外国からの援軍は、もう一つの役に立たない軍隊ですが、別の君主が救援や防衛のため助勢を乞われたとき、使われます。ごく最近では、教皇ユリウスが外国からの援軍を使いました。というのは、フェラーラ攻略の際、自分の傭兵が貧弱であることが明かとなったので、外国の援軍に頼ることにして、スペイン王フェルディナンド[29]とその部下や軍隊の支援を受ける取り決めを結んだのです。こうした軍隊は。それ自体は、役に立ち、有能なものなのですが、呼び寄せた側にとっては、いつでも不利益をもたらします。というのは、負ければ破滅し、勝てば勝ったで、支援軍の捕囚となるからです。
古代史はそうした事例に満ちているけれど、その危険性はたまたま気づかれずに終わったにせよ、教皇ユリウス二世のこの最近の事例を続けたいと思います。というのは、彼はフェラーラを得たいがために、外国人の手に自らを委ねたのです。しかし幸運にも第三の事態が起り、彼はその軽率な選択の果実を摘まずにすんだのです。なぜなら、援軍はラヴェンナで大敗北を喫すると、スイス傭兵が(教皇の予想も敵の予想も覆して)立ち上がって、勝利した敵を蹴散らし、それで、教皇は、敵が敗走したので、敵の捕囚とならずにすみ、また援軍以外の軍隊で勝利したので、外国の援軍の捕囚にもならずにすんだのです。
フィレンツェは全く軍隊を持たず、ピサ攻略には一万人にフランス兵を投入したが、その結果、それが陥いった苦難の時代のいずれよりも大きな危険に見まわれたのです。
コンスタンチノープルの皇帝[30]は近隣諸国に対抗するため、一万のトルコ軍をギリシアに引き入れたのですが、トルコ軍は戦争が終結しても、立ち去ろうとしなかったのです。これがギリシアが異教徒に隷属する始まりでした。
ですから、勝利したいと思わない者には、こうした援軍を使わせておけばよいのです。というのは、外国の援軍を使えば破滅するのは必至なのだから、傭兵よりずっと有害なのですから。外国からの援軍は全員団結しており、他の君主に忠誠を尽します。しかし傭兵を使うのであれば、彼らは勝利したときにも、その君主を害するには、時間もかかり良い機会にも恵まれなければなりません。傭兵は全員が一つの団体をなしているのではなく、君主に見出され、給金をもらっているのです。その指揮官になった第三者が、直ちにその君主を害するだけの権力を持つことはありえません。結論を言えば、もっとも危険なのは、傭兵では卑怯さですが、外国の援軍では勇猛さです。だから、賢明な君主はいつもこうした軍隊を避け、自国軍に頼ってきました。自国軍以外の軍隊で勝利するより、自国軍で敗北するほうがましだと思い、他国の軍隊で得た勝利は真の勝利だとはみなさないのです。
私はためらうことなく、チェザーレ・ボルジアとその行動のことを例として挙げます。この公は外国の援軍を使ってロマーニャに侵攻し、フランス兵を率い、彼らを使ってイモラとフォルリを得たのです。しかし後に、こうした兵力は信頼できないと思い、傭兵のほうが危険性が少いと見て、傭兵に頼ることにし、オルシーニ家やヴィッテリ家の者を兵に加えたのです。やがて、彼らを使ってみると、信頼できず、不誠実で、危険だとわかったので、傭兵をやめ自国軍に頼ることにしました。こうした兵力のそれぞれの違いは、フランス軍に依っていたとき、オルシーニ家とヴィッテリ家を雇っていたとき、自身の兵をあてにしていたときの公の声望の違いをみれば容易にわかります。その兵力の忠誠について彼はいつも重要だと考えており、つねにそれを増していったのです。彼が自分自身の兵力の完全な支配者だと誰もが認めたときが、彼が最高の評価を得たときでした。
私はイタリアの近年の事例以外を持ち出そうという気はないのですが、しぶしぶながら、前にその名前を挙げたシラクサのヒエロンを省くわけにはいきません。この男は、前にも述べたように、シラクサ市民によって軍隊の指揮官になったのですが、すぐに、我がイタリアの傭兵のように編成された雇い兵が役に立たないことを見抜きました。彼にはそれを維持するわけにもいかず、追い払うわけにもいかないと思えたので、全員を切り刻んでしまいました。その後、彼は自分の兵力だけで、他所者を使わずに戦争をしたのです。
また、この主題にぴったりの事例を旧約聖書から思い起してみたいと思います。ダヴィデはペリシテ人の闘士ゴリアテと闘うことをサウルに申し出ました。サウルは彼を勇気づけるため、彼に自分の武具を身に着けさせましたが、身に着けるとすぐ、ダヴィデはこれを断り、その武具を役に立てることができず、自分の投石器と短剣で敵と相い見えたいと言いました。つまり、他人の武具というものは、背からずり落るか、重荷になるか、身を固く縛りつけるかするものなのです。
ルイ十一世[31]の父、シャルル七世[32]は,幸運と豪胆さでフランスをイギリスから解放したのですが、自国軍で軍備を固めることが必要だと悟り、自分の王国に重騎兵と歩兵に関わる法令を作りました。その後、その子のルイ王は、歩兵を廃止してスイス傭兵を軍に加えはじめたのです。この失策は、その他の王にも引き継がれたのですが、今見るように、フランス王国の危難のもととなっているのです。なぜなら、歩兵を全く廃止したため、スイス傭兵の名を高らしめ、自国軍の価値をすっかり低くしてしまったからです。そして、他国に依存するようになった重騎兵は、それで、スイス傭兵と一緒に戦うのが慣いとなって、今ではスイス傭兵がなくては勝てないと思われるようになりました。こうして、フランスはスイス兵に対抗できなくなり、スイス兵なしには他国にたいしてうまく事を構えることができなくなりました。こうしてフランスの軍隊は、一部は傭兵、一部は自国軍からなる混成軍となり、両軍が一緒となった混成軍は、傭兵だけとか、外国の援軍だけより、かなりましだが、自国軍よりははるかに劣ります。この例が明かにしているように、シャルルの法令を拡大ないし維持していれば、フランス王国は不敗となっていたことでしょう。
しかし、人間の乏しい知恵は、最初はよく見える事柄に飛び込んでいって、その陰に隠された毒に気がつかないのです。それは、私が消耗熱について前に述べたことと同じです。ですから、君主国を支配する人は、我が身に振りかかるまで不運に気がつかないなら、真に賢明だとは言えません。そしてこうした洞察力はわずかの人にしか与えられていないのです。そしてローマ帝国の最初の災厄[33]を考察してみるなら、それはゴート族を軍隊に入れたところから始まったことがわかります。なぜなら、それ以来ローマ帝国の勢力は衰え始め、帝国を奮い立たせた豪胆さは他の民族に移ってしまったのです。
だから、私の結論では、自分の兵力を持たなければ、いかなる君主国も安全ではなく、逆境のときにその国を防衛しようという豪胆さがなければ、ただただ運まかせということになります。自らの強さに基かない名声や権力ほど不確実で不安定なものはない、というのが賢者の意見や判断です。そして、自分の兵力というのは、臣民や市民、従者からなるもので、その他の兵力とは、傭兵や外国の援軍のことです。自分の兵力を用意する方法は、私が挙げた支配者たちに思いを巡らし、アレクサンダー大王の父フィリッポスや多くの共和国や君主がどのように軍備を固め自らを組織したのか考えれば、簡単に見つかるでしょう。そして、私はこうした支配者に完全に傾倒しているのです。
[29] フェルディナンド五世(アラゴン・シチリア王国では二世、ナポリ王国では三世)。「カトリック教徒」とあだ名される。1542年生れ、1516年死去。
[30] ヨハネス・カンタクゼヌス。1300年生まれ、1383年死去。
[31] ルイ十一世はシャルル七世の息子で、1423年生まれ、1483年死去。
[32] フランスのシャルル七世は「勝利王」とあだ名され、1403年生まれ1461年死去。
[33] 「軍縮論争で別の夜に議会で演説した多くの議員たちは、大英帝国がその存在を保ってきた諸条件について悲しむべき無知を示しているように思われる。ローマ帝国は軍事的義務負担の増大で没落したという論拠なき主張に答えて、バルフォア氏はそれは『まったく史実に反する』と言った。氏はさらに、ローマの力が絶頂に達したのは、どの市民も国家のために戦うべき義務を知っているときであり、その義務がもはや顧みられなくなるとすぐ、没落が始まったことを、付け加えるべきだった。」Pall Mall Gazett紙、1906年5月15日。