶりと同じように軽々と、逞ましい腕に抱いて、もの軟かく器用に起すと、そのままじっと支えながら、片手で洋袴ズボンをずりおろして、便器に坐らせようとした。けれどイワン・イリッチは、長椅子へつれて戻るように頼んだ。ゲラーシムは何の苦もなく、病人の体を締めつけていながら、ほとんど抱くようにして長椅子へ連れて行って、その上に腰をかけさした。

『有難う、お前は実に具合よく……上手にやるなあ』

ゲラーシムはまたにっこりして、そのまま出て行こうとした。しかしイワン・イリッチはこの男と一しょにいるのが何となく気持ちがよかったので、このまま下げてしまいたくなかった。

『あのな、どうかその椅子を少し寄せてくれないか、いや、こっちの分だ。足の下へ置いてくれ。足が高くなってると、幾分らくなのだ』

ゲラーシムは椅子を持って来て、大きな音のしないように、丁度かっきり床の面までおろしながらそっと置いた。そしてイワン・イリッチの足をその上へ載せた。ゲラーシムが高々と足をもち上げた時、イワン・イリッチはずっと楽になったような気がした。

『足が高くなっていると楽なんだよ』とイワン・イリッチは言った。『ついでにあの枕をあてがってくれないか』

ゲラーシムはその通りにした。またもや足を持ち上げて、枕の上に載せた。今度もゲラーシムが足を持っている間、イワン・イリッチは気分がよくなったように思われた。けれど、下男が足をおろした時、彼は前よりもっと悪くなったような気がした。

『ゲラーシム!』と彼は言った。『お前は今いそがしいのか?』『いんえ、ちっとも』町へ来てから、旦那方と話のし方を習ったゲラーシムは、こう答えた。

『まだ何かする事はないのか?』

『何もすることなんかござりません。何もかもみんな片づけてしまって、ただ明日の分の薪を割りさえすりゃいいんで』

『それじゃ、おれの足を持ち上げてくれないか……してくれるかい?』

『よろしゅうござりますとも、いたしますとも』

ゲラーシムは足を持ち上げた。するとイワン・イリッチは、こうして貰っていれば、少しも痛みを感じないような気がした。

『ところで、薪の方はどうする?』

『ご心配に及びませんよ。ちゃんと間に合わせますで』

イワン・イリッチはゲラーシムに、坐って足を持っているように言いつけて、しばらくのあいだ話をした。すると――不思議なことには――ゲラーシムが足を持っている間は、気分がいいように思われるのであった。

それ以来イワン・イリッチは、時々ゲラーシムを呼ぶようになった。そして自分の足を肩に担がせながら、好んで彼を相手に話をした。ゲラーシムは気軽に、喜んで、造作なしにその役目を勤めた。そのうえ彼の示す善良さが、イワン・イリッチを感動させるのであった。健康、力、活気、生命、これらはすべて他人に見せつけられる時、イワン・イリッチに侮辱感を与えずにおかなかったが、ただゲラーシムの力や活気や生命は、イワン・イリッチに厭な気を起させないばかりでなく、かえってその心を落ちつけるのであった。

イワン・イリッチの主なる苦しみは虚偽であった――なぜか一同に承認せられた虚偽であった。彼はただ病気しているだけで、決して死にかかっているのではない、ただ落ちついて養生さえすれば、何か知らないが大変いい具合になる、といった風な気休めであった。しかし彼自身にはよく分っていた。たとえどんな事をしてみても、なお一そう悩ましい苦痛と死のほかには、結局どうもなりようはないのである。この虚偽が彼を苦しめた。すべての人が、自分も知っていれば、病人も知っていることを認めないで、この恐ろしい状態を嘘で胡麻化そうとするばかりでなく、彼自身にまでこの虚偽の仲間入りをさせようとしている――この事実が彼を苦しめるのであった。虚偽、虚偽、彼の死の前夜に行われている虚偽、この恐ろしい厳粛な事実を、世間なみの訪問や、窓掛や、食事の時の蝶鮫などと、同一レベルまで引き下げねばやまぬこの虚偽……これがイワン・イリッチにとって恐ろしく悩ましいのであった。そして――奇妙なことには――彼らがそういう手品をする度に、彼は「でたらめはもういい加減にしてくれ! わたしが死にかかっているのは、君たちも知っていれば、わたしもちゃんと承知している。だから少なくとも、嘘をつくのだけはやめてくれ!」こういう言葉が口の先まで出かかったが、しかしそう言ってしまうまでの気力は、どうしても出なかった。恐ろしい戦慄すべき彼の死という事実は、周囲の人々の手によって、偶然の不快、ある意味において無作法な行為――といった程度に引き下げられてしまった(それは客間へはいって、厭な匂いをたてる人間にするような態度であった)。しかも、それは彼が生涯奉仕して来た「礼儀」のためであった。彼にはそれがちゃんと分っていた。誰ひとり彼を気の毒がる者はない。それは誰ひとり彼の状態を理解しようとさえしないからである。そういうことも彼にはよく分っていた。ただゲラーシムだけはこの状態を理解して、彼を気の毒に思った。それ故、イワン・イリッチは、ゲラーシムと一しょにいる時だけ気持ちがよかった。ゲラーシムはどうかすると、夜っぴてぶっ通しに彼の足を持って、一向寝に行こうとしなかった。そして『ご心配なさりますな、イワン・イリッチ、寝る間は幾らでもありますよ』というのであった。またどうかすると、不意にお前言葉になって、『よしんばお前が病気でないにしても、わしがお前の世話をするな当り前でねえか?』と言いたした。こういう時、イワン・イリッチは何とも言えないいい気持ちになった。ただゲラーシムばかりは嘘をつかなかった。彼一人だけは事の真相を理解して、それを隠す必要を認めないで、痩せさらばうた主人をただただ気の毒に思っていた。それはすべての点から明瞭であった。一度などは、イワン・イリッチが強いて下らせようとした時、彼はあけすけにこう言ったことさえある。

『人間はみんな死ぬるもんですからね、骨折るのは当り前でがすよ』と彼は言った。それは自分がこうした労苦を厭わないのは、死にかかっている人間のためにしているからで、こうして置けばまた自分が死ぬる時にも、誰か同じ労苦をとってくれるかも知れない、といったような気持ちを現したものらしい。

この虚偽のほかに、あるいはこの虚偽の結果、イワン・イリッチにとって何よりも苦しいのは、誰一人として彼自身の望んでいるような、同情の現し方をしてくれないことであった。イワン・イリッチは長いあいだ苦痛を経験したために、時とするとある一つの願いが、何よりも強くなることがあった。それは自分自身に白状するのもきまり悪いほどであるが――彼は病気の子供でも憐むような具合に、誰かから憐んでもらいたいのであった。彼はまるで子供をあやしたり慰めたりするように、撫でたり、接吻したり、泣いたりしてもらいたかった。彼は自分が偉い官吏で、もう髭も白くなりかかっているのだから、そんなことは出来ない相談だと承知しながらも、やはりそうして貰いたいのであった。ゲラーシムとの関係には、何かしらこれに近いものがあった。それ故、ゲラーシムとの交渉は彼の慰藉いしゃとなった。イワン・イリッチは泣きたかった。そして人からも泣いて愛撫を示して貰いたかった。ところが、判事仲間のシェベックがやって来る。すると泣いたり甘えたりする代りに、イワン・イリッチは真面目な、いかつい、分別臭そうな顔をしながら、古くからの惰力で、大審院の判決の意義に関して自説を述べ、執拗にそれを固守するのであった。彼の周囲と内部に於けるこの虚偽が、何よりも強くイワン・イリッチの余生を毒するのであった。