イワン・イリッチの死, レフ・トルストイ


『アンナ・カレーニナ』完成の後、人生の根本的問題に関する深刻な苦悶と、それに続く宗教的甦生を体験したトルストイは、ほとんど十年間芸術創作の筆を絶っていたが、新しい信仰が彼の心中に固定して、内部的平安が保証されるにつれて、再び生来の偉大な芸術的欲望が目醒め、活動を要請し始めた。こうして現れたのが『イワン・イリッチの死』(一八八四――一八八六年)である。久しい間沈黙を続けた天才の芸術的復活に対する悦びと、作そのものの輝かしい出来栄に対する賛辞は、当時の文壇社会に一つの大きなセンセーションを惹き起したほどである。

『イワン・イリッチの死』はその標題の示すが如く、人生永久の問題たる死を主題としたものである。死の問題はトルストイに取って一切の根本となるべき重大なものであって、これまで幾度となく多くの作品の中で取り扱われて来たが、今度彼は新しく確立した信仰の立場から見て、その真意義を啓示しようという意気で筆を執ったのである。しかもこの作品の他と異なる所は、いかなる点から見てもヒロイックな分子のない、極めて平々凡々たる俗人を取って、一篇の主人公とした事である。「豚に悲劇があり得るだろうか?」とかつてニーチェが皮肉な反問を発した事があるが、トルストイはこの作品によって、立派に肯定的解答を与えた訳である。しかし彼が特に平凡な一俗人を主人公に選んだ真意は、こういう芸術的価値転換のためばかりではなかった。

つまり、トルストイが発見した宗教的真理は、決して彼自身のごとき少数の選ばれたる人のみの所得ではなく、あらゆる人の到達し得る必然の境地であるという事を、芸術の形をもって証明しようと試みたにほかならない。

イワン・イリッチは官界に於ける栄達と、コムファタブルな私的生活の充実のみに生の意義目的を認めて、この方面に於ける自分の成功に満足し切っていたが、たまたま些細な小事故が因となって不治の病を発し、長い間の肉体的苦痛と、一生涯営々苦心して建設した快適な生活に対する執着のために、恐ろしい苦悶を味わい尽した後、過去の生活の無意味さ無価値さを悟って、恐怖すべき死の手に掴まれる代りに、輝かしい神の王国に入る――こういう題材を描写するに当って、トルストイは明らかに凡俗の一類型としてイワン・イリッチを取り扱い、そこに滔々とうとうたる世間的生活の虚偽と、空虚を具象化しようとしたものらしいが、しかしこの巨匠の椽大てんだいなる筆は、イワン・イリッチをして単なる類型的人物に堕せしめないで、広い意味に於ける普遍性を与えたのである。軽快浮薄な凡俗生活の醜い本質を摘抉するに用いた鋭い諷刺的手法、主人公が病中に経験した苦悶の真摯な心理的描写、しかもこれらすべてに親しむべき真実性を与える生き生きしたディテールの点綴、そして最後にトルストイの新しい芸術観がもたらした単純質実な風格――こういう一切の要素が『イワン・イリッチの死』をして、数多い彼の作品中でも特に高い、ユニークな位置を占めさせたのである。

一九二八年七月 米川正夫