飢餓の政治学, ジョージ・オーウェル

飢餓の政治学


数日前、私は「セーブ・ヨーロッパ・ナウ(今こそヨーロッパを救え)」委員会から一束の資料を受け取った。この委員会は――政府からの大きな補助や報道機関の援助無しで――この国からヨーロッパへ対しておこなわれる食料供給を増やそうと試みている。彼らは当局を情報源とした一連の資料を引用している。それについてはまた後ほど取り上げるが、この資料によって、私たちがそれなりに恵まれ、合衆国がすさまじい過食を楽しんでいる一方で、ヨーロッパのかなりの部分が厳しい飢餓へと陥りつつあることが示されている。

しかしながらオブザーバー紙の一月十三日の号でちょうど私が読んだ空軍大将フィリップ・ジュベール卿による署名記事では正反対の意見が表明されていた。

この戦争の七度目の冬に海外から帰還した者からすると(フィリップ卿はそう書いている)、イギリスの人々の姿は悲劇的なものだ。陰気で活力に欠け、笑うのも難しいように見える。子供たちの姿は青白く脂ぎっている――太ってはいるが健康的ではない。必要なだけの肉類や脂肪類を十分な季節の果物とともに食べているデンマークのバラ色の頬をした若者と比べればまったく病気もいいところだ。

彼が言いたいのは、私たちに必要なのはもっと肉類や脂肪類、卵を増やし――つまり配給食料を増やし――でんぷんを減らすべきであるということだ。実のところ公的な統計が示すところによれば私たちは戦争前よりも健康になっているが、そうした統計は誤った印象を与えるものなのだという。第一に――これはまったく異例の主張だが――健康と栄養は戦争前から明確に悪化していて、それゆえ現在みられる改善はまったくお話にならないからだ。第二に、死亡率の減少はたんに「生存期待値の増加」を意味するだけで、「活力と生存を混同」してはならないからだ。肉類や脂肪類、果物、サトウキビ糖を必要とする「生命力、力強さ、活力」を私たちが手に入れるまでは復興の仕事に必要な労力を払うことはできないのだ。フィリップ卿の記事は次のように結ばれている。

我が国の現在の配給をさらに切り詰めてそれをドイツ人へさらに与えようとする者たちに関して言えば、そうした要求へこう返答したくなる者は大勢いるに違いない。「私は自由と人々への善意の中で育つ我が国の子供たちが旺盛な活力を享受する方が、自身の力を使って次の世代で再び世界に戦争を挑むかもしれないドイツ人がそうするよりも好ましいと思う」

彼が(a)どんなものであれ、さらなる食料輸出はこの地での配給の削減を意味し、また(b)提案されているのはドイツへの食料支援だけである、と見なしていることがわかるだろう。そして実際のところ、これこそがこの計画に関して一般の人々の耳に入っている形なのだ。しかしこの計画の責任者たちが当初から強調しているのは、人々のうちのそうしても害を被らない一部の層による一定の食料の自発的な放棄の提案に過ぎず、またドイツの利益だけのための提案ではないということだった。

「セーブ・ヨーロッパ・ナウ」委員会の最新速報からいくつかの事実をここに挙げておこう。ブダペストでは十一月、供給不足によって薬局が閉鎖し、病院には窓ガラスも燃料も麻酔も無い状態だ。さらにこの都市には三万の浮浪児がいると推計されていて、その一部は犯罪組織を形成している。十二月に「独立した観測筋」が推計したところでは、新鮮な食料の供給が速やかにおこなわれなければこの冬にハンガリーでは百万人の餓死者が出るとのことだ。ウィーン(十一月)では「病院の外科医の食事は砂糖抜きのコーヒー、非常に薄いスープとパンからなっている。すべて合わせても五百カロリーに満たず」、さらにオーストリア国務大臣が十二月に述べたところでは、オーストリア東部の人口密集地帯は「果てしない悲惨、伝染病、犯罪、肉体的・道徳的な退廃」に脅かされている。チェコスロバキアでは十一月、外務大臣がイギリスとアメリカ合衆国に七十万人の「その五十%はすでに結核に罹患している、ひどい栄養失調の子供たち」を救うために脂肪類と肉類を送るよう要請した。ドイツではザール地域の子供たちが「ゆっくりと飢えていっている」。イギリス管理区域では、モントゴメリー陸軍元帥が述べたところによると「仮にドイツの人々に対する現在の配給割当量である一二〇〇から一五〇〇カロリーの範囲を維持するのであれば、小麦の輸入に全面的に頼らざるを得ない」。これは十一月の発言だ。ほぼ同じ時期にアイゼンハワー大将はフランス管理区域について「平均的な消費者のための一日あたり一一〇〇カロリーの通常配給は一貫して満たされていない」と述べている。他にもまだまだある。一方で、見たところ私たち自身の平均的な食物摂取量は一日あたりおおよそ二八〇〇か二九〇〇カロリー程度であり、さらに結核による死亡者、出産における母体死亡者、五歳までの全乳幼児の死亡者の最新統計はこれまでの記録において最も低いものとなっている。アメリカ合衆国に関して言えば、ちょうどバターの消費量が大きく上昇し、肉類の配給が終了したところだ。農務長官の推計によると「配給制の解除によって一般市民の食肉消費は年間百六十五ポンドとなる――戦前の供給量はおおよそ百二十五ポンドであった」。

たとえもし先に挙げた数字にさして強い印象を覚えなかったとしても、ギリシャやその他の地域のまるで骸骨のような子供たちの写真を見たことがない者がいるだろうか――そうした子供たちにフィリップ・ジュベール卿の言葉「脂ぎっている」を当てはめようとは誰も思わないのではないだろうか? しかしそれでも、さらなる食料をヨーロッパに送るべきであるという考えに対しては疑いなくかなりの抵抗が存在する。「セーブ・ヨーロッパ・ナウ」委員会は、今ではより限定的な目標を追求しているとはいえ、初めのうちはそう望む人々は自らの配給点数、あるいはその一部を犠牲すべきであり、そうして節約した食料を政府は飢餓の襲う地域に送るべきだと提案していた。この計画は公的には受け入れられなかったが、同時にまた多くの民間人から冷淡な反応を受けもした。計画を広く宣伝できる立場にあったであろう人々は率直な懸念を表明し、一般大衆は提案の内容はイギリスの主婦から食料を取り上げてドイツの戦争犯罪人に手渡すことなのだと想像する余地を与えられた。まったくのところ、この問題の全体的な議論のされ方は現在あらゆる政治問題に蔓延している奇妙な不誠実さを描き出している。

さらなる食料をドイツへ送ることになるであろう計画に対して公式の左派と呼ばれるであろう労働党や共産党が不安を抱く理由は二つある。一つ目は労働階級の反応への恐れだ。それが自発的な取り組みであってさえ労働階級は腹立たしく思うだろうと言われているのだ。そうした取り組みは実質的には配給外の食料を買ったり食事の一部をレストランでとる比較的高収入な一団の人々が自身の余剰分を手放すことを意味する。だが魚屋の列に並ぶ平均的な女性がこう答えるかも知れない恐れがあるのだ。「もし本当に余分な食べ物があるのなら、それを私たちにください。あるいは炭鉱労働者にあげればいいんじゃないでしょうか?」この問題についてしっかりとした説明がおこなわれた場合にこうした反応が本当に起きるのか、私にはわからない。こうした議論をしている人々の一部は心のなかで、もし私たちが本当に効果をあげられるだけの十分な量の食料を犠牲にしたなら、それはたんに配給点数を諦めるだけでなくレストランでの食事を切り詰めることになると固く思い込んでいるのではないかと私は疑っている。その真意がどうであれ、実際のところ私たちの配給制度は完全に非民主的なものであり、食料輸出の問題についての全面的な論争はその事実に注意を引き寄せることになるだろう。私が思うにこの問題が出版物上で徹底的に議論されない理由の一部はこれだ。

しかしさら言及しにくい別の考慮すべき事項がある。食料は政治的な武器なのだ。あるいはそうでなくとも政治的な武器であると考えられているのだ。最も激しい飢餓にさらされている地域はロシア管理区域か、あるいはソビエト連邦と西側連合国との間で分割されているヨーロッパの地域だ。多くの人々が予測するところによれば、もし私たちがさらなる食料を例えばハンガリーに送れば、ハンガリーにおけるイギリスとアメリカの影響力は増大する。一方で、もし私たちがハンガリー人たちを飢えるにまかせてロシア人たちが食料を供給すれば、彼らはさらにソビエト連邦へ近づく可能性が高い。それゆえロシアを強く愛好する者たち全員がさらなる食料をヨーロッパに送ることに反対している一方で、おそらくそれをロシアの名声を弱める方法と考えているために一部の人々は食料の輸送に賛成している。こうした動機を率直に認めるほど正直な者は誰一人としていないが「セーブ・ヨーロッパ・ナウ」キャンペーンの支持者――そして非支持者――のリストに目を通すだけで状況を確認できる。

こうした予測すべての愚かさは飢餓から好ましい結果を得られると考えていることにある。ヨーロッパの最終的な政治的安定状態がどのようなものになるのであれ、それに先立って何年もの飢餓や悲惨、強奪行為や無知が続くのであれば、それはひどいものにしかなりようがない。ジュベール空将は将来世代の私たちに戦いを仕掛けるドイツの子供たちに食事を与えるよりは私たち自身に食事を与えるよう忠告している。これこそが「現実主義的」な物の見方というものなのだ。一九一八年には「現実主義的」な者たちが同じように停戦後の封鎖維持を支持した。私たちはまさにその通りに封鎖を続け、その時に私たちが飢えさせた子供たちは一九四〇年に私たちを爆撃する若者へと育った。おそらくは結果を正確に予見できた者は誰一人としていなかっただろうが、善良な人々であれば気まぐれにドイツを飢えさせ、報復的な和平を結ぶことの結果は邪悪なものになるだろうと予見できただろうし、そうしたことだろう。そしてまた、おそらくまもなく私たちはそうするのだろうが、飢餓がヨーロッパに降りかかる中で私たち自身の配給を増やすのも同じことである。しかしもし私たちがこの計画の実行を決断すれば、少なくともこの問題について率直に議論し、飢えた子供たちの写真を報道で広く公表すれば、そうすればこの国の人々は自分たちが何をしているのかを正しく理解することだろう。

1946年1月18日
Tribune

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