モロー博士の島, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

人間狩り


部屋の外扉にはまだ鍵がかけられていない、いまなら逃げ出せるのではないかという希望が頭に浮かんだ。モローは人間を生体解剖している。今では疑いようのない確信が私にはあった。彼の名前を聞いてからというもの私はなんとか島民のグロテスクな動物じみた様子と彼の恥ずべき所業を頭の中で繋ぎ合わせようとしていたが今になって全てがわかった気がした。輸血に関する彼の研究を思い出して私は吐き気がした。私が見た生き物は恐ろしい実験の犠牲者だったのだ。あの吐き気のする悪党どもはただ私を押し戻し、暴かれた秘密を誤魔化そうとしただけだった。しかし、すぐに死よりも恐ろしい運命が私に振りかかるだろう……拷問だ。そして拷問の後には考えられる限りでもっとも恐ろしい行為が待ち受けている……気高い人間の魂を失い、獣へと、コーモスコーモス:ギリシャ神話に登場する無秩序と混沌を象徴する神の群れの一員へと変えられるのだ。

私は武器になるものはないかとあたりを見回した。何も無かった。その時、私は思いついてデッキチェアへと取って返しその側面に足をかけると手置きを引き剥がした。釘が木材から飛び出し、触れると危険そうだったが武器としてはもってこいだ。外で足音が聞こえた。私が慌ててドアを開くと一ヤードも離れていないところにモンゴメリーがいた。外扉に鍵を掛けようとしているのだ! 私は釘の飛び出した棒を振り上げ彼の顔に振り下ろしたが、彼はすばやく後ろに下がった。私は一瞬ためらってから踵を返して逃げだし家の角を曲がった。「プレンディック、おい!」彼が驚いて叫ぶのが聞こえた。「馬鹿な真似はやめろ!」

一歩遅れていれば彼は私を閉じ込め、実験用のウサギのような運命が待っていたと私は思った。彼の姿が背後の曲がり角に現れ、「プレンディック!」と叫ぶ声が聞こえた。彼は何か叫びながら私の後を走って追い始めた。この時は何も考えずに走っていたが、私は昨日の探検した道とは直角に北東に向かって進んでいた。浜辺に走り出た時に一度肩越しに振り向くと彼と一緒にいるあの使用人の姿が見えた。私は必死になって斜面を駆け上ると東へと進路を変え、片側がジャングルになっている岩だらけの谷に沿って一マイルほど走った。胸が痛み、自分の心臓の鼓動が聞こえた。モンゴメリーの声も彼の使用人の声ももう聞こえなくなっていた。疲れを感じ始めたところで追っ手をまくために浜辺の方向へ取って返し、そこで籐の茂みに隠れるように潜り込むと寝転がった。ずいぶん長い間、そこでそうしていた。動くのが恐ろしかったのもあるし、これからどうするべきか恐ろしくて考えられなかったのだ。太陽の下、周囲の手つかずの自然は静まり返り、近くで聞こえるのは私にたかる小さなブヨが立てるかすかな羽音だけだった。しばらくすると眠気を誘う、息をするような音に気づいた。浜辺に波が打ち寄せる音だ。

一時間ほど経つと遠く北の方で私の名前を叫ぶモンゴメリーの声が聞こえた。それを聞いて私はこれからどうしようか考え始めた。この島に住んでいるのは二人の生体解剖学者と動物化されたその犠牲者たちだ、と私は考えた。そのうちの一部は必要とあれば私に対して敵対することは間違いない。モローとモンゴメリーはそれぞれリボルバー式拳銃を持っている。それに対して小さな釘を打ち付けてあるだけの棍棒と呼ぶのもおこがましい貧弱な棒切れを除けば私には何も武器が無かった。

私はずっとそこに横たわっているしかなかった。そのうち食料と飲水について考えだし、そこで再び自分の置かれた立場がいかに絶望的かを悟った。食べ物を手に入れる手段も知らないのだ。周囲に存在するであろう頼みの綱の根菜や果物を見つけ出すには決定的に植物学の知識が足りないし、この島にいる数少ないウサギを捕まえるための手段も無かった。見通しが暗くなるにつれて考えもまとまらなくなっていった。自分の置かれた立場に絶望するうちに思考は以前に遭遇した動物人間たちへと向かった。憶えていることで役に立ちそうなことはないか私は必死で考えた。目にした一人一人を思い出し、助けになる手がかりを記憶から引き出そうとした。

その時、突然スタッグハウンドの吠える声が聞こえ、私は新たな危険が迫っていることに気がついた。考えるために残された時間は少ない。ぐずぐずしていれば捕まってしまうだろう。私は釘の飛び出した棒をつかむと隠れていた場所から飛び出し波の音が聞こえる方角に向かって急いで走った。ペンナイフのように突き刺さるとげの生えた茂みを通ったことを憶えている。北に向かって開いた細長い入江の岸に着いた時には傷だらけで服も裂けていた。私はためらうこと無く水の中へと歩みだした。水の中を歩いて入江をさかのぼって行くと、いつの間にか私は膝まで届く深さの小川の中にいた。ずいぶん歩いてから西側の岸に上がった。自分の心臓の鼓動が聞こえ、私は新しい展開が起きるのを待ち受けるためにもつれ合う茂みへと隠れた。犬が近づいてくる気配が感じられ(どうやら一頭だけのようだった)、とげの茂みに差しかかったのだろう、甲高い鳴き声が聞こえた。それから何も聞こえなくなり、次第に逃げ切れたのではないかという考えが浮かび始めた。

数分が過ぎた。まだ静かだった。遂には何事も無く一時間が過ぎ、私の心に勇気がよみがえってきた。その頃にはもはや強い恐怖もひどく悲観する気持ちも無くなっていた。さっきまでの恐怖と絶望ももう過ぎたものとなっていたのだ。もはや自分の人生は取り返しのつかないものになったと感じ、それが返ってなんでもやってやるという大胆さを私に与えた。モローと直接対決したいという思いさえ湧いてきた。それに水の中を歩いているうちに少なくともまだ一つ、いざというときに拷問から逃げ出す方法が残されていることに思い当たったのだ……そう、入水自殺は彼らにも防ぎようが無いはずだ。その時に私は半ばもうこのまま溺れ死んでしまおうかという気になったのだが、この冒険の全容を見届けたいという不思議な思いと妙に冷静で鮮烈な好奇心が私を押し留めたのだった。植物のとげが刺さった跡の痛みを感じながらも私は手足を伸ばし、周囲の樹々を見渡した。突然、緑の網目模様から浮かび上がるようなこちらを見つめる黒い顔が目に飛び込んできた。浜辺にあるランチボートで見た類人猿じみた生き物だとわかった。相手は椰子の木の傾いた幹にしがみついていた。私は棒切れを握りしめて相手の正面に立った。相手が話し始めた。「あんた、あんた、あんた」最初に聞き取れたのはその言葉だった。突然、彼は樹から飛び降り、次の瞬間には離れたところにある椰子の葉をつかんだまま好奇の眼差しで私を見つめていた。

この相手には他の獣人に遭遇した時に経験した嫌悪感を感じなかった。「あんた」彼が言った。「ボートにいた」彼は話すことができる人間だった……少なくともモンゴメリーの使用人と同じ程度には。

「そうだ」私は言った。「私は大きな船からボートで来た」

「おお!」彼は言って光るせわしなく動く目で私の全身を舐めるように見た。私の手、持っている棒切れ、足、コートの破れた部分、とげでできた切り傷や擦り傷。何かに困惑しているようだった。その目が再び私の手にやられた。彼は自分の手を持ち上げるとゆっくりと指を数えていった。「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……ああ?」

その時には彼が何を言いたいのかわからなかった。後になってみてわかったのは獣人の多くは不完全な形の手をしていて、中には指が三本足りないような者さえいるということだった。しかしその時はそれが挨拶なのではないかと推測して私は返事をするために同じ事をやってみせた。彼はとても満足したというように笑った。それからもう一度落ち着かない視線で私を舐め回すようにしてから彼はすばやく動きだし……姿を消した。彼が立っていたあたりのシダの葉が揺れていた。

私は彼の後を追うように茂みを飛び出したが、彼が頭上の枝から垂れ下がるつるに長細い腕でつかまって楽しげに体を揺らしているのを見て驚かされた。私は彼の背後にいたので「おーい」と私は呼びかけた。

彼はひねるようにジャンプして地面に降りると私の方を見て立った。

「聞きたいんだが」私は言った。「どこか食べ物のある場所は知らないかな?」

「たべる!」彼が言った。「にんげんのたべもの、たべる、いま」それからその目は揺れているつるへと戻った。「小屋で」

「しかし小屋はどこにあるんだ?」

「おお!」

「わかってるだろう。私は新入りなんだ」

それでわかったらしく、彼は早足に歩き出した。彼の身のこなしはどれも妙にすばやかった。「ついてこい」彼は言った。

危険が無いことを確かめてから私は彼と一緒に進んで行った。その小屋というのは彼や他の獣人が住んでいるちょっとした隠れ家なのだろう、と私は推測した。おそらく彼らと友好な関係を築き、その考え方を理解する手がかりを得られるだろう。彼らにも人間だったころの記憶があるかもしれない。

猿に似た案内人は手をだらりと下げ、顎を突き出すようにして私の横を歩いていた。彼には何か記憶が残っているのだろうか、と私は思った。「この島にはどれくらいの間、住んでいるのですか?」と私は聞いた。

「どれくらい?」彼は質問を繰り返した後、指を三本立てて見せた。

この生き物は白痴も同然だった。私は彼の意図を理解しようと試みたが次第に彼は退屈してきたようだった。他にも二、三の質問をしているうちに突然、彼は私の側を離れ、木からぶら下がる果物へと飛び上がった。彼はとげだらけの皮を剥くと中身を食べ始めた。私はなるほどと思いながらそれを注意して見ていた。少なくとも食料を得る助けにはなる。他にも彼に質問を試みたが彼のおしゃべりや即座に返ってくる回答はほとんど私の質問と関係の無いものだった。中にはごくわずかにちゃんとした答えもあったが他は完全なおうむ返しだ。

この奇妙な会話に没頭したせいで自分たちがどこを歩いているのかにも私は気がつかなかった。次第に周りの樹々は黒く焦げたり茶色に変色したものになり、樹が生えていない場所は黄白色の堆積物で覆われるようになった。あたりには煙が漂い、かすかな匂いが鼻と目を刺激した。右手には岩肌が張り出し、その向こうに青い水平線が見えた。道は途切れながらも複雑な形に固まって転がる黒っぽい溶岩の間の狭い峡谷へと螺旋を描きながら下っていく。そこへ私たちは降りていったのだ。

硫黄の大地から照り返すまぶしい太陽光に目が慣れた後ではその道はひどく暗かった。左右の壁は次第に傾斜がきつくなり、互いに近づいていっていた。視界を緑と真紅の斑点が横切る。案内人が突然、立ち止まった。「すみか!」彼が言った。私が立っている場所は最初は真っ暗に見えた岩の裂け目だった。何か奇妙な物音が聞こえ、私は左手の指で目を押さえた。薄汚れた猿の檻のような悪臭が鼻を突く。頭上では岩の隙間が緩やかな斜面となって再び広がり、生えた樹々の木漏れ日に照らされている。その狭い隙間からはところどころ薄暗い中心部にむかって強い光が差し込んでいた。


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