モロー博士の島, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

交渉


私は再び向きを変え、海に向かって下って行った。熱湯の小川は浅瀬になって雑草の生い茂る浜辺へと広がっていった。浅瀬にいたたくさんの蟹や長細い体にたくさんの足が生えた生き物が私の足音に逃げまわった。私は海水の届くぎりぎりの場所を歩いた。ここなら安全だと感じられた。振り返って腰を手に当て、背後のうっそうとした森を見つめる。霧の立ち込める峡谷が一筋の煙でできた傷跡のように森を走っていた。しかし何度も言うように私は死ぬには興奮しすぎ、また絶望も深すぎた(実際のところ危険な状況に陥ったことが無い人にはわからない感情かも知れない)。

その時になってまだ一つだけ希望が残っていることに気づいた。モローとモンゴメリーと獣の群れが島の中で私を探し回っている間であれば浜辺を回り込んであの囲い地までたどりつけるだろう……彼らの側面をすり抜けるのだ。粗雑な作りの壁から岩を抜きとり、小さいドアの鍵を破れば彼らが戻ってきた時に戦うための何かが(ナイフか拳銃か何かだ)見つかるのではないか? やってみる価値はある。

私は西に進路を変えると海岸にそって歩いた。夕日のまばゆい光が私の目を刺す。太平洋の海面は穏やかなさざ波を立てながらうねっていた。しばらくすると海岸線は方向を変え、太陽が右手に見えるようになった。突然、前方の遠くの方に人影が見えた。最初は一人だけだったがすぐに茂みから何人も現れた……灰色のスタッグハウンドを連れたモロー、モンゴメリー、そして他に二人いた。それを見て私は立ち止まった。

私に気づくと彼らは何か身振りをしながら向かって来た。私はそこに立ち尽くして彼らが迫ってくるのを見つめた。二人の獣人は私が内陸の下生えに逃げ込むのを防ぐために進路を遮るように回り込んで走っている。モンゴメリーは私に向かってまっすぐに走って来ていた。モローはと言うと犬を連れて少しゆっくりとその後を追っていた。

ようやく放心から我に返ると私は海に向かってまっすぐに歩き出した。最初はとても浅く、三十ヤードほど歩くとようやく波が私の腰にかかるようになった。足の周りで浅瀬に住む生き物が逃げまわるのがうっすらと見える。

「おい、何をする気だ?」モンゴメリーが叫ぶ。

腰まで水に浸かったまま私は振り向いて彼らを見た。モンゴメリーは息を切らしながら波打ち際に立っていた。激しい運動で顔は紅潮し長い亜麻色の髪は乱れている。下唇が開き、悪い歯並びが見えた。モローが近づいてくる。顔は青白く、表情は厳しい。彼の連れている犬が私に吠えかけた。二人とも重たそうな鞭を持っている。浜辺の遠くの方で獣人たちがこちらを見ていた。

「私が何をする気かって? 溺れ死のうとしているんだよ」私は言った。

モンゴメリーとモローが顔を見合わせた。「なぜだ?」モローが訊ねた。

「拷問されるよりましだからさ」

「だから言ったでしょう」モンゴメリーが言って、モローが何か低い声で答えた。

「何だって私が君を拷問するなんて思いついたんだ?」モローが聞く。

「見たんだ」私は答えた。「それに彼らだ……あそこにいる」

「黙れ!」モローは言って手を上げた。

「いやだ」私は言った。「彼らは人間だった。今ではどうだ? 私はあんな風にだけはなりたくない」

私は会話相手の後ろの方を見た。浜辺の向こうにモンゴメリーの使用人の男とボートにいた白い包帯だらけの獣人の一人がいた。さらに遠く、樹々の影にはあの猿男と数人の人影が見える。

「あの生き物は何だ?」私は彼らを指差し、彼らに届くほどの大声で言った。「彼らは人間だった。あなたたちと変わらない人間だった。あなたに獣じみた体に改造され……あなたに隷属させられた。だがあなたは彼らを恐れている」

「聞こえているか」私は今度はモローを指差して叫んだ。彼の向こうにいる獣人に叫んだのだ……。「聞こえているか! この男たちがあなたたちを怖がっているのが、絶えずあなたたちに怯えているのがわかるか? さあ、なぜ君たちは彼らを恐れる? 君たちは数も……」

「頼むから」モンゴメリーが叫んだ。「やめてくれ。プレンディック!」

「プレンディック!」モローが叫んだ。

まるで私の声を掻き消そうとするかのように二人は一緒になって叫んだ。彼らの背後では獣人たちがこちらをうかがうように目線を下げうろうろとしている。いびつな手をだらりと下げ、肩をすぼめている。私の目には彼らが私の言っていることを理解しようと努め、何かを思い出そうとしているように見えた。人間だった過去の記憶を思い出そうとしているのではないかと私は思った。

私は叫び続けた。何を叫んだのかはほとんど憶えていない……モローとモンゴメリーを殺すことだってできるだとか、恐れる必要はないだとか、獣人たちの頭に扇動するようなことを吹き込んだのだ。黒っぽいボロ布を身につけた緑色の目をした男が見えた。私が到着した夜に出会った男だ。私の言うことをもっとよく聞くために彼が森から出て近づいて来るとその後ろに他の者が続いた。ついに息が続かなくなって私は言葉を止めた。

「少しの間でいい。私の話を聞いてくれ」落ち着いた声でモローが言った。「それから君の言いたいことを言えばいい」

「いいだろう。それで?」私は答えた。

彼は咳払いをして少し考え込んでから叫んだ。「ラテン語だ。プレンディック! つたない、学校通いの子供のようなラテン語だがそれで理解するんだ。Hi non sunt homines彼らは人間ではない. sunt animalia qui nos habemus彼らは私たちの飼っている動物だ……改造されたな。人間化処理を施したのだ。説明しよう。陸に上がるんだ」

私は笑った。「馬鹿げた話だ」私は言った。「彼らは喋るし、家を建てる。彼らは人間だったんだ。私を陸に上がらせようとしてそんな話をするんだ」

「君が立っているあたりからは海が深くなっているんだ……それに鮫もたくさんいる」

「望むところだ」私は言った。「手っ取り早く苦しまずに死ねる」

「待て」彼はポケットから何か日光に黒光りするものを取り出し、それを足元に落とした。「装填したリボルバーだ」彼が言った。「ここにいるモンゴメリーも同じようにする。今から君が十分安全だと判断する距離まで離れよう。そうしたら陸に上がってリボルバーを取ればいい」

「いやだ! どちらかが三つ目を持っているんだ」

「よく考えて欲しい。プレンディック。まず初めに、私は君にこの島に来てくれとは頼んでいない。もし私が人間を改造しているのであれば私たちは人間を連れてこなければならない。動物ではなくな。次に、私たちが君に対して危害を加えたければ昨日の晩に薬漬けにでもしているさ。それに最初のパニックから回復して君も少しは頭が回るようになっているだろう。ここにいるモンゴメリーは本当に君が思っているような人間か? 私たちが君を追いかけたのは君を思ってのことだ。この島には危険なものがたくさんあるんだ。さらに言えば自分で溺れ死ぬことを君が望んでいるのに私たちが君を撃ち殺さなければならない理由は何だ?」

「なぜ……私があの住処にいた時に彼らを私に差し向けた?」

「確実に君を確保して危険から遠ざけたかったんだ。その後で手がかりを失った。君のためだ」

私は考えた。確かにあり得る話に思えた。その時、あのことを再び思い出した。「しかし見たぞ」私は言った。「あの囲い地で……」

「あれはピューマだ」

「おい、プレンディック」モンゴメリーが言った。「君は大馬鹿者だ! 海から出てこのリボルバーを取れ。それから話し合おうじゃないか。これ以上のことは私たちにはもうできない」

私がモローを疑い、恐れていたことは確かだったがモンゴメリーは話のわかる男だと思っていたことは認めざるを得ない。

「そこから離れろ」私は言ってから少し考えて付け足した。「手を上げてだ」

「それはできない」モンゴメリーが説明するかのように肩越しにうなずきながら言った。「そんなみっともない真似は」

「それじゃあ好きなようにして森まで下がるんだ」私は言った。

「うんざりする。馬鹿げた儀式だな」モンゴメリーが言った。

二人は背を見せると日の光の下に立つ六、七人のグロテスクな人々と向き合った。動きまわるくっきりとした影となって見える彼らは未だに現実のものとは思えなかった。モンゴメリーが彼らに向かって鞭を鳴らすと皆、すぐさまあたふたと森に戻っていった。モンゴメリーとモローが十分離れたところで私は岸へと向かい、リボルバー式の拳銃を拾い上げて調べた。騙されていないか確認するために丸い溶岩の塊に向けて一発撃ち、石がばらばらになって水しぶきを上げるのを見て私は満足した。それでも私はまだしばらくの間、ためらっていた。

「リスクをとるんだ」最終的に私は言って両手にリボルバー式の拳銃を持つと彼らに向かって浜辺を歩いていった。

「賢明な判断だ」モローが言った。騙すような素振りは見えなかった。「実のところ君はそのたいそうな想像力で私の貴重な時間を浪費している」そう言って私に軽蔑の眼差しを向けると彼とモンゴメリーは何も言わずに私に背を向けて歩き出した。

獣人の群れはまだ森を背にして立ったままうろうろとしていた。私はできるだけ静かに彼らの前を通り過ぎた。一人が私の後を追ってきたがモンゴメリーが鞭を鳴らすともと来た道を戻っていった。他の者は黙って立っているだけだった……こちらをじっと見つめながら。彼らはかつては動物だったという。しかし考える動物を私はこれまで見たことが無かった。


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